ばらばら観音ぬれぬれ女神




金田 満子






 パズル。
 Sは、ああ、これはパズルなのだと思った。ジグソーパズル。ブロックパズル。論考パズル。ピースのひとつひとつは全体に、全体のひとつひとつはピースに帰属する。ピースのひとかけらは実体で、ゴリゴリと鋸の歯が削る骨の振動が実体であるからこそ手が滑り、生々しい臭いと質感を伴ってSに感じられた。風呂場のタイルも腕も鮮血にまみれていた。あまりにも滑るので何度も何度も綺麗に湯で洗い流した。それはもう動かず、ぎゅっと鳥を絞めるようにした時は暴れて何度もSを殴りつけた腕も、こうなってしまうと単なるマネキンと変わらない代物だった。右腕を落とすのにまる1時間は奮闘した。その勘定でゆくと全部終わった時には朝になってしまうだろう。Sはくしゃみを止められなかった。まだ寒い時期なので全身が濡れていると風邪をひいてしまう。身体は徐々に冷えゆき、やがて震えをもたらす。震えるとは他動律の出来事で、自ら震えることを指向して震えるなどありえないことだし、古い映画で見た風に見開いた瞼を閉じさせようとしても完全には閉じなかった。
 ありえない。映画では瞼は電車のドアのように閉じられることになっていた。だが、それは半目でバスタブを眺めている。ありえない。乱れた髪を撫でているとSの心は静かになってゆく。心が静かになればなるほど静かな夜になりつつあった。すべてを了解して脳天が冴え渡ると、静寂さの中、キーンとしたなにかが天頂からSの頭頂を目掛けて降りてくるのがわかった。それは少し着地点を逸脱し、Sのうなじから入って全身を駆けめぐった。痺れるような快感。
 あまりに冷たくなってしまったのでシャワーで温め、リンスのボトルを突っ込み大量に流し込んで刺し込んだ。もう、とうに人の温度ではなかった。まだ硬すぎはしなかった。指で引っ掻くと白い物が白い泡と混じり合ってつつと流れ落ちてシャワーの湯で全身とそれを洗わねばならなかった。ありえないと呟きつつ、Sは作業に戻るのだった。

 解体する。魚を解体する。
 小さなスーパーの魚介類売場のガラスの奥でSは淡々と日々を過ごしていた。ものも言わず丹念に作業をする彼の様子に、スーパーの店長は彼の勤勉さを誉め、厨房長にしようとした。だが、彼はそのありがたい申し出を断り、一介の鮮魚係を選んだ。
 Sにとって形は不快だった。形象のことではない。ある仕組みという形の上に彼自身が存在するのは身体が崩れてしまいそうになると感じ、そうした形によってでしか身体の存在を認知できない輩を憎んだ。
 二枚におろした鯖は鯖に過ぎない。刺身は魚をなるべく生きたまま分解することである。
 店内から大きくて高い諍いのような声が聞こえる。
 厨房の窓から店内を覗き込むと、みのもんたの番組をタクワンを囓りながら屁をしつつぼんやり眺めていると思われる中年の小太りの女性が、生食用の牡蠣と煮物用の牡蠣の違いを、二股がばれてしまったばかりでかなりヤバい日々を過ごしているパートの高校生に、大声で聞いていた。どっちも牡蠣は牡蠣でしょ。値段が違うのはおかしいっていってるのよ。だからわたしは聞いてるんでしょ。この店は古いものを売りつけようとしてるの。いったいどうなの。正直におっしゃいなさい。Sは耳を塞いだ。醜悪だと思った。すべてが偽善のような気がしてきた。すると、氷だらいの中のウナギが動いた気がした。
「おい、S。今、動かなかったか?」
 同じく鮮魚屋で働きながら売れないコピーバンドを続けて20年の柳沢がSの背中をつついた。Sは首を振り答えるざまに稼いだお金を風俗で使い込んで借金してるくせにと思う。。
「まさか。生きてないですよ。氷が溶けて動いたように見えただけなんじゃないですかね」
 柳沢は白い顔でSを見た。その白目の位置がおかしいんだと口ごもりつつ、生真面目で詰まらない男だと思われてるのだろうな。それでいい。
「動いたさ。動いたさ。見なかったのかよ」
 さっきより柳沢は幾分高い声だった。
「いいえ」
 Sが何事もなく答えると柳沢は背中を向けた。馬鹿にされたのだと思ったのだろう。
 そうではないと答えてやるつもりはなかった。説明を諦めてウナギを氷の中から掴んで出し首を飛ばす作業に戻った。首を掴むとぐねぐねと身体を捩り、ウナギは拘束から逃れようとした。包丁を垂直に落とすと、切り口から鮮血がどろりと流れ出した。身体は暫く蠢いて、やがて止まる。手の中で生命が消滅してゆく感覚がビールの泡のように残る。やつらは手の触覚として生き残る。

 問題は肉の処分。
 あちこちの通販からミキサーを買い込んだが、想定したより脂身が多くて消耗は激しかった。小さく小分けにして潰す手の平でこねるとハンバーグになるだろうミンチ肉を貯め、キッチンシュレッダーで流してしまう。最初の夜にばらばらにしておいて良かった。硬直が進行したあとは、もう人ではなく、丸太より乾電池に近い印象だった。段々青ざめてゆくそれをSはぞっとして見た。顔は早めに処理しておいて正解だった。美しい顔が青く沈んでゆくのを見ていられはしない。お好み焼きのヘラを骨にしがみついた肉を剥がすのに使った。これはお勧めだ。家庭のお勧め番組で紹介してくれはしないだろうが。そうなのだ。骨は完全に処理しておかねばならなかった。軽く塩酸を溶かした湯船に骨を放り込んで、細部の肉を溶かしてゆくのだった。Sは計画が上出来に進んでゆくのが満足に感じた。
 生きるということは身体を解体すること。
 髪が伸びれば短く切り、爪が伸びればまた切るものだ。乳歯は永久歯に生え替わり、永久歯もやがて抜け落ちて行くだろう。それどころか、表面上だけではなく、おべっかの笑顔を作れば頬の筋肉を崩壊さしめ、年齢を重ねると皮膚は鈍化する。新陳代謝の機能は永久ではない。精神の骨格も死ぬまで変化することはないが、人は徐々に衰弱しやがて滅びてしまう運命だ。そして身体の崩壊は精神を解体する。
 Sは夢を見たことはなかった。起きたときに夢を見た記憶は存在せず、無色透明の世界に鮮烈な赤い液体のみが真実のように脳裏に浮かび上がる。
 肉を処理してしまうのにまる1週間かかった。
 骨を完全に洗浄するのに更に一週間かかった。
 Sはその途中で何度も欲情したが、生理的な反応というより、やらねばならないといった義務感を感じていたので、感情よりはトランプを切る時に似た気分がした。

 ある夜のこと。
「やあ」と背後から声をかけるものがあった。バスルームのガラス戸の側、Sの背後にそれはいた。Sは振り向いた。首から上がネズミの頭をした男だった。
「実験は進んでるかい?」
 低く抑揚のない声で男が訊いた。Sは瞬間、あちら側の使いではないと感じられたので安堵した。
「思ったより大変なんだ」
「だろうな」
 男は指でヒゲを摘んで伸ばすように引っ張った。ヒゲは玩具のようにぴょんと跳ねた。
「今度は完成しそうかい?」
「ああ、大丈夫だろう」
「ならばいい」
 ネズミは姿を消した。Sは酸の水風呂から頭部を取り出して布で磨いた。磨けば磨くほど美しくなってゆく。特に頭部の光沢には気を使った。美しく最高の頭蓋骨。ああ、美しい。人の頭部は美しい。ひび割れさえも愛おしく感動的だった。未開の部族が戦闘で得た頭部を飾るのは力の証明からではない。ただ、美しいからなのだ、とSは思った。

 処理することは愛することでもある。
 肉と腐臭の問題を越えてしまえば、発見される可能性は格段に少なくなる。死体の知故や顔見知りの犯行でなければ足はつかない。Sは時間をかけてじっくり制作に没頭した。身体を擬似的に作り出すというのが難しいのは分かっていた。パーツを組み合わせ、ひとつひとつの部品を組み立ててゆく。間接の代用はラブドールやプラモデルを模倣した。長い時間がかかった。Sはそれを古い映画から取って真理亜と名付けた。
 真理亜の基本部分を組み立てるのに更に一年を要した。
 骨だけになった手に間接を組み込みなんとか怒張したペニスを握らせることができた時には珍しく興奮して思わず発射してしまった程だった。じわじわと幸福な時間がが積み重なってゆくのがわかった。Sはこれを作るために生まれてきたのだとネズミ男に語った。男は頷いて頑張れと言った。
 神はアダムの肋骨からイブを作り、アダムを土をこねて作った。では神は何によって作られたのだろう。人を作るのは神だけのみ技なのか。ならばSは神だった。ひとつの神話を作り出しているのだ。神であり人である身体はSだけに宿るのである。Sの魂は真理亜に宿るのである。身体から遊離した精神が飛翔し、真理亜の身体に溶け込み真理亜と自分の身体と精神は合一する。
 初めは一つの物体だったものをばらばらにして再生させる。
 Sはマネキンのボディーから型取りした容器にシリコンを流し込んだ。
 詰め物をした骨を浮かせて固める。5度失敗する。顔の造作はラブドールに似せる。性器を作る。体毛を埋め込む。だがそれはラブドールではない。生きた精神を固めたSだけの身体であり、神の代価物なのだ。Sはその外側に在して内側を補強するのだった。外側と内側の分裂はそのまま人間としての実体を持つに至るのではないか。あらゆる人の表面積と体積は釣り合うのではない。具象と抽象の狭間に身体の実体は存在し、この世を形成している。
 ボディーはボディーだけではなく、その外側にある世界を受信し、内側の震えを発信する交信体なのだ。交信が開始されるとぷるぷるとシリコンは震える。ありえない。いや。ありえる。

 長い時間がかかる。
 だが真理亜の存在によってSの世界は変容を始めていた。

 やがて彼女は実体を持ち始める。
 Sは真理亜が真理亜であるということが真実に驚き、泣いた。
 シリコンのボディーの内側は人体のプラモデルでオリジナルと模倣の集積である。人体と変わりのない、ミームとしての人間。不完全であるからこそ精神というものの存在を規定せざるを得ない。ぷるぷる震えるものはSの脳であり真理亜なのだ。
 真理亜が完成するのを待ちきれず、Sは震えながら真理亜を抱いた。
「綺麗だ。この世で一番素晴らしい女性であり、人間だ」
 真理亜は答えた。
「ありがとう。これであなたも人間になれるのね。私を抱いて。抱いて無茶苦茶にして。抱いてばらばらにして頂戴」
 Sは首を振る。
「どうして君を土くれにに帰することができようか」
「いいえ。私が本当に人になってしまったら、私はばらばらになってしまうの」
「何故だい?」
「夢を見ちゃうからよ」
 真理亜はそうしてSの唇を吸った。長めに作った舌がSの喉に差し込まれ、Sは噎せるようだった。Sはそれでも真理亜の唇から離れることができなかった。囚われはじめているのだった。
「これ以上はだめよ。壊れてしまうわ」
 真理亜は優しく諭したのでSは陶酔を中断せざるを得なかった。

 魚の種類。
 鯖、秋刀魚、太刀魚、鯛、鰻、鱒、鮭、シャコ海老、蛤、赤貝、おまんこ。
 Sは調理場で昔テレビで見た「どろろ」を思い出していた。漫画だったかもしれない。四十八の身体の部位を取り戻すため奇々怪々な妖怪を倒しすというストーリーだった。主人公は百鬼丸なのに「どろろ」というタイトル。そして主人公の百鬼丸を着き慕ったどろろという少年は、実は男の子ではなく女の子だったという。本当は百鬼丸が身体を取り戻すのではなく、どろろが身体を発見するという話なのかも知れない。Sは身体を完全に取り戻した百鬼丸とどろろの交合のシーンを思い浮かべた。
「ねえ、あにい。おいら女の子だったみたいだ」
「ああ。お前、濡れてるぞ」
「おいら、あにいが欲しい。あにいが欲しい」
 だがどろろは勃起したペニスを握りしめて躊躇する。
「この身体、俺のものだけど、俺はどこにいるのだ」
「あにい。あにいはここにいるよ」
「俺は俺になりたい」
「あにい」
 そうなのだ。百鬼丸はどろろを抱くために身体を手に入れる。
 ブリは出世する度にその名を変える。鰻の幼体は未だ不明のままだし、海老や蟹は完全にその姿を変えて成体する。人が人となるためには何を構築するのだろうか。名なのか、身体なのか。言葉なのだろうか。身につける衣装なのだろうか。
 ある日、Sが仕事から帰宅すると真理亜はエプロンをつけてキッチンに立っていた。
「先にご飯にしますか。それともお風呂?私?」
 Sは紋切り型を反復してしまう真理亜に吹き出してしまう。プログラミングした自己に苦笑する。
「ケーキを買ってきたよ」
 というのも紋切り型だ。だが言葉として存在するものが紋切り型をして組み合わされることが最も多い確率で存在するからこそ、紋切り型として認められるのだ。平均はすべからく世界を同じ視線で見せるための方便である。Sはケーキの箱を真理亜に差し出す。
 真理亜は苺のショートケーキを口の周りをべとべとにしながらむしゃぶりつく。
「ばかだなあ」と微笑む。真理亜の口の周りいついたクリームを舐め取る。
 向かい合ってコーヒーを飲む。
 アボガドのサラダをつつき合う。
 お金貯まったらね、と旅行の話しをする。
 犬を飼いたいね。犬を。
 私こんな家に住みたいなあ。
 あのね、聞いてよ。ちっとも私の話聞いてくれないじゃない。
 おっと、ライター火がすげーよ。髪の毛が焼けた。
 そこのソースとって頂戴。
 昨日ね、イヤな夢を見たの。
 ラベンダー畑って素敵。
 明日夏服が欲しいから、買いに行くね。
 お腹がちょっと不安なの。見てよ、これ。
 もう、食べ散らかさないでよ。
 ふふ、鼻の先に汗かいてる。
 先にシャワー浴びてくるね。
 昔ね。昔おかあさんとね。
 お皿欠けちゃった。どうしよう。
 ねえ、歩いて行こうよ。夜風、気持ちいいし。
 私のこと好き?
 好きだよ。
 愛してる?
 うん。
 乳首立ってるよ。
 うん。
 背中綺麗だ。
 やめて、くすぐたい。
 噛んでいい?
 だめ。
 一緒にいきたい。
 いこう。
 だめ。
 だめ。
 だめ。
 だめ。
 だめ。

 官能的な、官能的な。
 それは物言わぬ人形かも知れないが言葉を身に纏っていた。人が人として生きるのにはどれだけの言葉を交わすことだろう。深夜、電気の消えた部屋でSはベッドに腰掛けて真理亜が立ち上がってくるのを待つ。そして、立ち上がった真理亜の、凛とした冷たいような慈愛を含んだような永遠の夢想に泳ぐ顔にキスをして、冷たい手をとり、ばらばらなのは自分なのだと思う。ばらばらであるのを纏めるために愛撫をはじめる。すると徐々に一つになるような気がしてくるのだ。
 解体・懐胎・塊体。
 じっと空想と妄想の中に佇んでいるとネズミ男がやってきた。久しぶりだった。
「おう。できあがったじゃないか」
「なんとかね」
 ネズミ男は暗闇の中で首をチックのように動かした。
「俺にもやらせてくれよ」
「いいよ」
 Sはなんとなく嫌な感じがしたが、そう答えた。ネズミ男は早速、白装束を脱ぎ、真理亜を連れてベッドに向かう。物言わぬ人形は無表情でネズミ男に付き従う。男が身体にのしかかると「あら、いいわ」と真理亜が答えるのが聞こえ、Sは耳の中がキンキンしてくるのが分かった。真理亜はネズミ男の首を抱きしめ喘ぎ声をあげはじめる。淫猥な音が響き始める。真理亜はベッドに腰を下ろして間近でその様子を見るSをちらりと見て、手を伸ばす。Sは手を握り締める。真理亜の手の力は強くなったり固くなったり弛緩したりした。やがて手の平を天井に向けて軽くSの手を握ったままストンと落ちる。目を半開きにし、上気した真理亜の視線は空を舞う風船を追っているように揺れていた。真理亜はゆっくりと瞼を閉じた。
「あばよ」と事が終わると何事もなかったようにネズミ男は立ち上がり元の白装束を纏った。
「待て」とSは呼んだ。
 ほんのわずかに顔を向けたネズミ男は、にやりと口元を歪め、そのまま闇に消えた。
 尋ねたいことがたくさんあったのだ。ネズミ男が答えるなんてありえない。
 そして何も答えはせず立ち去ったのは、慈悲深い行為なのかも知れない。
 だが礼の一つも言わないで立ち去るのはどうかなものか。みろ。Sは暗闇を招待した。
 どれ程の時間が経過したのだろう。
 正面から白い身体が歩いてくる。
 真理亜だった。
 Sは真理亜が生きていることに安堵した。彼女は優しい目をしていた。口をぐっと引いて頬を緩めていた。その目は潤んで、やもすると泣きそうなのかも知れない。
 両手を広げた。
 Sの手を取って背後のベッドに誘った。
 腰掛けたSの頭を抱きしめ、ぐっと身体を寄せて腰に押しつけ、Sは陰毛が頬に当たるのを感じた。温かい肌だった。
 真理亜は生きているのだ。
「だいじょうぶよ」
「だいじょうぶよ」と繰り返し声がSの頭の上から降り注ぐ。
 彼女の声は悲しい響だった。
 真理亜は感情を持ってしまった。
 哀惜と歓喜をもってSは腰をぎゅっと両手で抱きしめた。
 この身体はSのものだった。Sのものであり普遍的な官能を有していた。扱うには細心の注意が必要だった。そして時にはそっぽを向いてしまうのかも知れなかった。
「私のこと、愛してる?」
「愛してる」
「私はあなたの言葉よ」
「わかってる。だがお前は俺のMEGAMIさまなのだ!」
 真理亜のおまんこに手を差し込むと白い液体が流れ出してきた。ネズミのものかもSのものかも知れない。それともどこかで乱交でもしてきたかも知れない。この闇の中にはどれほど人が存在してるのかも分からない。だが、真理亜はSにとってのMEGAMIなのだ。どろりとした粘液はつんと雄と雌の臭いがし、Sは舌を出してそれを舐めた。S自身の味がして驚いた。真理亜は微笑んでSの頬にキスをした。ハッピー初夜の始まりだった。