カラーズ6
六、ユミコ 私立受験の中でも特に受験日が遅かったのがミカである。そのミカが本命の入試を終えた二月の末日、私の周りでも受験シーズンが終わろうとしていた。 とはいえ、「大学行って何を勉強すればいいのかなあ」と最後まで迷って、結局のところ願書すら出すこともなかった私にとっては、それは単に台風が過ぎただけのような現象である。そして、台風が過ぎるのを家の中でじっと待つしかなかった私にとって、受験シーズンの終焉は晴れた屋外を意味する。つまり、受験勉強ばかりやっていた周りのみんなと、ようやく遊べるという事である。 二月の半ばにミカから電話があって、「皆が受験終わったころに、遊ぶ企画でも立てておいてくれ」と命令された。まったく勝手である。自分たちは、受験さえ終われば、大学生になるにしても浪人生になるにしても、来年やることが決まる。だけど、自業自得とは言え、私の未来はそれすらも見えていないのである。大体、遊ぶと言っても、高校を卒業する歳になった男女が集まって、何をして遊ぶというのだ。…等と少々の文句を言いながらも、結局のところ、私は少々ウキウキしながら遊ぶ企画を考えてしまう人間なのである。 それに―― みんなの受験が終わる、ということは、私にとってもうひとつ、とても重要な意味を持つのである。他の皆は知らない事。そのことを考え始めると、胸がきゅっと締め付けられてしまうような。 などと、乙女になっている場合ではなく、とにかく私は、皆が楽しくエキサイティング出来るような、ひとつのイベントを何とかしてひねり出そうと考えた。 皆で遊園地では、まるで中学生である。お酒の機会なら今後いくらでもあるだろう。だいたい、三月末に卒業記念のクラス旅行があるから、その内容とは重複しないようにしなければならない。 私たちが今やりたいのは、今だから出来ること、今じゃないと出来ないこと。 内容はともかく、場所は高校の校舎内に限定して考えることにした。卒業してから校舎内で顔を合わせることなど、なかなかないであろうと思うからである。私は、個別に何人かに電話で相談してみることにした。 学校で何かしたい、とミカに相談すると、「お泊まり会とかはどう? 楽しそう!」と一人で盛り上がってしまった。 学校に一泊するのはどうか、とリョウジに聞いてみたら、「面白いけど、この時期の学校はものすごく寒くて眠れないよ」と笑われてしまった。 それならば、夜中の学校に忍び込んで、肝試しなどはどうか、とヒサノに聞いてみたら、「季節が違うんじゃないの」と冷たく言い放たれて終わってしまった。 そこで、今度はヤスオに、夜中の学校で何か出来ないものかと相談すると、「みんなで夜中に忍び込むだけで、楽しいんじゃないの?」と言われた。確かにそうだけれど、何かが足りない気がする。 マモルにそれらを話してみると、「じゃあ、みんなで机とか壁に名前でも刻んでくるか」と言われた。なるほど。だけど、それは何だか古臭い気がする。 もっと派手に出来ないものか、とコウイチに相談したら、「じゃあ、学校の壁にペンキで絵を書いちゃおうぜ!」と言う。 ミカにそれを話したら、「それ、良いと思う。やっちゃおう」と、賛同してくれた。 回りくどかったけれど、やはり皆で知恵を出し合えば、それなりのアイディアは浮かんでくるものなのである。 かくして私は、自ら『落書き隊長』として名乗りを上げ、その落書き企画を綿密に練ることになったのである。 三月六日。卒業式の前夜。 私は、午後八時に校門近くの路地に、皆を集めた。他にも何人かに声をかけたのだが、結局集まったのは、いつもの八人である。 私は、手に鮮やかな赤と黄色と緑と青のペンキの入った缶を持っている。ヒサノは、昼間のうちに教室から盗んだチョークを。アユミは、何故か沢山のおやつを。リョウジは大きな懐中電灯を持って、スイッチを入れたり切ったり、チカチカとやっている。何を勘違いしているのか、コウイチは漫画を持ってきて読もうとしている。ミカは、まだ作業が始まらないというのに、もうカメラを構えている。まとまりのない面々である。 私たち全員に共通していることは、少し緊張した面持ちでありつつ興奮が隠せなくて、喋る声がつい大きくなってしまっては、お互いに「シーッ」と、注意しあっている事である。空は綺麗に晴れていて、月が輝いている。暖かい夜になって良かった、と思う。 学校は思いのほか静かで、真っ暗で、三年間いつも過ごしていたとは思えない、まったく別の場所に見えた。それは変な他所他所しさではなく、日常と非日常の境目のようで、私たちをより興奮させた。 ミカがノートの切れ端に書いてきたデザインに忠実に、ヒサノとアユミがチョークで壁に下書きをしている。ミカは「私は監督なの」と言って、少し離れたところから「その線、もうちょっと長く」とか、「それ、もうちょっと高いところに書いてよ」などと指示しながら、お菓子をむさぼり食うコウイチやマモル(見張り役を自称しているけれど、サボっているようにしか見えない)とふざけた話などをしていて、忙しい。ヤスオは、下書きが終わったらすぐに色を塗るために、ペンキのセッティングをしていた。 「おれ、やることないから、コーヒーでも買ってこようっと」 黙ってその様子を眺めていたリョウジが、突然そう言って立ち上がる。それを聞いて、皆が、私にもあったかいヤツ! とか、ミルクティーお願い! とか、緑茶か烏龍茶頼んだ! などと勝手なことを言い出す。 「しょうがねえなあ。全部覚えらんねえから、適当に買ってくる」 リョウジは笑いながらそう答えて、歩き出そうとする。それとほぼ同時に、アユミがわざとらしく大きな声で言った。 「リョウジくん一人で持ってくるの大変でしょう。ユミコ、一緒に行ってきなよ」 続いてみんながけしかける。 「そうだよ。ユミコ、何もしてないし」 「行ってこい。俺ミルクティーな」 「急がなくていいから」 「そうそう、ゆっくりしてきていいよ」 皆のわざとらしい言い方で、鈍い私はようやく気が付いたのである。誰にも話していなかったのに、ばれていたのだ。私が、密かにリョウジのことを好きだということが。 何も言えず、私はリョウジの後をついていく。夜空の下では、顔が赤くなっているのが解らないのが幸いだと思った。 閉ざされている校門の脇のフェンスに、壊れたまま直されていない隙間がある。何度も授業を抜け出して、ここから外に出たけれど、私たちはもう二度とそれをすることもないのである。 いろいろな思いが渦巻いた結果、恐ろしく会話が少ないまま、私はリョウジに続いて、その隙間から校門の外に出た。いつもの学校が、いつもと違ってみえるのは、夜のせいか、卒業式前夜のせいか。 「本当に、明日、卒業式なんだね」 私は独り言のようにつぶやく。 「お前、これからどうするの?」 彼は私の独り言はさておいて(全く関係がないわけでもないが)、話を転換して返してきた。私は首を傾げて答える。 「何も考えてないよ。リョウジは、大学に行けそうなの?」 「九割方、落ちたよ」 「本当に? でも国立だから、後期もあるよね。まだしばらく大変だあ」 「後期は受けないよ」 私は、曖昧に「ふーん」と言って黙る。 リョウジが浪人をするのなら、私も一緒に予備校に通えたら楽しいかもしれない、とは思う。だけど、どこの大学で何をしたいのかすらまだわからない私には、浪人をすることがそう有効とは思えない、という気持ちも認めざるを得ないのである。そこで、私はリョウジに質問してみた。 「リョウジは、将来の夢って、ある?」 「夢ってほどでもないけど、あったかい家庭を作りたい」 「女の子みたい」 「マジだよ。うちの親父とか企業戦士でさ、全然家にいないの。小さい頃から、遊んだりどっか連れてってもらった事がなくてさ。だから、自分の子供にはそんな思いをさせたくないわけよ」 闇の中で煌々と光る自動販売機の前に立って、リョウジは百円玉を一枚入れた。硬貨独特の金属音が響く。 「リョウジは経済学部志望でしょう? なんでそれを勉強したいと思ったの?」 「なんとなくだよ。特に理由はない。大体、やりたいことなんて一生かけてゆっくり見つけてもいいんじゃないの?」 「そうかもね」 リョウジは、話しながらも動作を止めることなく、一枚一枚コインを入れては、『あたたか〜い』と書いてあるほうのボタンを押す。私は、落ちてくる温かい缶を、取り出しては抱え込む。 「うちの高校には、一流大学に入れば一流の人生が約束されてるって、信じてる奴らがまだまだいる。でも、もうそんな時代じゃないじゃん。要は、自分が自分としてちゃんと確立してないと。だから、やりたいことを見つけるために、四年間、親に無駄な金を浪費させて、俺は大学に行くの」 「ふふ、良い考えだね」 八本目の缶が落ちてくると、この場所には再び静寂が訪れた。自然と、会話も途切れる。 リョウジは黙ったまま、私の手の中からまず二本の缶を自分のダウンジャケットの左右のポケットに一本ずつ入れ、どうするのだろうと思っていると、私の後ろに回りこみ、私のダッフルコートのフードに収めてしまったのである。 「やっ、何するの。ちょっと、重いよぉ」 私は抗議したけれど、リョウジは少し笑っただけで、私の言葉は無視して言った。 「で、この前の返事なんだけどさ」 「え?」 急な話の展開に、心の準備をする暇もない。この前とは、バレンタインデーの事に違いない。私はその日、リョウジにチョコレートを渡して、卒業したら会えなくなるのが寂しくて堪らない、と告白したのである。 「とりあえず、俺と浪人しない?」 彼は、古臭いナンパのような口調で、少しふざけた感じでそう言った。私が言葉を見つけられずに固まっていると、彼はさらに付け加えるように言う。 「ユミコみたいな奴と一緒に勉強すれば、浪人生活もそれなりに楽しいような気がするからさ」 そう言いながら、もうリョウジは歩き出す。早く何か言わないと、すぐに皆がいるところに戻ってしまう。言葉を搾り出せない自分の脳味噌が忌々しい。 少し出遅れた私は、リョウジを追いかけるように小走りをして、それからようやく何か思いついた気になって、言った。 「一緒の大学、目指してもいい?」 リョウジは「言っとくけど厳しいよ」などと言って、笑った。 八個の缶コーヒーやらお茶やらを買って戻ってきた時には、すっかり下書きが終わって、ヤスオが中心になって、色とりどりのペンキを塗ったくり始めたところだった。 「遅ーい!」 わざとらしくミカが叫ぶ。ニヤニヤしながら。他の皆も、黙ってはいるけれど、表情は同じである。 「ユミコ、襲われなかった?」 アユミが少しはしゃいで言う。 「俺はコウイチと違って紳士だからな」 リョウジは落ち着き払って、そんな風に言う。私はそんな彼を見ながら、ついさっきまでしていた会話の内容を咀嚼した。誰かに聞いて欲しいけれど、誰にも言いたくない。 そんなことを考えている間にも、皆は口々に下らない会話を交わしつつ、順調に作業を進めていった。下書きに忠実な黒い線。その線と線の間を埋めていく鮮やかな色。ヒサノが赤を、アユミは黄色を。ヤスオはとにかく隙間を青く染めてゆき、マモルとコウイチは、刷毛を取り合っては緑色に塗りつぶす。原色ばかり用意したから、全体を見てどうなるのか、想像がつかない部分があったけれど、驚くほど綺麗にまとまって見える。不思議だ、と思う。 赤は単に赤でありながら、絵の中では花になったり、実在しない奇妙な形の生き物となるのである。それは当然のことかもしれないけれど、今の私には、とても新鮮な発想に思えた。 たぶん、私も同じである。 皆も。 塗るという作業は意外と楽しいらしく、夢中になっているためか、下書きを書くよりもずっと早いペースで、壁の芸術的な落書きは、ほぼ完成した。皆の筆使いが意外と上手いのか、ペンキが下へ垂れてしまうこともほとんど無く、かなりの出来栄えである。 最後に、絵の右下に黒のペンキで今日の日付を入れよう、という話になった。 「今日、一度もペンキ使ってないでしょ」 ミカが、そう言って黒のペンキと刷毛を私に渡す。 「そうだよ、ユミコ、自分で落書きを企画したくせに、見てただけだったろ」 ヤスオもそう言うので、私は壁の絵の最後の仕上げという重要な役を引き受けた。私が壁に数字を書いているところで一回、そのあと、いよいよ仕上がったところでもう一回、ミカがシャッターを切る。さらに、ミカは皆に指示する。 「じゃあ最後に、皆でこの絵の前に並んで。集合写真を…」 「待って、静かに」 ミカの言葉は、マモルによって遮られた。何、どうしたの、と私たちは小声で言い合ったのだが、何も言わなくてもすぐにその意味は理解できた。夜勤の警備員の持つ懐中電灯の光が、私たちのすぐ近くのガラス窓に反射したのである。 場の空気は、一気に緊迫した。私たちは焦ったが、顔が割れる前に静かに退散しなければならなかった。ペンキの空缶もお菓子の食べ屑もそのままで、私たちは会話も無く、半ばしゃがみながら早足で歩き、とにかく校門の前を目指した。 そして、校門の外に出て立ち上がった私たちは、一気に校門の先の坂を駆け下りた。 夢の中の出来事みたいだ、と思った。急に走ったりしたせいもあるんだろうけれど、体中が興奮して、小学生にでも戻ったように、一生懸命走った。このかけっこは、予想通りリョウジの優勝だった。 それから私たちは、まるでいつもの帰り道のように(どことなく、『いつも通り』を装ったような空気が流れていたのであるが)普通の会話をしながら皆で駅まで歩いた。そして、特にどこに立ち寄るでもなく、 「また明日」 と言い合って、それぞれ自分の家に帰っていった。 私はその夜、色々な種類の興奮が身体に残っていて、ついに寝付くことが出来ないままで、朝を迎えてしまったのである。 だから、卒業式の写真の私の目はひどく腫れ上がっていたのだけれど、それは、決して卒業するのが悲しくて泣いたためではないのだ、ということを、今後、何度も何度も弁解しなければいけないのだろう、と思う。 |