神田良輔










 ――俺さ。
 最近気がついたんだけど、どうやら変わった性癖を持っているようなんだ。
と彼は言った。
 彼とは子供の頃からのつき合いだったが、そのような話は初めて聞いた。
 なんだよ、と俺は聞き返す。
 兎さ。兎を見ると興奮する。逆に、兎が関わってこないとうまくいかないんだ。
 ええとそれは、実際の、生きている兎の話か?
 そうだよ。バニー・ガールの衣装を着ないといけないわけじゃない。
 そんなものじゃなくて、実際に生きている、本物の兎が必要なんだ。不思議な話なんだが、他の生き物ではぜんぜん駄目なんだ。女だけでセックスしようとしてもうまく行かないんだ。そこにはどんな形であれ、兎が関わっていないと駄目なんだ。


 俺は彼を小さな頃から知っている。
 そして、知っている限りにおいて彼は4匹の兎を飼っていたことがあった。他の生き物をペットに飼ったことはない。すべて兎だ。
 はじめに彼が飼ったのは、白い体毛に赤い目をした、一般にイメージされる種類の兎だった。仙台の祖母の家からもらってきて、それを自分の家の大きな犬用の檻に入れて飼っていた。もっとも俺はその兎を見ていなく、話でしか聞いていない。俺が初めて彼の家に行った時に、その檻は目をひいたが、その中になにもはいっておらず、わずかに汚れた後があっただけだった。この檻に入ったことがあるのはその兎だけだということだったから、その兎が汚した跡のはずだ。
 その後は、彼はもっぱら飼いやすいアナウサギを飼った。俺は彼の家で合わせて3匹の兎を見たことがある。茶色の毛並みをした鼠に似た姿の兎がはじめで、次に斑の小さな兎、次が灰色がかった毛並みの兎だった。俺は兎にはさほど興味がないし、兎について詳しいことも知らない。俺の歳が増えるに従って、徐々にその印象も薄くなっている。
 そうは言っても、俺が彼の家に行くと、ふらふらと放し飼われている彼の兎を見ることがあった。彼は兎に一声をかけて手をあげその背をこすり、それから靴を履いて出かける彼の姿などを見ると、彼がその兎をかわいがっていることがよくわかった。俺は動物に話しかける習慣を持ったことがなく、そんな彼の姿はなんだか異様に思えたものだった。おもわず目をそらしてしまったのを、良く覚えている。


 だから彼の言うことにはそれなりに説得力があった。
 彼は小柄で、ひ弱そうな体格をしている。余分な筋肉はほとんどついておらず、時折めがねをかけることもあり、とても威圧的なタイプではない。それに学校での成績も必要以上に良かったり、家が金持ちだったりもするからだろう、彼はそういう女性的な面をことさら隠すようにしていたし、口は必要以上に悪かった。ペットを飼っていたことを知っていたのは、俺くらいのものだっただろう。


 高校生の頃、兎について話をした。季節が夏だった。バイクで彼の家に行き、近場にあるプールにでも行こうと、誘った日だった。
 彼の家は住宅が建ち並ぶこの街では例外的に大きな家だった。裏手に回ると他の家の屋根よりも高い木が立ち並び、庭には砂利と芝生がしきつめられていた。ガレージには車が何台か並び、その脇にはじめの兎が飼われた檻がいろんな庭具と一緒に置かれていた。入り口の門の前には座ることのできる椅子まであった。
 俺はその脇にバイクを止め、彼を電話で呼び出した。すぐに彼はパジャマ姿で現れた。片手にビールと、兎を抱えていた。灰色がかった3匹目の兎だ。
 これで支度をするのを待ってろ、ということなのはすぐにわかった。
 ――ビールなんかどうすんだよ、これから移動すんだぞ。
 ――なんだよ、飲まないの?
 ――飲まないよ。
 ――飲まない方が運転すればいいじゃん。じゃあ俺飲もうかな。おまえ運転な。
 そういうと彼は椅子の上に腰を下ろし、俺に渡したビールをせがんだ。俺は一台で移動することなんか全然考えてなくて、素直にビールを渡した。兎を無造作に庭の上に放ち、彼はビールのプルトップを引いた。
 暑い日だった。薄手のパジャマの袖を引きながら、彼は勢いよくビールを飲んだ。襟の間の喉が脈をうつように動く。
 兎は庭に放され、しばらく気だるそうに彼の椅子の下に入る。すぐにまた動きだし、彼の足下をふらふらしはじめた。彼は特に対応もせず、俺と一緒にその様子を眺める。すぐに兎は、また椅子の下に戻って、座り込んだ。
 ――間抜けな顔してんな、と俺はバイクに跨ったまま言った。
 黒い、大きな目は緊張感がない。どこにも焦点があっていないようだ。膨らんだ頬に窄められた口元は確かに愛らしいかもしれないが、媚びすぎてると思える。ディフォルメされたアニメみたいなものだ。
 ――かわいいだろ。
 ――いつも兎だよな。猫とかは飼わないのか?
 ――兎が飼えるのに、どうしてわざわざ猫を飼うんだ?
 俺はいつも追いつめられたように話すことになる。――似たようなものじゃねえか。どうしていつも兎なんだよ。
 ――兎は月にいるからだよ。
 ――なんだそれ。
 ――月と兎。月面の荒涼と兎の身体の曲線。なんていうか、すごくいい、組み合わせだと思わないか?
 ――わかんないね。
 わかんないかなあ、と彼は言い、立ち上がった。
 ああビール美味かった!プール行こうぜ、と彼は言い、俺のバイクの後ろに跨った。
 ――おい、おまえそれで行くのかよ。
 ――別にかまわないだろ。どうせ水着になるんだ。
 ――水着持ってねえじゃねえか。
 ――買うよ。
 ――財布持ってねえだろ。
 ――貸してくれ。
 俺は振り返って彼が本気で言ってるかを確かめようとした。
 彼の顔は俺のすぐ後ろにあって、その距離の近さに思わずはっとした。彼の薄い唇からはかすかにビールの香りがして、それはいつもにない彼の臭いだと思った。パジャマはきっちり止められていないところがあって、貧弱な鎖骨と白い肌はまるで肉がついていないわけでなく、それは少年の肉の柔らかさをまだ残しているようでもあって、俺は一瞬いつもでない彼の姿を見たような気分になった。
 なんだか照れたように、俺はすぐに面を向き直った。
 ――じゃあいいか。
 ――ああ。
 と、彼は俺の腰に腕を回し、頬を俺の肩に触れさせた。


 とりとめもなく、過去のことを思い返してしまった。
 彼は大学に入っても、当時とほとんど変わっていない。学校の制服を着なくなった分だけ子供っぽくなったようにも見える。その顔を見ていると、俺は一瞬彼が言ったことを忘れた。
 そうか、と俺は我に返った。彼は今まで口にしなかったことを言ったのだった。まじめに考えてやらなければならない、義務みたいなものがあるだろう、と俺は思った。
 ――まああんまり気にすんなよ。誰だってそんなもんだよ。いつまでも同じじゃないし、そういうのは変わったりすることもあるんじゃねえの?よくわかんないけどさ。
 うつむき加減になっていた彼の顔があがり、彼はこちらを見つめ返した。
 その目は、あまりに真剣に俺を見つめている気がした。軽く開かれた唇はなにかを訴えているようだし、俺はなにかを答えてやらなければならないと思った。
 言葉を考えるのは苦手だ。結局先に口を開いたのは、彼のほうだった。
 ――お前さ。
 ――ああ。
 と俺は答えた。
 ――真剣な顔するだけで騙されるって、ほんと阿呆みたいだぞ。少しは内容を考えろよ?
 と彼は言って、すぐに大声で笑い始めた。