A sweet sigh bites an ear




藤崎あいる













「行っちゃいけない。もし君が行くのなら、俺は2回も同じ間違いを犯す事になる」

その一言で、わたしの頭の中にまた様々な映像が写し出された。頭を鈍器で何度も何度も殴られるような感覚に襲われた。わたしは小さく悲鳴を漏らし、だけどもう悲鳴をあげられる力もなくわたしはベッドにひれ伏した。きっとわたしはこの頭痛でそらに昇ってしまうのだろうとすら思ってしまうくらいの酷い頭痛で、例えば大地震が起こってひとつであったはずの地面がじりじりとふたつに別れて行くようなこれまでにない痛み、わたしはそれに苦しんだ。頭を抱えてベッドで猫のようにまるくなり、目をぎゅうっと瞑って歯を噛み締めていた。シンヤはそれに驚き、わたしをさすった。大丈夫か、大丈夫なのか、と問いながら。歯を食いしばったつもりだったけれど、唇を噛んでしまったらしく赤い血液がタラリとたれた。シンヤはそれを手でぬぐった。

ノイズがかかった頭の中で、だけどもモノクロ映像でなくカラー映像なハイテクさにわたしは言葉をなくしながら呆然とそれを傍観する。中ではわたしが中年の男に犯されているシーンが何度も何度も繰り替えされた。衣服がいつも違ったので、これは1度や2度ではないらしい事がすぐにわかった。衣服や髪型は違えど、窓の外はいつも真っ赤だった。これはきっと『綾香』の根強く残ったイメージなのであろう。その他にも、泣くのを忘れた目をして学校に通っている自分だったり、ラブホテルと思わしき場所で性交をしているピンク色の影を落とした自分の姿だったり、そういう過去のものたちが全てわたしの身体の中で弾けた。わたしを何度にわたって犯し続けた中年の男の足をナイフで刺し、ラストシーンは自分が崖から身を飛ばせたところだった。

耳に、きいんとうねるような耳鳴りを覚えたその瞬間、わたしの恐ろしい程の頭痛はキッパリとやんだ。

あたしの頭の中で、綾香に真緒が吸収されてひとつになったのだと、ぐちゃぐちゃにからまった糸が一気に元通りになるようなそういう自然さをもって、直感した。

「あたしをあの時、止めなかったっていうのが、シンヤの言う間違い?」

シンヤはあたしの問いかけに短く答えた。そうだよ、と。

あたしは確かにシンヤと一緒に暮らしていた。そしてシンヤの養父である男(そう、あの男の名前だ。持田と言うのは)持田にわたしは身体を弄ばれ、そのシーンをシンヤに見られた。シンヤは養父を殴って、あたしを抱き締めた。だけどその日から、シンヤは日に日にあたしを避けるようになった。あたしは出て行った方がいいのかと思い、そう言ったらシンヤは何も答えず、あたしを追うという事もしなかった。そしてあたしはあの男の足を刺して自殺した。そして母も死んだ。だけどわたしは死なずに生き延びた。だけど生き延びてもまた、抱かれたくないのに抱かれてしまっている。その時とても信じていたヒトにだ。バカみたい。バカみたい。そう、きっと、バカなんだろう。



「あたし、あたしを引き取ってくれた所で、叔父に当たるヒト、その時は自分のお兄ちゃんだと思っていたヒトに、抱かれたの」


慕っていたヒトがどうやって自分を見ていたかを知った瞬間のあの気持ちを思いだしてあたしはぐっと唇に力を入れた。兄はあたしの居場所を見つけだした。すぐにでも追っ手が来るわ。あたしの兄の秘書が、見兼ねてあたしを助けて逃がしてくれたのよ。でも知っての通り、あの家はとんでもない金持ちなのよ。さっきの電話で、兄が探偵を雇ってあたしを探してる事を佐緒里っていうあたしの一番近かったヒトが教えてくれたんだ。探偵に見つかって、兄に見つかっちゃったら、あたしはまたあの家に帰らなくちゃいけないの。だからあたしは逃げなくちゃいけないの。それにシンヤを巻き込んでもいいの?嫌でしょ。自分の養父とはいえ、親を刺したような女といるのは。ね。だから、あたしは行くよ。

それだけ言うとあたしはシンヤの目を見ないようにしてベッドから立ち上がろうとした。だけどシンヤはまた引き止めた。あたしはそれを振払おうとした。

「綾香、君は綺麗すぎるんだよ」

ぎゅうっと抱き締められた、その力はあたしの知らないものだったから、恐くなってあたしは身体を堅くした。シンヤの目を見たら、あたしの決心が揺らいでしまう、だから見ないように努めたのに。

「ここじゃない所に行こう。もっと遠くに。俺、働くから」
「ダメだよ。あたしといたら、シンヤが不幸になっちゃう気がする」
「もし不幸になっても、俺にとってはそれがシアワセだよ」

気付くととうとうあたしは絶えきれず泣いてしまっていて、シンヤの堅い胸に顔を押し付けていた。シンヤはあたしを労るような手で、だけどあたしを離すまいという意志が感じられるようなとても強い力で、あたしをぐっと抱き絞めた。そしてかすれたコエであたしに言った。

「結婚すればいい」

増々溢れる涙をとめる術をあたしは知らなかった。






そうして、あたし達はふたり一緒にここから逃げ出した。








あたし達は20歳になるのを待って結婚する。脳の奥で、どす黒さをもった赤の金魚が金魚鉢からはねて飛び出してしまって死んだ。腹を上にむけると白くてらてらと光った。あたしはやっと、安心して眠れる場所を見つけた。シンヤの腕枕で眠る時程、落ち着く時間は他にはないだろう。シンヤの体温を感じるのは、天国にいるような幸福感を感じるのと同じ事だった。はじめからこうして、温めあえばよかったんだ、とシンヤは呟くように言った。初めてあたしは、好きなヒトと身体を重ねたのだ。空気が入る隙間がないくらいにぴったりくっついたあたし達は共にめまいを覚えるような幸福感を感じた。

あたし達は小さなアパートを借りて暮らしては、場所を変え変えしている。今のふたりの夢は、お金をためてテレビを買う事だ。六畳一間のこのアパートから見える海は夕焼け頃には一層きらきらと光って綺麗で、あたし達のお気に入りだった。台所で食事を作るといっきに部屋はその香りで満たされる。いつもふたりはくっついて暮らした。シンヤが仕事帰りに花を買ってきた時もこの部屋は花の香り一色になった。日焼けした畳は、その匂いを吸っているようだった。

そうだ、佐緒里やサラさんに、手紙を書こう。大谷さんにも届いたらいい。いつか、もうすこしして、あたし達が結婚した時に、花も添えて。



発せなかった口から発された言葉は、届かなかった耳に届いたのだった。