雨の日の遊園地




美咲






 祥子から電話がかかってきたのは、日曜日の午前8時だった。
その時間に僕が寝ていることは、十分に承知しているハズなのだが。
「オハヨー。寝てた?」
「・・・うん。寝てた。」
僕はなるべく不機嫌な声にならないようにトーンを上げていった。祥子の声がいつもより緊張しているように思えたからだ。
「ごめんね。」
「いいけど、どうしたの?」
「今日、ヒマ?どっか行こうよ。」
 締め切ったカーテンの向こうからは、激しい雨の音がしていた。秋雨前線が停滞していて、明日は一日中雨でしょう、とゆうべの天気予報で言っていたから、おそらくそうなのだろう。
「雨みたいだけど。」
「知ってる。」
 それ以上の会話はムダだった。たとえ雨だろうが、仕事で徹夜明けだろうが、祥子が行くといえば僕はハイと言うしかないのだ。
1時間後に迎えに行く、といって僕は受話器を置いた。

 祥子は僕の彼女だった。元カノ、というやつだ。
大学のサークルで知り合って3年ほど付き合っていたが、就職して彼氏が出来た(つまり僕はふたまたかけられた)とかいって勝手に別れていったくせに、たまにこうして連絡してくる。
 ハラがたつといえばたつし、周りの友人からはもうバカを通り越して関わりたくないほどのお人よしと言われているけれど、僕はまだ祥子のことが好きだし、他にいい人もいないし、何やかんやと理由付けはできるけど要するに、どうしようもないのだ。
新調したTシャツに袖をとおし、ジーンズもおろしたてのをはく。そして再度思う。どうしようもないのだと。

 祥子のアパートの下までつくと、電話を2コール鳴らす。何も言わなくてもそれが到着の合図だとわかっていて、鉄製の階段の音をコンコンコンと小気味よく刻みながら降りてくる。助手席に座る彼女は、雨の匂いを連れてきた。明らかにユウウツそうな顔をしている。
「髪、似合うね。」
「そう?ありがとう。」
悔しいがユウウツそうな顔さえもキレイだ。新しい髪型がまた一段と彼女を輝かせる。別れた彼女にまだドキドキしてしまう自分が心底イヤになりながら、とりあえずエンジンをかける。
「今日はどこに行く?」
「遊園地。」
「え、どこの?」
 思わず、きき返してしまった。僕らの住む街はえらい田舎で、遊園地といえば海辺のぼろっちい遊園地しかない。あとは車で高速を走って何時間もかかるような場所にしかない。
「遊園地っていえば、ひとつしかないでしょ。」
「だよね。うん。」
 なぜ彼女がそこを選んだのかよくわからない。その遊園地は土日こそ人がまあまあ入ってはいるが、それもほとんどが親子連れ。
平日は誰も居なくて、客が入ると係員がわざわざついて来て、乗りものの説明をしてくれて、他に乗るひとが居ないから切ってある電源を、入れてまわるらしい。そんな噂もある。
 メインの乗り物であるジェットコースターは全く迫力がなく、観覧車はあっという間に一周してしまうし、他にこれといって面白い乗り物もないので、若い人は絶対によりつかない。そんな遊園地に、しかも雨で誰も来ない日に、彼女は僕を誘った。
どうやら遊ぶのが目的というわけではなさそうだ。

 遊園地の駐車場に着いてもまだ土砂降りで、風は弱いけど傘をさしても、歩きたいと思えるような天気ではなかった。それでも駐車場には20台ぐらい車が止まっていて、僕らはびっくりした。
恐ろしく陰気な係員に切符をきってもらい、園内に入る。ゲートをくぐると、やはり誰も居らず、何も動いてなかった。全てが死に絶えていた。ジェットコースターや観覧車はもちろんのこと、ゲームセンターまで閉まっていた。
 昼間から閉まっている誰も居ない遊園地にいると、世界が滅んで僕たちのほかにはもう誰も居なくなったのではないかという錯覚をしてしまいそうだ。それはそれで、面白い風景ではあった。
 彼女は何も言わずに、死んでしまった巨大な鉄の塊のジャングルを、すり抜けるように歩いた。博物館の展示品でも見るように、アトラクションの前でひとつひとつ立ち止まり、時間をかけてじっくりと見た。

 まずジェットコースター(遠足のとき連続で13回乗った)を見上げて、色のおちかけたティーカップ(父親が激しくまわすので落ちそうになった)、UFOの形をしたグルグルまわる乗り物、振り子のように揺れる海賊船(小学生のとき、酔って吐いた)、メリーゴーランド、ゴーカート(コースアウトして遊園地の人に怒られた)、などなど。
小さいころから何度も連れてこられた遊園地だったから、ひどく懐かしかった。僕が思い出を語ると、彼女は何も言わずにうなづいた。この地元の人間なら誰もが、目を閉じなくても思い出せる。そんな風景をひとつひとつ、目にやきつけるようにして歩いた。

 おそらく、僕の想像によると。祥子はこの遊園地に来るはずだった、ある家族の影を追っているのだろう。彼女が付き合っているという男は、実は妻子持ち・・・つまり不倫の関係なのだ。それは彼女から直接聞いたわけではなく、共通の友人が教えてくれたのだが。
 相手は会社の上司で13歳も年上で、子供2人と奥さんが居るらしい。祥子はそれを知っていて、その男と不倫して僕と別れたのだ。僕が祥子を放っておけない理由のひとつはそこにある。
祥子は今まで、何でも人一倍がんばってきた。勉強は僕よりずっとできるし、運動神経もいい。顔も美人だし服のセンスもいいし、性格も明るくて人付き合いも良い。当然のようにモテる。どうして僕なんかと付き合っていたのか、今でも謎だ。
そんな祥子が不倫にはまってしまったら、きっと彼女は罪悪感やプライドや何やかやで、自分を追い詰めて相手も追い詰めて、壊れてしまうのではないか。僕はそれが心配で、祥子のそばから離れる気になれない。
 いつか僕のところに戻ってくるのではないかという気持ちも無いではないが、今になって戻ってきたところで前のような関係になれるとは思わないし、同じ気持ちで祥子を好きでいられるかと問われれば、自信がない。
でも僕は以前ほどではないにしろ、祥子のことがまだ好きだし、放っておくことはできない。

 最後に観覧車のところまで歩いてきたとき、遠くからかすかに音楽が聞こえてきた。まさかこんな日に、何かショーでもやっているのだろうか。
「行ってみる?」
僕がいい終わる前にもう彼女は、音の方へと歩き出していた。驚いたことにそれは、カラオケ大会だった。
吹き抜けの野外ステージに、客は30人ぐらいだろうか。多分、出演者とその家族や友人と思われる。中央の椅子には審査員らしきオヤジが2人、ヘッドホンをして座っている。
 こんな土砂降りの日にカラオケ大会をするなんてバカげている。だけどステージの上で演歌を歌うオバサンも、それを聞く観客たちも、真剣そのものといった表情だ。なんだか異次元空間にワープしてしまったような気がして、僕らは途方にくれてしまった。
とりあえず少し離れた売店(もちろん閉まっている)の軒下で、僕らは立ったまましばらく呆然としていた。
見渡したところ若者はひとりも居ないようだった。おじさんおばさんおじいさんおばあさん、でその大会は構成されているようだった。
「あのステージからは何が見えるのかな。」
「いつもと違う、特別な自分?」
「たかがカラオケ大会に出ることが特別なの?」
「多分ね。」
 やけに調子のいい司会者が曲が終わる度に出てきては、曲のあらましと出演者の名前を、大層なことのように告げた。いかにもカラオケ大会の司会者、というかんじだった。

「時々ね、何も考えずに何も求めずに、生きられたらいいのにって思う。自分以外の人になりたいとは思わないけど、すごく人がうらやましいと思うときがあって」
祥子が、聞き取れるか聞き取れないかぐらいの小さな声でつぶやいた。じっと、ステージを見つめたままの横顔からは、何も読み取れない。
「私もあそこに立ってたらいいのに。」
 僕には何も言うことができなかった。おそらく今僕が何を言っても、彼女の心には届かないだろう。気持ちが、僕には全く向かっていないからだ。
僕が彼女にしてやれることは何も無い。例えば今、この場で抱きしめることだってキスすることだってできる。きっと祥子は逆らわないだろう。傷ついて疲れて、僕に癒しを求めているのだ。だから僕を誘ったのだ。でも心が僕になければそれは、抱きしめたりキスしたりすることは、暴力でしかない。だから僕は黙ったまま、一緒にカラオケ大会を見ていた。ふいに、祥子が僕の顔を見た。
「私は、」
 そのまま言葉をつまらせて、何か言おうとしたままの状態で、祥子は固まっていた。じっと僕の目を見すえたまま動かない祥子は、精巧な美しい塑像のようだった。青いカーディガンの胸だけがかすかに上下して、確かに生きていることを告げていた。
騒がしい雨の音が急に、どこかへ遠のいていくのがわかった。祥子が発する言葉だけに集中していた僕の耳は、強い圧迫感を感じていた。一瞬、キインと耳鳴りがした。祥子の肩越しに、雨でぼやけた海の匂いがした。
「がんばってるよね。私。」
その表情はほとんど動かなかったが、なんだか祥子がとても脆く見えた。今にも雨に透けて、消えてしまいそうだった。
「大丈夫だよ。」
何が大丈夫かは自分でもよくわからなかったが、それだけ言うのが精一杯だった。そっと頭をなでると彼女は表情を変えずに、片方の瞳からほんの一粒、涙を落とした。
ゆるやかに流れ落ちてゆくそれを拭おうともせずに、少しだけ笑った。