12345678901234567890 『シティライト』 ++++++++++++++++++++++++++ 0 ++++++++++++++++++++++++++  全く同時にそれが行われたことが、今ではわかっている。2018年2月16日11時28分42秒。数秒のタイムラグもなく、コンマ数秒というくらいの正確さで、その同時テロは起こった。  爆心地の正確な数はわからない。特に都心になると極々密接した場所で複数の爆発が記録されている。たとえば渋谷駅前のある駅ビルだけで4箇所の爆発が認められた。概算では、都内だけで1600カ所あまり、日本全国で約7000と思われた。この比率はほぼ人口比に等しいものだが、人的被害は密集地に大きかった。  それぞれ爆発の程度も一定ではなく、二次災害も多数起こったため、正確な数は永久に不明であろう。  テロの傷跡が――もちろん、応急的にだが――収まると、その実行犯たちが様々に想像された。皇居内は一つの爆発も認められなかったことからは日本の右翼団体が疑われた。それでも、真相となると誰もわからない。外遊していた皇族は何人もテロに倒れており、被害を受けていない団体はすべての団体を含めて、存在しなかった。日本全国を均等に破壊した、と言えるだろう。 犯行声明もなく、放射能もどこからも検出されなかった(若狭沖でメルトダウンの噂も流れたが、すぐに虚報とわかった)。  この「大爆発」は直後の二次災害を終わらせると、後にはなにも残さなかった。  廃墟となった現実が残っただけだった。  復旧は比較的スムースに行われた。  日本は第二次大戦以後、始めて一つにまとまりとして機能した、と言えるかもしれない。  しかし、その後もテロは連鎖的におこった。  「大爆発」ほどの規模のものはなかったが、それらの多くは復旧作業を有効に阻害したものだった。首都圏を中心に、全国各地に被害は起こった。  これらの多くも実行犯がわからなかった。判明したものも個人的な単独犯、衝動的なテロにすぎない。単独犯だけでこれだけのテロが起こることが不気味ではあるが、それにしても組織だった犯行が認められるものは一つもなかった。「大爆発」の時と同じように、さまざまな推測が飛び、それらは確定的でないままにされるしかなかった。  新宿駅は合わせて4度破壊された。「大爆発」の際も複数の爆心が存在し、壊滅した後、新宿は重点的に再興されてきた。主要な機関、店舗が破壊された上でも、多くの人間にとって、新宿は必要な場所だった。交通の要所として、経済の中心として、様々な機能の中心として、日本はその存在を大きく評価したのだ。  大爆発によって、すべてのホームと車両がまとめて瓦礫になった。それらはまたすぐに破壊された。少しまともに機能し始めると、再び瓦礫と死人の山が出来ることになった。  政治は、新宿駅を舞台にしてテロと対立した、と言えるだろう。国家は多くの人力と資金を投入し、保安を最大限に重視した。厳戒に、しかし熱心に、復興作業は行われた。  結果は、テロリズムの勝利だった。  20年に800人の死者を出したテロ以降、新宿駅の復興は目に見えて衰えた。労力は分担され、都内のJR駅はほとんど均衡に復興されることになった。  これは日本政府が正面からテロと向かい合うことを避けた、と言う点で分岐点になった。  20年以降、復興は平行的に各地で行われることになった。都内から人は流出し始め、全国に拠点を作らないことでテロを防ぐ、という方針がとられるようになった。これは効果があった。単純に狙うべきポイントが絞れなくなり、一度の被害は減った。大量死、大幅な損害を出すテロはこれ以降起こっていない。  現在の新宿駅は、瓦礫が未だ処分されていない。労働員は作業を行っているが、ごく僅かな規模でしかなかった。数十分に一度しか乗り入れのないホーム、焦げ後がのこったままになった壁、屋根の穴は補修されず大きな青空が覗ける。  テロリズムは防ぐ事が出来ない、と国家が表明したことは、新宿駅が象徴した。 ++++++++++++++++++++++++++  僕は「大爆発」を学校で過ごした。学校は被害はなかった。家も無事だった。部屋の中にいれば、「大爆発」の後も前も、なにも変わったことはなかった。  父と母は、この大爆発によって死んだ。父は都内の貿易会社につとめており、テロの直撃を受けた。死体は見分けのつかないまま、まとめて集団墓地に埋葬された。  母は郊外のローカル線に乗っていた。保険の勧誘をしており、ちょうどそれが電車を使った移動の最中だった。普段は営業中に電車を使った移動などほとんどしないため、発見はかなり送れた。連絡を受け、僕は自転車をとばして郊外の病院に行き、遺留品を受け取ることでようやく母の死を確認できた。  二人の遺産は僕がそのまま使うことが出来た。贈与税とか相続税とか、僕は未だによくわかっていない。かなりの額の貯蓄が残っており、その暗証番号を知っていたため、金を手元に置くことが出来た、というだけだ。税務署、保険会社――それらから逃れるように、僕は今までやってきた。あとで知ったが、それらはほとんど機能していなかった。時代はもはや変わっているのだ。  僕はそれで生活することにした。今でもそれを使っている。 ++++++++++++++++++++++++++ 1 ++++++++++++++++++++++++++  僕は家を出た。近くのバスターミナルまで歩く。  「大爆発」以降の小規模なテロが狙うのは、駅がやはり多かった。鉄道は一箇所線路が破壊されただけでまともに機能しなくなる。新宿駅の放棄は、鉄道の放棄に等しかった。現在も細々としたタイムテーブルで動いているのだが、もはや主要交通機関とは誰も思っていない。道さえあればどこでも走れるバスがその役割に代わった。  今もっとも大掛かりなバス・ターミナルとなっているのは代々木だ。良く変動するので常にチェックし、行くのは避けることにしている。東中野駅から少しいったところのターミナルで降りた。そこには自転車が止めてある。これを使って九段下まで向かった。  「大爆発」による被災地を抜けると、転々と20世紀からの建物が見えた。「大爆発」も、その後のテロも逃れたこれらの建物は、すぐ隣のバラック作りの建物と並ぶと異彩を放つように見えた。どちらが現代的なのか、普通に生活している状態なのか、誰にも判断がつかない。バラックとそれら建物の比率はほぼ5:5に見える。  僕はその間を縫って自転車をこいだ。  しばらく走っていると見慣れた校舎が見えてきた。20世紀的デザインが未だ健在な建物だ。  自転車を止める。  学校は不思議とどこもほとんどテロの被害にあっていない。  確かに、社会生活にはなんの差し障りもない場所なのかもしれない。 「よう。小川」  校舎前で神田に呼び止められた。  彼は中国の人民服を着ていた。  着ている服に妙に小細工をするのが好きなのだ。今日の人民服は、いつもに比べると地味なほうだと言える。彼の後ろに白衣の女性がいた。彼女は初めて見る顔だった。 「今日はどれくらい集まる?」 僕は言った。 「おまえが最後だよ。ていうか、俺とこいつと、小川だけだ」  神田はそう言って後ろの女性を指した。  彼女は足をすすめて僕の前に立った。口元が閉まった特徴がある、背の高い眼鏡をかけた女性だ。その口元のせいで、厳しい印象があった。 「はじめまして」  彼女は言って手を出した。  こういう挨拶はあまり慣れてない。ぎこちなく応えて、僕は手を握った。 「リルルです」 「医学部かい?」  僕は尋ねてみた。 「いえ、工学」 「ふうん」僕は言った。「工学はどういうところなの?」 「ダメだね。指導者的な力持ってるのが関わろうとしない。なにかやろうにも個人でしか動くことが出来ないんだよ。それかボランティアと称して地道に活動してるか、のどちらか。すごく地道に生活してるわ」 「首都の未来はあんたらにかかってるんだぜ」 神田は口を挟む。 「とは言え、すぐ壊されるんじゃ作る気にならない。労働力は政治的なものでしょ」 「対テロ用の建築材とかはないのか?」 「学部生に新開発なんてできるわけじゃないじゃない。それに、どっちにしたって壊れない質材なんてないよ」 リルルは言った。 「あたしが言いたいのはね、うちの連中はテロを、自然災害と同じに扱ってるフシがある。それがあたしには我慢できない。だから、神田にもっと話聞きたかったんだ」 「俺たちは明確になんかしてやるってわけじゃないんだけどね」 神田が言った。 「でも情報の中心にいるわ」 「知りたがりなだけさ」  僕は引き継いで言った。 「小川さん」 後ろから声がした。  古沼静香だ。  古沼は60年代ふうのスタイルをしている。くるぶしまでのロングスカートに、無地のセーターだ。。 「やあ」 「今日私、来るつもりじゃなかったんだけど、混ざって良いですか?」 「もちろん」 神田が笑って言った。 「じゃあ部屋に行こう」  僕らはプレハブの小屋に入っていった。トタンづくりの建物は街で見つかるが、もちろんここは元からプレハブで立てられた、サークル用の小屋だ。入り口には「宇宙研究部」と書いてある。神田のジョークなのか、はじめはそういう名前のサークルだったのか。そういえば知らないままだ。  部屋の中は綺麗にされていた。きちんと布団が畳まれており、ものが少ない。文庫の本数冊が転がっているくらいだ。神田がまめに掃除しているのだろう。  僕らはアクリルの床の上に座布団を直接敷いて、それぞれ座った。僕のすぐ隣には古沼が並んでいる。 「煙草はご自由に」神田は言った。「ただしそれ以外のものは御法度だよ」 「あんたはここに住んでるの?」リルルは言った。 「ここ一月くらいは」神田は言った「学校の中はわりに暮らしやすいんだ。運動部系の連中は比較的たやすく食べ物をくれる」神田は答える。「それにいろいろと情報も集まるし」 「なにかわかったのか?」僕は尋ねてみた。 「――まあ、大したことはわかってないんだけどさ」神田は答えた。  神田はみんなの顔を見回し、注目を引いてることを確認する。 「ここ一週間は目立った破壊は起こっていない。名古屋でビルが一つ潰されたみたいだけど、空きフロアの目立つ雑居ビルで、人目をひくものじゃなかったから、テロ対の集合でもあったのかもしれない、まだ未確認だがね。  東京ではテロ対が15次目の隊員募集をかけた。数十万の人数という、始まって以来のひどく大がかりな規模のものだけど、特に大きな効果はないだろう。これは政府の大掛かりな失業対策だと言ってもいい」 「でも、それだけ人数を集めたということは」リルルが口を挟む。「なにかはっきりした軍事行動の目星でもついたんじゃないかしら」 「そういうことはないだろう」神田は言った。「テロはある特別なネットワークを通じて行われている。バックボーンがなんであれ、拠点は海外だろうとみて間違いない。だから単純な軍事行動では、どっちにしろなにも解決しないさ。リルルが言ったみたいに、破壊はものすごく容易なんだ。ネットワークと化学のおかげで、破壊と防衛の針が、かつてないほど不均衡になったのさ。ビル一つ破壊するには、俺程度の化学知識と2時間あればできる。今から爆弾作ろうと思えば、2時間後には俺等でも一つ建物がブッ壊せるぜ」  神田は続ける。 「海外と限定するのは避けたほうがいい」僕は言った。 「あーはー――オッケーだ」神田は言った。 「とにかく、テロリストにはどんな理由があるのかわからない。これはテロ対でもまったく同じだ。国際学者も政治学者もプロファイラも、このテロに対しては後手しか踏んでない。これはオープンな情報以外からでも判断できる。テロについて知っていることは、なにもない。知ってるのは、実際にやってるやつだけさ」 「推測はたたないの?」リルルは尋ねる。 「数限りなくある。話そうか?」 「教えて。私基本的なこと知らない」 「少し有力なものでは、中国政府が大幅な指揮をとっているというもの、それに朝鮮総連、旧北朝鮮体制者、それにいくつかのカルト――どの候補は数限りないんだけどね。さらに、破綻し、解体した官僚と自衛隊の一部というもの、イスラムの原理主義、ヨーロッパ貴族、アメリカ企業残党……どこにも明確な理由はないし、憶測はさまざまに語られている」 「どこにバックボーンがあるかわからない。それさえわかれば対処のしようもある。交渉だってできるし、譲歩することだって」僕は引き継いで言った。「今のままでは天災と一緒なんだ。なにも対処しようがない。ていうか、天災以上だね。大抵の自然には、合理的に説明がつく。  確かなのは、どれも不確かだということなんだ。おそらく現実的には、これらのどれかが複数存在しているとか、そんなところなんだろうと思う。単一の組織にしてはあまりに無茶苦茶だ。今までテロ対が検挙したテロリストは、背景について何も語っていない。少なくとも、そう言われている。第一、100人捕まってないだろう」 「知っている限りでは60人ほどだ」神田は答えた。「考えても見ろ。テロの頻度は知ってるだろ。日本全国でほぼ毎日起こってるんだ。その中で60人は、明らかに少ない」 「ふうん、ほんとあたしは全然知らなかったのね」リルルは言った。 「国がメインでプロパーしてるのは、カルト組織を糾弾することだからな。それも、あまりにも不確かだし、第一カルト自体、ここ数年で爆発的に増大しすぎている。組織数も、規模も。おそらくすべて合わせると、国の予算はもちろん、大手企業レベルになるだろう」神田は言う。 「数年じゃない。『大爆発』以前から、大手自動車メーカーを越えてる。そんな記事を見たことがある」僕は付け足す。 「このままいけば日本国という形そのものが、カルトの形をとって再編成される、という噂は、結構根強くある。国家が成り立つ形態、そのものが破壊されるんじゃないか、ていうことだ。今の日本は、もう国家としての体を成していないといってもいいくらいだからね」 「それは――つまり、カルトが国のトップにたつってこと?」  リルルは口をはさむ。 「そう」 と僕は言った。 「でもその移行は、ネットワーク内でささやかれているほど上手くは運ばない。宗教国家への抵抗感は、日本国民の中で多くに根付いているからね。日本にとっては文明とは、つまり宗教がないっていうことなんだ。宗教ていうのは大っぴらに口にできることじゃない――そういう認識は、大まかにみてもなかなか消えないようなんだ。世界的に見れば、宗教抜きの国家っていうのは珍しいものではあるんだけど――第二次大戦後の教育が、多分今でもしっかり根付いているんだろうな」 「でもカルトが――」  リルルは納得できないように言う。 「うん、どこのカルトもきちんとした外交能力というか、対外的に交渉を行える能力を備えてるとは思えない。日本人はカルトっていうとエゴでもって自由に振舞えるものだと思ってるから――まあ、それはつまり口にしないっていうことと同じことなんだけど――そういう、法と意識をきちんと同一化することができないんだ。だから、上手くまとまることができない。殊に、テロの頻発するようになってからは、テロは単純に排斥できるものじゃなくなってしまった。『みなでテロを一掃しよう』というのは諦められてしまったんだ。テロリストの心情が暖かく迎えられている風潮がある、と言ってもいいのかもしれない」 「そんな!」  リルルは大きな声で言った。  僕は肩をすくめる。「うん、まあ、ちょっと極端に言い過ぎたから。でも、テロが根絶できないのは、つまりそういうことなんじゃないかな」 「よくわかんないよ」  リルルは言った。  彼女の険しい顔がゆがむ。確かに、こういうことは理解されずらいのだ。説明するのも難しい。 「まあいいさ」神田は言った。「でもおもしろいな。ほかには、ネットワークでは、どんなことが言われてるんだ?」 「噂みたいなものかい?」 「噂じゃなくて――動き、みたいなものでもいい。なにか、目に付くこととか起こったりしてないか?」 「特に目立った動きはないね」  僕は答える。 「ああ、そういえば韮山のメモリータンクが破壊されたのは知ってる?」 「いや、知らなかった」  神田は言った。他の二人は意見を揃えるようになにも言わない。 「もうけっこう前になるけど、ネットワークの情報を集積してるメモリータンクがひとつ破壊された。テロリストはそれを、物理的に破壊した。例の超小型爆弾だと思う」 「それで、どうなったの?」リルルは尋ねる。 「これだけでは特に影響は出なかった」僕は答えた。 「おそらく3つ、といわれてる、相互補完的なタンクのうち一つが使えなくなっただけだからね。他の2つの負荷が重くなっただけだ。ただ、韮山に置いてあったのをやられたということで、ショックはかなり大きいものになったよ。政府高官も知らない、特殊技術員レベルで配置されたものなんだから。 でもこれで、ネットワーク内に独自にタンクを作る動きが出始めた。新しいソフトが開発されたんだ。これは今までのものと違って、小さい規模のメモリにきわめて有効にプールし、かつ相互互助的に運営が可能になる。これが今急ピッチで拝眉されつつあるから、おそらく同時に巨大メモリ・タンクが破壊されない限り大幅な損失はでないと思う。完備すれば、巨大タンクの意味もなくなるだろう。これはつまり、日本国内に限定しても、ネットワークの資産が流動的に運用できるようになったてことなんだ」 「ネットワークにおいて――なんていうか、ローカリズムみたいなものは存在するのか?」 「英語で言うそれはちょっとニュアンス違うね」  僕は言った。「とにかく現実には国内サーバーもかなりまだシェアされてるし、それに国内日本語って言う形態がある以上、存在するものだと思う」 「ちょっと待ってよ」リルルは言う。「ネットワーク破壊してどうするの?テロリストはネットワークが根城じゃないの?彼らが一番ネットワークを利用してる連中なんじゃない?」 「僕もそう思う」僕は言った。「おそらく打撃を受けるとしたら政治力のないテロリストのほうだと思う。でも実際、テロは破壊してしまった。テロは無分別に破壊してるとしか思えない」 「文明の破壊者ってやつだ」神田は言う。 「その見解は統一されてる。もう、文明は世界的に見放されつつある――少なくとも、中世ヨーロッパ発の合理性は否定されつつあるんだ。  今じゃ日本国内だけじゃない、全世界的にテロは行われてる。もちろん、世界レベルまで行くと様々な要因がテロを引き起こしてるのが事実だろう、民族間抗争とか宗教対立とか、日本じゃありえない形態もあるだろうね。でも、すべての始まりが日本の『大爆発』だったことは疑う余地がない」 「テロの発生件数は、日本:それ以外の国、が約1:0.8」  と、僕は言った。「世界中のテロの半分以上を日本が引き受けてる」 「文明が根本的に破壊されてるってこと」  神田はリルルを見て言った。リルルはあいまいにうなづく。 「小川、他にはどうだ?」 「そうだな……」僕は考えてみた。「全体的にはテロ対策委員会が再び支持され始めてる、と言ったところかな。テロ対の運営するフォーラムへのアクセスが飛躍的に伸びたし、フォローする団体も多くなった」 「メジャーな、明確なものは?」神田は言った。 「いくつかはある、けど、特に際だってないのが現状かな」僕は言った。  神田はふうん、というような顔をした。実は僕は、このところ、ネットワークにはあまり顔をだしていない。それを神田にばれたくはなかった。 「まあいいさ」神田は言った。 「でもリルルに言っておきたいんだけど」僕は言った。 「俺たちって基本的に、何にもしてないんだぜ」 「そうか、リルルは初めてだから言っておかなきゃいけないと思うんだけどさ」 リルルが応える前に、神田は言った。リルルを向き直る。 「別に俺たちは政治活動してるってわけじゃないんだ」神田は言った。「基本的にどんな勢力とつながってるわけでもないし、どれかに関わっていこうとかも思っていないんだ。だいいちグループでもない。俺と小川の二人で、興味あることだから二人で手当たり次第情報集めてるってだけでね、うん、今はジャーナリスティックに情報を集めてるだけに過ぎないんだよ。  一つ一つのテロに対しては憤ったりもするけど、それら全体に対してはなんら関わっていこうと思っていない。普通の人と一緒だよ。自分の生活に関わってこなければいい、と思いながら毎日生活してる、ってだけでね。  今後どうなっていくかはわからない。俺がテロリストになるかもしれないし、小川はテロ対に加わるのかもしれない。でも、とりあえず、よく考えてからなにかしたいと思ってるんだよ。そのための集まり、みたいなもんだ」  僕は神田に意見を合わせるように頷いた。  大筋で神田のいう通りだった。僕らはどのような形にも、動いていない。政治参加していない。 「まず知ること、そして考えること」とつけ加えるように言った。「だから特に、俺たちは仲間じゃないんだよ」 「友情はまた別にね」神田は言う。  これは神田のジョークなのだ。 「まあだいたいそんな感じ」  と、僕は合わせて言った。 「うん、いいわ」リルルは言った。 「古沼、いいね?」神田は言った。  古沼ははっと目を見開く。 「うん」 と頷いた。 「じゃあ、俺の話をしようかな」神田は言った。「俺はね、カルドラ神学会という――まあカルトだね、そこに入ってみたんだ。なかなかおもしろい経験だったよ」 「どういう宗教?」リルルが尋ねた。 「独自の神学形態を持つ新興宗教で、入信者は若い世代に多い。全体でだいたい数百人といった規模だと思う。それほど大きい団体じゃないし、資金もそれほどのじゃないと思う」 「テロとの関連は?」 「もちろん公式に表明はしてない」 「現在は公にテロリズムを標榜している団体はゼロだ。その状況は2年間続いている」僕が口を挟む。 「オーナーはゲーム会社。母胎がゲームメーカーで、布教活動はゲームが担ってる、ネットワーク依存が高い団体だ。  うちの学校の助教授がこの団体の指導者格だということで、話しかけてみたんだ」 「で、どうなのよ。怪しいところは?」 「まだ全体が見えてこないところがある」神田はゆっくりと話した。「生活に規律を持たせるような団体じゃない。ゲーム世界がシンボルになっていて、それ自体に希求力があるんだ。ゲームが好きな連中が集まってる、そのおかげで生活のレベルの統一がなくても団体として成り立ってるんだ」 「マニアの集まりってわけね」 「山下さんはかなり理知的で、冷静な人だった――俺のことは学校の生徒が、カルトに興味を持った予備軍、と思わせた。実際そんなものでもあるしな。そんな感じで行けば、話するのは歓迎してくれる感じだったから、一回会ってくるのがてっとり早いぜ」 「あんまり近寄りたくないわよ」吐き捨てるように言う。 「俺は会ってもいいな」僕は言った。 「確かにまあ、あまりまっとうじゃない人かもしれないな。俺は山下さんのアパートに行って、薬使ってトリップしてきたよ」 「薬?」 「幻覚剤だったと思う。俺あんまり慣れてないから、どんどんダウンしてって眠っちゃったけどな。それで曖昧にお開きだった」 「薬使うのはカルトの方針なわけ?」僕は口を挟む。 「俺も聞いてみたよ。個人の自由、だってさ」 「かなり自由なんだな」 「ていうか、なんかテロリストぽくない気がするんだけど」リルルが言う。「ただのゲームマニアで、快楽主義者でしょ?あんまりともだちになりたくない種類の、普通の人じゃない?」 「いや、俺は匂ったね」神田は言う。「山下さんはリアルな反応を楽しんでる人だという実感があった。社会にたいして仕事することに、喜びを見いだせる人だ。ゲームの開発もしてるし、哲学の講義もしてるような人だ。マニアの偏執さはない。  それにテロリストっていうのは、ああいう人じゃないか、って気がするんだよな」 「なにそれ?」 「――常に挑戦的だし、破壊的だし、びっくりするほど頭がいい。――いや、はっきりしたことはなにも言えないんだけどさ。それに、あの人には財力もあるし、人を動かすことも出来る」 「要するに、この広範なテロ活動の一部を担ってる人間だと、あなたは確信したわけね」 「おそらく自主的にテロを支援してる可能性が、ありうる、というだけなんだけどね」 「なんかすごくのんびりしてるのね」 「でもさ」  僕は言った。「カルトは根深くテロに結びついてる。僕にもその確信がある。それに一つ一つ辺りつけていくのは間違いじゃないんじゃないかな」 「ねえ、ちょっと」  リルルは言った。「あなたはなにがしたいの?テロリストなの?テロをなんとかしたいの?あんたの立場がよく見えない」 「俺は知ろうとしてるだけだよ」僕は言った。  リルルは疑わしい目で僕を見た。 ++++++++++++++++++++++++++  リルルという女性は、ほとんど自分から話をしなかった。  それでも強い意識をもっていることは良く分かった。積極的に関わろうとする姿勢や、話をする僕らに対して噛み付こうとするところは、むしろ好ましかった。神田の古い友達ということだったが、なかなか普通の女の子に出来ることではない。僕は彼女に好感を持つことが出来た。  神田が学食のラーメンの話題を持ち出すころになると、そろそろみんなの気がまばらになってきたことがわかった。そろそろ会合にも一段落がついたころだった。 「なんか食べる?」神田は言う。 「それより――ねえ、いつ連れて行ってくれるの?」  リルルが言った。彼女は学生会を、早く訪ねてみたいと思っているようだった。  神田はほとんどひとりで行動していながら、いろいろな所に知り合いを作っている。ある他大の学生会はテロ活動に対して中庸であることで名前が知られていた。これはアナーキーの多い学生たちの中では理論的な集団であり、僕も何度か訪ねたことがあった。僕らと違ってちゃんと組織だった動きをしているし、それらはとにかく現実的で、実際的だ。  僕はあまり肌が合わなかった。リーダー格の人間は中庸を強要する押しの強さと、団結し行動することを脅迫じみて迫るところがあり、深く関わると面倒なことがすぐにわかる。神田も深入りは避けているのはすぐにわかった。しかし、リルルが興味を持つのは当然だろう。 「小川も一緒にいかないか?」 「今日は帰るよ」  僕は言った。 「それじゃな」僕は言う。 「オッケー。また連絡するよ」  神田は答えた。  僕が「宇宙研究部」室を出ると、古沼は後ろに着いてきた。 「一緒に行かないの?」僕は尋ねた。 「うん」  古沼は短く答えた。  そのまま僕の後ろについて歩く。 「小川くんはこれからどうするの?」 「家に帰るよ」 「わたしも行っていい?」 「あー」僕は言った。  家のことを思いやって、少し考えた。 「実は、今日は向田がいるんだ」 「向田?」  驚いた顔をして、彼女は言った。僕は頷いた。  古沼や神田には、向田のことを妹だと言ってあった。いつもは施設に入っているが、たまに唯一のつながりのある保護者である、僕のところに顔をだす。  一度古沼と向田は面識があった。荻窪で同じゼミの人間と飲みあかし、そのまま集団で僕の家になだれ込んだのだった。その時にはたまたま、彼女が僕の家にいた頃で、少なからず僕はそのことを忘れていたことを後悔する出来事だった。 「久しぶりに会いたいような気もするんだけど……」  語尾を弱らせながら古沼は言った。正確には僕が彼女を嫌ってないかを心配しているのだ。 「これから妹を施設に送ってやらなきゃいけないんだ」僕は言った。「ごめん」 「ううん、ごめんね」  僕らは黙って歩き出した。  古沼は親と一緒に埼玉に住んでいる。長い距離を歩いて、人気のないバス・ターミナルに行かなければならない。僕らは黙って、並んで歩き続けた。  古沼とは学校で知り合った。僕と神田と歳が一緒だ。  常に僕らと行動を一緒にしていて、どこのグループにも属してはいない。学校でも、ネットワークの上でも。  僕らは初めに出来た友だちだった。同じ講義を受け近くいるから仲良くなった。彼女はあまり喋らず、物事にくびを突っ込もうしない。ただいつまでも僕らの側にいた。  同期の僕らはほとんどみな学校に来なくなった。向学心に燃えるような人間は演劇学部なんかには来ない。  僕が演劇をあきらめて、神田とつるむようになった。それでも、彼女は僕の隣にいた。  一度僕らはセックスしたことがあった。  でも僕らはそれについて喋りあわなかった。お互いかなり酔っていたし、どさくさにまぎれたようなものでしかなかった。そんなことは無かったことのようになっている。  しかし学校とはほとんど縁がなくなった僕の前に、彼女はちょくちょく現れる。特に迷惑ではないのだけれど。 「最近、なにしてた?」僕は聞いてみた。 「最近?」 「うん」 「ずっと本を見てた」 「なにを見てた?」 「いろいろと読んだよ。シェークスピアとかね」 「ふうん」  僕は言った。読んだことがなかったのでわからない。 「脚本か」 「うん、私は初めから劇をやる気はなかったんだ。受かったから入っただけで、本を読むのは好きだったんだけど」  そのことは知っていた。同じ言葉で何度も聞いていて、それは一言一句すべて同じだった。 「ネットは最近繋いでる?」 「うん」彼女は言った。  言葉が始まるのに時間がかかる。僕は少し待たなければならなかった。 「この前端末が壊れちゃってね、古いマシン使ってるの。液晶の画面でやるやつだから、今文章読むくらいのことしか出来ないんだ」 「え、じゃシティに入れないの?」 「うん」  ネットワーク上でのコミュニケーションは主に『シティ』を介して行われる。みなそれぞれキャラと名前を持ち、会話する。 「でも、別にかまわないんだ。あんまりシティには行ってなかったから。メッセージは受け取れるから、大丈夫だよ」 「じゃ学校に来てたわけ?」 「ううん。きょうすごく久しぶりに来た」 「いつもはなにしてるの?」 「だから、本読んでるんだよ」  古沼は真顔で答えた。  それからおかしそうにくすくす笑う。 「本当に毎日、本だけ読んでんの?」 「そうだよ」 「そんな生活想像できないね……俺はほとんどネットワークにいるから」 「シティでなにしてるの?」 「演説してるのを見たり、なんか読んだり――でももっぱら誰かと会話してるかな。いろいろやってるけどね」 「本も読んでる?」 「読んでるけどさ」 「じゃ私と一緒じゃない」 古沼はにっこり笑う。 「一緒だけどさ。ライブラリーの充実が違う。なにより、ゴーグルつけてたほうが見やすいだろう」 「私は紙の本が好き」古沼は言った。「でも図書館まで行かないといけないし。近所には大きい図書館がないんだよね。それが不満」 「そういうものかな」 僕は言った。  僕らは代々木を抜け、そこから明治通りを北上した。  僕は中野まで歩かなければならなかったが、彼女は西巣鴨のターミナルを利用していた。家に来るのを拒んだ手前もあり、送る必要があるように思えた。  まだ陽は残っていたが、陰ってくるまでそう時間があるわけでもない。なるべく夜前には家に戻っていたかった。とにかく高円寺まで往復するのは骨が折れる。意識的に脚を早めて通りを進んでいった。喋ることもほとんどない。  だいぶ人は減ったとはいえ、まだまだこのあたりには人の姿は多かった。それと比例するように、テロの被害はなまなましい。そこかしこに見ることが出来る。  数戸の敷地にまたがるような空白は、「大爆発」の際のものだろうと思う。それらはほとんどが、なんら整備もされておらず火災の焦げ後すら残っている。大規模なものだけではなく、アスファルトがはがれていたり、街路樹の幹から上がなくなっていたりするだけのものも多かった。もっとも恐ろしく思えるのは、それらが一度に起こったものではなく、ここ数年の間に連続的に起こっているということだった。  新宿は目も当てられなかった。高層ビル群は一掃されてしまい、かつての雑踏振りが信じられないほど、空間が広い。  西巣鴨ターミナルから古沼はバスに乗った。 「今日は楽しかった。また呼んでもらえる?」古沼は言った。 「いいよ」僕は言った。「端末直せよ。シティのほうが連絡とりやすい」 「うん。そうする」古沼は言った。  バスの扉が閉じ、その向こうで古沼は手を振った。バスはすぐに走り出してしまった。  僕は大きくのびをして、それを見送った。  とにかくこれから、歩いて高田馬場まで戻り、そこから自転車で中野まで行かなければならない。  帰ると向田が待っている――そう思うと、なにか複雑な感覚があった。  古沼といるほうが気楽なものではある。 ++++++++++++++++++++++++++ 2 ++++++++++++++++++++++++++  小学生の頃の向田恵美は、どうということのない普通の女の子だった。どちらかといえば成績は良い、そしてどちらかと言えば静かな女の子。そういうだけの、普通の女の子だった。僕は彼女と同じクラスでそれを見ていたが、良くも悪くもあまり話題にはのぼらなかったことを知っている。  従姉妹だということを聞いてはいたが、僕はそれをほとんど意識したことはなかった。学校にいる間には、血がかすかに繋がっているだけなんてかえりみるようなつながりではなかった。もっと他に結びつけるものがある。おかげで僕らにはほとんど付き合いと言ったものはなかった。彼女の父は僕の叔父だが、父と叔父の間にもほとんど関連はなかった。元からそういう付き合いを好むような親たちではなかったのだ。  それでも、従姉妹だという意識は強く僕の中にあった。口を利くことがあったりすると、僕はクラスのどんな女の子と話すよりも緊張した。僕らが従兄妹であることは、なんとなく誰にも知られなかった。きっかけがなかっただけだと思うが、おかげで僕らは二人だけの秘密を抱えているような、不思議な感覚にとらわれたものだった。僕らは小学生で、それは後ろめたく隠さなければならないように思えて、必要以上に避けあったりしたものだった。  そんな関係は、小学校の6年間が終わると、自然になくなった。中学校が別になっただけだったが、子供の行動範囲からすると、決定的に別の生活になるようなものだ。僕は彼女を思い出すこともほとんどなくなったし、おそらく彼女にしても同じ事だと思う。気まずい思いをしなくだったけ、楽になったと感じたものだ。  中学二年の頃、彼女の父が死んだ。  父に連れられて葬式に出たときに、久しぶりに彼女に対面した。彼女は見慣れない制服を着ており、一列に並んだ式の出席者に対して順に挨拶をしていった。父が亡くなると、子供はそんなことをしなければならないのか、と驚いた。母親は式に出てこないため、彼女はそれを引き受けなければならなかったのだった。 「出席していただいてありがとうございました」  彼女はそういって、深々と頭を下げた。父は彼女以上に深く腰を曲げ、お辞儀していた。僕はおざなりに頭を下げただけだった。大人びた仕草には付き合ってられない、と思ったのを覚えている。  こそこそと聞き取りづらい声で、父は挨拶を返した。  彼女の両親は離婚しており、母親はすでに別の家庭を持っている。もちろんこれからの彼女は母親に引き取られて暮らすことになるのだろうが、父は彼女の母親――父にとっては義理の妹にあたるが――には、一度も会ったことがなく、なにも言ってやることが出来なかった。  そんなことを、帰りの車の中で父は僕に話してくれた。  とにかく父は、型どおりのねぎらいの言葉をかけた。後ろには順を待つ人たちが並んでいたし、それでも立ち去ってしまうには物足りないと思ったのだろう。僕の肩をつかみ、彼女に向かって振り向かせた。 「ほら、保もなんか言ってやれ」  父は言った。  僕もまた、彼女にかける言葉なんかわからなかった。なにしろ、小学校以来まったくの他人だったのだ。  それでも大人相手に立ち会っている彼女に黙ってるわけにはいかなかった。 「なんでも相談してよ」  やっとのことで僕は言った。 「ありがとう」  向田は笑って答えた。  それが、まともな彼女を見た最後だった。  僕が18歳になったばかりの時、ある女性が、僕に連絡してきた。 「小川保さんですか?」 「はい」と僕は答えた。 「小川さまと話をしたいことがあるのですが」  彼女は自分を、孤児院の院長と名乗った。僕にはまったく話がわからなかった。  彼女は、向田恵美を今、こちらで預かっている、と言った。  はい、と僕は答える。  小川さんは向田恵美の従兄妹関係にあたると聞いたのですが、と彼女は言った。  それでようやく、彼女のことを思い出した。向田恵美はかつての同級生で、僕の従兄妹だ。  その頃には僕は受験のことや生活のことで、多くの人と話をしなければならない時期だった。思い出しても嫌気が走るほど面倒なものだったし、不愉快でストレスに満ちた時期だった。そんな中では向田の名前は遠いものだった。二度と関わらないことだろうと漠然と思っていた。  院長先生は彼女の今後のことで相談したい、と言った。  僕の中で、多少の好奇心がわいた。  いったい何のことなのか、まったく話がわからない。はじめから説明してはいただけないだろうか、と僕は答えた。  院長先生は、話をしてくれた。  父親を無くした彼女は、母親を頼った生活に切り替わった。  母親の家庭は大阪にあり、そちらに移って生活する。無論彼女に不安や心配はあっただろうけど、本当の災難は、実際に暮らして見なければわからないことだった。それに、院長先生自体にも、彼女になにが起こったかは、わからないことだった。  大阪に行ってから数ヶ月も持たず、彼女は病院に担ぎ込まれた。  薬物中毒だった。前後不詳の状態は長く続き、命も危ぶまれていたという。意識が回復したのは数週間の後だった。  彼女の母は、法律的な親としての権利の一切を認めてはいなかった。離婚の際、この夫婦はかなり激しく法律的に争い、そして父親が娘に対するすべての権利を取得することで決着がついた。  この争いは長く、激しいものだった。母親は強く娘を引き取ることを望んでいたものの、最後には勝ち取ることが出来なかった。この際の屈折が、どのような形で実の娘に対して行われたのかは――神ならぬ自分では――わからない、と院長先生は言った。幼い娘を手放したとき、母親のなかでの娘に対する意識もまるごと欠落してしまったのだった。  母親は大阪に呼んだ後も、権利的なものの一切を凍結したままだった。実際の保護権は握っていたものの、そのことは彼女に対する愛情とはならなかったのだ。彼女にはすでに新しい子がいて、彼女にとって守るべき子供は、その子一人だったという。  向田には虐待の跡も見られた。そして精神的にも病むことになる。そこに薬物が現れ、それは深く、彼女の支えとなっていったのだった。  しばらくの間、彼女はひどい状態だった。何度か命の危険も訪れたらしい。肌は荒れ、目が落ち窪み、10代と言っても誰も信じない顔だった。肩先にまで伸びた髪の多くは白髪になった。  その髪と知性と精神は、一生回復することはなかった。  僕は驚いていた。  院長先生の話す向田の様子はとても信じられないものだった。小さなころの印象だけでは、そのような未来を想像することはまったくできないことだった。薬物は恐ろしいことを引き起こすものではあるし、彼女にそういうことになる因子があったのかもしれない、でも、実際に外見も内面も変わってしまった彼女のことなど、到底信じられるものではなかった。  院長先生は話しつづけた。  そんな中「大爆発」が起こり、それに続くテロの時代が訪れる。  彼女の母親とは連絡がつかなくなってしまった。意識的に絶ったのか、それともテロに巻き込まれたのか、どちらかは分からなかった。しかし、向田には当てがないというのは確かだった。改めて、向田の親族を探したとき、浮かんできたのが、僕の家だった、というわけだ。  それでも僕の父と母は「大爆発」で死んでいた。親族として話を聞くことが出来るのは、僕だけだった。そのことは少なからず院長先生を失望させたようだ。  僕は未だ学生を続けており、家を養っていける人間ではなかった。  とにかく僕らは二人で当惑した。院長先生も僕も、お互いになにを言ったらよいかわからなくなってしまったのだ。  口を開いたのは、僕のほうだった。 「僕は親の残した資産があります。多少お力になれるかもしれません」 「本当ですか?」 「ええと、とはいえ、僕一人でなんとかなる問題ではないかと思います。実際、現在の彼女の様子も知りませんし――頼りになる人間もいません」 「ええ、ええ、それでも結構です。こうしてお話を聞いていただけるだけで私はどれほど幸せなことでしょう」  院長先生は言った。 ++++++++++++++++++++++++++  家に着く頃には空が赤みを増していた。  僕は扉を開け、部屋に入った。居間には向田の姿がなかった。  狭い家を探してみた。手紙もないし、彼女のわずかな荷物もない。もっとも、持ち歩けるほどしか彼女のものはない。  冷蔵庫の中のかき氷がひとつなくなっていた。相変わらず冷たいものしか食べていないようだ。  彼女の行動範囲は把握していないが、一人で町中を歩くほど詳しいはずはない。  今彼女はここと孤児院を行き来する生活をしている。だがこちらではどこにも出歩くことはない。家の外に出たこともないはずだ。  ひょっとしたら、吉祥寺の施設まで戻ってしまったのかもしれない――  鞄から電話を取り出し、ダイヤルした。 「小川です。院長先生ですか?」 「ああ、小川さん」 落ちついた女性の声が、言った。 「向田はそちらに戻ってますか?」 「向田?いえ、こちらには帰ってきていません」 「そうですか」僕は言った。  だいたい、吉祥寺まで歩いて帰ればかなりのものではある。彼女には複雑な路線のバスを使って戻ったようにも思えない。 「ちょっと家を離れていたんですが、すいません、いなくなってしまいました。ひょっとして、そちらに帰ったのかと思いまして」 「ちょっと心配ですね」 「すいません、戻ってきたら、こちらに連絡していただけますか?」  僕は考えてから言った。 「ええ。わかりました」  僕は部屋を出て、マンションの階段を降りていった。4階建ての3階にあり、エレベータはあるものの使われなくなっている。  1階まで降りたとき、ふと思いつくことがあった。引き返し、また階段を上る。  屋上に上がって来れないように、4階からの非常階段には鉄の柵が閉じられている。その非常階段は、通常の階段と違ってかなり狭く、段も高さが急で横に広く、階段とも言えない作りだ。それに住人に放置された冷蔵庫等があって、ごちゃごちゃしている。滅多に、人が近寄るところではない。  早足でそこに向かった。  4階で足を緩めた。  足が転がってるのを見つけた。  近づいて確認すると、やはり向田だった。階段の段差に頭を乗せて、ひどくだらしない姿で眠っているようだった。誰かに襲われた様子はなく、表情は穏やかだった。  僕は安心して、手に持った電話を掴んだ。 「すいません、小川です」 「あら」院長先生は言った。「こちらには……」 「いえ、どうもすいませんでした。向田は見つかりました」 「あら、良かった」 「マンションの階段で寝てました。すいません」 「いえいえ、良かったですわ」 「本当にお手数かけました」 「向田も幸せね、心配してくれるお兄さんがいて」院長先生は言った。 「いえ、そういうのでは……」 「いいえ、謙遜なさらないで。あなたの声を聞くだけで、妹さんを心配している様子がよくわかるのです」  僕はなにも言わなかった。 「本当にやさしい、お兄さんねえ」 「とにかく、どうもすいませんでした」 「いいえ。これからも向田を気にかけてやってくださいね」 「ありがとうございました」  通話を切った。  向田は僕の話し声にも気づかずに、眠り続けていた。  向田の頬をたたいた。  ゆっくりと、不愉快そうに目が開かれる。 「おまえな、なにしてんだよ」僕は言った。 「んん?……」 「勝手に部屋から出るなよな。外にでたのかと思うだろ」 「んん」  僕の声に反応して、あからさまに不愉快な顔を僕に向けた。 「戻るぞ」僕は言った。  不愉快そうな顔をしたまま、向田は動かなかった。立ち上がるのを待っていると、そのまま向田は目を閉じる。 「なに寝てんだ」  僕は近寄って、言った。  向田は目を閉じたまま、動かなかった。  僕が怒ってるのを見て、意地になってるのだ。  僕はなんか言ってやろうとしたが、うまく言葉に出てこなかった。ため息を見せつけるようについてやる。それでも反応しない。  彼女を起こして、背中に抱えた。  足を持って支えてやると、両手が僕の首に回された。僕の背中向田全体の体重がかかる。それでも体重がなく、凄く軽い。 「起きてるなら歩けよな――」僕は言った。  返事はない。 ++++++++++++++++++++++++++  部屋に着くと、向田はすぐに背中から飛び降りた。冷蔵庫を開き、氷を取り出す。 「寒くないのか?」 「寒くないよ」すっかり目がさめた様子で、向田は答えた。 「向田、今日は、何食べた?」 「かき氷」 「だけ?」 「うん」 「おまえね、少しはまともなもの食わないと……」と言いかけて、言い換える。「いろんなもの食べないと駄目なんだよ」 「かき氷が食べたいの」 「ちょっと待てよ」  僕は冷蔵庫をあけた。ろくな栄養もなさそうなものがほとんどだ。それに手間もかかる。中から生ハムのかけらを見つけ出し、賞味期限が残っているのを確認して、適当に切って氷の上に乗せた。  向田はしばらくハムを眺め、それを口に入れた。 「氷の前に必ずこれだけ食えよ。食わないと氷食うなよな」  向田は小さな声でぶつぶつとなにか言った。僕が見ていると、ハムを口に入れる。  「全部、食べなさい」僕は言った。「全部な。俺は隣にいるから。いいな?」  向田は僕を見ずに、うなづいた。  少し不安ではあるが、信じるしかないだろう。 ++++++++++++++++++++++++++  隣の部屋に移り、扉を閉めた。  こちらの部屋にはほとんどものを置いていない。ゴーグル、それから端末本体、それに本や食べ物が、雑然と残っているだけで、家具らしきものはほとんどない。  僕は部屋の真中に座って、ゴーグルをつけた。グローブを右手にはめる。スイッチを入れるのと同時に、身体中に締め付けられるような感覚が走った。体内の空気圧が弱まったような感覚だ。  ゴーグルには映像がまだない。素通しで僕の部屋の壁が見える。  ぶうんという音がして、端末が起動し始めた。  視界が急に暗闇になる。瞬間で暗闇になるこの感覚は、まぶたを閉じるのとは全然違う。まぶたよりも光を通さず、暗闇は奥深い。音もまったく聞こえなくなる。  一切の感覚が、ここで閉じられたような錯覚がある。これはネットワークに繋がる際の儀式的な意味があるようにしか思えない。  その状態のまま、端末はシステムを読み込んでいく。この短い時間に、僕は身体を作り替えられ、そしてシティに立つ準備がなされる。  そして世界はいつも、常に唐突に――現れる。 ++++++++++++++++++++++++++  シティは漠然としていて、とらえどころがない。  比較的機能的に作られている中心部は、「大爆発」以前の都心にも似た、近代感がある。たくさんの看板が宙に浮いていることや、交通のための道がないことなどと違いを抜かせば、近代的などこかの都市に見えるだろう。  多くの人の姿が見えた。現実の都市と違うところは、この通行人たちの姿だ。それぞれ自分のキャラクターを描き、作り出すところからシティへの参加は始まる。僕はしばらくデフォルトのキャラを使っていたのだけど、しばらく前にプロのモデラーに頼んで、しっかりしたフォルムを作ってもらった。80年代ドラえもんに、黒を基調にしたカラーリングを施してある。漫画の線を精巧に3次元化するのは難しかったが、とりあえず等身のバランスが絶妙に見事で、僕は満足していた。ほかの人には僕は黒いドラえもんに見えるはずだ。もっと凝りだせば、僕の声に大山のぶよのエフェクトをかけたり、ポケットを再現してものをとりだしたりすることも出来るだろうが、そこまではしたくなかった。姿がきれいな2頭身であれば、僕は自分に満足出来る。  僕は移動のショートカットを使って、場所を移動した。目の前が暗闇になり、そして徐々に街の形が作られ、別の場所が目の前に現れる。  目の前にはかつての都庁のような、ひときわ高く、広いスペースを使って作られた建物が現れた。ここは<センター>と呼ばれている。システムに関したことや、それからいくつかのシティマネーの管理する銀行が入っていたりする。  ドアを開け、中に入った。中には多くの人がいた。半数ほどはグレーのスーツを着たオフィサーたちだ。  エレベータを使ってフロアを移動し、アドレスが参照された地図を見る。<センター>はこのアドレスマップがとても便利で、使いやすいため、ちょくちょく頼っている。  すぐに、<カルドラ神>の場所が見つかった。マップのコードに触れ、僕の個人メモリに記録させ、移動した。  目の前の暗転が晴れると、そこは<カルドラ・シティ>だった。 ++++++++++++++++++++++++++  広い地平線が現れた。そこには誰もいない、なにもない。ただの地平だ。  ぼやけた形がすぐに現れた。それは次第に形を成していく。 「はじめまして」  女性になって、それは言った。  彼女は理想的な体つきをしていた。上半身は厚い鎧をつけているが、下半身は薄い装飾的な下着をつけているだけだ。色気のある脚が強調されている。デフォルトの女性型フォルムに似ているが、細かいところに手が加えられているのがわかった。ややディフォルメが強いが、非現実的でもない。 「私はこの世界のインストラクター」彼女は言った。「あなたの名前は?」 「小川保」 「小川さんですね。とてもかわいい姿ね」 「ありがとう」 「ドラえもんじゃないのね?」 「小川がいいです。できれば」  彼女はにっこりと笑った。僕も笑顔を返した。 「この世界ははじめてですか?」  オープンになっている僕のデータを、プログラムが読んだはずだ。これもインストラクトの一環なんだろう。少なくとも目の前の女性が知能を持っていることはわかる。おそらく人間なのだろう。 「そうです」 「この世界についてはご存知?」 「実は、あんまり知らないんだ」僕は言った。「ともだちが話してくれて、ちょっと興味持ったんで、訪ねてみた」 「じゃあ、簡単に説明するわね。わかんないところがあったら、いちいち聞いてくれて大丈夫だから」彼女は手慣れた口調で言った。 「オッケー」 「ここではあなたに与えられた目標は、カルドラに会うこと」彼女は言った。「カルドラ、という神がこの世界を作りました。彼女はこの世界をつくり、さまざまな恩恵を施してくれていたのね。  でも彼女は失われてしまったの」 「失われた?」 「そう。世界から見れば、彼女は、失われた。彼女は消えてしまったのね。  私たちはカルドラを再びこの世界にとりもどさなければならないの。カルドラがいないままでは、いつかこの世界は滅びてしまう。この世界をいつまでも、慈愛あふれる大地にしておくためには、このままにしておけない。だから、カルドラを復活させる、この世界が滅びるまでに」 「なるほどね」 「そう。みんなそれを願うの。それがこのゲームのはじまりよ」 「どうしたらカルドラは復活する?」 「方法はいくつか検討されているわ。  いちばん有力なのは、「地の果て」の一番奥まで行き、「向こう側」の世界からこちらにつれてきてしまうこと。「地の果て」は死者がいくところとされている。その中には、失われたカルドラも眠っているのじゃないか、と思われているわね」 「ほかにもあるの?」 「というよりも。どの方法が正しいのか、誰にもわからないの。未だカルドラは復活していないのだから」 「ふうん。おもしろい」 「世界では、いろいろな人たちがそれぞれの趣向を凝らして、」 「ちょっと聞きたいんだけど」僕は言ってみた。「このゲームには終わりは作られているのかな?」 「あー、そういうことは、わからないわ」 「いや、でも製作者がこの物語の終わりを作っていないとしたら、俺たちはばかげたことをし続けることになる。そう考えると、ちょっと悲しくないかな」  ここで僕は笑ってみせた。 「シニカルね」  彼女も言って、笑う。 「このゲームが出来たのはもう3年前だよね。でも、まだクリアされてない。一人がクリアしたら、終わり、と言う種類のゲームなら、クリアが待ってるわけないようにも思えるよ」 「あら、でもそうでもないわ」彼女は言った。「部分的には、カルドラは復活を見せているのよ」 「部分的?」 「ええ、何人かの人は、カルドラ復活を経験しているわ。ただ、残念なことに一時的なものでしかなかった。またすぐに消えてしまったの。  自分の体にカルドラを降臨させたり、ある洞窟の奥地にカルドラがいたり。偶然穴を掘っていたら、見つかった、という報告もある。  彼らは対面者、と呼ばれてる。そういう人は一応クリアしたと言えるんじゃないかしら」 「それでこのゲームは終わらない?」 「終わらせる人もいる。でも、ゲームっていうのはその根底に何度も繰り返されるものとしての性質があるから、一度カルドラに会った後もこのゲームに残っている例がほとんどじゃないかしら。ゲームの中で、直接話を聞いてみたりしてみればいいんじゃないかな。そういう人には出会えるはずよ」 「ふうん……」 「あなたもカルドラの復活が信じられるわ。カルドラはちゃんと復活する。私たちの誰もが、それを信じているのよ」  この世界のことを詳しく聞いた。  この世界ではマナと呼ばれる、一般のシティでは換算されない値を、それぞれのキャラクターが持っている。これはこの世界で使う事ができる魔法のために必要なもので、この値を消費し、あるいは成長させていくとさまざまなカルドラの奇跡を行うことが出来る。これを集めることによって、この世界の中でのみの、自己成長することが出来るということ。  管理側が適度に干渉することで自立した経済活動が行われており、場面によっては現実社会の貨幣より効力があること。実際「大爆発」以降価値の下がったリアルマネーは、こういう限定された貨幣に劣ることもある。現実の社会以上に、秩序はしっかりと作られているのだ。  話を聞くと、なかなか興味を引かれてきた。  神田の話と照らし合わせるために来ただけなのだが、僕は70年代80年代の古いゲームを子供の頃に楽しんでいた。ネットワークを介するようになゲームをしたことはなかったが、単純な目標があり、しっかりとしたシステムを見るとプレイしてもいいかと思った。  なにより、ここの女の子はきちんと僕と喋ることが出来たのが好印象だった。イントロダクションでしっかりとした喋りかたをしてくれると、今後にも期待が出来る。 「そうだ。もうひとつ聞きたいんだけど」僕は言った。 「なに?」 「友人はこの世界がすごく好きでね。どうやらシティ内でもカルドラについてのフォーラムを持ってるんだけど、どうやら現実でも仲間を見つけていろいろ集まっているみたいなんだ。この会社の人がまとめてくれているみたいなんだけど、そういうのもあるのかな?」 「ええ、あるわよ」彼女は言った。「カルドラを現実の神話体系に即してみたり、いろいろな学問を研究してこちらの世界にも役立たせようとしたり、そういうグループを、私たちの会社で組織しているわ。「カルドラ神学会」という名前で」 「それはどういうものなのかな?」 「世界の中に入れば、神学会の人もいっぱいいると思うけど」 「それは宗教みたいなものなの?」 「宗教?」彼女は驚いた顔をして言った。「まあ、確かにカルドラを中心にしてるからカミサマだけど。でも、俗に言うような宗教とはちょっと違うんじゃないかしら」 「あなたは神学会に入ってる?」 「ええ。会合の時にはネットワークをはずして、実際に集まっているわ」 「おもしろいね」僕は言った。 「とにかく、一度世界に入ってゲームを楽しんでみることをお勧めするわ」 「そうだな」僕は少し考えた。「そうだ。今日は妹が家に来てるから、そう長くネットワークにいられないんだ。また今度にするよ」 「あら、残念ね」 「でもおもしろそうだ。今度必ず来るよ」 「歓迎するわ」彼女は言った。「あなたみたいなシニカルなかわいい人は、大歓迎よ」  褒めるならセンスの良さを頼むよ、と僕は思う。 ++++++++++++++++++++++++++  ゴーグルをはずし、ネットワークから遮断する。  向田はテレビを見ていた。僕が目を向けると、こちらに気がつく。 「ほら、見て小川くん、犬だよ」  向田は言った。テレビドラマだ。二人の男が並んで喋っている脇に、大きなコリー犬がちらちらと動いていた。 「犬だな」 「小川くん、犬が好き?」 「好きだよ」 「私は猫のほうが好き。犬よりも猫のほうが小さいし、おとなしいもんね。小川くん猫は好き?」 「好きだな」 「私は猫の方が好きなの。おとなしいから。小川くんは犬と猫どっちが好き?」 「犬かな」 「私は猫の方が好き」  向田は言った。ゆっくりとした喋りだが、息をつかず休みがない。  テーブルの上にハムが残っているのをみつけた。僕が食べるのを見たまま、綺麗に歯型が残っている。綺麗にのけて、氷だけなくなっていた。結局食べていないのだ。 「猫は私飼ってたんだよ。すぐ死んじゃうんだけど。でもすごくおとなしくてすなおな、いい子なんだ。すごく小さくて。私もすごくちいさかったんだけど」 「そうだな」  言葉を挟んで、彼女の喋りを止める。長い時間聞いていられる話ではない。 「またネットワークに入るから、ちょっと待ってろよ」  ゴーグルをとる。それを見て、彼女はテレビを見つめなおした。  僕は再びネットワークに戻った。 ++++++++++++++++++++++++++  移動ショートカットを使っていきつけのフォーラムの中に入る。「夜見」と名づけられたフォーラムだ。  中は暗めの酒場のようになっている。シティの建物と内装の大きさを比例させるような法案が、委員会で決まったのだが、ここは昔から小さな、場末のイメージで運営されていた。テクノミュージックが小さな音量で流れている。  何人かの知人がいた。彼らに挨拶をしてカウンター席に座る。  フォーラムのマスターが近寄ってきた。 「やあ、小川さん」  マスターは一見リアルな人間と変わらないような姿をしている。中途半端にダンディで、中途半端にかっこ悪い。ひょっとしたら、現実の自分をそのままモデファイしてるのかもしれない。 「お久しぶりです」 「とりあえず、見ますか?」  僕はうなづいた。  ここで交わされてきた会話は一通り知っておく。フォーラムの一員を自覚するなら、当然のことだ。  マスターは僕にテキストボックスを与えた。視界の半分ほどに平らなスクリーンが広がる。  会話のすべてが発言順にテキストになっているもので、僕は音声で聞くよりも文字で見るほうを好んだ。ここにはオートマタープログラムが働いている。  ここの主な話題は、今の社会情勢のことだ。その間に個人的な雑談や演説のような一人語りが含まれる。ここの人たちは語ることを得意にしている人が多く、聞き上手もそろっているため、うまい討論になることが多い。マスターはたいていここにいて、感情が激するようになるとうまくそれを逸らしてくれたりする。なかなかうまく流れているフォーラムで、僕がここの常連になって、かなり長い。  流して読んでいるといくつか興味深い話題があった。  テロリストとして逮捕された人が、警察の拘置期間を終えてネットワークに復帰し、フォーラムを構えた、というものだ。テロリスト開放されるなんてあるのだろうか。ガセではないか、という噂もあるが、話はなかなか本格的で、ネットワーク内でもボロが出ていないという。テロ対も単独犯であり、かつ人損がなかった場合ならば民事で釈放されることもありそうに思えた。 「なんか気を引いたニュースありますか?」  マスターが話しかけてきた。 「うん……これかな」  僕はテキストを、マスターに向けて出力する。 「ああ……なるほどね。テロリストの生の声ですからね」 「マスター、興味はあります?」 「まあ、人並みにはありますね。今度ここで直接聞けるよう、取り寄せておきますよ」  マスターは各フォーラムに顔が利く。 「テキストデータにして欲しいな」 「もちろんやっておきますよ」マスターは自信ありげに、頷いて応える。 「そうそう、今度テキスト化する新しいソフト見つけたんですよ。試してみます」 「へえ」 「単純なものじゃなくてロボットが入りますから、会話の流れを読み取ります。読みやすくなると思いますよ」 「それはいいね……」  もう一度マスターは頷いた。  テキストの一部分がピックアップされ、マスターから送られてきた。 「この人の話は、多分フォーラム内全員が注目するでしょうからね」 「世間ではどう反応してるのかな。仮にも、犯罪者だ」  マスターは少し考えた。 「糾弾するような動きはないですね。居を構えているのももちろんアングラの奥地だし、あまりリアクションはありません」 「ふうん」 「ただ、アングラの王ですからね。一部ではカリスマ的ですよ」  それを聞いて、なにか気持ちが萎えるのを感じた。反感すら覚える。 「アングラの王?一人で誰もいないビルを壊しただけで?なんか笑っちゃうよ――王なんていうのはちゃんと別にいるよ。本当の暗闇の中に。しっかりとネットワークの中に、影響力を持ってるし、そういう存在は簡単には表に出てこないでさ」 「ふむう」 「ねえ。実際にテロを指揮してる人間は、どんなものだと思う?」 「そうですねえ」マスターは言った。「私は組織だった活動ではない、と思ってます、どうも影響力というものでは図れないような気がしますな」 「そうかな……テロは本当に徹底してるように思う。表的な活動では手に入らないような情報を元に、いくつか政府と社会に徹底的なダメージを与えてる。それらは協力な団体の力があるからじゃあないかな」 「そうですね――それもわかる話だな」  マスターは言う。 「だいいち、『大爆発』はどう説明をつける?」  マスターは悩む顔をする。  しかし、これには結論がつかないことなのだ。少なくとも、今の情報では誰にもわからない。 「ただ、どうしても、ね、私みたいな中途半端な暗闇にフォーラム構えてますとね、そういう、団体とか指導者とかじゃない、なにか致命的なものを感じるんですよね。おそらく、本当に破壊活動をするような人間は、人に影響を受けたりするような人間じゃないように思えたり」 「ふうん」 「もう、これは時代の流れ、ですな。1960年代、企業戦士たちが一心不乱に企業に入れあげたみたいに、私たちの世代は一心不乱に爆弾を作る年代なんですよ。きっと」 「マスターは基本的にインテリなんだよ」僕は言った。「圧倒的な指導者は必要だし求められてるよ。一人で決定し続けることなんて、誰にもできやしない。できるとしたらごく一部のエリートだけだ。立ち止まれない人がほとんどなんだ」  僕は言った。  マスターはうなづく。 「でもなんだか、私たちもいつの間にかテロの世の中になれてしまってますよね」マスターは言った。「なにが日本にまた秩序を取り戻してくれるのか、誰にもわからない」 「文化はすべてネットワークの中に入ってしまった。現実は荒廃し続けるってことじゃないかな」  マスターは可笑しそうに笑った。 「そんなふうに考えられるのは、小川さんくらいですよ」  僕もつられて笑った。  でもこれは、誰でももってる実感だ。そのことはマスターも知っているはずだ。 ++++++++++++++++++++++++++  僕はフォーラムをあとにした。  ショートカットを使い、再び移動する。  暗転のあと、巨大なテントが現れた。サーカスのような、派手な看板がいっぱいに使われている。どことなく1920年代のアメリカ風だと思う。  入り口は列になっていて、多少並ばなければならなかった。 「いらっしゃいませ。こちらははじめてですか?」  ブリキのロボットが言った。受付だ。 「いいえ」 「言語は日本語でよろしいですか?」 「はい」 「お客様のお名前は?」 「小川保」 「ジェンダーは――?」 「男」 「セックスは――?」 「ノーマル」 「今回は参加されますか?見学ですか?」 「参加します」 「見学を許可しますか?」 「いいえ」 「フォームを着替えられますか?」 「いいえ」  ロボットは頭を下げた。 「ありがとうございました。以上のデータは中にいる方にすべて共有されます。お進みください」  入場料をシティマネーで払い、中に入る。  野球が出来るくらいの広い空間に、椅子とテーブルがぎっしり並べられている。全体的に暗く、古いディスコ・ミュージックが流れ始めていた。フロアは3段に分かれていて、自由に行き来できた。  僕は壁際の席につき、あたりを見回した。フォーラムと違うのは、話をしている人間がとても少ないことだ。それに男性も女性も、見事な体つきをしている人間が多い。多くは入り口で着替えるのだろう。  僕はしばらく眺めていたが、黙って待つことに決めた。メモリ内に残っていたフィクションでも読む事にする。しばらく待っていれば、誰かしらに声はかけられるだろうと思った。  予想通り、それほど時間がかからずに声をかけられた。 「こんにちは」  彼女は2000年代のアニメ・フォルムだった。目が顔の半分くらいまで大きく、髪の毛が派手にくるりと巻かれている。等身が低く、ディフォルメがきついのが2000年代の特徴で、そのあたりは綺麗にまとめられていた。なかなか丁寧に作られており、ウェディングドレスのようなひらひらの衣装は凝ったものだ。彼女のようなタイプが僕に声をかけるのは、比較的まれなことだった。もっとストレートな女性タイプが多い。 「やあ」  彼女のセックスを確認した。フリーだった。 「ねえ、どうしてそんな姿なの?」 「ひどいな」と言って僕は笑う。「けっこう人気があるんだぜ」 「興味本位じゃなくて?」 「興味本位じゃないかな。やっぱり」 「じゃあ、誰とセックスするの?」 「興味本位で話しかけてくれた人とだよ」  彼女は笑った。甲高い声だが、抑えられていて悪くない。 「どういうセックスなの?」 「尻尾のスイッチが性感帯なんだ」 「そんな誘い文句でいいの?」彼女は笑って、言った。 「君はどう?」  笑う。緊張が走るのがわかった。 「わかった。いいよ」  僕は笑い返した。これで話はまとまった。  僕は彼女の手を引いて歩き出す。並んで歩くと彼女のほうが、やや背が高かった。  エレベータを使って、地下に入る。ここの収益のかなりの部分が、この地下の許可に使われている。30フロアほどある地下なんてここくらいだろう。  僕らは手近な、ノーマルなベッドルームに入った。  並んでベッドに腰掛ける。彼女の方から、唇を合わせてきた。キスされたのは初めてで、少し戸惑う。 「ねえ、どんなふうにされたいの?」  唇を離して、彼女は言った。  僕は返事をせずに、彼女の服を一枚づつ脱がせた。やや乱暴に剥ぎ取るように服をはがした。  胸は小ぶりだった。透き通るような薄い肌色で、乳首のピンク色まで薄く、幻想的だ。作り物めいているが、悪くなかった。 「綺麗な体だね」僕は言った。なるべく喋る、というここの原則を思い出したのだ。 「あん」  左手で背中をなで、右手で彼女の体をそらせる。彼女は逆らわず、ブリッジのような体勢になった。僕は身体全体を彼女に押し付ける。 「わたし、ドラえもんにおかされちゃうの?」 「そうだよ」僕は言った。「君はすっかりその気になってる」 「ねえ、もっと身体を触って」  右手で脚をもちあげて、身体を開かせてやった。何重にも重ねられたスカートをまくると、小さな下着が現れた。腰が薄くて、かなり年齢が低い。  下着のの上から、手を使ってしばらく撫でた。僕の愛撫は比較的ゆっくりしたものだと思う。それに、長い。 「上から触るのがすきなの?」 「じっくり触るのがすきなの」  僕は言った。彼女は僕の尻尾を触り始める。丸いため、さわり方がわからないのだろう、ぎこちない。 「いいね。ずっと触っててよ」僕は言った。 「すごくヘンな感じ」ちょっと彼女は笑う。 「さわり心地はどう?」 「悪くないよ」  尻尾は完全に手のひらにくるまれたり、2本の指をつかってこすられたりされた。  僕は彼女の下着を降ろしてやる。彼女の性器があらわになった。まったく毛が生えていない。クリトリスをゆっくり刺激してやる。  彼女はためいきのような声をあげた。膣内が濡れ始める。 粘り気がなく、雨のしずくを思わせるような愛液だった。  僕は腕を彼女の膣内に突っ込んだ。びくんと彼女の身体が痙攣する。  あ、と彼女はつぶやいた。  僕はそのまま腕を出し入れする。小さい膣だったが、僕の腕は丸く、入りやすい。手首の色がついたところまで問題なく入っていった。  彼女は腿に力をいれて大きく脚を開いた。尻尾を触る手が乱暴になる。手が振られるたびに僕の快感も増していった。僕の手は徐々に激しくなっていった。 「そろそろいこうか」 「ねえ、ちょっと待って」  彼女は起き上がった。僕の手から離れて膝をつき、お尻をこちらにつんとあげる。 「私これが好きなの。いい?」 「いいよ」  僕は犬の交尾のように尻をあわせて、尻尾を挿入した。 「ねえ、動いてくれる?」  動き始めると、彼女は大きな声をあげる。 「ああ。おねがい。おねがい」  僕は黙って動き続けた。お互いの動きが激しくなる。空気がへこむ奇妙な音がする。僕のひげが目の端で大きく揺れる。そして達した。 「あなたは特定の相手がいないの?」  彼女は服を直しながら尋ねた。 「いないよ」僕は答える。「君は?」 「わたしもいないわ」彼女は言った。「ねえ、どこに住んでるの?」 「だいたい「夜見」っていうフォーラムにいるよ」 「シティで、じゃなくて、実際に」 「東京」少し驚いて、僕は言った。 「ねえ、実際に会わない?」  もっと驚いたため、反応が鈍る。 「実際に会う?」 「うん。本当の世界で会いたい」  彼女は言った。僕はなにを言おうか、少し考えた。 「君は実際には男じゃないかと思った」 「え、なんでよ」 「なんとなくね」 「セックスの間もそんなふうに考えてたの?」 「違うよ。そんなこと考えてたらなにもできやしない――なんとなく、だよ」 「大丈夫よ、安心して。女だから」彼女は笑って言って、「ほんとはこんなにかわいくないけどね」 「僕だって実際は普通の男だよ」 「普通の男は、ドラえもんなんかにならないよ」  彼女は言った。声のトーンが落ちている。 「なんかね、こんなふうにネットワーク使っていろんな人と知り合うのも楽しいんだけど――なんか、物足りなくなっちゃったの」彼女は言った。「ていうか、ちょっと悲しい」  僕は黙っていろいろと想像した。その間に、彼女は喋る。 「私実際は25歳だよ。そんなに若いわけじゃないけど、それほど悪くないと思う。実際会ってみて、もしお互いうまくいったら、そのままずっと一緒にいたいって思うの。あなたはそう思わない?あなたは誰かと結婚してる?」 「してないよ」僕は言った。 「だったら、誰か一人としっかりつながっていたい、って思わない?」 「ちょっと思う」僕は言った。言ってから、返事が早すぎたことを後悔した。 「でも僕がいくつかとか気にならない?そういうことは君にだって言える」 「うん。だけど、50代くらいなら、愛してられると思う」彼女は言った。 「僕はいくつくらいだと思う?」 「ぜんぜんわかんない。でも落ち着いてるから、オトナだと思う」 「僕は21です」僕は言った。「年下だよ」 「へえ、ぜんぜん見えないよ」 「そりゃフォルムがだよ」 「ううん、話し方で」  彼女は言った。 「年上じゃ駄目かな」 「駄目じゃないよ」僕は言った。「でも、それとはまた違うと思う。  あなたはちゃんと喋れるし、魅力もある。多分多くの人に気に入られるんじゃないかと思う。僕も楽しかったしね。若いし、多分綺麗なんじゃないかなとも思うよ。誰か、もっといい人が見つかるよ」 「そうかな」  笑いながら彼女は言った。 「うん。大丈夫。少し落ち着いて、じっくり相手を選べばいい」 「ありがとう。少し元気がでたわ」  彼女は言った。髪の毛が大きく揺れる。 「またシティで会いたいね」  僕は言って、立ち上がった。 「行くの?――とめないけど」  彼女は言った。「でも、ひとつ聞かせて。あなたは実際に結婚したりしたいと思わないの?」  僕は立ち止まった。 「まだ考えられないんだ」  僕は言って、部屋から出た。 ++++++++++++++++++++++++++  シティに戻り、少し迷ってから、やはりネットワークを抜けることにした。  遊び場で見つけた彼女の言葉が重りのようにのしかかっていた。この先のことは、まったく不確かだった。自分の生き方に自信をもちきれない。そのことを強く意識せざるをえない。でも、実際に彼女と会って付き合えるようになるとは思わなかった。どうしてかわからない、実際に彼女と話をしたり、顔をあわせたりすることがうまく想像できないのだ。  だから、逃げ出すように出て行くことしか出来なかった。  気分を切り替えずに現実に戻るのはためらわれた。でも、フォーラムに行く気にもなれないし、どこか行くあてがあるわけでもない。シティを歩くときは常に一人だったし、これからもそうだろう。  シティを当てもなくふらついた。スピードをあげて歩くと、景色がさまざまに切り替わる。意匠を凝らしたつくりの個人宅が目立つ。最近個人宅を作ることが流行っており、今では建物の9割近くは個人の家だ。シティでの地価はそう割高ではないが、建築を制限する動きが出てきた以上、あがっていくのに違いない。  僕にはこの先の生活の設定がわからなかった。多くの人はシティに職を持ち、ネットマネーを得ることで生活をしている。ベースとなる経済が円じゃなくなって10年ほどが過ぎた。  両親が残してくれた遺産は、残り少ない。受け取った時にはかなりあると思っていたが、リアルマネーは変動が激しく、ネットマネーに切り替えたときにはタイミングが悪かった。おそらく来期の学費は払わないことになるだろう。  今後の収入にあてがない。どう食べていったらいいのか。  今はまだ考えられない。  町並みの風景を思い切るように、ネットワークをオフにした。引きちぎるように、僕のゴーグルをはずした。 ++++++++++++++++++++++++++  僕の部屋が目の前に現れた。シティに比べて、色の数が圧倒的に少ない。  隣の部屋に行った。向田はまだ眠っていた。  目を閉じていると、普通の女の子と変わりないように見えた。彼女と一緒に暮 らしていることがなんの問題もなく、普通の兄妹のように生活していけるような 気がした。  でもすぐに、彼女は普通の女ではないことを思い返す。  彼女とはずっと一緒にいるのだろうか?――  よくわからなかった。  彼女がベッドを使っている間は、ソファが僕の寝床になっている。うまく眠れるか、自信がなかったが、とりあえず横になった。  頭の横に電話があった。向田を抱えたときにソファに置いたままになっていたのだ。とりあげると、着信があることに気がついた。僕がネットワークにいる間だ。相手は向田の施設の院長先生だった。  向田が無事だったことは伝えたはずだった。  もう夜はかなり更けている。電話するのはためらわれたが、かけてみた。 「もしもし?」  院長先生が出た。快活な声だったので、少し安心する。 「もしもし――小川です。夜分で、本当に申し訳ありませんでした」 「いえ、大丈夫ですよ」 「少し気になったもので――電話させて頂きました。お電話を頂いたみたいです けど……」 「ああ、いえ。お話する時間があるようなら、ちょっと話を聞いておきたいと思っただけです。急ぎの用向きではないんですよ」 「こちらは今大丈夫です。もちろん、そちらがよろしければ」  少し間合いを計るように、彼女は黙った。 「小川さんはいつ眠られるのですか?」 「学生なもんで、いつでも大丈夫なんです」 「では――今少しよろしいでしょうか?」 「もちろん。先生こそよろしいのですか?」 「あんまり眠らないようになってしまったんですよ。もう歳ですから」先生は笑った。  本題に入らないのを察した。おそらく切り出し辛いことなのだろう。  いい予感はしなかったが、聞き始める必要があった。 「向田のことでしょうか?」  僕は言った。 「はい――実はお話したいことは、彼女のことです」 「お聞きします」  僕は言った。 「出来ればそちらに、ずっとおいてもらえないかと思っています――こちらの事情を少しお話すれば、少々深刻に、資金難に陥ってしまっていて……」  彼女は言った。辛そうな言い方に同情を感じる。 「でも――ちょっと待ってください。こちらで生活するというのも――」  そう言って僕は黙った。なにから言ったらいいかわからない。 「幸い、小川さんには生活力があります」  院長先生はゆっくり言った。  僕がなにも言えずにいると、彼女は続ける。 「大変心苦しいのですが、こちらは現在閉鎖も考えるほどの資金難なのです。現在の状況下、なによりも私どもの活動を一義的に考えてくださる方が多く、助かっていたのですが――その中の有力な慈善家の方が新橋のテロで亡くなってしまったのです。その方の資産は様々に散らばってしまいました。私どもには、それを追いかける力もございません」  僕はさらに黙っていた。 「失礼なことですが……小川さんは今は学生ですが、まもなく卒業と聞いております。個人の資産もおありなようだし、快活な能力もおありになる」 「いえ、僕はそんな立派な人間ではありません」  僕は言った。 「いいえ――否定なさらないでください。あなたでしたら仕事をこなしながら、彼女を支えていく力があると思います――それになにより、あなたは向田を愛してくださっています。この先、ここにいるよりも、あなたと一緒にいるほうが、彼女のためではないかと思うのです」 「僕は――愛しているわけではありません」 「いえ、あなたは向田を愛していらっしゃいます」口調を変えず先生は言う。「あの子があなたにしてやれることも、多くのことがあるはずですわ」  僕はひとつ深呼吸をした。  思うままのことを言う必要がある。 「いえ、僕は彼女を愛していません。彼女の古くからの知り合いとして、出来る範囲のことはしてやりたいとは思ってます。でも、僕は彼女と生活し続けることはできそうにない。実際僕には、彼女になにもしてやれないんです。  今日のこともそうです。僕は彼女に外に出て行かないよう強く言っておいた。彼女も聞いてくれていた。こんなことはないと思っていた。でも、彼女は僕の話を聞いていたわけではなかった、僕がなにを言っても、彼女には通じないみたいです。こんな僕が、彼女と生活していくことなんか出来るわけがない。  それに――彼女はここに来てから、氷菓子しか口にしていないんです。まともな食べ物を薦めても、口に入れてくれない。いずれ身体を壊します。そちらでしっかり守ってやらないと、僕ではまともにやっていけるとも思えない」 「そういうことでしたら、こちらで相談に乗れますわ」  彼女は言った。電話の向こうの笑顔が浮かぶ、楽しそうな声だった。 「言う事を聞いて欲しい時には、復唱させてください。あなたが言ったことを、彼女がそのままあなたに伝えられれば、彼女はしっかり聞いているということがわかります。それに、彼女が外に出る事くらい、留めておくこともありません。昼の明るい時間に外に出れば、夜暗くなる前には戻ってまいりましょう。  あなたはそれに――やさしくありすぎるんです。食べ物の好き嫌いを言うようなら、叩いておやりになればいいんです。無理に食べさせれば、きっとそれに慣れます。彼女はあなたに、甘えてしまっているんですよ」 「はい」 「あなたには愛があります。今の言葉を聞いていてもわかりました。ええ、すごく安心しましたわ。嬉しくなるくらい。  厳しくしてやっても、あの子にはそれが分かります。あなたは、彼女が愛することを知らないと思っているのね?――いいえ、それは違います。彼女も愛を持って、必ずあなたに報いてくれます。ぜひ自信をお持ちになって」    曖昧に納得して電話を切った。  彼女は僕のベッドで眠っていた。昼間も眠っていたし、今もそうだ。どれだけ眠れば気が済むのだろう?僕の家に来てからは不規則な生活が続いているせいかもしれない。僕が不規則だから、どうにもできないのだ。  僕は立ち上がり、彼女の脇に立った。彼女はこちらに気がつく様子もなく、眠り続けている。  彼女の布団をとった。だいぶゆったりとした、パジャマのような部屋着をつけた彼女の姿が現れた。  シャツを裾から捲くる。痩せた腹と小さな臍が現れ、さらに捲くると小ぶりが胸があらわになった。首元まで捲くり、丸めておく。  出会ったばかりに比べるとだいぶまともな女の子らしくなった。あの頃は腕がただの棒切れのようだった。肩の広さと腕の太さが見たことのないバランスで配置されていた。それに比べると、今は多少肉がついた。肌にもはりが出てきた。もっとも、まだやせぎすと言っていい程度でしかない。まともな生活をさせないと、またろくでもない状態に戻ってしまうだろう。  彼女はそれでもこちらに気づかず、目を開かなかった。  手を彼女の胸の上においた。弾力が少なく、胸骨にすぐに触れる。しばらく撫でみると、垢がよじれて指に固まった。風呂に入れてやる必要がある。彼女はけっして風呂に入ろうとしない。無理に入れてやらなければならない。  期待した性的な欲望は起き上がってこなかった。服を捲くられてすごく寒そうに見えるだけだ。  服をもどしてやり、布団をかけてやった。どうやら本当に妹になったのかもしれない。僕らがともに暮らしたとしても、性的な関係はなりたたないだろう。そうしてやるのが彼女のためでも、僕の方がその気になれない。  寝てる姿からはなにもわからない。ただ白髪の多い――多すぎるが――普通の女の子に見える。手のかかる妹と暮らしていくことが出来るのだろうか?  僕にはわからなかった。 ++++++++++++++++++++++++++ 2 ++++++++++++++++++++++++++  向田は大抵一人でじっと座っている。それか眠っているかのどちらかだ。テレビをつけてやればそれを見たりもするが、自分からつけることはあまりない。  これだけ長く一緒にいることは初めてだった。いつもは2,3日こちらで過ごし、後は吉祥寺まで送るだけだった。今日で2週間ほど過ぎたことになる。  彼女は相変わらず氷ばかりを食べている。院長先生に言われたとおり無理に食べさせようとするが、こちらの根が負けてしまうことの方が多い。すごみ、脅して無理に食べさそうとしても、向田も強情にそれを拒む。そのうち面倒になってほおっておくのがいつものことになってしまった。  結局、手を上げることは出来なかった。殴りつけようとすると、僕の気が萎えてしまう。 ++++++++++++++++++++++++++  シティで神田とリルルに出会った。  僕らは三人でフリーのフォーラムに入った。人の出入りが活発な、にぎやかなフォーラムだ。神田はよく訪れているようだったが、知り合いはいないようだった。フォーラムとは、元来そういうものなのかもしれない。 「少しはまともな格好してよ。恥ずかしい」リルルは言った。  神田は巨大な直方体だった。顔も手足もない、ただの直方体だ。白くて、質感がやわらかく、濡れたような感触と不ぞろいな凹凸がある。狙ったとおり、巨大な豆腐にしか見えない。  おそらく操作系に手が加えられているはずだ。普通はこんなフォルムは作らないし、作ったとしても自分自身であろうとは誰も思わない。単純に手間がかかりすぎる。  リルルはオーソドックスな女性スタイルだった。ほぼ平均的に美しく、ほとんど個性がない。たぶんこういう姿がいちばん仮の姿という印象を強めるのだ。喋るごとに現実の彼女の姿をすぐに想像させる。長身で、不機嫌な口元のリルル。 「それほど目立つわけでもないだろう。シティなんだし」豆腐のあたりから声がした。神田の声だ。 「クールのきわみだと思わない?」神田は言った。 「もういいよ」リルルは言った。「今日は一応、神田の話が聞けると思ったんだけど」 「ああ。実はカルドラに入信した」  神田は言った。  僕とリルルは一瞬黙る。 「本気?」僕は言った。 「気分的には、他のやつらと差はないね。まあ本気」  僕はなにも言えなかった。  神田がカルトに入ることは、考えた事もないことだった。皮肉屋の面が強く、権威的なものをこそ、攻撃したがる傾向がある。関心を持ってかかわり続けるにせよ、批判的に関わるような姿しか想像できなかった。そういう形でしか関われない男だと思っていた。 「そんなに驚くかな?」  神田は言う。 「まあ、俺は大して変化ないよ。カルトの友人って持った事ない?別に入信を勧めたりしないし、幸運の仏像も売ったりしないから安心してくれ。あんたらとの友情は永遠に続くのさ」 「友情ね」 「そう。友情」ぷるんと震えて、神田は言う。  仰々しく派手な言葉を使う、今までの彼のやり方だった。それを聞くと、確かに変化はないように思える。 「俺もカルドラ・ゲームの世界は行ったよ。そういえば」 「どうだった?」 「インストラクターの女の子は、悪い感じじゃなかった」僕は慎重に言った。 「俺はあのゲーム、入信後に始めて体験したんだ。確かに、おもしろいゲームだと思う。俺はゲームほとんどやらないんだけど、あれはやってもいいね」 「ゲームしないで入信したの?」 「ああ」神田は言った。「珍しいと言われたよ」 「じゃあなんで入ったの?」  リルルは言った。「例の助教授にたぶらかされた?」 「まあそんな感じだ」神田は言う。「あの人の人間性に興味を持ったのが、一番大きいかな」 「やったの?」リルルは追求した。 「いや、結局してない」神田は言った。それから笑う。「ていうかさ、そういう問題じゃないだろう?俺はもっと個人的だ。けっこう理念的に決定したんだぜ、昔の文学青年みたいに。聞きたい?」 「話したいんだろ?聞くよ」  僕は言った。 「あーはー」  神田は言った。そして豆腐がリルルを振り向く。 「いい?」 「話せば」リルルは言う。 「うむ、では聞いてくれ」神田は言った。「これはまあ、おそらく形を変えた勧誘行動でもあると思う、と先に言っておくぞ。気をつけて聞いてくれよ」 「わかったよ」リルルは言った。 「まあ俺たちはサークル的に政治的な行動をやってたわけだ――小川なんかはそうは言わないかもしれないな。もっと個人的な勉強とか、哲学とか、そういうふうにとらえてたかもしれない。おまえみたいなタイプはなにかを知りたいと思う気持ちが強すぎるんだ。物事を知ってからじゃないと、なにもしたがらない。なかなか物事をつかんだ、っていう確信を持たないのさ、良くも悪くも。でも実際的には、政治活動という言葉は間違いじゃない。政治団体ていうのはカルトと近接するし、政治的に動き回るってことは、現実に対応するってこと、つまり表面的じゃない、人間性をもって人と向き合わなきゃいけないわけだ。だから俺は政治活動と呼ぶ。政治活動の一種として、カルドラのことも考えてる。今までの単独的な活動から、ついに所属団体を定めた、というふうに考えれば話は早いんだけど、まあ、お前らはこんなふうに考えないだろうからな。ちょいと言葉を変えて話す必要がある」  僕とリルルは黙って聞いていた。豆腐は動かなかったし、リルルも動作を見せない。ゴーグルの映像は静止画と変わらない。 「カルドラはカルトであり、しっかり宗教でもある。これは忘れられがちなんだけど、神に――きちんと実在する、俺たちの世界の神について考察してるし、それの体系も作られている。空想世界で作って遊ぶ、というものじゃない。  会員は主にネットワーク内のゲームを通じて、精神修養をする。ゲームをすることは、そのまま宗教修行と等しい。その点で学会はゲームをすることを推奨する。ゲームすることを推奨したのは――理論的にそれを後押しするのは、俺の知る限りではこのカルドラだけという特性もあるがね」 「ネットワーク内限定の話じゃないの?――どうも、現実的な活動するグループには見えない」リルルは言う。 「学会の教理的には、ネットワークと現実に差をつけない」神田は応える。「理想的には、シティで爆弾を爆発させるのと現実で爆弾を爆発させることに差はない。同じ程度に緊張を強いるし、まったく同じ事だとみなす事から始まる。感覚野を意識的に麻痺 させるんだよ」  リルルはなにも言わない。 「宗教を経て手に入るのは現実感覚だ。秩序を作り上げるのに必要なのは圧倒的な現実感覚なんだ。秩序そのものだけじゃなくて、それを元に成り立つ、様々なものもすべて。  なあ、小川」  豆腐が僕を振り向いた。 「俺たちはなにをしてるか、掴めたことがあるか?お前には現実感覚があるか?  俺たちは知る事ばかりしてきた。それには終わりがくる。  美味いものばっかり食ってられないようなもんさ。  俺にはすべてが夢の中のように思える。口に出して言うのは初めてだけど、たぶんそういうことなんだ。夢の中ではどんなむちゃくちゃなことをやっても保障として必要とされる。それはストレスに対抗する唯一の手段なんだ、誰にもそれをとめる事は出来ない。  そして現実はどんどん手荒く、ラフに扱われる。みんな現実世界を夢の世界と勘違いしてるみたいに。かつては夢の中でしか万能じゃなかったけど、今では誰だって爆弾作れる。誰もが万能の力をもってる。エントロピー、堕落――なんとでもいえるさ」 「ひとつだけ聞かせてよ」リルルは言った。 「カルドラ神学会ってテロリストなの?」 「実はまだわからない」  神田はすぐに言った。 「理論が深化すれば、どちらかにたどり着く。破壊するか、秩序を守るか。学会の誰かはもうたどり着いているのかもしれない。  俺もそこまで行こうと思ってる――」  神田はしばらくの間そのまま喋り続けていた。リルルはところどころを聞き返している。怒りが混じっていたようだったが、神田は粘り強く、正面から応えて、彼女はだんだん落ち着いていった。  僕は黙ってリルルと神田の話を聞いていた。カルドラについて細かい質問をしている。彼女は熱っぽく、興味を持ち始めているようにも見えた。神田は冷静に、わかる範囲と前置きしながら応えている。  僕はほとんど興味がなかった。僕らの後ろのテーブルでは、カップルが一組座っていた。男が話をしていて女はつまらなそうにそれを聞いていた。  テロが職場を破壊した、という話だった。僕は聴覚をそちらに指向した。  ――俺も会って声かけたんだよね。『店主の方ですか?』ってさ。ほら、うち流通だから、新規のお客さんとかいて、けっこうそういう人はどこでなにがあるかわかんなくて、うろうろしてたりするんだよ。だから、まあ気がついたら声かけるようになってるんだけど、その人は普通にちょっと頭下げて通り過ぎたんだ。まあ間違いなくお客さんだと思ったけど、もの知ってるふうでもなかったし、大丈夫かなとも思ったんだよね。でも、きっぱりしてるでしょ、普通に頭下げたってさ?――だからまあほおっておいたんだ。でも考えてみたら、あの人しか考えられないんだよね。それ以外のお客さんはほとんど顔見知りで長い付き合いしてる人で――ああっと、広い店舗内で一緒にいるだけだから深い付き合いってわけでもないけど、でも外部の人だとしたらあの人しか考えられないってわけよ。でもなかなか外部って気がつかなかったんだよね。だって、テロリストがきっぱり頭さげて挨拶なんて出来ると思う?普通は思わなくない?その人も結局ばらんばらんに吹っ飛んじゃったんだわけだし、本当のところはわかんないんだけど、絶対あの人だって気がついた時には戦慄が走ったね。マジで背筋って寒くなるのな!犯人わかったていうのと、あの人と爆弾が結びついたその違和感っていうか、まあともかくそんなの、それが多分あったからだろうけど、なんかすげー不安な気分で、気持ち悪くなっちゃったよ。仕事休んじゃった。  カップルの女性は黙って聞いていたが、話がひと段落ついたと思うと自分が仕事休むとどれだけ大変か、という話をし始めた。多分、久しぶりに会うカップルなのだろう。 「カルトは選択可能な商品だ。中毒性はあるがね」神田は言った。「どこにも属していないという意識さえあれば、どのカルトを選ぶのも自由だし、買わないのだってもちろん自由だ。自分の利益になるかどうかだけの観点から、選べばいいだけの、ただの商品でしかない」 「でもテロリストに加担するなんて――信じられない」  リルルは言った。神田はそれに応える。 「俺はテロリストになるわけじゃない――もっとテロにたいして真剣になりたいと思っただけだ――それに、テロ以外のものに対しても、真剣になれる」  僕は久しぶりに口を開く。 「本気で反対するってのは、深く関わるってことだ」  二人の視線が急にこちらに向いた。 「問題を深化させるのは魅力があるね」  僕は立ち上がった。  軽く手をあげて、フォーラムを出る。二人は特に、声をかけなかった。  シティでなら、こういう気障な振る舞いも普通に許される。 ++++++++++++++++++++++++++  僕と向田はずっと、向き合わずにやっていくことも出来た。実際彼女との間には共有しているものはなにもなかった。いっしょに住んでいるというだけだ。会話は必要がない。  それでも――たとえば、僕がシティに疲れたときなど、意味のない会話を交わしてみようとも思うことがあった。彼女に対して庇護心が働くのだろうと思う。 「なにかしたいことはある?」  僕は言った。 「トランプ」  向田は勢いよく応える。 「じゃあやってみようか」  僕はトランプを探してみた。あるとも思わなかったが、物置の奥深くにしまわれていた。僕自身かすかな見覚えがあるトランプだった。奇跡的だ。 「昔はよくやったんだよ。小川くんはトランプが好き?」 「好きだよ」 「私も好き。いろんなことして遊べるよね。小川くんはなにが好き?」 「7ならべ」 「私も好きだよ。7ならべ楽しいよね」  実際にやってみると、彼女はルールを完全に忘れていて出来ないのだった。どのゲームでも同じだった。言葉をかろうじて覚えているだけなのだ。  本気になって「7ならべ」を教え込もうとした。交代に札をだすこと、順番どおりに並べること、同じマークで揃えること。でも彼女は教えようとすると、話を聞かなくなり、癇癪をおこしかけた。こちらが熱心になればなるほど、そうなった。そのうちに分かってきたのだが、彼女は数字の並びが覚えられないのだ。  それを知ると、なにかとんでもなく無駄なことをしている気になった。電卓ほどの単純なメカニズムも備えていないものを相手に、遊ぶことが出来るのだろうか?  いや、と僕は思い返した。ひとつ、思いついたことがあった。 「いい?同じ数字が2つあったら、それを捨てる」  手の中から7のペアを捨てる。 「マークとか色が別でも、数字が同じなのはわかるな?それを選んで、捨てるんだ」  手札を見せながら、今度は10のペアを捨てた。  何度かそれを繰り返したあげく、ようやくばば抜きのルールは分かってくれたようだった。何度か繰り返すうちに、向田の手札を見てやらなくてもゲームはすすむようになった。  どちらにしても二人でばば抜きなのだ。手札を見てやるとかそういうレベルの話ではない。  僕はすぐに飽きた。 ++++++++++++++++++++++++++  「夜見」フォーラムに顔を出した。  マスターはいつもと同じようにカウンターに立っていた。僕も知っている顔馴染みと話をしている。  ここに来てマスターがいなかったことはない。昼でも夜でも必ずここにいるのだ。現実生活が存在しない人間のようにも見える。  僕は二人の隣に席をとった。 「マスターはさあ――どうやって生活してるの?」 「ここの運営でです」マスターは言った。 「食事したり眠ったりはしないの?」 「――そりゃ眠りますし食事します。が、まあ、いいでしょう小川さん」  マスターは笑って言った。これではもちろん個人的な話はしない、ということだ。 「マスターはね、おそらく結婚してるね」  隣に座った男が言った。「で嫁さんに家庭のこととか現実での生活とか一切任せてる。だからフォーラム活動に専念してられるんだよ」  僕は笑ってごまかした。  ネットワークに常にいるマスターがどんな生活をしているかは興味深かった。どうやって現実となりたたせているのか、僕の示唆になるような気がした。でももちろん、聞けない以上は仕方がなかった。彼はネットワーク内で食事をして、ネットワークの酒を飲んでいる。そういうことにしておくのが礼儀なように思えた。  きききき、と僕の身体から音がした。  メッセージが届いたのだ。  隣の男に目礼して外に出た。メッセージは古沼からだった。 「なにをしてますか?  暇でしたら、電話ください」  彼女にコールした。古沼はシティに入れないと言っていたので、現実で受話器をとる。その姿が頭に浮かぶ。 「古沼です」 「なに?」僕は言った。 「ううん、特に用はないんだけど。今何処にいるの?」 「シティにいる。フォーラム前」 「そうなんだ」 「特にすることもないんだけどね」 「学校には行ってる?」 「行ってない。きみは?」 「私も。だからすごく暇なんだよね」 「シティに来なよ」 「ねえ、遊びに行かない?」古沼は言った。「お金もらったから、安いゴーグルでも買いに行きたいかも」  向田のことを思い出した。彼女が家にいる間、あまり開けたくないとも思う。でも、この間以来ほとんど外出していなかった。彼女がずっといるなら、ずっと外出しないわけにもいかない。 「わかった。行くよ」  視界が暗転し、すぐに回復する。そこはもう僕のマンションだ。  向田がベッドに腰掛けていた。座っているだけで、視線が動かない。指先が奇妙に動いている。 「向田」  僕が声を掛けると、こちらを振り向く。 「ちょっと外出してくる」彼女に近づいて言う。「外に出ないでくれよ」  彼女はうつむく。その動作は、同時にうなづいているのかもしれない、僕にはわからない。両手をつかって彼女をもう一度こちらを振り向かせる。 「外に出ない」  僕は言った。 「外に出ない。言ってみな」 「外に出ない」  向田は言った。そしてまたうつむく。 ++++++++++++++++++++++++++ 「ねえ、いつもシティでなにをしてるの?」  巣鴨で古沼と待ち合わせた。彼女は頬が少し膨らんだように思える。ひょっとして太ったのかもしれない。長いマフラーをしてコートを着ていた。去年も見た姿だ。  気がつけばもう冬だった。昼間なのにコートを着ていないと寒い。もう12月なので当然だ。 「いろいろ」僕は言った。「だいたい、シティに行かずになにしてるって、聞きたいよ」 「本読んだり」 「他には?」 「掃除したり、買い物したり」 「買い物?」 「食事の支度とか。だって、してるでしょ?」 「してない」僕は言った。 「え?嘘?じゃなに食べてるの?」 「マンションのすぐそばに公営食堂が出来たから、そこからいつも買ってくる」 「へえ」  内容がない会話だった。  僕らは歩いて上野まで行き、秋葉原に向かうことにした。かなりの距離があったが、彼女と長く歩くのはいつものことだった。覚悟していれば、それほど苦労はない。  上野まで行ったのは上野公園まで行こうと古沼が言ったからだ。東京芸大の脇を抜け、都美術館を横目に見ながら、博物館前に置いてあったベンチに座った。公園内にはまだ自動販売機が残っており、買ったコーヒーを開ける、並んで座った。  公園内は人の姿が多かった。テロから非難してきた人やもともとの浮浪者なども多く、治安が悪化しているということだったが、昼間のうちはカップルや家族連れの姿が多かった。平和な風景だ。通り過ぎる人たちは、一様に暇を持て余しているように見える。  公園は未だテロの被害を受けておらず、風景はとりあえず『大爆発』前の秩序を保っていた。風が冷たく、木々もほとんど落葉している。  暖かいコーヒーを飲みながら、僕らはほとんど黙って座っていた。  シティではありえないコミュニケーションだな、と思う。僕も古沼も別のことを考えているし、それなら二人で並んでいる必要もない。シティでは喋らないことには、いないのと同じ事なのだ。  古沼はマフラーに顎をうずめて呆けている。向田と似た表情だったが、彼女と違うのは意思があることだった。不思議なものだと思う。それがあるのとないのとでは、全然印象が違うのだ。  古沼は時折顎を上げ、マフラーにこぼさないようにしながら、コーヒーを傾けた。  空になったようなので、僕はその缶を受け取った。両手に持った缶ふたつは、手に余る。  少し考えて、僕の缶とふたつ、ベンチに縦に重ねてやることにした。不安定なベンチの上だったが、綺麗に二つが縦に並んだ。ちょっとした振動でも崩れてしまいそうだ。  古沼はそれを見ると驚いた顔をした。  すぐに凄く慎重な顔になって、ゆっくりと立ち上がる。  缶は並んだまま、そこに残った。  秋葉原には露店が立ち並ぶ。ひとつの前で僕らは足を止めた。ネットワーク資材は思った以上にインフレが現れていなかった。露天に店を構えても安全だし、食事の方が高くつくくらいだ。ネットワーク関連のものは誰でも簡単に手に入るようだった。 「ねえ、そういえば」古沼は言った。「どうしてネットワーク網って壊れないの?」 「ほとんどが無線になってるから」僕は簡単に答えた。「それにターミナルもデフォルトで複数設定されてるから、数箇所破壊されたくらいなら問題ない」 「家はまだ線に繋いでるよ」 「同じ事だよ。ターミナルから先は無線だ。安全を期するなら無線に切り替えたほうがいいけど」 「ふうん」古沼は言う。「まあいいよね」  結局一番初期の、シンプルなゴーグルを古沼は買った。感覚機能すらついておらず、触感が感じられない。 「それでいいの?」 「使えればなんでもいいよ」  古沼は言った。  まあいいか、と僕は思った。ともかくこれで、シティに入る事は出来る。 「他には?」僕は言った。 「後は大丈夫だと思う」 「ふーん……じゃあ買い物はこれで終わりかな」 「小川くんは?」 「特に買うものないね」  僕は言った。 「これからどうする?」古沼は言った。 「とにかく食事しようよ」僕は言った。  古沼は笑った。 「ねえ、たまにはいいご飯食べない?」  はっきりした声て古沼は言った。今日で一番大きな声だ。  銀座のあたりは副都心の次に被害の大きいところだった。  バスに乗って新橋駅近くまで行き、そこから古沼は先にたって歩く。歩いているうちに日は落ちてきていた。夜になるといろいろと心配だったが、古沼は気にしていないようだった。僕はただ、ついていくことにした。  目に付くものは綺麗に均された地面だった。そこの多くにはプレハブやテント作りの仮住居がある。 「旧4丁目だって」外出慣れしていない僕はそろそろ疲れてきていた。彼女はそういう素振りを見せない。  たまたま残っている残っている高いビルには、周りを睥睨するような印象がある。香台の上の線香にも似てる。 「銀座4丁目だよ」  古沼は言った。言われないとわからない。  そのうちにいくつかまとまって建物が残ってる一角があった。古沼はその一つに入り、階段を下りる。  重い扉を開くと、バーがあった。若いウェイターが僕らに声をかけ、テーブル席に案内してくれる。  店内は薄暗く、ところどころに点いたランプが唯一の光源だった。アンティーク風な作りだが、模造品にしては細かい意匠が施してあるのがわかる。僕が見ただけなので、本当のアンティークランプかもしれない。その上の灯火が綺麗な球体を作っていた。  店内には人が多く、至る所で話し声が聞こえた。店内にはBGMがかかっていないことに気がついた。他の客の声がBGM代わりなのだ。  薄暗い中でも、店内には気が配られていることがわかった。触れるものにざらつきが感じられないし、余計なものも存在しない。吸っている空気が・・いくぶん煙草が混じっていたが・・清潔で透明だった。 「いいお店でしょ?」  古沼は言った。 「うん。よく知ってたね」 「友だちがいいお店みつけた、って言っててね。話で聞いてただけだったんだけど、一度来てみようと思ってたんだ。私も初めてだけど、いい感じだね」 「まだこういう店が残ってるとは思わなかった」  僕は言った。少し凝った店を作るならシティ内の方が客も多いし、それになによりコストが段違いに違ってくるはずなのだ。オーナーは偏執的に、ここにこだわってるとしか思えない。  でも快適だった。現実が与える情報量はシティとは比べものにならないことを実感する。それに――ここには豆腐の塊もドラえもんも、宙に浮いた看板も存在しないのだ。  するわけがない。当たり前のことだ。 「なにしてるの?」 「ちょっと感傷的になったみたいだ」僕は言った。  古沼は頷く。「うん。なんかそういうの私も思う」 「こういう店はなかなかない」僕は言った。  古沼はワインを、僕はビールを、さらにパスタとサラダを2皿づつ、頼んだ。  古沼と瞬間、向かい合った。特に話す事もない。僕はぼおっと、彼女の顔辺りを眺める。  肌が白い。薄暗がりだが、それは際立っていた。 「そういえばねえ」古沼は口を開く。 「ん?」 「私学校をやめることにしたよ」 「やめる?」僕は尋ねた。 「うん」古沼は答える。 「やめてどうする?」 「決めてないけどね」 「なんだよそれ」僕は言った。「やめる必要があるのか?学校に魅力がないのはわかる。でも、あと1年で卒業だろう。授業なんか出る必要もないし、素直に卒業しておいた方が後々も役に立つ」  考えて言葉をつなげる。「行く必要なんてない。単純に卒業だけしちゃえばいいじゃんか。  リアルじゃ価値ないと思いがちだけど、シティじゃ逆に肩書きが大きいんだ。一言肩書きを言っただけで相手が黙ることもある。まあ、うちらの大学なんてたいしたことないけど――  いや行くところにいけば大事なもんだと思う。社会は――シティは、分かりやすい情報が一番に大事なんだ。リアルはもっともっとわかりやすくないと意味がないけど、シティはまだ、20世紀のアメリカくらいには秩序がある」  僕は言った。途中喋りすぎていることに気がつくが、止まらなかった。自分に言ってるようなものだ。 「うん、小川くんとおなじこと、おとうさんにも言われたよ」古沼は言った。「でも、なんかもう駄目なんだよね。きっちりやめて、学校にはもう行けないんだって思わないと、なんかもうだんだん腐っていっちゃう感じになっちゃうの。だから、やめることにしたの」 「やめて何をする?」 「あんまり具体的に決めてないけど、多分働くと思う」 「親の仕事かなにか?」 「ううん、おとうさんたいした仕事じゃないから」 「じゃあなにすんの?」 「だから、ぜんぜん決めてないんだよ」  古沼は楽しそうに笑う。僕は言う事もなくなって、苦笑し返した。 「すごいね。よく決めたな」僕は言う。 「うん。頑固だって言われた。そうなのかな?」 「言いたい人には言わせておけばいいんだ。どうせ、自分の事だから、自分で決めなきゃいけない」  僕は言った。 「でも、なにか考えてる職業とかないの?シティで働く?」 「ううん。たぶん、普通に働くと思う――あのね、看護婦さんが人が少ないって聞いたんだけど。どうなのかなあって思ってるんだ」 「看護婦?」 「まだ誰にも相談してないんだ。小川くんに言ってみたのが始めてで、ぜんぜん調べたりとかしてないんだけどね」  ちょっと照れたように、古沼は言った。  看護婦になる自分を想像すると、恥ずかしいのだろうと思う。僕にだって、うまく想像する事なんてできない。  でも彼女には似合っていることのように思えた。資格試験を受け、きちんとそれまでに勉強し、受かった後には募集してる病院を探して、病院のリストを作って、どれかを選んで就職する。そういうことを順序どおりにすることができる人間なのだ。 「ねえ?」  古沼は僕をみて言った。 「たしかに向いてるかもね」  僕は言った。 「向田も古沼には懐いてたしね。彼女に会ってくれると助かる」 「え、まだ小川くんと一緒にいるの?」 「そう。彼女とはずっと暮らす事になるかもしれない」 「そうなの?」  僕はうなづいた。 「彼女をひきとってくれた孤児院が資金難でどうにもならない、ってことみたいなんだ。どっちにしろ、もう孤児という歳でもないし、引き受けるしかないことなんだ」  古沼はしばらく考えていた。 「ねえ、はっきり物事を言っていい?」 「言ってくれると助かる。俺もこの話をしたのは始めてだから」 「どうするの?ずっとやっていけるの?一緒に暮らすの?」 「ぜんぜんわからない」僕も言った。 「古沼と一緒だよ。先のことはぜんぜん分からない。違うのは、働く目星も、自立する自覚もないこと」 「どう生活してたの?」 「両親の遺産と保険金で、学校に入ることも出来た。学校終わってからもしばらくはやっていけるくらいはあるんだけど」  僕は言った。苦笑いして、「まあ、なんとかするよ」 「今度妹さんに会っていい?」 「もちろん」僕は言った。思いついて言い足す。「実は、彼女は妹じゃない。俺の従姉妹なんだ」 「――え、そうなの?」 「そう。細かく説明するのが面倒で、言わなかった。彼女は俺の従姉妹で、片親は死んで、片親は彼女を捨てた。それで身寄りがないから、俺が扶養してた、ということになる。成人する前は扶養することももちろんできなかったんだけど」 「――え、ちょっと待って。よくわからない」  古沼は言った。 「従姉妹だから苗字も違うってこと。しばらく彼女は孤児院にいたけど、そこが管理しきれなくなって、親族を探したら、俺がいた。それくらいだよ。もう妹って言ってもぜんぜんいいんだけど、一応ね」 「言っておきたくなった?」 「うん」 「ありがとう、言ってくれて」  古沼は言った。  店を出た頃にはもう真っ暗だった。  銀座は僕の住む高円寺よりも暗く、闇が深い。焚き火の光やネオンがちらちらと点在しているだけだ。  僕らは足早に歩いた。いたるところで人の気配がするのに、動いている様子がない。不安だったので、バスが脇を通ったときに止めてもらい、それに乗り込んだ。バスは日暮里まで向かう。  日暮里は銀座ほど暗くはない。少し歩くとホテルがあり、僕らはそろって、その中に入った。  そして僕らは1年ぶりくらいにセックスをした。ほとんど口を聞かず、すごく個人的なもので最後まで終わった。彼女を満足させたかはわからない。僕が達しただけだ。  それでも彼女は満足そうに抱き着いて来た。確かに彼女は1年前よりも太っているようだった。お腹を触るとそれがよくわかった。目立つほどではないが、やわらかい曲線を描いている。  今日始めて彼女の顔を見つめる。彼女も僕の顔を見つめた。昔に比べて愛嬌がある顔になったようだった。目が大きく、犬の目にも似ている。 「なあ」  僕は言った。 「ん?」  彼女は応える。 「もっと頻繁に会わないか?」 「いいよ」  彼女は言って、身体を僕に寄せた。  僕らは頭を寄せて、眠った。 ++++++++++++++++++++++++++  朝になり、僕らはホテルを出た。池袋行きのバスがすぐに見つかった。古沼はそれに乗り、埼玉に帰っていった。 「連絡するよ」僕は言った。 「今度はシティで会えるね」古沼は乗り込みながら、言った。  歩き出すと、古沼が傍にいるような錯覚が、何度も起こった。黙って歩いていると、彼女が脇にいるのと同じなのだ。 ++++++++++++++++++++++++++  自転車を止めた。ようやくマンションに着いた。  いまだに古沼の印象は去らなかった。常に僕の後ろを歩いているような、そんな感覚があった。  そして、その感覚は決して不愉快なものではなかった。現実にはここにいなくても――たとえば電話をすれば、いつだって彼女と話が出来る。  もちろん今までだってそれは同じことだった。でも、昨日の経験はもっと根本的に違うものだ。  たとえば、僕は実際に電話をかけることはないだろう。そういうことが必要としなくなっている。 ++++++++++++++++++++++++++  部屋に入ろうとすると、鍵が開いていた。  向田がいない、という予感があった。扉を開け、中に入る。誰もいなかった。バス、トイレの中にも、押入れの中にもいない。玄関を見ると、サンダルのひとつがなかった。間違いなく外に出たのだ。  僕は荷物を置いて、屋上に上がった。今日は天気も良いし屋上にいるに違いない。  しかしいなかった。立ち止まり眺めたが、痕跡はなにもない。  落ち着きを取り戻す必要があった。しばらく屋上を見つめる。そうしていても仕方ないことを思いつくと、マンションを駆け下りた。  小さなアーチを出た。道は二つに広がっており――片側に二人の姿が見えた。  それはリルルと向田だった。 「おかえり」リルルが言った。  なにが起こってるのか、上手く把握できず、応えられなかった。 「ああ、ちょっと待って。説明するから」  リルルは言った。「私たち外でご飯食べてきたの。向田さん?――がお腹すいていたみたいだったし、ろくなもの食べてないってのが分かったから」 「鍵は?」  僕はやっとの思いで言った。 「向田さんが開けてくれたよ。小川くんのともだちだって言ったら、信頼してくれた」  僕は向田を見つめた。  向田は着たきりの寝巻きの上に、僕のジャンバーを羽織っていた。なにするでもなく、僕の顔を見つめている。表情は、なにもない。 「ねえ、あなたこの子のなんなの?彼女初めて見たとき、すごく緊張しちゃったよ。虐待でもしてないかと思って全身調べちゃったりしてさ」 「従姉妹だよ」僕は言った。 「神田も知らなかったわ。電話して聞いて見たんだけど、そんな妹がいる、って話だだけだった。一緒に住んでるとは言わなかった」  僕はうんざりした。詰問調で言われる筋合いはない。 「身寄りがないから最近一緒に住みだしたんだ。孤児院の院長がしっかり後見してくれてるし、心配するようなことはなにもない――だいたい、急にいったいどうしたんだ?何の用だ?」 「ああ、怒らなくていいわ。わかった、信用するから。なにも本気で虐待するような人間だとも思ってないから、安心してよ。そんな人間をわざわざ訪ねたりもしないよ」  「何の用?」 「立ち話もなんだから、どこかへ入らない?」  古沼とは会話のテンポが違う。それに上手く慣れないまま、僕はうなづいた。  僕らは部屋に入った。  部屋に入ると向田は僕のジャンバーを脱ぎ、隣の部屋に入ってしまった。僕が怒っていると思っているのだろう。  来客なんて考えた事もない部屋だった。とにかくソファをテーブルに寄せ、ハンガーをリルルに渡す。僕も荷物を置き、向かいの椅子に座った。  お茶も入れなければ、と気がついたのは座った後だった。入れる必要もないか、と思い直す。 「で、今日は?」僕は言った。 「今日は、一応カルドラ神学会の一員として、小川さんを訪問したんだけどね」  リルルも入ったのか、と驚いた。 「カルトは毛嫌いしてたんじゃなかったの?」 「私が嫌っていたのはテロです」リルルは言った。「カルドラはテロとは関係ありません」  言い切る口調が引っかかった。 「神田に勧誘されたわけ?」僕はたずねる。 「違うわ。私の意志よ」すぐにリルルは応える。 「どうして入ることにしたの?」 「私の力を見せ付けてやるためよ」  僕は苦笑いをした。 「なにがしたいわけ?」 「具体的な力が、私にはある。私にないのはその意思だけだった。神田も同じことを言っていたはずよね。意思部分を埋めるために、私はカルドラに入ったの」 「ふうん」僕は言った。「意思部分というと?」 「たとえばね」リルルは応える。「私は橋の設計をすることができる。その気になれば現場を指揮する事ができるかもしれない。でも、今は片っ端から壊されてる、どこの橋から直せばいいか考えてるうちに、考える事自体に疲れちゃってなにも出来ない、そういうことは避けたいの。もうすぐそういう感じになっちゃうところだった」 「ふうん」 「私は腐ってしまいたくない。なにかしないと腐っていっちゃう」  同じことを神田も言っていたな、と僕は思った。同じことを自分の言葉で言い直しているだけだ。自分で言うことが必要なことなのだろう。  リルルの言う事は理解できた。もちろん、神田が言う事もだ。  僕も彼女らと同じだ。意思がなくなっている。意思を見失っている。  違うのは緊張感がないことだ。腐っていく事がわかっていながら、なにも動こうとしない。このまま腐り果てることを望んでいるのかもしれない。  いや、そんなわけはない。僕にだって自我がある。このまま腐っていくことなどできない。 「ねえ、ひとつ聞いていい?」 「いいよ」 「あなたは両親をテロによって失ったのよね」 「そう」僕は言った。 「テロに対する憎しみは?」 「僕が両親を失ったのは17の頃でね――」僕は言った。「正直に言うと、うまく実感できなかった。実は今も」 「あなたの話は神田から聞いたんだけど――あまり怒っているというように見えなかった。どちらかといえば淡々と、自分がテロリストになる事も辞さないように見えた。それはすごく不思議だった」リルルは言った。  神田は僕を追及しなかった。男同士がうまくやっていくとしたら、お互いを追い詰めるようなことはしないのが普通だ。でも、リルルは違った。 「父は責任をとらなかった。結局、最後まで」僕は言った。「おそらくそういうことなんじゃないかな、と思う。だから僕は、彼の死に――それと母の死にも、常に受動的だ」 「どういうことよ」 「だから――彼は僕の前にいたことがなかったということじゃないかと思う。僕は父になにもしてやったことがないし、母にも同じ事だった」 「甘やかされたっていうことかしら?」 「そういってもいい」 「おかあさんが死んだことはどうなの?」 「僕は母に甘えることを自分に禁じた。だから、彼女にもなにも話さなかった」 「はあ?」 「わからないならいいよ。母は僕の前に存在した事がない。母性は代替的に他のもので間に合わせていた。それでやってきたし、彼らが亡くなっても同じようにやっていく」 「彼らがなくなってもかまわないっていうの?」 「だから俺は受動的にそれを聞くだけだ」  だんだん腹がたってくるのを感じた。「もし俺が彼らに対して怒りを覚えなかったらなんだっていうんだ?お前が父と母に代わって嘆くのか?親不孝な息子だと?昔からいちばん嫌いな言葉だった、親不孝なんていうのは。俺だって、彼らが喜ぶことはしてやることだってあった。でも、自分のことは別だ。なんだって、自分が献身的であることを、他人に決められなきゃいけないんだ?なにがしかに献身することは必要なんだ。感謝とか尊敬の念なんていうのは、自然に生まれるものだ。それについてお前に好き勝手に言われる筋合いが、俺にあるのか?」  大きく息を吐いて、僕は言った。 「あなたの言う事がよくわからない」  泣きそうな顔になって、リルルは言った。 「わからないならそれでいい――カルドラはわからないことを放置しないのか?」 「わからないことは、追いかける」リルルはすぐに反応した。「でも――ひょっとして、あなたが言う事は――」 「なに?」  リルルは首を振った。  僕はそれを見て黙るしかなかった。立ち上がり、薬缶にお湯を沸かす。間が持たない。沸騰するまで、キッチンの前を離れなかった。その間リルルはなにも言わない。  お茶を彼女の前に置いた。 「でも怒ったっていうことは」リルルは言った。「あなたは感情的になれない腑抜けじゃないし、父と母があなたにとって大事なものだからだと思う」 「父と母じゃない、俺個人の問題だからだ」僕は言った。「まったく、なんでこんなこと喋らなきゃならないんだ」 「私はあなたを勧誘しようと思ってたの」リルルは言った。 「それならそういう話にしよう」僕は言った。 「ねえ、一度山下に会ってみない?」  神田が影響された人だということを思い出した。カルドラの首脳部にいる人だ。 「うん、一度会ってみたい」僕は言った。  ++++++++++++++++++++++++++  「夜美」は人が徐々にいなくなってるのかもしれない。久しぶりに顔を出すと、マスター一人しかいなかった。今は深夜で、いちばん「夜美」がにぎわう時間のはずだ。 「どうも」 「やあ、小川さん」 「ログ見せてもらいますね」 「どうぞ」  ログを眺めた。情報も停滞しているようだった。目新しいことは特に見つからない。 「最近人はあまり来ないのかな」 「どうも、そうかもしれないですね」マスターは言った。「ここみたいに、情報を受け取るだけのフォーラムは流行らないんですよ。違法はご法度だし、それでも扱う情報はアングラより。その程度の情報なら、もっと良い場所がありますよ」 「方向転換はしないの?――もっと深いところに潜るとか」 「あいにくそのつもりもないですね。アングラの奥地は、最低です。集まる人間も、仕切る人間もね」  僕はうなづいた。「大丈夫、また人は戻ってくるよ」僕は言った。  マスターもうなづく。 「今日はちょっと話がしたいんだけど。いいかな。個人的な話で」 「いいですよ――閉じましょうか?」  遠慮しようとして、思いとどまった。あまりおおっぴらにはしたくない話なのは確かだった。 「お願いしていいかな」 「了解です」 「夜美」の中がモノトーンになった。主人がいないことを示す色だ。直に僕の視界が回復する。フォーラムを訪れた人は、モノトーンの「夜美」を見ることになる。ログを読むことしか出来なくなるはずだ。 「これで大丈夫」 「ありがとう」僕は言った。「ねえマスター。俺の人間性について聞いていいかな?」 「どういうことですか?」  言った言葉を後悔した。僕は首を振る。話の切り出し方を改めた。 「最近ともだちがカルトに入ったんだ」僕は言った。「勧誘された」 「どういったカルトなんですか?」 「いや――カルトだよ。狂ったやつらの集団だ。なにも社会に貢献しない。個人的なことばかり考えて、エゴを充足させることしか考えてない。普通の宗教だよ。社会の寄生虫だ。  でも、だんだん俺もそこにひきつけられているような気がする。そこに行けば、なにか俺にとって大事なものが手に入るような、そんな感じがあることが否定できないんだ。  ねえマスター――カルトってどういうものだろうか?」  マスターは慎重だった。すぐに口を開かない。 「私は古い人間ですから、あまりカルトに魅力を感じた事がありません」マスターは言った。「民主主義の中で生まれ、自由に、平等に、そして人を愛し仕事を愛すること。これがすべてです。ねえ、知ってます?ジークムント・フロイトの生活信条は『愛する事と働く事』というのですよ」  ちょっと笑ってしまった。「そのとおりだ。すごく美しい。仕事と愛。それだけあれば、人生は事足りる」 「そうです。私もそう思います」マスターは言った。「小川さん、あなたにも愛する人がいるんじゃないですかね」  向田を思い出し、すぐに古沼の顔を思い浮かべた。  二人は仕事と愛なのかもしれない、と瞬間的に思った。  しかし、と重ねて思う。そこでは何かが腐っていく。おそらくそこでは、現実に対してなにも出来ない無力さを思い知るだろう。晴らすべき問題が、相手も――問題自身も見つからないままに放置される。 「カルトは、答えを与えてくれるように思うんだ」僕は言った。「それを解決するまでは、生活が平穏だとは思えない」  生活、と僕は思った。フロイトの生活信条は『愛する事と働く事』だった。 「おそらく小川さんはカルトのことをご存知ないんじゃないでしょうか」マスターは言った。「私はカルトの悪い面ばかりを知っています。おそらく、小川さんの批判に耐えるほど、骨のあるカルトは存在しないでしょう。それを引き受けるものは、人間を排除したものです。『宗教』とかそういう具体的なものでは、あなたは満足できないに違いないと、私なんかには思えますね」 「いや、マスターは俺を買いかぶってるよ」僕は言った。「俺は依存心が決して弱くない人間だ。聖杯だと思い込めば、泥水だってあおることが出来る、そういう人間だ。理性的に制止してきたのと――そう、目の前にカルトが現れなかっただけに過ぎない」 「私はあなたが理性的であることをうれしく思いますよ」マスターは言った。「あなたはこのフォーラムでもっとも礼儀正しく、かつ理性的でした。尊敬に値します」 「ありがとう」  僕は言った。  つまり――一人でやっていけ、とマスターは言っているのだ。 「ねえ、ひとつ聞いていいかな」僕は言った。 「はい」 「もし、俺がカルトに入信したとしたら、マスターは、俺が来るのを歓迎してくれる?」 「もちろんですよ」マスターは言った。「あなたがあなたである限り、私とここのフォーラムは小川さんを歓迎します」 ++++++++++++++++++++++++++  リルルからメッセージが届いた。  明日、学校で山下が講義をする、ということだった。  講義の内容は意味がないものだから、聞く必要はない、そこで彼女を捕まえて、話を聞くのが良いと思う、私は明日は行かない。  それと細かい時間と場所が書いてある。 ++++++++++++++++++++++++++  山下七子は小柄で、とても小さな顔をしていた。一目見ただけでは僕よりも年下に思えた。そんなわけはない。少なくとも、学部生以上の年齢であることは確かだ。  しかし、魅力的なことはすぐにわかった。大きな目ははっきりと開かれ、表情はわずかな間にころころと変わった。大きくスリットの開いたスカートを履き、臍が見えそうなぴったりとしたシャツを着ている。  結局僕は講義を受けた。彼女は哲学の助教授だったはずだったが、補講的なもので、主成分分析をカントの哲学書に使用する、という特殊なものだった。おかげで人が多く、僕一人が紛れ込んでも目立たない。  講義はテンポよく行われた。僕にはほとんどなじみのない分野のことだったが、聞いていると楽しく、知的興味がわくような講義だった。  90分の講義が過ぎても、彼女の周りはなかなか人が去らなかった。次の講義が始まる頃、ようやく彼女の周りの人垣が去り、彼女は教室を出て行った。僕はその後を追いかけた。 「山下さん」僕は言った。「今時間よろしいでしょうか?」 「いいよ」  彼女は振り向いて言った。 「あなたは――聴講生なの?はじめて見る顔だね」 「はい。他学部です」 「熱心だ。歓迎するよ」  山下は笑った。笑うと、胸が高鳴るほど魅力的な笑顔になる。 「カルドラ神学会に興味があります」 「あーそうなの」山下は言って、笑った。 「いつでも歓迎するよ」 「時間いただけますか?話が聞きたいのですが」 「んー」山下は手元の資料をまとめる。「まあいいか。ご飯でも食べよう。食堂でいいよね」 「はい」  山下は僕の全身を眺めてから、歩き出した。僕はその後ろをついていった。その間はほとんど口を利かない。  食堂に入ると、何も言わずに山下は肉うどんの丼を二つ手に取った。そのまま席を見つけると、座った。僕は彼女の対面に座る。こちらに丼を渡す。 「一応、学校ではカルドラのことはあんまり言わないことにしてるんだ」  箸を割りながら、山下が先に口を開く。 「だから小声でね」 「他に知られるとまずいですか?」 「うん、ちょっと。まあ、でも、いいか。気にしないでいいよ。あなたの名前は、なんていうの?」 「小川です」 「小川くん。どこの学生?」 「ここの演劇です」 「ふうん。IQはいくつ?」  急に聞かれたので驚く。 「計ったことはありません」 「ふうん。やってみるといいよ」  興味を感じて、僕は聞き返してみた。 「山下さんはいくつなんですか?」 「170前後」 「へえ」僕は言った。  聞いてはみたものの、ケタがよくわからない。 「すごいですね」 「もっとすごい人はいっぱいいるよ」  山下は言った。うどんをすする。 「カルドラって、どんなことをしてるんですか?」  僕はうどんに手をつけずに言った。  山下はうどんを完全に飲み込む。 「漠然としてるね」  そう言うと、彼女はすごくつまらなそうな顔になった。僕は少し緊張した。表情が豊かで、すごく軽蔑されているように感じてしまう。  意識を切り替えることが必要だ、と僕は思った。速いテンポで、できるだけ考えさせること。 「すいません。じゃ、あなたはうどんが好きですか?」  僕は言った。  山下はそれを聞くとおかしそうに笑う。 「ううん、全然好きじゃないよ」 「どうしてうどん食べてるんですか?」 「今食堂が出すメニュー、これだけだから」 「僕はわりに好きです。なんでも食べます。いただいてよろしいですか?」 「どうぞ」  僕はうどんを、音をたてて吸い込んだ。 「うん、小川くん」山下は言った。「今あなたは私の話し方を見て、言葉を選んだよね。そういう風に、臨機応変に振る舞うとをまず徹底させるんだ。お茶の精神と一緒で、一期一会。これができないと、誰とも会話ができない」 「僕が知っているところによると」うどんを食べながら、僕はフルに頭を回転させた。「学会はカルトと言っていいほどの団結力がありますよね。そういう団体の中に入ると、臨機応変な会話なんて許されないんじゃないでしょうか」 「違うね。私たちはまず、自分が話したいことを自分で把握することを徹底的に鍛える。今自分はおなかが減っているか?眠いか?会話を楽しむことの他に、するべきことはないか?そういう把握をして、はじめて学会内部で対話が行われる」 「個人の発言を最大限に重要視する、ということですか?」 「そのとおり」 「学会としてまとまることはないんですか?」 「あるよう――」  山下は丼を持ち上げ、音をたてて一気に飲み込んだ。 「まあ、まずいうどんもお腹が減ってれば食えなくないね。  まとまりという点で言うとね、それがないことにはなにも始まらない、と言っていいくらいのまとまりがうちの団体にはあるよ。徹底的にコミュニケーションが図られればたいてい次のステップに進むことになる。出会って、お互いを見知った、と思いあえれば、そこにはもう会話はなくなる。お互いの内面を探る必要はなくなり、必然的に外へ出て行くことになる。そこで初めて、まとまりがある行動がとれるのよ。  まあ、そんなこと言っても外っていうと、お互いの身体に目が向いたりすることもあるんだけど、まあ、たいていそうはならないんだよね。たぶんあなたも、そういうタイプだと思う」 「そうかもしれないですね」 「きちんと自覚するようにしてね」  山下は言った。 「次にはある客観的な事象に目を向け、それを使って語ることをする。要するに、ニュースについて話し合ったり、目的的に提唱された作品について、語り合うのよ。そこでは、徹底的な客観化が望まれるの。自分の意見と他人の意見をとことんまで同じものだとみなして、冷静な目で比較すること。これを経ていけば、弁証法的に私たちの会話は発展していく」 「ものすごく理想的な話に聞こえる」 「うん、大抵の人間はそれはうまくいかない。そのレベルに行っては、お互いの内面にまた戻ってしまう事になる。究極的に客観的になることは、理論的に不可能なんだよね。だから、これはあくまで原則なんだ。でも、そう心がけているのは事実だし、そう思っていないと進まないところはある。そのあたりはみんな意識的に曖昧にしてる、まあ意識的にそうしようってことになってる、ていうものではあるんだけどさ。  そのレベルを曖昧にしたままでも、相互理解は可能だし、私たちはまとまる事が出来る。だから私たちには紀要と言えるような表立つものはありえない。まあ、何人かはそういうことを好む人間がいて、日々成文化の努力をしてるのも事実だけど、それはあくまで予備的なものでしかない。相互理解を大量に――そして誤解を経て、多くの情報を受け取りあう。そしてある段階まで行き着いたところで、私たちは行動する。そこに至るにはものすごく時間と手間がかかるけど、そこまで行ったら普通のカルトとは比べ物にならないくらい、団結力の強い団体になる」 「僕が知りたいのは」僕は丼を前に置いた。「あなたたちの学会が、現在の状況にたいして、思弁的哲学論争に終始しているのかどうか、ということです。  あなたたちは、なにをしているんですか?」  山下はにっこり笑った。 「ねえ、これから授業ある?」 「ありません」 「じゃあついて来なよ。もっと体験してみればいい」  山下の車は女性らしい、小さな車だった。僕らはその車に乗り込んだ。  古沼の顔が思い浮かんだ。自分で思い浮かんでおきながら、すごく唐突に思えた。目の前の女性と古沼には似ているところなんてまるでなかった。女性であるということくらいだ。可愛らしさも、同じ言葉でくくるには質が違いすぎるものだった。  山下には古沼にない、すさまじさがある。そう思えた。現に今僕は圧倒されている。あまりに計り知れないものであるため、恐怖してると言ってもいい。 「小川くん」  山下は言った。 「はい」 「おがわおがわ、ああ今思い出した。神田とリルルのともだちの、おがわくんね?」 「そうです」僕は言った。 「なるほどね。あなたが、神田とリルルの間でヘゲモニーを持ってたのね」  僕は驚いた。 「誰が言ったんですか?」 「あら、二人そろってそう言ってたんだけど」 「あいつらは責任とりたくないだけです」僕は言った。「あなたの知らない人間を言えば、驚くだろうと思ったんでしょう」  山下は笑う。 「いや、あの二人もおもしろいけど、あなたもなかなかだね。いちばんカルドラのやり方が肌にあうタイプだよ」  そうは思わなかった。僕にはあの二人に決定的に欠けているものがある。  でもそれは言わなかった。 「今までのお話を聞いていると」僕は言った。「カルドラはつまり、中心的なものがない団体なんですね」 「まあ、そういってもかまわないと、私は思う」山下は言った。「ゲーム世界が中心であることは確かだし、ゲーム自身、それ自体で充足できる、人間をそこに回帰させることができるものであることも確か。だから、中心となる体験は、やっぱりゲームだ、ということができると思うし、それは架空世界として軽んじちゃいけないことではあるのよ。それはわかってもらいたいけど。  でもそれだからこそ、すごく民主的な集合であることは確かだね。学会内では指導者層が存在しない。入ったばかりの人間が、すぐに中心的になることもありうるし、長くいついておきながら、発言を軽く無視される人もいる。誰もがそうされる可能性がある」 「無署名フォーラムのようなものですね」 「確かに近いものがあるね」山下は言った。「規定されるものは常に曖昧、だけど全体としては流れがある。決して個人が責任をかぶる事がないシステム。ただ、違うところは、その流れをみなそれぞれが強く意識して、全体が動くことを前提にしているところ」  反応が早いことに、やはりいちいち驚いてしまう。 「おそらく」僕は言った。「それでも中心的な人間は出てくるはずです。それがつまり中心だし、それは決して表に出てこない。おそらくあなたがそれだ」 「そんなこと言われてもねえ。みんながそう思ってるんだと思うよ、多分」  言って山下は笑う。 「でもね――あなたの言ってる意味とはちょっと違うんだけど、確かに、中心がないシステムには限界がある、と最近はみんなが思い始めた」山下は続けて言った。「私たちの組織は――たとえば、人体にたとえても、すべての器官がそろってるということが出来るかな。うん。だいたいできる。  外部からの情報が食物、団体から抜ける人間が排泄物、あなたの言う陰の支配者が脳梁で私たち一人一人が脳細胞のひとつひとつにあたるね。血管、神経がネットワーク、心臓がカルドラ・ゲーム。  ねえ、このホムンクルスを動かすにはあとなにが必要か、わかる?」 「魂、かな」 「あたり」山下は言った。  車が止まった。 「ほら、着いたよ」  場所がうまくつかめなかった。背景を追う事を忘れていた事に気がつく。  風景に見覚えがない。テロの傷跡のせいで目立つものが一斉に破壊されているが、おそらくここは、元から無個性な場所なのだろう。整然とした住宅街で、視界の端に鬱蒼とした森が見えた。多摩、それか所沢、相模原の方まで来てしまったのかもしれない。時間の感覚も飛んでいるせいで、東京からの距離も測れなかった。 「『総意』というのが、擬似的にわれわれに命を吹き込んでる」  山下はそう言って、一軒家に入っていった。続いて僕も入っていく。 「それが生まれ続ける限り、われわれは一個の人工体として動く事が出来るのかもしれないわ」  玄関にそろって靴を脱ぎ、きしきしと音を立てて奥に向かっていった。ごく普通の民家だったことに、なんとなく違和感のようなものがある。  山下は先に立って部屋に入った。畳敷きの居間だ。テーブルにはクロスがかかっていて、きちんと部屋の隅にはテレビもあった。 「カルドラ神は、つまりホムンクルスにおける造物主。それは望まれながら、存在しない――やめよう、なんか思った以上に一般的な話になった。  その辺に適当に座って」  座布団を僕に差し出した。 「宗教がそこに迷いがあったら、それは宗教とは言えない」僕は言った。「神田たちはなにか、あなた方に誤解があるように思える。あなた方は、なにか、はっきりしたものを提示したんじゃないんですか?」 「あら。宗教論争はどこの宗教でもやってること。内部のことを聞きたがったのはあなたじゃない」  山下はすぐに答える。 「そこには体系として外部に喧伝できるものがあるはずだ。それはいったいなんですか?」 「多分――教養として私たちが前段階的に持っているもので相互補完している、ていうのが現状でしょうね。実際それだけよ。それと、カルドラ・ゲームにおける規則ね。それは仮想的に作られたものでありながら、現実を拘束してる」 「それはもはや宗教ではないでしょう」 「いいえ。カルドラは宗教よ。もっと勉強しなさい」山下は笑顔を見せた。「カルドラは、きわめてプロテスタンティズムに即して発展してるわ」  山下は部屋を出て行った。  僕はため息をつき、座布団に座った。  確かに、彼女との会話は今までに経験したことがないような種類のものだった。強烈なインパクトだ。今までのコミュニケーションがまったく素直な――生のままの、野蛮な姿のままであったことを思い知らされる。  映画の中の人間と話をしているような感覚が、彼女にはある。そして、彼女の前に立つと僕もそういう人間にさせられるのだ。良い伝え手は、良い聞き手でもある。僕も彼女の使う話し方を強いられるし、それが自然になっていく――良くも悪くも、ものすごい高エネルギーの磁場に入ったような感覚がある。  目の前に広がる日本家屋の居間も、そういうもののひとつになったように思える。  ふすまが開いた。山下はお盆を持ち、静かに入ってくる。ふすまはどう閉めるのか気になったが、彼女は片手でお盆を持って、普通に閉めた。 「どうぞ」  お茶を出してくれた。僕はそれを口にする。  山下は何も言わず、僕がお茶を飲むのを見ている。僕もきっかけを失っていた。 「他になにか、聞きたいことはあるかしら?」 「どうやってあなたは、神田とリルルを引き込んだんですか?」 「今あなたに話しているようによ」山下は言う。 「言葉通り信じられない」僕は言った。「少なくとも、あの二人のカルトへの敵害意識は僕よりも強いものだった。これまでの喋りでは、僕はまだカルドラに入ろうとは思わない」 「あら」  山下は言った。上目使いで僕を見ながら笑う。挑発しているのだ。女性の挑発に慣れてない僕でさえ、すぐに分かる。 「あなたはまだ、私たちの仲間になれないのかしら?」 「なれません。あなたの喋りには、なにか根本的に間違ってるところがあるような気がする」 「でも本当に、私は神田やリルルと同じだけのことをあなたに喋っている。あなたはあの二人と違うのね」 「違わないです。どちらかと言うと、僕の方がカルトには妥協的だった」 「いいえ。あなたの方が厳格です。表面的な態度がどうであれ、間違いなくあの二人は今までの私の応答で納得してくれたもの」 「そんな――」 「いいえ」  山下は一瞬躊躇ったように見えた。 「あの二人は私たちの存在を待っていたのよ。正確に言えば、私たちのような存在、をね。だから、細かいところは曖昧でも私たちの趣旨に賛同してくれた。  具体的に言うと、神田の場合は応答のスピードがポイントだった。彼が出す質問すべてに即座に、すぐに反応を返せればそれで良かった。そういう人間が目の前に現れてくれるのを、待っていたのよ。だから、お互いを深く理解し合うことはそれほど必要ではない。あの人の依存心の対象たり得る――もしくはその期待がもてれば、それで良かったの。  リルルも似ているけど、細かい手法的には正反対だったわね。あの子は、具体的に私という人間を知りたがった。あの子のともだちである神田が――あの二人はセックスないでしょ?――彼が私のところに来たことも、彼女の場合は良い方向に働いたし――」 「わかりました」  彼女の言葉を遮って、僕は言った。  思った以上に強い否定になってしまった。これで僕がこれ以上聞いていられないことが、バレた。そのことを強く意識する。 「僕も二人の友人として、あなたに興味があっただけです。あの二人はあなたを信頼したようだけど僕はそうは思わなかった。あなたとは妥協し会えない点が存在する。  ともだちとして二人に思ったことは伝えるけど、無理矢理ひきとめようとは思わない。だから安心してください。  僕もなんらかの期待を持ってあなたに会いに来ました。確かにあなたはいろいろなことに応えてくれた。でも、なにかが僕には気に障った。だからこれ以上あなたと深く付き合おうとは思いません。少し残念ですが」僕は立ち上がる。「これで失礼します」 「ちょっと待って」山下は言った。「少なくても、なにが気に障ったか、聞く権利くらいはあるんじゃないかしら」 「それに応えずに帰っても、僕は全然気になりません」 「ウソね」 「ウソじゃない」  山下は笑う。  困り切って苦笑いしているように見えた。今回は皮肉の味はしない。僕に罪悪感が呼び戻される。瞬間、妥協しようとする意識が走った。  それもこの女は計算しているかもしれない。そう考えるのはもう恐怖ではない。  腹がたつだけだ。 「じゃあ感情的にならないでよ。ねえ、頭を働かせて理由を見つければそれで済むはずでしょう?そういう種類のことはストレスじゃないはずよね?じゃあ、応えてよ。そうすれば私は引き留めない。  あなたが期待してきてくれたら、それはとてもうれしいことだったし、その期待に応えられなかったら、それは悲しいことだわ。  あなたはそうやって、失望を繰り返してきたんじゃないの?期待して、それが裏切られて――それに終止符を打つには二つの手段しかないわ。期待する一切をやめるか、それか頭を使って妥協点を見つけるか、のどちらか――強すぎる意識は、理性によって抑える必要がある、そのことがわかるでしょう?  私ならそれをすることが出来ると思うわ。あなたのためにも、私自身のためにも、それは話されなきゃいけないことよ。私はそうやって生きてきたし――あなたも同じ、理性とロジックで生きてきたはず。そのための相手としては、私も、カルドラも、エキスパートとしての自覚がある」 「僕は」  口にするのは重たかった。  ここで一つの表明をしなければならないのだし、その結果は今後彼女とは関わり合い無く、僕につきまとってくるだろうことがわかった。  彼女の言うことは半分ほど正しかったし、半分は間違っていた。僕はそのうち半分を使って自分の意見にしなければいけないのだ。 「良く喋る女が嫌いなんです」  僕は言った。 ++++++++++++++++++++++++++   3 ++++++++++++++++++++++++++  出来る限り家事をきっちりこなそうと思った。向田は家事の一切をやらなかったし、教えなかったため、彼女が家に来て以来、この家は荒れるだけ荒れている。シティにいる分には気にならないのだ。  それと同時に、向田の相手をしてやることも続けた。  これは神経に障る作業だった。彼女に面するのは、シティで人と向き合う、数倍のストレスがかかった。相手はまともに言葉も喋れないし、こちらも無関心の相手に、喋り続けることをしなければいけなかった。誰も聞いてない言葉を喋ることが、これほど辛いことだとは思ってもみなかった。  彼女に対して僕の気持ちをきらさないために、僕は積極的に彼女の身体を触り、触られる単純なことを繰り返してみた。僕が軽く腕を引っ張ったり、頭をなでてやったり、肩を叩いたりすると反応がきっちり返ってくる。  そうしてるうちに彼女との関係に性的なものも混じってくるのを感じた。両腕で抱き上げたりしてやると彼女も腕をからませたりして、必然的に抱き合うのと同じ格好になってしまった。予想してない感触を胸と背中に感じると、勃起したりもした。初めは驚いたが、そのうちに慣れてきた。挿入する必要もなかったし、彼女に勃起の意味がわかっているのかもわからないのだ。  だんだん彼女と遊び方が分かってきたような気がした。僕自身、楽しくないわけではなかった。  たぶん、彼女との距離も縮まったように思える。彼女の意味のない喋りはだいぶ少なくなったし、遊んで欲しい時にはそういうサインを発することが出来るようになった。今までは僕と遊んで欲しくなんかなかったのかもしれなかった。  いつのまにか、彼女は氷以外のものも口にすることが出来るようになっていた。  シティへは完全に足が遠のいた。  どういうわけか、シティにいると強く山下の存在を強く感じた。それはシティでの僕の行動を制限するものだった。シティ内の流行を追い、新しい友人を作るとそこに彼女の影が暗くさした。彼女があらわれ、「それは意味があるの?」と問いかけてくるような、そういう幻想がつきまとった。  それでもシティはたびたび思い出された。そこにあるものは刺激であり、動きそのものだった。シティに行かなくなることは、自分の身体が不自由になるのと全く同じことだった。手を使わずに生活することに耐えられなくなるように、シティに行かない生活には耐えがたかった。  でも僕は意識的に禁止した。たとえどのような不自由を感じようと、それを自制し、押さえ込んだ。はじめは理由がわからなかった。自分はすごく馬鹿なことをしているのではないかと思った。  「夜見」のマスターの言葉が思い出された。それに、神田としゃべっていたことも。僕はある程度物事をはっきりさせることが必要だとずっと思っていた。シティに行かないことは、単純に彼らへの裏切り行為でもあるように思えた。  でも、山下のことを思い出すと、もはや僕は引き返せないところにいることを理解した。このままシティにいつづけることは、いつか山下にあたらなければならない、ということだった。物事を突き詰めるには人間を手を借りてはいけない、そういうことを山下と会って気づかされたのだ。  それでも、僕は――耐えかねた。 ++++++++++++++++++++++++++  シティは現実の街に比べると情報が多すぎた。僕はシティの中を、ただ、ひたすらに歩いてみた。どこの場所も寄らず、通路と街並みに過ぎない、シティの中を。  シティを形成したのは、紛れもなく広告産業だった。ものを買わせるためには、消費者を受動的に情報にさらされる空間を作らなければならない。能動的に動きまわることができるかつてのネットワーク上の形態では、広告はあまり意味をなさない。  しかしそれでも、僕らはこのシティを受け入れた。シティが作り出したこの受動的な空間は、僕らが求めたものだった。無作為に流れ込む情報は僕らにとって必要なものだった。僕らは極々簡単なマクロを組むよりも、やや冗長な広告が流れる方を好んだのだった。それは必要とか、そういうことを考えるより前に、好ましいものであるのだ。  企業などの経済活動にかかわりのない、普通のシティ市民が作り上げた街並みを見ていても、それは十分にわかった。彼らは一方的に、それを通行人に見せることに意義を感じる。そこには単純化したコストがあり、それをちゃんと具現化できるだけの仕組みも備えている。現実的には、もはや不可能であるほどの手間も、シティでは――スクリプトという魔法を使って――それを作ることができる。現実的な冗長さと、背反する簡便さ。両面を持つことによって、シティはその意義を果たす。  それでようやく、街として、僕らが住むことができるのだ。 ++++++++++++++++++++++++++ 「古沼?」  彼女に電話をかけた。 「こんちわ」 「今なにしてた?」 「本を読んでたよ」 「ふーん」  彼女がなにを読んでいるか、特に関心はなかった。 「こちらに来ないか?」 「シティ?」 「いや、違うよ」僕は言った。「高円寺の俺のマンション」 「うん。いいよ」古沼は言った。 「そういえばね、小川くんに言わないといけなかったんだけど。就職が決まりそう」 「看護婦?」 「うん。資格の勉強しながら通っていいって言われたんだ」 「へえ」  古沼の仕事にも、あまり興味がわかなかった。 「じゃあ仕事始まる前にでも、会おうよ」 「いいよ。じゃあ、今から高円寺に行く」 「迎えに行こうか?」 「いい――向田はいるの?」 「いるよ」 「そうなんだ。うん、じゃあ行くよ」  玄関のベルが鳴った。  向田が反応した。顔を上げ、扉の方を見ている。 「古沼だよ。覚えてる?」僕は言った。 「古沼?」 「そう。前に会ったことがあるはずだ」 「わかったよ」  僕はドアを開けた。黒いコートに黒いパンツ、大きな黒の鞄を持った女性がいた。全身真っ黒で、古沼よりかなり背が高い。  リルルだった。、 「この前は失礼しました」リルルは言った。「今は大丈夫かな?」  驚いたためなかなか声が出ない。 「急に来るなよ」僕は言った。 「ごめん。用事ある?」 「ある。人が来るんだよ」 「そう――ちょっとだけ、話して良い?人が来たら、すぐに帰るよ」リルルは言った。  付け足すように続ける。「向田さんとも話したいし」  扉を開き、彼女を迎えた。 「だいぶ部屋、綺麗になったね」  リルルは言った。前と同じソファをすすめた。コートと鞄を置いて、座る。  僕は向田を呼ぼうと寝室に入った。 「向田、ちょっと」  彼女は完全に無視した。こちらを振り向こうとさえしない。  久しぶりの反応だった。かたくなにこちらを無視してやろうという意志は、最近はほとんど見せていない。近くによって、肩に手をかける。 「リルルが来たんだ。お話しようって、さ」 「リルル?」向田はこちらを見ずに、言う。 「そう。古沼じゃなかった。古沼はもう少し後で来るって」  彼女の姿勢は変わらなかった。話を拒絶しているように見える。  リルルとは相性が悪かっただろうか?思い返すが、よく分からなかった。以前のことを、無理矢理外に連れ出された、と思っているのかもしれない。  そのままにして、居間に戻る。 「向田さんは元気?」 「元気だよ。今日は機嫌が悪いみたい」  お茶を用意して、彼女に渡す。 「最近は向田がお茶を入れてくれるようになったんだよ」 「本当?」  声を大きくさせて、リルルは言う。 「なんか最近はちょっとづつ仲良くなってきた」 「ふーん……やったの?」 「どうしてそういうことを聞く?」  僕は応えた。怒ったわけではなかった。 「いいのよ、別にどっちだって。まあ、私には関係ないんだから」 「今日はなんの用?」  と僕は言った。  言ってから、山下の顔が思い浮かんだ。彼女の話は、多分避けられないのだ。 「言っておくけど、カルドラの話はなしにしよう。山下に会ってきた。断った」 「うん。知ってる」リルルは応える。「でもちょっと、話していいかな」  しかたなく、僕は頷いた。 「山下はあなたのをことを気に入ったみたい。私にあなたのことを聞いてきた。知ってる限りのことを話したけど、問題なかったかな?」 「別にかまわない」 「それで、向田さんのことも話したんだ」  嫌な予感がした。 「向田?」 「うん。小川、向田、この組み合わせで、彼女はちょっと気にかかったみたい――とにかく、向田さんのことも細かく聞きたがったんだ。それで――悪いとは思ったけど、知ってることを全部喋った」  リルルは僕を見て言った。上目遣いで、始めてあったときの彼女はこんな様子は見せなかったように思う。僕を怒らせてないかを気にしてるのだ。  むろん僕が気にしないわけがない。 「それで」僕は言った。 「――まあ結論から言うと、今度お宅に伺いたいと山下が思ってます」リルルは言った。 「やめてくれ」僕は言った。「もう彼女に会うなんてごめんだ。それに向田と一緒に?――冗談じゃない」 「私は迎え入れてくれたじゃない」 「リルルはともだちだろう。そうじゃないのか?」 「じゃあ――私が連れてくる、という形にしたいのだけど。それならどう――?」 「やめてくれ。連れてくるな」僕は言った。「友人関係っていうのは、お互いいやがることはしないていう理性的な関係をさすんだ。俺とリルルは他人でも、ましてや恋人でもない。だからリルル一人なら――急にはこまるけど、基本的には拒まない。でも山下は別だ」 「なんか理由をあとづけてない?」  リルルは言って、すぐに下を向く。それからまた顔を上げると、一転して僕の機嫌を伺おうとする顔になった。 「あの人とはともだちになれない?」 「なれない」僕は考えながら言う。「山下は基本的なルールがわかってない。そういう人間はともだちとは言えない」 「優れた人間だよ」 「そういうことは全然関係ない」  僕は言った。それから続ける。 「ようは彼女が嫌いなんだ。だから二度と会いたくない。それだけだよ。友人ならわかって欲しい」  リルルは一度頷いて、それから黙り込むように煙草をポケットから出した。ひどくゆっくりと動作しているように見えた。彼女が煙草を吸うのを見るのも初めてだったから、余計にそう見えたのだろう。  二本の指で煙草を唇にあて、音を立てずに吸い込む。一斉に煙が吐き出されると、それは十分言葉の代わりになっているように思えた。  僕は正当な事を言っているだけで、彼女に責められたように思うものではない。それは彼女がうまく受け入れられなくても変わらない、どうもならないことなのだ。だから僕はなにも言わなかった。 「山下はね」リルルは言った。「向田さんはなにかの象徴になるんじゃないかって言ってた。彼女の中でいろいろ考えていたみたい。言葉を変えて、いろいろと話してくれたから、私もいろんなことを考えたんだ」 「聞くよ」僕は言った。 「あなたが山下に言ったのは、ようはコミュニケーションの否定だと思う」リルルは言う。「いろいろなことを話さないし、それ以前に一人でいても言葉にしない、そのままのことをそのままにしておく、ってことだと思う。  私たちはそれに飽き足らない。いろいろなことがわかるように、誰かとわかちあったり一人で納得できるようにしておきたい。そう思ってる。あなたも私たちと同じように、そう思ってるんじゃないかと思ってた。  でもそうじゃなかった。結局あなたは私たちとお喋りすることは望んでないのね」 「そう」僕は短く答えた。 「山下はそういうこともわかるんだと思う。お喋りするだけでは行き着かないなにかがあるってことがある、とか、喋らないほうがいいことがある、ってことが。  私にはたぶんわかってない。ねえ、どうして私たちには分かち合えないなにかなんて存在するの?」  僕は答えなかった。 「だから山下は、向田さんを私たちの仲間になってもらうことで、それを補おうとしてる、のかもしれない。私にはよくわからないのだけど。  でも、彼女には――なにか言い得ない魅力があるのは確かだと思う。私たちの仲間になってくれれば、仲間から人気もでるだろうし、それは彼女のためなんじゃないかとも思う。現実的に言えば、私たちには団体として一人を養えるだけのパワーも財力もある」 「向田を?」 「そう。あなたも私たちの中に入ってもらいたかったけど、それが不可能なら、彼女だけでも、と私は思う」  僕は苦笑した。向田がアイドルに?――理性と対話を掲げる集団が痴呆の彼女を? 「ダメだよ。話にならない」僕は言った。 「ねえ。あなたも考えてみてよ」リルルは言った。「あなたは彼女を一生守っていくの?  人道的な立場に立つ訳じゃないけど、彼女はあなた一人しかいない世界にいるよりも、私たちの世界の方が、仕事も賞賛も果たすことができると思わない?これは彼女が社会に参加出来る、唯一のチャンスかもしれないのよ?」リルルは息を継いで続ける。「あなたは彼女にともだちを作るチャンスを与えないつもりなの?」 「法律的には、彼女を保護する権利を持ってるのは自分のはずだ」僕は言った。「彼女を、怪しげなカルトに委ねるなんてことはできない」 「法律主義者なんて、今じゃほとんどいない。弱小のカルト信者ほどの支持者しか持ち得ていないわ。そうじゃなくて、彼女を中心に考えるの。彼女のためになるかを考えてよ」リルルは言った。  僕は答えなかった。 「とにかく、彼女を一度、山下に会わせてみたいと思ってる。それでなんらかの返事が向田さんにあれば、それでいいと思う」 「向田にはその判断ができない」 「あなたも理性的に判断してないわ」 「俺は反対なんだ」僕は言った。「俺の言うことはまったく考えてくれないのか?」  リルルは答えなかった。  新しい煙草を取り出し、それを口にくわえ、火をつける。それを僕はぼおっと見ていた。彼女は下を向いた。  リルルの話は急だ。こちらが聞けるようなものではない。  彼女はここになんらかの目的を持ってきていることがよくわかった。その変貌ぶりは急なものだし、彼女の人間性自体が理解できなくなってきている。もちろんカルドラが原因にちがいない。  彼女はここで僕と向田を連れて行くことを命じられているのだ。山下のやり方が思い出される。山下は常に正しいし、その指示には間違いがない。誰にもその正論を疑うことはできないのだ。そういう形で先導するのが、山下のやり方なのだ。  リルルの気持ちが少しわかった気がした。現実的な政治力、そして目的を定め、達成していくことが彼女の生活であり、神田に会うまで抑圧されたことだった。  そう考えるといかに反体制的であれ、目的を与えられるカルドラに入り込んだのは必然のことのように思えた。彼女は求めてカルドラに入ったのだ。  彼女にとって目標を達成していくことが――おそらく今までの学校の生活ではそういう生活をしてきたのだろう。推測でしかないが、そういうことだと思う。ただし、その生活はいつか破綻する。ステップは踏み続けていくごとにインフレ的に加速していく。どこかで挫折を経験しない人間はいない。挫折を経験した事がない人間なんているはずがない。  彼女はそれがわからないまま、カルドラに入った。そして、そこは与えられるミッションがあり、こなすことが可能な世界であった。それがいわゆる、ゲームというものの性質だ。機会を均等にし、可能性を見せる。彼女のステップは未だ途切れず、挫折を経ずにここまでやってこれた。  今もそうだ、と僕は思った。彼女はまだ挫折を最大限に恐れている。 「俺たちはともだちだよな」  リルルは目をあげた。怯えはなくなっている。  しっかりと口を閉じ、僕に答える様子はない。  僕らはしばらく見つめ合った。彼女がなにを考えているかはわからなかった。僕は彼女のことを考える。  彼女の気持ちになって、彼女のしたいことを考え――そのためにはどうすれば――どうしても……そのためには……  僕のほうが先だった。僕は飛び上がり、彼女に身体ごとぶつかる。彼女の両手が動いた。僕はその両手を押さえつけて、彼女を押し倒す。ソファが大きな音をたてて跳ねた。  完全にのしかかって身体の動きを固定する。彼女はものすごい力でそれに反応した。予想外の力で、一瞬身体が離れた。もう一度肩からつっこみ両手を抑える。握っていた右手を開かせた。そこには爆弾があった。  球体をアルミホイルで巻き、それにマッチ棒のような突起がついている。爆弾とすぐにわかった。  僕はそれを奪おうとした。彼女は強く握りしめ、奪われまいとする。馬乗りになり、両手を使ってこじ開けた。彼女の脚がばたばたと暴れた。一本づつ指を離し、手の中の突起に触れないように、奪い取る。  僕はそれを奪うと、立ち上がった。ぐったりと、彼女は動かなくなった。  僕と彼女の荒れた息が重なった。 「リルル、これは?――」  結局、なにも言葉は浮かんでこなかった。  いろいろな感情があって、それはとても言葉で表すことが出来ないものだとわかっていた――山下のやり方で、言葉を喋ろうとしても――僕には彼女の真似は出来ないのだ。  彼女は肩で息をついていた。衣服が乱れ、二の腕があらわになっている。ほっそりとした腕だった。彼女の力を思い出すと、それは僕を驚かせた。この腕に僕を抑え返す力があるとは、到底考えられない。目で見る限りは、彼女はただの、普通の女の子にしか見えない。  彼女を組み強いだときの熱は、まだ身体じゅうに残っていた。僕は自分に危険なものを――奪っただけだ。それでも、なにか大事なものをとりあげたような罪悪感が残った。  彼女は床の一点をじっと見つめていた。見たことがない表情だった。寂しそうで、力はなにも感じられなかった。彼女を作り上げてきた意志が、それを成り立たせるのをやめ立ち去ったように思えた。瞬間的に、彼女を抱きかかえてやりたいような気分に襲われた。すぐに、その気持ちは収まっていった。そうするなんて馬鹿げてることだった。 「もういい、帰れ」僕は言った。  手の中の爆弾を見つめる。おそらくこの部屋を全壊させ、隣の部屋も巻き込むような爆発が起こるだろう――いや、正確なことはわからない。このフロアになにもなくなってしまうかもしれない。化学のことは、一般ほどの知識しか僕にはなかった。  リルルは立ち上がり、衣服を直した。顔がそむけられていて、どんな感情も読みとることが出来なかった。 「わかった。もう来ない」  リルルは言った。 「私たちは別の生活を過ごすことにしましょう。あなたのことも忘れるわ――だから最後に」 大きな音をたてて、リルルは唾を飲んだ。 「最後に、向田さんに挨拶させて」 「わかった」  僕は答えた。  僕は椅子を玄関の出口に向けて座った。手の中には爆弾があった。それはただ持っているだけで、強く意識せざるを得ない種類のものだった。死と、それを望む憎悪が、この中にはこもっているのだ。これにはそれだけの力があるのだ。なにも不思議なことなんてない、ただ、純粋な物質でしかない。  背後で寝室のドアを開ける音がした。 「向田さん」  リルルが呼びかける声が聞こえた。  反応は、すぐに返ってこなかった。  こちらの騒ぎが聞こえていたから、怯えているのかもしれない――  そう思った瞬間だった。  頭の中でものすごい音が聞こえた。   同時に熱風によって、僕は玄関の扉に頭からぶつかった。なにが起こったのかはわからなかった。  でもすぐにわかった。  手の中には爆弾があり、それは吹き飛んだ僕の身体で抱え込むような形で握られていた。すぐにものすごい熱気が襲ってきて、僕は身を伏せた。考えることをやめさせられるほどの衝撃だった。 ++++++++++++++++++++++++++ 4 ++++++++++++++++++++++++++  僕の電話が鳴った。神田からだった。  僕は病室から出た。  病院の通路はすごく静かだった。実際のところはわからない。でも、静かな場所は清潔だとなんとなく感じた。 「もしもし」 「神田です。古沼から聞いた」神田は言った。「今かまわないか?」 「いいよ」僕は言った。 「――そちらに行こうか?なにか手伝えることがあるか?」 「いや」僕は言う。「来ないでくれ」 「わかった」  神田は答えた。  しばらく沈黙があった。 「これは俺の責任だと思う」神田はゆっくりと言った。「もちろんこんなことはおまえに言うべきことじゃないし、おまえの気に障ったなら謝る。でも、俺は個人的に、決着をつけなければいけないんだろうということはわかるよ」  僕は黙った。答えることはなにもない。 「向田は?」 「一応処置はした。まだどうなるかはわからない。外傷に加え、内臓もさんざん無茶苦茶になったそうだ」僕は言う。「まったく、これであいつは身体全身、どこも真っ当なとこはなくなったってわけだ。あるのは命だけで、何一つままともじゃない」  僕は笑って言った。  神田はなにも言わなかった。そのおかげで、僕はすぐに恥ずかしい気分になった。間違った方向に頭が働いている。  それでも止まらなかった。 「真っ当じゃない脳みそと真っ当じゃない身体になったあいつは――もし命が続くとしても、その身体は五体満足とはいかない、正真正銘の、完全な不具者になるわけだ。なんか、完璧だね。完璧な不完全さだ。どこをとってもまともじゃない」  神田を責めている訳じゃない、僕は思ったことを言っているだけだったが、それでも神田は傷ついていることだろう。それがわかっていたし、そうもしたくはなかった。僕は神田を責めるつもりはまったくないのだ。彼が果たした役割なんてなにもない。  それに――僕はとんでもなく不義なことを言っていた。それの罪悪感を背負いたがっている。それも感じていた。 「なあ」神田は言った。 「どうしてリルルが――あんなことをしたのかは、俺にはまったくわからないんだ。だってそうだろう?おまえに力で、口でも負けたのが恥ずかしかったから?衝動的に?どれもまっとうな理由じゃない。どう考えても納得できない。  理論的には追っていくことができないものなのかもしれない。だからと言って、それが諦められるか?」  僕は諦められる。そう思った。でも口にはしない。  怒りとは、瞬間的には多くの人間を破壊し、自分を破壊しても足らないほどすさまじいものなのだ。根元的に人間はそれだけ強い力を持っている。  テクノロジーがそれを瞬間的に具現化できるほどに成長したなら、こういうことが起こってもおかしくない。理論的に齟齬もない。 「山下には伝えたか?」僕は言った。 「伝えてない」 「すぐに伝えてくれ」 「―どういうことだ?」 「ついでに俺が話をしたがっている、と」 「そう伝えればいいのか?」 「ああ」  神田はしばらく、僕の言葉の意味を考えているようだった。 「わかった。連絡する。すぐに折り返せるだろうと思う」 「頼む」 「山下なのか?俺には言うことはないのか?」 「ない」僕は言った。少し考え、言葉を付け足す。「おまえは友達だからな」 「わかった」  電話は切れた。  しばらく神田の気配が僕の周りを漂っていた。来てもらえばよかったのかもしれない。どうして断ったのか、その理由が思い出せなかった。間違ったことを言ったのかもしれない。  まあいい、と僕は思った。どちらにせよ電話は切れてしまったのだ。  扉を開け、病室に戻る。  古沼と院長先生が、並んで座っていた。揃って僕を見て、院長先生はすぐに目を離す。 「誰から?」  古沼は言った。 「神田。神田に伝えてくれたんだって?」 「うん」 「ありがとう」  僕は言った。  向田は薄い膜のようなものに覆われた向こう側で、眠っていた。体中に様々な器具がとりつけられている。それらが動いている間は彼女は生きているのだし、その様子はむしろ心強いものだった。機械が常に彼女を守っていれば、もっとまともな生活が送れていたのかもしれない、とさえ思った。でもすぐに、その考えは頭の隅に追いやった。  また電話が鳴った。神田から、メッセージのみの受信だった。 「  山下に伝えた。  いつでも連絡を待っている、とのことだった。  力になることがあれば、いつでも言ってくれ。  神田 」  最後に山下の通話番号が書いてあった。 「なに?」  古沼は言った。電話のメッセージを、古沼に見せる。  通話でなくメッセージなことにほっとした。これなら神田に、なにも反応を返す必要がない。 「山下って、誰?」  古沼は言う。  そうか、知らなかったのか、と僕は思った。 「神田とリルルの入信したカルトの、ボスだよ」 「会いに行くの?」 「わからない」  古沼が黙っていると、院長先生が口を開いた。 「会って、どうなさるおつもりですか?」 「どうもしません。思ってることを伝えるだけです」 「うまく掴めないのですが」院長先生は言った。年長者の特徴がある、低く伸びのある声だった。「復讐のようなことを考えているのですか?」 「まさか。そんなことしません」  僕は言った。  院長先生の顔を見るのは久しぶりだった。近い人だと思っていたが、常に電話連絡だったため、顔を見るのは数年ぶりなのかもしれない。以前よりも年輪を重ねているように思えた。  僕は古沼の肩に手を置いた。 「ちょっと、連絡してくる」  そして立ち上がった。 ++++++++++++++++++++++++++  病室を出ると、通路を歩いてエントランスに向かった。自動ドアをくぐり、外に出る。  周りには小規模ながら造園のようなものがあった。植木があり、垣根のようなもので一画が区切られている。その中に入り、適当な場所を選んで座り込んだ。  外は良い天気だった。太陽の光が深い緑色に反射して、その色の暗さを際だたせている。鮮やかな、深い緑色を見るのは悪い気がしない。それにここなら、もちろん古沼にも声は聞こえない。  僕は電話を取り出し、山下の番号をコールした。 「はい」 「山下さんですか?小川です」 「どうも」 「急で申し訳ありません」僕は言った。「今はどちらにいるのですか?」 「家です」 「なにをしてました?」 「ネットワークに」  だったらシティにいる、というべきだ、と僕は思った。山下らしくないことだ。 「シティでなにをしてたんですか?」 「カルドラ・ゲーム」山下は言う。「大丈夫、今はゲームを中断しているから」 「向田恵美という僕の同居人が、現在重体です」 「ねえ、小川くん。あなたはどう思ってるの?」山下は言った。「私たちの命令や指示――示唆という形でもいい、それらがあったからリルルはあんなことをしたのだと思ってる?だとしたら、それはまったく違う、と否定するわ」 「あなたがどう思おうと、あなたには関係ありません。あなたにどうこう言われたくないですね」 「だからね」山下は言った。  苛立っているようだが、電話ではよくわからない。彼女の完璧な演劇性も電話ではさほどの効果もない。  僕ら思っていることを、ただ言い合うだけだ。それが電話だとできる。 「あなたにはこちらを恨んでほしくないの。わかるよ。恨んでるんでしょう?でもそれは私たちとは関係がない。それはわかってよ」 「というかね……」僕は言った。  いろいろな言葉が思いついては消えていった。  僕は彼女になんて言ってやりたかったのだろう?僕は彼女になにをききたかったのだろう?――それらは渦を巻いて消えていった。何を言っても正確さには欠けるように思えた。上手にトレースして、彼女に伝えることが出来ない、それはとんでもなく難しいことのように思えた。  それにあわせて、僕はなにも言えなくなっていた。ほとんど意識せずに、彼女がなにか言ってくれるのを待った。彼女に任せれば、彼女はなにか喋ってくれるはずだった。  しかし、彼女もなにも反応を返さなかった。彼女はそれをゆるさないはずだ。沈黙?――彼女はどういう意図をもって、黙っている?  わからなかった。しかし、現実には、沈黙が僕と彼女の間に入り込んでいた。  僕はやがて、考えることをやめた。わからないことを考えつづけていられるほど、僕は強い根気を持っていない。  自然と、別のことを始めた。目の前に山下を想像したり、そうしながら傍らの緑を眺めていたりした。  風が僕のほほにあたった。小さな虫が、葉の上を這っていた。僕の指は意味のない図形を描いていた。  そのうちに、おそらく彼女も僕の言葉を待っていないことがわかった。沈黙はすでに、かなり長いものになっていた。僕らはお互い、別の場所にいる、そのことを強く意識した。  僕はもっとこの沈黙を楽しむことにした。彼女がなにを考えているか、もう知ったことではなかった。彼女は絶対に、僕が口を開くまでは口を開かない。中途半端なタイミングは、彼女には似合わない。そのことに確信をもてる。  ――沈黙。  誰かがいなければ、そこには沈黙は成り立たない。こんな沈黙は古沼を――思い出した。電話の向こうに彼女がいるのと似たイメージが、僕の中で広がった。彼女は、僕の中で沈黙の象徴になりつつあった。沈黙が続けば、つまりそこには古沼がいるというふうに。  そう、僕は彼女にはなにか言わなければならないだろう。山下に電話をかけた僕を、彼女はどう思っているのだろうか?――わからない。おそらく怯えているのだろうと思う。彼女はそうやって、いつも僕が何を考えているかを怯えていたものだ。  山下の場合はそうではない。彼女はシティの人間だ。シティの上の、ファンタジーとしてのゲームの世界。それを創造し、楽しむことの出来る人間だ。  電話の向こうでは彼女がカルドラの世界にいる。カルドラの世界では緑がざわめき、怪物が跋扈する。超自然的な魔法が飛び、思いこみがそのまま能力となる。キャラクター同士の友情があり、微かな愛情もある。それらはシティとゲームの力で、廃墟になった現実以上にリアルに、具体的な形をとって表現された世界だ。優れた世界だ。人の意志はこれほどまでに洗練し、オブジェクトとして具象することは数百年前、いや数十年前の人間にも、想像できなかっただろう。  そのことは僕にフェティッシュな快感があった。物質を愛し、文明そのものに快感を感じることが出来る。僕はそう思った。  カルドラのゲームの世界で――山下はその演劇性と知能を生かしてどれだけのことをやっているのだろうか。世界は伝達可能なものだ。それが出来ないのは――もはや信念と努力の怠慢でしかない。そうに違いないのだ。  古沼。  そう、彼女には伝えなければいけない。僕は何を伝えればいいのだろう?どんな気持ちなのか?把握することとはどういうことか?そう思うと――  ――そう思うと今まで考えていたことがわかった気がした。  僕は山下を恨んでいる。そのことだ。山下の言うとおりだ。僕は古沼に向かってそう告げなければならないのだ。  電話を掛ける前は――なにを考えていただろう?明確にはわかっていなかった。神田が僕になにかの示唆をしてくれた。それは多分伝達することの意義だろう。僕と神田は意志を尊重しあうことが出来た。友人だ。もっとなにかを言葉にしても、僕らは友人でいる事が出来る――彼にもいくつか話さなければならない。正直に、恐れを振り切って。  そして山下にも―― 「山下さん。ようやくわかった気がします」  僕は言った。  「なに?」  山下はすぐに答えた。長い沈黙なんか存在しないようだった。好都合だ。  僕は息を吸い、そして吐いた。 「あんたは関係ない、と言ったね。それで俺の気持ちをかわすことしか言わなかった。  どうしてあんたは向田のことを訊ねない?彼女に対してわびるつもりはないのか?それならそれでかまわない。俺にとって大事なのは彼女のことだ。あんたは彼女に対して、なんの責任もなかったというのか?  俺はだから、あんたに言わなきゃいけない。山下、俺に詫びろ。そして向田に」  言い切ると沈黙が降りた。このまま電話が切られてしまうのではないかと不安が走った。それならそれで、俺はもう一度連絡するだけだ。 「ごめんなさい」  山下は言った。「私にも責任はあるように思う。罪悪感は、確かにある。  私は彼女に会いたかった。それだけだったの。彼女はもっと私たちにいろいろなことを示唆してくれる、そして彼女と一緒にいるあなたは、私たちのなかに何かを伝えることが出来るはず、そういう確信があったの。  あなたに対しても謝りたいわ。理由もなく傷ついたことに対して。  私は好奇心とか、自分のことしか考えてない、とか、そういうことでは後悔はしない。そういう意味では謝らないわ。筋合いじゃないから。でも、胸は苦しい。そのことは伝えたいの。本当に」 「向田は――今も意識がない。死ぬかもしれないし、もし直ったとしても、おそらく完全に回復はしない。もとから壊れたような奴だったけどな。  俺は彼女を引き取って、しばらくやってみることにしたよ」  僕は言った。 「言いたいのはそれだけだ」 「ねえちょっと待って」山下は言った。「また私と会ってくれる?」 「そのときが来たらこちらから連絡するよ」  そんな時が来るかはわからない。でも、あったら僕は彼女にそれを言えばいい。 「わかったわ」  山下は言った。 「それじゃあ」僕は言った。 「連絡待ってます」山下は言った。  僕は電話を切った。  ため息をひとつついて、立ち上がる。  エントランスから病室に戻ると、途中古沼が走ってくるのが見えた。 「小川くん!意識が戻ったよ!」  まだ声をかけあう距離ではなかったが、彼女はそれでも聞こえるような、大きな声で言った。