A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













眠れなかった。またあの頭痛に襲われた。

たまたま起きていた佐緒里に水をもってくるように頼み、わたしはもう一度床についた。薄目で外を見ていた。わたしの寝室は中庭に面したところにある。外から池の水の音が聞こえる。一定のサイクルで鹿おどしがことんことんと響く。時々、鯉がはねるのがわかる。昼間はそれはとても風流なものであるとされているが、ここが闇に抱かれると、その水音は一気に気味の悪いものに変わる。

佐緒里は湯飲みに冷たい水をいれて、もってきてくれた。そしてそれを両手でささえ、わたしにわたしてくれた。

「ありがとう」

それをごくごくとノドを猫のようにならして、飲み干した。ことん、また鹿おどしは動く。佐緒里は心配そうに眉をよせて、そこに正座をした。そしていつも兄がわたしにしていることをまねて、わたしの肩をもんだ。兄にくらべたら到底力が弱くて、だけども佐緒里は一生懸命力をこめた。その真心が、わたしのココロに触れた。

「ありがとう、佐緒里。貴方が起きていてくれてよかった」

わたしはココロからの礼を言う。佐緒里は笑みを含んだ調子で、いいえ、と言った。月が今日も儚気な光をはなち、障子から畳に影を落としている。いちばん空気がすんだ時刻になって、ようやくわたしは眠る事が出来た。間違いなく、佐緒里のおかげであろう。

入院して、頭痛持ちになってから、眠れない夜はしばしばある。自分が誰であるか、今こうして裕福で、わたしを可愛がってくれる兄と、仲良しな佐緒里がいて、シアワセな毎日を送っているけれど、はたしてそれはホントウなのか、眠れない夜はそういう想いがバケツをひっくりかえした雨のようにわたしの頭上に途方もなくふりかかり、わたしを落ち着かない不安定な気持ちにさせる。それを、夜の池の水音、それから鹿おどしの音と同じくらいに恐れているのがわたしの現状だ。神経をすりへらす。苦しむならひとりで苦しめばいいものを、わたしは何かしら、兄や佐緒里を巻き込みたがる。わたしは誰なの。ココにいてもいいの。


「真緒、今日の茶会は終わったぞ」

この頃は、前と比べてそこまで忙しくはない。有能な人材をあつめているから、兄が腰をあげぬともよく、今は比較的落ち着いているらしい。

兄が稽古に顔を出すと、お弟子さん達(若い女の子からご年配のご夫人まで)は、大喜びする。この家に長男として生まれた兄はずっとこの家を継ぐべく教育された。そうやって育てられた兄の気品と自身に満ちた立ち振るまいや作法に、そして気のきいた冗談を言う口に、人々は憧れのまなざしをそそいだ。

「今日も、秀明先生は素敵だわ」
「わたし、ここのお家を選んでよかったわ」
「あたしの彼氏もあれくらいいい男だったらねぇ」

きゃっきゃと、兄のいないところではしゃぐ、お弟子さんたちはわたしより年上の方達ばかりだが、わたしは何となく、かわいいなぁと思った。兄のこびのない笑顔に、こびない言葉は、明るかった。黒くてふんわりした柔らかな猫毛の髪、がしりとした形のいい眉に、すきりと切れてわれた愛嬌のある目、そのような整った顔だちも一層女達の幻想力をかきたてた。女達は兄とは反対に、こびて、こびて、こびた。それだけのようだったが、それでもわたしはその女達を可愛いと思っていた。

頭痛がひどいわたしは、そんな茶室を通り過ぎ、兄に見送られて、佐緒里と病院に出掛けてきた。わたしは送り迎えの車の中でネックレスをはめた。あの日から器用に兄のいないところでこうしている。兄がいたとしても、帯の中に忍ばせてある。

見覚えのあるこの建物はわたしが前に入院していた病院である。白く、薬品の匂いがしている。兄の『白』とはまた別の白だ、とふいに思った。佐緒里はわたしの右後ろにそなえている。わたしの名前が、優し気な顔をしたふくよかな看護婦さんに呼ばれ、わたしは診察室へ入って行く。

「佐緒里はココで待ってて」

佐緒里はそれを聞くと、軽く会釈をしサッとさがり堅いソファに座った。


医師に頭痛がとても酷く、眠れない夜が多々ある、と話した。この医師は、わたしの主治医で事故で頭を怪我したあの日から、わたしを看てくれている。今、無意識に記憶を戻らせようとして脳に刺激をあたえ、それが頭痛としてでているらしい。

「お兄さんに、前によく聞いた音楽とか、写真とか、見せてもらっているかね?本人の負担にならない程度に、と、そうやって君が入院している時に頼んでおいたのだが」

なにも、わたしは聞いてない。記憶をなくす前のことは、何も知らない。写真だって見せてもらった事がない。お茶の作法はならった、家のしきたりもならった、言葉遣いもならった、どこに住んでいるかもならった、わたしが誰なのかも教えてもらった。けれど、わたしがどのような人間だったかなんて、知らない。兄がわたしに新しく生きればいい、と言ったからだ。どうしてなのか。わたしにはまるでわからない。外で鳥が大きいコエで叫んだ。その叫びがまたわたしの脳に響き、ズキンズキンとそこは脈打った。医師はわたしに強めの鎮痛剤を処方した。

わたしはひっかかった骨がとれない気持ちを胸に、佐緒里の元へ戻った。


「わたし、過去をもってないの。とても、とても恐い」