女郎




神田良輔






 上海の夜は騒がしい。
 様々な人種が居り、万国の商品が並び、滑舌の良い他国の言葉が飛び交う。人の数もものの数も桁外れに大きい。
 皆が思う欲望はすごく単純で、それが単純なままに表現されている。大陸的な喧噪だ、と男は思った。
 けして裕福でない連中が、なるべく多くの金を動かそうと躍起になっている。東京では静かに大金が動くが、上海では大きな音を発てるのだ。



 一軒の売春宿があった。
 古い日本の様式をそのまま模倣している娼館だ。硝子で区切られた部屋の中に女たちが入っており、そこから媚を売って往来をのそ\/と歩く男の足を止めようと微笑み掛ける。だらしのない、不健康さが液体になって充満しているような気さえする。
 しかし、それほど嫌みではない、と男は思った。硝子の中の女たちは自覚が高く、商品である事に徹している性だろうか、ただ立っている女よりも随分清潔だ、と男は思った。
 中の女の一人と目があった。顔つきを見ておそらく中国人だと、男は思った。臙脂色のソファに座り藍色の着物を着けた女だ、火のついた長煙管をだらりと垂らした手に持っている。男が立ち止まると、女は視線をそらさずに男を見つめ返した。
 男には女を買った経験はなく、それほど裕福な留学生活でもない。この辺りに立ち寄ることすらほとんどなかった。上海の街の陰部の魅力に気がついたのも今日が初めてだ。
 男は女を見つめた。女は黙って、笑顔を浮かべながら男を見つめ返す。男は大体の相場を学友から聞いて知っている。易い額ではないが無理ではなく、臨時の散財がなければ生活に支障はないはずだった。それに自分は、覚悟をして来たのだ。しかし経験の少ない額でもあり、足はなかなか動かない。
 金のことを考えるため頓着しなかったが、そのうちに女と視線を合わせ続ける不自然さに気がついた。女が笑うのは好意があるように思え、いやそんなわけはないと考え、そうこう考えているうちに意味がよくわからなくなった。女の顔は難解な数式を解いた笑顔だ、などと思った。面倒になり、男は金も女も考えることをやめた。扉の向こうに身体を滑らせた。



 女の着ていた着物を告げ、それに対してスーツ姿の女衒が男に金額を応える。男は直ぐに金を引っ張り出す。その間、女衒は男を値踏するように眺めた。自分はどう見られているだろう、と男は考えた。金を受け取ると、女衒は笑顔を見せる。中国語で話し始めた。

『貴方は大変に運が宜しい』
 男は中国語はあまり得意でない。訳すのに少々手間がかかる。
『彼女はかつては哈爾濱の資産家の娘であった。日本の大学に入り、そこで金持ちに見初められて結婚した。彼女はかつて人妻だったのだ!子供は作らなかったし、離縁されてしまったようでXXXXXX(意味がとれなかった)。日本ですでに非常な高級娼婦であったと聞いたが、今は上海に帰ったばかりで、こうして街でいるのだ。長く居る女ではないと思われる。今のうちに、情を買われると良いであろう。(ハハハ!)』

 女衒は畳敷きの部屋に男を案内した。
 部屋は日本のものと比べるとやや小さい畳で、八畳あった。内四畳ほどを占める大きな大名布団が部屋の中央に敷かれていた。古い日本の行灯が布団の脇にあって、それが唯一の光源だった。
 よく見ると、壁は漆喰で所々剥げ、やはり日本家屋には成りきれていない。四面には襖もなく、入り口は戸が一つあるだけ。隅に屏風があり向には掛け軸もあったが、作りの安易さが男には興ざめだった。ここは日本でないのだとはわかっていたが。
 但し、布団は良い、と男は思った。大仰な広さがあり、座ってみるとその柔らかさ軽さは男の経験したことのないものだ。物々しいと思う。
「しょうしょうおまちください」
と日本語で言って、女衒は扉を閉めた。



 女は黙って戸を開けて入ってきた。戸を閉めた後、畳の上に膝をつき、深々と頭を下げる。男は頷いて応えたが、女はそれを見なかった。
 女は一言も喋らず立ち上がって、男を通り過ぎた。行灯の前に立ち、男に後ろを向け、帯を解き始めた。それを真剣な表情で見つめていることに気がついたが、しかしそのことは問題ではあるまい。自分は女を買ったのだ。
 見る間に女は全ての衣服を脱ぎ、白い尻を赤い灯に照らさせた。目を伏せ、枕を退けて小さく座った。男は上着を脱ぎ、それを置き捨て、灯を消した。暗闇の中、下履きを脱ぎ、女の肌に触れ、横に倒した。女は一切抵抗せず、そのまま男の手に従った。



 男は掛け布団がずっと気に障っていた。始めに折重なる際、肩まで引き上げたのが不味かった。女は目を瞑り、全く動かなかった。男の動きも自然ゆっくりとした、滑るような動作しか出来なかった。身体を入れ替えたさえ布団は除けない。静かに動き続け、早々に男は最後まで事を終わらせた。



 男は起き上がり全裸の身体を顕した。布団から出て、肩掛けから紙巻き煙草を取り出す。胡座をかきそれに火をつけ、その灯を頼りに行灯にまた火を入れた。女が桜紙を使う音がかさ\/と聞こえた。
 やがて女は静かになった。男はかける言葉を探したが、結局なにを言っても場違いになる気がした。だから、なにも言わなかった。気がつくと、女は全く音を発てていなかった。無論眠ったわけではない。



 戯事の最中は女はほとんど反応しなかった。それは男を戸惑わせたが、そのうちに落ち着いた。存分に楽しんだ、と思った。これほど開放感は久しぶりだ、と男は思った。これはこの女の静かな性質に因るものだ、と思った。
 改めて女と向き合うのは怖かった。黙って座っていると女の意志が気になって仕方がない。硝子の部屋の中に居る間に見せた眼差しは挑戦的でさえあったが、この部屋ではまったく従順だ。なにを言えば良いのか、男には分からなかった。
 尊大に振る舞うのも馬鹿らしいし、卑屈に振る舞う理由もない。さりとてこの部屋を立ち去る理由もなし――。
「お酒を」女はゆっくりと言った。男は女の声を初めて聞いた。
「お持ちしましょうか」
「いや」男は言った。「けっこうです」
煙草を揉み消して。男は振り向く。薄暗がりの中、彼女と視線を合わせた。
「呑みたいなら、どうぞ。僕にかまわずに」
「いいえ。呑みませんわ」
男はまた煙草を口にくわえる。「水は。ありますか」
[お水ですか」
「はい」
「お待ちになって」
 女は膝立てで立ち上がり、覆われた裸体が顕わになった。すぐに男から後ろを向き、手を伸ばして襦袢をつかむ。そのまま羽織ると、女はそのまま部屋を出て行った。
 男はその間に立ち上がり、下着を身に付ける。
 静かに戸を開き、女が戻ってきた。女は布団に崩れるように座り、男の前に盆を置いた。
「いただきます」
男は水を飲んだ。氷は入っていなかったが酷く冷たい。グラスについた水滴が鳥肌のようだ。
「唄でも遣りましょうか」
「いや結構」男は言った。「少し話でもしませんか」
「ええ」女は言った。
「そちらへ行ってよろしいですか」男は言った。
女は頷いて応える。



 男は女の膝に頭を乗せた。薄い生地を通して腿の軟らかさが触れる。横を向いているので女の顔は知れない。
「下の男は貴女を中国の人だと言っていたが」
「はい」
「本当ですか」
「はい」
「信じられないな」男は言った。「貴女の言葉は全く日本人のものだ」
「若い頃から日本にいましたから」女は言った。
「若い頃と言って、子供ではなかったでしょう」
「いえ、子供みたいなものだった」
「ふん」男は言った。「十の歳を過ぎると全く新しい言葉というのは覚えられないものなのです。必ずそれまでに覚えた言葉が身体に残る。残った言葉の語感が表れるのが普通です」
「あら」
「言葉を知らない程の子供ではなかったのでしょう」
「そう――そうですね」
「不思議な人だ」男は言った。



 女は膝を少し傾けた。右手を、男を跨ぐように伸ばして扇子を掴む。すぐに収まりの良い位置に戻し、男の頭を支えた。
「たぶん、それはあたしが馬鹿だからでしょう」
女は扇子を使いながら言った。男の顔に柔らかな風が当たる。
「素直に言葉を聞いてしまうから覚えてしまうんです。鸚鵡みたいなもの」
「才能があるんですよ。言葉の」男は言った。「世の中には希に天才がいる。そういう天才はどこの国の言葉でも直ぐに覚えてしまう。独逸のある学者など、十三の国の言葉を話す事が出来たらしい」
「へえ」女は言った。
「僕にもその半分の才でもあればね」
と男は言った。
「旦那さん、学生さんですか」
少し男は考えた。「そうです」と男は応える。
「道理で。お詳しいと思った」
「理屈ならいくらでも使えますよ」男は言って、少し笑った。「いや、そういえばあなたも学士でしょう。そう聞いた」
「もうだいぶ昔の話ですよ」
「お幾つですか」
「いやだ」女は笑った。「二十、と店では言ってますが」
「無駄に隠すことはない」
「本当は今年で」女は少し間をあけて言った。「二十と六つ」
「僕と同じ歳だ」
「あら」
「知ることは、生きることです」男は言った。「学校にいないからと言っても、知り続けることは必要だ」
「はあ」女は言った。



 男は安堵して目を閉じていた。女の高い声を腿の肉を通して聞くのは心地良かった。まさに別天地だ、と男は思った。
 ここに来るまで落ち着いた心持ちはなかった。滅裂な思惑が渦巻き破壊的な衝動に覆われていた。蕩尽も経験したいと思うほどに。
……そう考えるとやや男は心苦しくなった。嫌な事を思った、と思った。このような場所では考えなくて良いことなのだ。
 しかし、一度思い始めると思いは晴れなかった。
「学生でなくても理屈は使います」女は言った。「でもあたしには巧く使えないわ。頭のいい人は違います」
女の高い声は、それでいて落ち着きがあった。
「本当はもう学生ではないのです」
と男は口を開いた。女の扇子が少し止まった。
「来週には日本に帰ります。商事に勤めることになっています」
「まあ、それは」
「いえちっともめでたくないのです」男は女の言葉を遮った。向きを変え、女の顔を見上げる。
女の顔は穏やかで、男を見下ろしていた。
「僕は日本には戻らないつもりでいた。働かずとも遣っていけると思っていた。でも、家が不味くなって、僕は帰らなければいけなくなった。しかも、商事会社なんぞに勤めが決まってしまった。勤めることなんて、勉強して来なかった」
女は表情を変えず聞いていた。
「家に帰ってしまえば、父と母もいるし、嫁入り前の妹もいる」男は言った。「いずれは戻るにせよ、その前に勉学で名を成すつもりだった。しかし、どうもいけない。僕には才がない。目処が立たなくなったと絶望していたら、あれよあれよと、家に縛り付けられることになってしまった」
男は一気に言った。
言ってしまうと、つまらない事を言ったという気分になった。再び顔を背ける。
「でも」女は言った。「日本に帰るのはうれしいことでしょう」
「全然うれしくはない」
「そんなことを」女は困ったように笑った。「あなたの故郷でしょう」
「僕にはノスタルジイは全くない」
少しの間沈黙が流れた。男は自分から口を開く必要を感じた。
「あなたは、中国に戻りたかったの」
「はい」女ははっきりと言った。
「ふん……日本は異国でしたか」
「そう。私の故郷は中国でした」
「愛着はありませんでしたか。長い間日本にいたのでしょう」
「もちろんあります」女は言った。「かつては、私のすべてがあったのです」
「それでも。戻りたいとは思わない」
「はい」
 男は女の生活を顧みて、言葉が継げなくなった。女衒の言葉では、いろいろと複雑なことがあったということだ。ぬく\/と学校の中にいた自分には分からないことだろう。
 それでも、故郷に感傷的になる女は興ざめだ、と男は思った。故郷の両親の持つ感傷そのままだ。そんなものは田舎に居れば溢れるほどに転がっている。そういうものに嫌になる気持ちは女にはわかるまい。
 男は手を伸ばして女の頬に触れた。頬は柔らかく、瞳が近い。指に向かって瞳が動く。
「旦那さん」女は言った。
女は男の手に自分の手を添える。
「商売でもしてない限り、簡単に肌は触れあえないものなのです」
男は相づちを忘れた。
「触れあえば分かることも、分からないままになることは多いのです。なるべく分かり合うためには、長い時間をかけるしかないのです」
「ん」男は言った。
「私はいつでもこの上海にいる。貴方は日本に、帰った方が良いのです。働いて、故郷と心を通わせて、そしてまたここに来れば良いのです」
「ふん……」男は言った。「貴女は不思議な人だ」
女は声をたてずに笑う。
「不思議な語彙だし、心に染みる何かがある……ただ、そのいくつかは忘れた方がいいですね」
「あら」
「僕なんかに告げるには、もったいない」
男は腹筋を使って身体を起こし、向きを変えて女に唇を重ねた。女の瞳を、男は間近で見つめた。やがて女の瞳は閉じられ、唇が唇を噛みはじめた。男は鼻から空気を抜く。
 俺はなにを吸っているのか。と男は思った。閉じられた瞳は何を意味してるのか。この柔らかな白い頬は、俺になにを与え、求めるのか。不思議だった。男にはそれらがまるで理解できなかった。
 俺の上海はこの女で終わるのだ。そう考えると、不思議と悲しくなった。感傷が移ったのか、と男は唖然とした。頭に血が上り、瞳が充血し始め、涙が頬を垂れた。
 その時、男は信じられないものを見た。瞼をしっかり覆った女の眼から、やはり一筋の涙が頬を伝った。
 何を泣いているのだ、と男は思った。貴女が泣く理由はないではないか。
 男の血は一向下がらず、涙は止まらずに流れた。男は女の身体を強く抱いた。背中が強ばって弛まなかった。
 何を泣いているのだ、と再び男は思った。そうか。天才か。と男は気がついた。
この女には見えないものが見え、一度聞いたことは忘れないに違いない。
 駄目だ。俺は上海から引き上げるのだ。そう思い、男は女から手を離した。後ろを向き、そのまま女から身体を離す。後ろを向いたまま身支度を整えはじめる。
「旦那さん」
女は言った。少し掠れている。
「また来ます」
男は言い放ち、振り切るように戸を開いた。