天は人の上にも下にも人を造る

―満月の夜―
( 4 )


佐藤 由香里







 眠れないまま夜は明けた。
 きっと私は弄ばれたんだ。そんなことにも気付かずに舞い上がっていた私は、なんて馬鹿だったんだろう。あんなやつ、物で釣らないと若い女に相手にしてもらえない、ただのおじさんじゃないか。
 そんなふうに頭の中では神崎への罵倒が止まらないのに、心の奥底では凍り付かずに残っていたひとしずくの愛情が氷の侵略と必死に戦っていた。まだ神崎のことを信じたいと思う気持ちがあることを認めると、そんな自分な腹が立った。昨夜は仕事で朝帰りだったはずだから、もうすぐ帰ってくるはずだ。どういうつもりなのか、神崎を責める前にそれが聞きたかった。

『 K・Kanzaki 』
 玄関のネームプレートにはそう書かれている。何度となく訪れた神崎の部屋。玄関を入るとすぐ右に下駄箱があり、その上にはダイレクトメールが山積みになっている。廊下の突き当りが広いLDKになっていて、手前のドアが寝室だ。ダブルベッドのせいで狭く見える寝室は、いつも厚いカーテンに光を遮られていて、密かな私達の関係を象徴する二人だけの場所だった。
 インターホンを鳴らすと、少しして鍵が外される音が響いた。半分だけ開いたドアの向こうに眠そうな顔の神崎が見える。眠りに就いたばかりのようだ。シャツとジーンズのままなのは、きっと着替える余裕もないほどに疲れていたからなのだろう。
「……なんだよ。今日来るなんて聞いてないぞ」
 神崎は大きなあくびをしながら言う。私は小さく、うん、とだけ返事をして中に入った。リビングに向かう私を無視して、神崎はもう一度寝ようと寝室に入った。

 リビングの角に投げ出してあるカーキ色のワークバッグに目が留まった。ポケットからは茶封筒が覗いている。恐る恐る開けてみると、中からは女の裸が写っている大量の写真が出てきた。どれも若い可愛らしい女の子ばかりで、彼女達はみんな苦痛で顔を歪めている。その中に、見覚えのある体を見つけた。これは……私だ。けれど私の写真だけ首から上は写っていなかった。写真の中にいる首のない女はまるで陶器のような白い肌をしていて、鎖骨から上にある美しい顔を想像させた。
 そう。きっと私はコレクションの一つに過ぎなかったのだ。そして顔が写ってしまっては、コレクション入り出来なかったのだ。なかなか凍らなかった愛情の最後のひとしずくは、とうとう氷漬けにされてしまった。もう、ほんの少しの温もりも残っていなかった。

 寝室に入ると、神崎は寝息を立てて気持ち良さそうに眠っている。
「ねえ、今日は私に抱かせてよ」
「んあ? ……ああ」
 きっと神崎は寝ぼけているんだ。けれど私にとってはその方が都合が良かった。手を伸ばしてシャツのボタンを外すと、ふわりと神崎の匂いが漂った。そしてベルトを外し、ジーンズとトランクスを同時に脱がせると、ますます神崎の匂いが広がった。いつもなら私の性欲を掻き立てるこの匂いも、今日ばかりは何の効力もない。ベッドは神崎の体温で既に温まっている。もしも陽美とのことを知らなければ、このまま神崎の隣で眠りたいほどのぬくもりだ。ベッドに滑り込み、持ってきていた麻縄で神崎が目を覚まさないように手早く両手足をベッドの足に固定した。以前仕事で使っていたこの縄で神崎を縛ることになるなんて思いもしなかった。少し引っ張って確認する。大丈夫。ちゃんと縛れている。
 ベットの中でもぞもぞと動き回る私に気付き、神崎はようやく目を覚ました。けれど、それはもう全てが終わった後だった。神崎は、自分の自由が奪われていることに気付いて目を丸くしている。
「おい、なんだよミヅキ。一体これは何の真似だよ」
 その質問には答えずに私は神崎を見下ろした。まるで神崎を射抜いてしまうのではないかと思えるほど鋭い視線で。私の視線にただならぬ気配を感じたのか、神崎は身をよじって拘束を解こうとした。無理だ。動けば動くほど縄は食い込むように結んでおいたのだから。私は先ほど見つけた写真を神崎の頭上からばら撒いた。裸の女達に押し潰されている神崎は、その隙間から許しを請うような表情で私を見つめる。
「聞いてた通り、確かになかなかの腕前じゃないの」
「聞いてた通り?」
「ねぇ、あんたさ、陽美って知ってる? カメラマンから高価なプレゼントをもらって喜んでいる、モデルの桐島陽美」
「え……」
「そういえば私のフルネームを教えてなかったね。私の名前は桐島満月。桐島陽美は私の双子の妹よ」
 神崎は小さく、うそだろ、と呟いたが、やがて何かに吹っ切れたように肩を震わせて笑い出した。
「まさか彼女の姉さんとはな。全然似てねぇから油断してたよ。いや、プレゼントするには金が要るからさ、ちょっとばかり女の子達に協力してもらって、その手の雑誌に投稿してたのさ。運良く賞に選ばれればけっこうな額の賞金がもらえる」
「じゃあ、やっぱり……」
「もしかしてお前、本当に俺に相手されてると思ったのかよ。おめでてぇな。自分の顔を鏡で見てみろよ」
 凍った心は、その神崎の言葉の衝撃を受けてぱりんと割れた。粉々に砕け散った心は細かい破片になり、もう元には戻せない。私の心は失われてしまった。所詮人間なんてそんなもの。誰のことだって信用できないのだ。

 右手の指先で仰向けになった神崎の体をなぞる。力の抜けたペニスを通り過ぎ、その下に位置する穴を確認すると、私は中指をゆっくりと押し入れた。神崎は小さく喘いで体を硬直させる。ペニスはまるで生き物のように動き、あっという間に膨張する。
「ちょっと。力を抜いてよ。探せないじゃないの」
 指で神崎の体内をまさぐる。まだ見つからない。神崎のそれはまだ奥なのだろうか。そんなことを思いながら指を侵入させると、上手い具合に前立腺を刺激したらしい。神崎は大きな呻き声をあげて勢いよく射精した。
「お前、なんで、そんな……」
「みくびらないでよ。私はこれで生活してたのよ」
 そう言いながら、手足を縛って余った麻縄をしぼんだペニスの根元にくくりつけた。きつすぎず、緩すぎない程度に。もしもこのまま勃起すれば、膨張したペニスに縄がくいこんで、紫色の痕を残すだろう。けれど同情はしない。私はそれ以上に傷付けられたのだから。
「こうやって根元を縛ると、イキたくてもイケないんだって」
「おい! てめえ、この縄をほどけよ!」
 いくら凄んでみせたって無駄。あんたの束縛を解くことができるのは私以外にいないんだから。そして私に逆らうことは、自分の首を絞めるのと同じこと。
 私は指を抜いてからっぽになった穴に、指の代わりに今度はバイブレーターを突き刺した。全く、自分の用意周到さに涙が出そうになる。やっぱり私は、いくら神崎を信じたい気持ちが残っていても、結局は信用していなかったのだ。きっとこうなるだろうと予想して麻縄やバイブレーターをバッグに詰めた時の複雑な心境を思い出す。私の悪い予想はいくらでも当たる。良い予想なんて、いくら期待したって当たったためしなんてないくせに。
 強さをマックスに設定すると、神崎は大声を上げて腰を浮かせた。腰を引かせないようにすかさず枕を挟む。気の遠くなるような快感を与えられているというのに、射精したくても出来ない苦痛を、このまま味わうといい。
「電池はどのくらい持つんだろうね。一日くらいは持つのかな」
「なあ! ほどいてくれよ! 頼むよ!」
「こんなに恥ずかしい格好のあんたを、誰が最初に見つけるんだろう。干からびる前に発見されるといいね」
「ミヅキ、お願いだ。ミヅキ!」
 私は叫ぶ神崎を放ったまま寝室を出た。ドアの向こうからは、強制的な快感を味わされている男の小刻みな喘ぎ声と、今日一日中止まらないであろう低いモーター音が響いている。私はあいつに愛されていた訳ではなく、ただ単に利用されただけだった。それをようやく理解できた。私は冷静を装っていたが、玄関に立った瞬間、もう我慢する必要のなくなった悔し涙が次から次へと溢れてきた。鳴咽になりそうな声を必死で殺す。神崎には気付かれないように、ただひたすら歯を食いしばった。涙は頬を伝って落ち、玄関のマットを濡らした。私の悲しみが染み込んだマットは、神崎が改心しない限り、この先もずっと神崎の生贄となる少女を迎え続けるのだろう。


* * *


 神崎の部屋を出て、私はまず銀行のATMで預けている貯金を全て引き出した。備え付けてあった封筒にしまう。封筒の中には全部で273万円あり、口座の中には引き出すことの出来ない小銭単位の金額だけが残った。
 もしも私が陽美のように容姿に恵まれていたら、あんな仕打ちは受けなかっただろう。全てはこの腫れぼったい一重瞼が、釣り上がった目が、低い鼻がいけない。そしてきっとこれは、醜い父親の遺伝子がもたらした運命なのだ。どこかで運命を変えなければ、私は一生こんな惨めな思いをして生きることになるだろう。それを避けるためには、やはり生まれ変わるしかない。神崎が私をこの街に留めていたが、もうこの街にいる必要もない。
 ふと神崎のことを思った。今もまだみっともない声を出して身をよじらせているのだろうか。私は部屋を出る時に玄関の鍵は閉めなかった。本当は鍵をかけて、持って出た鍵はどこかに捨てようと思ったが、それをしなかったのは神崎へのせめてもの情けだった。

 家に帰ると、もう既に午後を過ぎていた。キッチンで昼食を作る陽美を無視して自室に入った。昨夜一睡もしていなかった私は、服も着替えずにすぐにベッドに潜り込んだ。自分の体温だけでは情熱は増さない。余分な体温のないベッドはひんやりして心地良い。今までの私がどうかしていたんだ。恋なんていう幻にうつつを抜かして、本来の自分を見失っていただけだ。これでいい、いや、これがいいんだ。
 キッチンから陽美の、満月ちゃんも食べる? という声が聞こえたが、私は返事をせずに目を瞑った。


* * *


 目を覚ますと、閉め忘れたカーテンの隙間からは月の光が射し込んでいた。窓の外は闇に覆われている。
 部屋を出てリビングに行くと、陽美はソファで横になり雑誌を読んでいた。
「わぁ、このブルガリのバングルウォッチかわいい。あの人、今度はこれをプレゼントしてくれないかなぁ」
 陽美のその独り言に体がぴくりと反応した。陽美は今神崎と一緒に仕事をしているのだ。仕事場に現れなければスタッフが彼の家まで様子を見に行くだろう。神崎が私のことを話すだろうから、どのみちここにはいられない。早いところ出なければ。私はさり気なくいろいろ聞き出そうと、陽美の独り言に便乗した。
「そのカメラマンって、どんな人なの?」
「ああ、神崎さん? 腕は確かだよ。でも、ルックスは割と若めだけど結構おじさん。確か34歳だったかなぁ」
「ふうん。でも、あんた言い寄られてるんでしょ? そんな腕のいいカメラマンが恋人だったら、いい思いも出来るんじゃないの?」
「やだぁ、やめてよぉ。物で女の子を釣ろうとするおじさんなんて、私の趣味じゃないってば。モデル仲間からも人気ないもん。あの人を好きになる女がいたら、よっぽど不細工で誰からも好きになってもらえない女だろうね、きっと」
 ぷつん、と何かが切れた音がした。よっぽど不細工? 誰からも好きになってもらえない? 言葉にならない怒りが、心の底から沸々とわき上がるのを感じた。あんたは今までに大した苦労もせずに、周りの人間のおかげで生きてこれた単なる能無しじゃないか。男にちやほやされていい気になっているから解からないだけ。もしも男を惹きつけておく魅力がなくなれば、きっと何も残らない。それを私が証明してあげる。
 私の怒りはとうとう沸点に達した。どうせ神崎もあんな目に遭わせたんだ。この際、一人でも二人でも変わらない。
 自室に戻り、必要なものだけを急いで小さなバッグに詰めた。バッグを玄関に置いたままリビングに戻ると、陽美は引き続き神崎に買ってもらうものを物色するのに夢中になっている。今のうちだ、と思った私は、キッチンに立った。
「ねぇ、お腹空かない? 何か作るね」
 使い古して黒くなった油を鍋に注ぎ、火力を最大にして熱した。私の怒りと同じくらい熱く。備え付けの温度計で油を掻き回すと、まるで憎悪があふれた私の心の中みたいに、黒い水面はぐるぐると渦を巻いて回った。足を乗せたら滑るように、コンロのすぐ下にたっぷりと油を塗っておいた。転んで鍋を引っくり返し、手足に火傷の跡が残ればいい。そうすれば、もう水着も、肌を出す服を着ることも出来なくて、モデルなんて続けていられなくなる。
「買い忘れたものがあるからちょっと出てくる。コンロの火を見といてくれない?」
 リビングのソファで雑誌を読んでいる陽美はうわの空のままはぁいと返事をした。私は玄関においていたバッグを持って外に出た。ばいばい陽美。玄関を出て足を踏み出すと、ドアの向こうからは陽美の凄まじい叫び声が聞こえてきた。それに続いて鈍い金属音が跳ね返る音も。陽美が動転している間に私はタクシーに乗り込み、救急車が到着する頃にはもう私は隣町に着いている。筋書きはそうだった。
 ところが、結果が私の予想を裏切ったのは一瞬だった。悲痛な表情の陽美が玄関から飛び出して、私に向かってきた。エレベーターの前まで来ていた私は慌ててボタンを連打する。陽美は走ってくる。エレベーターはまだ来ない。陽美はすぐそこまで来ている。追いつかれる!
 私はエレベーターを諦め、非常階段へ向かおうとした。振り返って陽美を確認すると、背後には火傷でただれた醜い顔の女がすぐそこまで来ていた。
「満月ちゃんなんて大嫌い! ママのところへ行っちゃえ!」
 背中を突き飛ばされた感覚。次の瞬間、私の体はマンションの廊下の手すりを越えて宙に浮いていた。バッグに入っていた封筒が飛び出し、中のお金が散らばる。一万円札の雨が降る。
 人間は皆平等であると説いた人物がいる。子供だった当時の私はその思想を聞いて、なんてきれい事だろうと思った。きれい事だけではご飯は食べていけないし、いい家にも住めない。理想はあくまで理想であって、現実はそんなに甘くない。だからそんなきれい事を言う「彼」のことは大嫌いだったが、「彼」が印刷されている日本銀行券は大好きだった。大好きだったのに。
 273人の「彼」らが、勢いよく地面に叩きつけられた私に向かって一斉に襲い掛かる。まるで逆襲でもするかのように。

 ほんの少しでもいい。
 私はただ、幸せになりたかっただけだった。

 私には輝かしい未来が待っているはずだった。美しく変身して、別の土地で一からスタートするはずだった。だけど、ほらね、私が期待を持ってする予想は、大抵は当たらない。
 目の前が暗くなっていく。流れる鮮血がアスファルトに広がっていって、散らばった一万円札に染み込んでいく。震える手を延ばして一枚だけ手に取ると、赤く染まった「彼」が私を嘲笑ったように見えた。お金しか信じられなかった私が男によそ見したことに対する報復なのか。それとも……。
 遠のいていく意識の中で最後に見たものは、涙が出るほど眩しい満月の光だった。


(終)