相手の目を見て話せません


上松 弘庸


  大きな拍手が起こっていた。大きな大きなホールの中。観衆の誰もが満足した顔持ちで此方を見ていた。白髪の背の高い老人や、緑の服を着た日焼けした男の子、和服を着た少し太った婦人、車椅子に座ったままの痩せた老婆。彼らは誰を見ているのだろう。
 「見事な演奏でした」
  私は声が聞こえた方向に振り向いた。しかし、そこには誰もいなかった。確かに若い男の声が聞こえたのだが。
 「本当に、見事な演奏でした」
  彼の声は空を彷徨っていた。
 「見事な、演奏?」
  彼の言葉を受け止める事ができるかどうか分からないが、私は浮遊している彼の言葉に自分の言葉をぶつけようと試みた。自分が言葉を発したという実感が私になかったのは、彼の言葉が私に発せられたものではないからだろうか。私の声も、彼の声と同じく空を彷徨っていた。
 「ところで」私は続けた。
 「水を戴きたいのですが。先程から喉が渇いて仕方がないので」
  急に静まり返ったホールの中を見回して驚いた。誰もいなくなっているのだ。白髪の老人も、緑の服の男の子も、和服の女性も。ただ一人、車椅子の老婆だけがポツンとこの広いホールに取り残されていた。老婆は此方を見ていた。が、老婆を見た瞬間、彼女の顔に何かが欠如しているように私は感じた。決定的な何かが欠けているのだ。彼女の顔は能面のように、いやそれ以上に表情に欠けていた。その原因が彼女の顔の、欠如している何かに起因しているのはほぼ間違いないだろう。彼女の顔は、全体として、微笑んでいるように見えなくもないのだが…。
 「水を戴けないでしょうか」
  私は恐る恐る老婆に尋ねてみた。沈黙。
 「喉が渇いて仕方がないのです」私は泣きたくなってきた。何故、誰も私の事を理解してくれないのだろう。私は、ただ此処で今すぐ水を飲みたいだけなのに。喉の渇きを潤したいだけなのに。
  沈黙。
  こんな、理不尽な事があるだろうか。私は今、何処にいるのか分からない。何年の何月何日かだって分からない。ましてや、自分が誰なのか、名前さえも分からないのに。私に分かるのは、たった一杯の水が飲みたい事だけ。他に一体私は何を望んでいるのだろうか。自分の考えで、唯一私が認識できる事が喉の渇きを癒す事。他に、何をしなくてはならないかは分からないが、水を飲まなくては次に進めないのだ。水を、私に。
  沈黙。
  私はおかしくなってしまったのだろうか。水を飲んで、その後私は一体何をするつもりなのだろうか。私は、私は一体私の意志を理解しきれているのだろうか。私は、私は、私は。
  沈黙。
  老婆の顔には目が無かった。その事に気が付いた私は、いや、その事に気が付いていなかった事に気が付いた私は、奇声をあげながら倒れてしまった。気を失った私に、聴衆が駆け寄った。車椅子の老婆だけは、何が起きたのか理解できない様子だった。


  そうか、と今になって私は気が付いた。自分を演じていただけなのだ。
 「私は―」彼に向かって私は訪ねた。「私は、上手く自分を演じきれていただろうか」
 「ええ。本当に見事な演奏でした」
  何故演技ではないのだろう。何故演奏なのだろう。私の姿は、彼らに見えていないのだろうか。私は何処にいるのだろうか。私は、誰なのだろうか。老婆の眼窩には相変わらず眼球がなかった。一体、彼女が私を見る事ができないのか、私が彼女を見る事ができないのか―。

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