ひなたぼっこ




美咲







 私の恋人は藤次郎っていう古臭い名前で、私はトウちゃんって呼んでいる。まるでお父さんみたい、という意味も含む。トウちゃんはまだ25歳なのにちょっと頭が薄くて見た目45歳ぐらいで、一緒に歩いていて父と娘と勘違いされたこともある。エンコウみたいに見えるかなと言ってトウちゃんを悲しくさせたこともある。
 だけどねトウちゃん。私はオヤジくさいという意味だけで呼んでるんじゃなくて、ファザコンでもなくて、トウちゃんは心が広くて優しくて大人で、大好きって気持ちを込めて呼んでるからねって言うとトウちゃんはそれ以来、そう呼ばれることについては何も言わなくなった。


 今日は私たちの住む小さな街の中心に大きな観覧車ができたので、それに乗る約束をしている。待ち合わせの時間を少し過ぎて走ってくるトウちゃんに、私は大きく手を振る。でも意地悪な信号はもうちょっとの距離で突然赤になる。でもトウちゃんは歩道橋を昇って遠回りして走ってきてくれる。
 私は嬉しくて大きく両手を広げて、私の胸に飛び込んで来な、クルクルーってまわしてあげるよという素振りを見せてみたけど、さすがに街の中でそんなことはできないらしくて笑っている。
 観覧車のあるビルの屋上に昇ると、長蛇の列。寒空の下、45分も待たないといけないという。でも時間ならいくらでもあるからね。
 私は待ち合わせにちょっと早く着きすぎたので、お店でチュッパチャップスを買っておいた。チュッパチャップスのオレンジ味が好きなのだ。ピーチ味をトウちゃんに渡すとかなり恥ずかしがっていたけど、いっしょに舐めてくれた。
 「ねえねえ。どっちが早く舐め終わるか競争しようよ。もちろん、噛んじゃダメだよ。」
 「え〜、僕はやめておくよ。恥ずかしいし。」
 眉根を寄せて口をとんがらせて、じいっとトウちゃんの顔を見つめていると、トウちゃんは短く首を振ってあきらめた。優しいのだ。
 「負けたら晩御飯おごりね。カーン。」
 私の開始のゴングと共に、トウちゃんはいきなりチュッパチャップスの棒を持ち、激しく上下に振ったり回したりし始めたので、笑いが止まらなくなって皆の注目をあびてしまった。そんな本気になるとは思ってなかったから。私も負けじと舐めまくる。
 後で考えてみるとなんかやらしいゲームだよなあ・・・と思ったけどその時は何も思わず無心で舐め続けた。途中で舌が痛くなって腕もダルくなったけど、無言で舐め続ける2人。こうやって真剣に勝負してくれること。くだらないことって笑わないでいてくれることが、すごく嬉しかった。結局私が勝って、トウちゃんは悔しがっていた。
 観覧車に乗り込むと、風が強くて少し揺れていた。トウちゃんは高所恐怖症のハズだけど大丈夫なのかな?と思って様子を見ていたけど、普通に写真なんて撮ったりしていた。
 安心して写真をとったり、天辺の人が居ないところで座席を移動しておきまりのチュウなんてしてみたり、夜だったから夜景をバックにロマンチックな観覧車の小さな旅を、心置きなく楽しんだ。
 でもゴハンを食べながら、実はトウちゃんはすごく恐くて、私が席をかわったり写真を撮るために立ち上がったり歩いたりするたびに、気が気ではなかったって言うのでびっくりした。そんなそぶりはちっとも見せなかったのに。
 トウちゃんはデザートのいちごも食べ終わって、じいっと私の顔を見ている。アレアレ、いちごってどうやって食べるんだっけ?って私は突然緊張する。どうしよう。ええい、一気に食べて笑っちゃえ。ってニコッってしたら、口の端からピってイチゴの果肉が出て笑われた。トウちゃんの笑顔は世界一かわいいので、まあいいかと思った。


 毎日が飛ぶように過ぎていく。トウちゃんに会えない日は不自然な王国の不自然な住人の私。そこで起こる全てのことが、ニセモノような気がする。今はトウちゃん以外のことはどうでもいい。そんな毎日。


 今日は一人暮らしのトウちゃんに味噌汁と焼き魚と親子丼を作ってあげようと思って、早起きしてスーパーで買い物をした。
 夕方、トウちゃん家の台所に立つ。自分の家よりすっかりなじんでしまった台所で、私はネギを刻む。そしてなんとなく思い出してしまった。前に付き合っていた人のことを。
 彼はネギを刻まなかった。冷凍のネギを買ってきて、それを使っているといった。料理なんてしなかったから、冷凍のラーメンやらチャーハンを温めて、それにネギをかけて食べていた。
 遠距離恋愛だったから私は料理を作ってあげたりもできなかったし、栄養が偏ってしまうことが気になったので、料理なんて簡単だし自炊ぐらいしなよと私は言った。ネギは冷凍のを買うよりも、生のを買ってきて冷凍したら安いから、せめて刻むぐらいしたらいいのにと。
 「オレの給料を時給に換算すると、まあ大体2000円ぐらいかな。冷凍ネギは200円で普通のネギは100円とする。ネギを刻むのに、包丁とかまな板も洗わないといけないからまあ10分かかるとして、オレの単価だと2000円÷60分×10分で、333円だよ。冷凍のを買った方が安いでしょ。」
 彼はそういう男だった。私もそういう所が決して嫌いではなかった。浮気もしないしお金も将来性もあって優しくて、第三者から見て何の文句もつけようのない恋人だった。けど私は、時々息が苦しくなった。どうしようもなくそれに耐えられなくなることがあった。そういうときは空を見上げると、広い気持ちになれた。彼は言った。
 「オレはね、時間をお金で買ってるんだよ。」
 彼は余った時間で何をするのだろう。仕事のための勉強をしたり、難しいテレビを見たり有意義に過ごすのだろうか。ミヒャエル=エンデの「モモ」という小説に出てくる時間泥棒というのを彼は知っていたのだろうか。
 時間はお金で買うものじゃない。お金を時間で買うのだ。それが私の生きてきた環境で、生活だった。それは小さなことだけど、確かに超えられない壁だった。
 まだネギを刻むことに慣れない私は、ネギが目にしみて少し涙が出た。恥ずかしいからトウちゃんにバレないように早く刻んじゃおうと急ぐ。でもネギはなかなか切れない。トロくさいのでなかなか終わらない。思わず包丁を持つ手に力が入る。
 「あー!トウちゃん、来て。今すぐ来て。」
 間違えて自分の指を刻んでしまったので大声で叫ぶ。そんなに深くはなかったけど、血が沢山出てくる。トウちゃんが走ってやってくる。
 私の流血を見て青ざめて、カットバンをはってくれた。心配そうな顔をして、血がとまりますようにってお祈りしてくれる。
 「ねえトウちゃん。ネギの根っこのところ、庭に植えといてよ。」
 「うん。後で植えとく。」


 3月14日は言わずと知れたホワイトデー。その日はトウちゃんはお仕事がお休みだから、私の昼休みに会いに来てくれると言う。前日の電話で、何か食べたいものある?と聞くトウちゃんに、トウちゃんの手作りお弁当が食べたい!というとしばし黙り込み(よく黙り込むのだ。受話器の向こうできっと眉根を寄せている。)どんなお弁当でもいいんだねと念押しされた。
 その日はあまりにもワクワクして、"恋の呪文は〜スキトキメキトキス"という古いアニメソングを鼻で唄いながら会社の廊下をスキップしているところを同僚に見られ、前からヘンな人だと思っていたけどやっぱりねとあきれられた。
 誰に何を言われても頭に花が咲いた私には聞こえない。だって男の人にお弁当を作ってもらえるなんて嬉しいじゃないの。しかもトウちゃんは調理師免許も持っていて、洋食を作る仕事をしている。和食でも中華でも、何を作ってもすごく美味しい。
 12時の合図と共に階段を駆け降りる。会社から少し離れたところにトウちゃんの車が待っていてくれるのを見て、満面の笑みで全力疾走する制服のOL。散歩していたおじさんに、不気味がられてよけられても気にしない。
 そのまま近くの公園に行って、トウちゃんのお弁当を広げる。誕生日には年の数のバラを贈ってくれるような彼だから、どんなロマンチックな演出が待ち受けているのかとドキドキしてしまう。
 以外にも中から出てきたのは、オッサンみたいな弁当だった。私はオッサンみたいな食べ物・・・ナマコ酢とかレバ刺し等を好むので、それに合わせてくれたのだろうか。あとちょっと恥ずかしかったのだろうか、ホワイトデーに手作り弁当を作るというのが。そういえばさっきから目線が宙をさまよっている。
 お弁当の中身は、アジの開きをほぐしたのとザーサイの混ぜゴハン、タコさんウィンナー、焼きタラコ、から揚げ、キムチ入り卵焼きなどなど。
 「わあー、美味しそう。」
 「こんなオヤジくさい弁当でごめんね。急だったし。」
 「ううん。ありがとうね。嬉しい。」
 などとかわいらしく返事したあと、ウメーなこりゃ、などと言いながらガツガツ食べる。砂場で遊ぶ子供たちが、不思議そうな目で見ている。
 「ところでこのウィンナー、なんかヨボヨボしてるね。」
 皮がパリパリした茶色のウィンナーが上手にタコさんの形になっていたが、冷えてシワシワになっていた。
 「赤いウィンナー買いにいく暇が無くって。」
 トウちゃんは、恥ずかしそうに口の中でモゴモゴ言った。そのシワシワのタコさんウィンナーが、急にとても愛おしくなった。心の中にサーっと、温かい光のようなものが流れた。


 昼休みは毎日、ゴハンを食べたあとで20分ぐらいトウちゃんに電話する。晴れた日には会社の屋上に登る。遠くまで見渡せるからトウちゃんが居る辺りに向かって電話する。風の方向によっては、海の方を向く日もある。
 強い風に負けないように、手を話し口に添えて、雑音が入らないようにする。このままトウちゃんのところまで飛んでいけたらいいのに。そうでなくても受話器の向こう側は、近くて遠い。
 ふと、光る海の向こうから飛行機が飛んだ。私は見上げる。飛行機雲ができたよと、嬉しそうに報告する。でもその飛行機雲は、トウちゃんの家からは見えない方向だった。
 「青空にね、飛行機が足跡がつけていくの。トウちゃんにも見せてあげたいな。」
 がっかりする私に、トウちゃんは飛行機雲ができる訳を話してくれた。飛行機の排気ガスが原因でできる場合と、翼が大きいときに空気の渦ができるのが原因の場合があるらしい。
 「飛行機雲ができるってことは、上空の湿度が高いんだよ。すぐに消えたら大丈夫だけど、ずっと残ってたら雨が降るかもしれない。」
 「えっそうなの?なかなか消えないよ。」
 「あー、大気が不安定になってるから雨になるかもね。」
 風は強いけど雲もそんなに出てなくて、いい天気なのに。空の高いところはすごく寒くて、風がいろんな方向に吹いていて、乗っている人たちは大変なことになっているのかなあって少し想像した。だけど飛行機が白い足跡を残していくところを見れたらどんなに楽しいだろう。
 「飛行機からは飛行機雲って見れないのかなあ。」
 「うん。飛行機の速度が速すぎて見れないよ。」
 「そっかあ。残念。」
 「でも湿度が高いと、太陽の光によっては丸い虹が見えてるかもしれない。」
 「あ、それ私見たことある。飛行機の下の雲に小さな丸い虹が映ってて、その中に飛行機の影が見えたの。じゃああの時、私が乗ってた飛行機から、飛行機雲が出てたのかもしれないんだね。」
 トウちゃんは何でも知っていて、こんな風にがっかりした私をいつのまにか楽しい気持ちにさせてくれる。私もトウちゃんを、楽しい気持ちにさせてあげられてるのかな。