ぶつかった拍子に雨がこぼれた ぶつかった拍子に雨がこぼれた。 慌てて拾おうとしたが、無駄だった。雨は実態があるようでないようで、とても掴み所がなく、拾おうとしても指の間からすり落ちてしまった。いけない、そう思いポケットからハンカチを取り出して雨を滲み込ませた。こぼれ落ちた雨の量が少なかったのが幸いして、雨を全てハンカチに滲み込ませる事ができた。 ぶつかった相手はというと、物欲しそうな顔をして私の雨を眺めていた。 「もしかすると、貴方は蛙ですか?」 相手の動揺するのを見て、私はしまった、と思った。彼が蛙なのは一目見れば分かるのに、なんで私はわざわざ聞いてしまったのだろう。 彼の顔は見る見るうちに赤くなって、喉元が急速に膨らんできた。まるで風船みたいだな、なんて思っていると、彼の体が徐々に浮かんできた。危ない、口を開けて風船の中に入っているガスを全部吐き出さなければ、と思ったが、彼は口を横一文字に閉めたまま、喉元を膨らませ続けていた。苦しいのか、小刻みに震える彼の顔はさらに赤みを増してきた。彼はもう私の身長よりもずっと高い所まで上がっていた。もう、彼の体のほとんどは、大きく膨らんだ喉元で隠れてしまった。私は次第に堪えきれなくなって、ついに声を出して笑ってしまった。蛙は私に笑われた事が我慢ならないらしく、さらにさらに風船を膨らませた。彼の体は遥か彼方まで上昇して、そして破裂した。 さて、私はというとハンカチから雨を搾り出さなければいけなかった。しばらくハンカチを搾ってみたりしたが、当然そんな事をしても一度滲み込んだ雨は滴り落ちなかった。仕方なしに、私はハンカチを振り回した。かき回された世界が渦を巻いて私を覆った。私は飲み込まれてしまった。 2 螺旋 「許して下さい」 私はもう泣きじゃくっていた。見栄も外見も、尊厳もなにもありゃしなかった。息子は私のそんな姿に慈悲をかけるでもなく、何のためらいもなく月を割った。 粉砕された月の欠片が、悲鳴を上げて四方八方に飛び散った。 私は絶望のあまりその場を動けなかった。満足したのか、息子は去っていった。 長い年月が経った。私は年老い、もう生きるのが辛くなってきた。月の欠片は再び収束して、なんとかそこに存在感を示していた。私は久々に息子の気配を傍で感じながら、息絶えた。 3 呆 少し離れた所から、水車と風車がやってきた。 「ここには小川のせせらぎはありませんね」 「全くです。風も吹いていませんし、なんて酷いところでしょう」 「所詮、こういうものなのでしょうか」 「そうかもしれません。こういうものかもしれません」 「不満ですか」私は尋ねた。 すると水車も風車も頷いた。 「でも、洪水や台風よりはましかもしれませんよ」 私がそういうと、水車も風車も黙り込んでしまった。 遠くで烏が鳴いた。 4 馬と鹿と獏と孤独 よく見たら、悪霊だった。 鏡に映っているのは、私ではなくて、唯の悪霊だった。 5 平安 カタカタカタ…。 音が聞こえるが、何処から聞こえてくるのか分からない。よもや私の頭の中から聞こえてくるのではあるまいか。気になって眠る事さえできない。彼人はというと、私の隣ですやすやと寝ている。何処からともなく聞こえてくる「かたかた」という音に流されて、私は私と逸れてしまった。 カタカタカタ…。 流されて流されて、湖の底と風の上に流れ着いた。湖の底に流れ着いた私は呼吸をするのも忘れ、お気に入りのワンピースが濡れた事ばかり気にしていた。絞っても絞っても次々に湖の水がワンピースに染み込んでいくし、ああもう、こんなんじゃ埒があかないじゃないの、そう叫んで湖の中の水を全部飲み込んだ。水のない湖の底で私は、自分の無力さをじんわりと肌で感じていた。風の上に流れ着いた私の話もしたいけれど、何故かよく覚えていない。何故だろう?私じゃなかったのかな? カタカタカタ…。 彼人は目を覚まし、そしてとろんとまどろみ、ほんの少し伸びをした後、すたすたと意識の内側に進んでいってしまった。本当は私が戻るまで待って欲しかったけれど、すたすたと意識の内側に進んでいってしまった。私は「かたかた」の中で相変わらず迷子になっていた。私は私を探していた。彼人が私を探しに来てくれない事に悲しみながら、私は深い眠りについた。 6 英知 本当は行き止まりじゃなかった気がする。本当はまだ先に道があった気がする。引き返そうかと思いやなんだが、結局やめた。後悔はしていない。過程が違うだけだ。 可能性と共に、私は先へ進む事にした。今の所、私はまだ重要ではなかった。 |
→ 目次へ |