真夏のフィルム
時々、息抜きしようと沙良を誘って、誰も居ない校舎に忍び込んだ。夏休みなので当然誰も居ない。人が居ない教室というのは不思議な空間だ。 休み時間はいつも女の子たちが騒いでいて猿山みたいにうるさくて、どこへ行ってもノイズに満ち溢れていて、それを疎ましいと思いながらも私もその中で、猿山の一角になっていた。猿たちの話題は大抵、誰かの悪口や、どうでもいい内容だ。 でも今は、何もかもが一瞬にして消えてしまったような。異空間に飛ばされて自分の体さえも消えてしまったような、自分が頼りなくちっぽけになったような気がする。誰も居なくていいから、騒音が少しでもあればいいのになと思う。 なるべく音を立てないように裸足のまま階段を上り、そんな空っぽの教室の淋しさを通りすぎて、いつもの場所を目指す。締めきられた屋上に続く階段は、下の階とはつながっていないため、見回りの教師も来ない。小さな窓から運動場を見おろして冷たい廊下にしゃがみこみ、よく2人で何時間もおしゃべりしていた。 ある日黙り込んだ瞬間に、私たちは見つめあった。その前後、何の会話をしていたのかは忘れたが、きっとたわいもないことだったと思う。 オハヨウ。じゃあまたね。と挨拶を交わすのと同じぐらいの自然さで、沙良が私にキスをした。生まれて初めて感じた、人の唇の温かさ。そのあまりの気持ちよさに全身の力が抜けて、私は身動きが全くできなくなってしまった。 麻痺してしまった体とは逆に神経はどこまでも研ぎ澄まされていて、沙良の全てを強く欲しいと思った。でも何故か沙良を好きという気持ちや、キスだけではなく全てが欲しいと思ったことは、口に出してはいけない事のような気がした。 何事もなかったかのようにかろうじて動く口を使い、おしゃべりを続ける。ごまかしきれない瞬きの多さに、沙良は気付いていたのだろうか。 吹奏楽部のトロンボーンが、同じ音を何度も繰り返し、練習していた。 暑くて死にそうな日には、2人でよく学校のプールに忍び込んだ。水泳部が居ない夕方を見はからって、2人きりで水着になって泳ぐ。 泳ぐのに疲れたら、太陽の光が消えるまでの数時間を惜しむように、まだ熱いアスファルトの上に水をまいて寝転ぶ。生ぬるくてなんだか心地いい。 強いカルキの匂いと、セミの声に包まれる。とてもしいんとしていて、世界に2人きりしかいないような気がして、私はとてもシアワセな気持ちで沙良の首筋や肩に流れる滴を見つめる。沙良は仰向けになって、目をつむっている。 小さな胸のふくらみが、わずかに上下する。その滑らかな動きにあわせて私も呼吸をしてみる。けれど、沙良の呼吸はあまりにゆっくりしているので、陸にあげられた魚みたいに苦しくなって、何度も大きく深呼吸をする。 私は気付かれないように音をたてないでゆっくりと、手を伸ばす。どうにか沙良につながりたくて、その長い髪の先に、キスをするように優しく触れる。指先からじいんと伝わる熱が全身に伝わって、意識が遠のいてゆく。きっと私の体温は少しずつ、上がっているのだろう。 空気よりも太陽の光よりも熱くなった私の身体は、夏の温度にはもう同化できない。今、混ざり合いたいのは沙良だけ。他には何もいらない。そう思うと私はひとりぼっち、夏からも沙良からも取り残されたみたいで恐くなった。混ざり合いたい。 上半身を起こしてじりじりと沙良に近づき、つぶさないように腕で自分の身体をささえながら、そっとキスをする。沙良は少しピクンと反応したけどそれっきり、目を閉じたまま私の動きに身を任せている。 力が入っていない自然に閉じられた唇をそっと割って、舌をすべりこませる。甘い果実のようにいい匂いがして、私の温度より冷たくてきもちいい。味わいながらゆっくりとかきまぜると気持ちよくて、自分の身体がゼリーみたいになってドロドロに溶けるんじゃないかと思った。 舌を抜き、沙良のまぶたやほっぺたや鼻、顔中にキスをする。少し体重をかけると水着越しに身体の柔らかさを感じる。沙良は身動きせずにじっとしている。滑らかな細い首筋にそっと歯を立てる。耳元には沙良のため息が流れ込んでくる。苦しい。苦しい。沙良が好きで苦しい。 身を起こして私を狂おしくさせてしまうその身体から離れる。何故か面白いほど涙が出てきて止まらなくなった。目を閉じて泣き続けていると、頬に涙とは違う温かさをかんじた。それは私の涙を掬い上げてくれる、沙良の舌の感触だった。 私たちは見つめあい、もう一度キスをした。長い長い間、お互いの舌を軟体動物のように絡み合わせた。 ある夜、あまりの暑さに眠れずに目がさめた。時計の針は夜中の3時をまわっていた。びっしょりとかいた汗が肌にはりつき、どうにも眠れそうになかった。私は誰にも見つからないように裸足で廊下を歩き、沙良の部屋に行った。沙良は夜更かしをするのが好きだったので、やはりその日も起きていた。 あまりに蒸し暑くて、窒息しそうな金魚蜂の中の金魚のようだった。明かりを点けると叱られるので、わずかなペンライトの黄色い光だけがチカチカと揺れる部屋で何をしゃべるでもなく、じっとしていた。 狭く苦しい夜だった。飛び出したら死んでしまうかもしれないと言われたとしても、金魚蜂から脱走したくなった。2人して夜の窓をくぐる。 外はじっとりとした暑さも圧倒されるほど広い闇で、一人だと自由すぎて怖いほどだっただろう。だけど沙良と一緒なら、恐くはなかった。 曇っていて月も星なくて暗い夜だったから、沙良の顔はおろか自分の体すら見えないほど真っ暗だった。汗をかいた手を、いつのまにかお互いに握り締めていた。スニーカーが踏みしめる土のジャリジャリというかすかな音が、妙に大きく響いた。 遠くの街明かりは空を白く映し出すほど明るくて、くっきりとその輪郭が見えた。近くのものは何も見えないのに遠くはよく見えて、なんだか不思議だねと沙良が言った。 闇の中では何もかもがあやふやで、汚いものもキレイなモノも全部混ざり合っていて、私は沙良と混ざり合っているような気がして嬉しかった。 何百メートルかおきに街灯にたどり着くと、あまりに明るく目がチカチカとした。闇になれてしまった体には異空間のように感じられた。街灯の下を歩くたびに重なり合った2人の影が、進行方向とは逆にすべるように移動していった。 その影を何度か追い越すたびに私はなんだか神聖な気持ちになった。どこまでも歩いてゆけそうな気がした。 「沙良のことが好き。」 少しも風のない川沿いの道で座り込んだときに私は言った。正直な気持ちが自分でも気付かないうちに、言葉となって発せられていた。 沙良は私の顔を見た。わずかな街灯の明かりと闇になれた目が、その表情を映し出していた。ひどく悲しい目で私をしばらく見つめていた。私は人形のように動けなかった。音もなく少しの時間が流れた。 「好きってどんな風に?」 「世界中で一番好き。沙良がいないと生きていけないぐらいに。」 沙良は少し怒っているようにみえた。私を捨てて出て行った母に追いすがったときのような気持ちで、不安でたまらなくなった。永遠に沙良に、会えなくなるのではないかと思った。私は間違ったことを言ってしまったのだろうか。 「どうして怒ってるの?」 「私は誰のことも好きにならない。好きになれないの。ごめんね。」 空の遠くに飛行機のランプがチカチカと点滅していた。あそこからは私たちは見えないんだろうなと思った。私もあの中に居たらよかったのに。この瞬間から抜け出せたらいいのに。何も考えずに空調のきいた狭い座席に座って眠っている人たちに混ざりたい。 沙良と一緒に過ごす時間が重くつらくて、逃げたいと感じたのは初めてだった。さっきまであんなに親密に感じていた2人の空気とは何だか決定的に違っていた。とうめいな空気の壁が横たわるのをかんじた。もう二度と、その壁が取り払われることはないだろう。 好きなんて、いわなければよかった。痛いくらいの後悔が身体中をつきぬけて、私は身動きできない。 「あなたとキスしたのは、キスしたいと思ったからよ。だけどそれと好きになるということとは関係がないの。 女同士だからっていうわけじゃないの。ただ私は、人間を好きになるという気持ちがよくわからないの。誰のことも一度も好きだと思ったことがないし、心からイトオシイとか、そういう気持ちになったことがないの。私はそういう人間なの。」 私のことを決して嫌いなわけではないだろう。だけど沙良は誰のことも受け入れはしないのだ。最初からそれは決まっていたことだったのだ。私が求めるものは決して沙良とは混ざり合わない。だけど私は沙良のことを愛している。 私はたったひとつの世界から見捨てられたような気持ちになって気がつくと泣いていた。 「ごめんね。私は心が皆とは違うの。だけど好きって言ってもらえてすごく嬉しい。」 こぼれるように溢れ出した気持ちでするりと、私の身体はほどけた。しがみつくように沙良を抱きしめた。沙良は受け止めるでもなく拒否するでもなく、抱きしめられるがままになっていた。 その身体は温かくて柔らかかった。夏の温度と湿度が私の身体を溶かそうと、汗をかかせていた。だけど私は凍えて震えていた。 制御不能のロボットみたいに、ぐちゃぐちゃに暴れ出して叫びたかった。 私は、 微笑むことも忘れるぐらいに、精一杯の恋をした。 次のひとこまひとこまを、録画するみたいに目も耳も鼻も感覚も心も使った。 消すことが出来ずに憎むことにした。 凍える身体でいっぱいに手を振った。 それが本当の恋だなんて思わないと最後に言って別れた。 真剣に真剣な顔をして別れた。 「次のフィルムはもういらないね」 「網膜も刻めないからね」 「嘘ついたことごめんね」 「夜の匂いがするね」 「夏の匂いもするね」 まだ終わりたくない。終わらせたりしない。 私は何があろうと生きてゆける。そしてこの身体からあなたを産む。 何度でも、私が再生してみせる。 |