ドリーの死んだ日




佐東 朋






僕は今でも割とはっきり言うことができる。ドリーの死んだ日は特別な日だった。
もちろん僕はドリ−と何の関係もない。ただ、見落としてしまいそうなぐらい小さな 記事を読んだだけだ。世界初のクローン羊ドリー、予想よりもはるかに早く死去。遺 伝子に何らかのトラブルが発生したものと思われ、現在も原因究明のため研究が続け られている。
僕は少しため息をついて、横たわる父の方を見た。彼の顔にかかる真っ白な布のせい で僕は正座していなくてはならなくて、それが少し気に障った。窓の外では雨が降り 続ける。じとじとしていて、嫌な季節だ。この気候じゃ死体が腐りやすいから早く火 葬を済ませなければと、親戚の人たちはやたらに忙しそうである。彼らの発想はなか なかのものだ。父さんが腐るなんて、僕にはちょっと想像できない。
父さんは1週間ぐらい前から意識がなかった。心臓だか脳だかが悪かったらしい。血 筋なのだ。祖父も祖母も、母方の祖父もこれでやられた。僕の人生もたぶん似たよう な終わり方をするのだろう。
父さんの最期の1週間は、まるで眠っているような日々だったらしい。僕はほとんど 側にいなかったけれど、心臓が止まった瞬間は偶然良合わせた。集中治療室から医師 が出てきて、手は尽くしたのですが、残念です、とつぶやくように言って、親戚連中 は完璧なタイミングですすりあげた。僕の肩に手を置いた人もいた。今思い出しても つまらない一瞬だ。僕は今一つその雰囲気に乗り切れなかった。雨はまだやまないら しい。だんだん霧のような、細かい細かい雨になっていく。
ふと、戸がかたんと音をたてて開いた。ぬいぐるみを山と抱えた由香子が立ってい る。
「お兄ちゃん、ちょっとこれ持って」
由香子の小さな顔は、"くまのプーさん"やら妙なうさぎやらに埋もれてほとんど見え ない。
「おまえ何やってんだ?」
僕はぬいぐるみをいくつか持ってやり、由香子を父親の枕元に座らせた。
「お母さんがね、お兄ちゃんがずっとお父さんについててあげてるから交代してきな さいって言うの」
「ふーん、で、このぬいぐるみは?何?」
「だって一人だと怖いんだもん」
どうやら由香子は"死体"が怖いらしく、たくさんのぬいぐるみを両腕に抱え込んでい る。僕は少し笑った。よく考えてみると妙な話かもしれないけど、無理もない。今目 の前で寝ているのが、由香子にとって父さんではなくて、ただの腐っていく肉のかた まりだとしても仕方のないことなのだ。
「由香子ありがとう。今なんか飲み物持ってくるから、2人で父さんの側にいよう な」
「うん」
由香子はプーさんをぎゅっと抱きしめたままうなずいて、まるでにらむみたいに父さ んを見ている。僕はそのとき、窓の外に降る霧のような雨を見ながら、やはりドリー のことを思った。科学的に予想されていたのよりずっと早く訪れたドリーの死。無言 で椅子に座り込んで、ぐったりとする研究者たち。その光景は、目の前に横たわる親 父よりはるかにリアルだった。最先端の科学と原始的な悲しみが交錯する薄暗い部 屋。若い研究者は決してその悲しみを手放してはいけないし、誰一人それを失っては いけないのだ。僕はその時、初めて涙が流れるのを感じた。