ループ




佐藤 由香里







『なあ、主人公が非現実に迷い込むってテーマで小説を書いてほしいんだ』
 ディスプレイの向こうにいる彼は突然私にそう話しかけてきた。仕事が忙しく、なかなかまとまった時間が取れない上に、今日は〆切の10日前。いくらなんでもそんなに急にプロットが浮かぶわけでもないし、せめて予めそれっぽいことを言っておいてもらえればそれなりの準備が出来たのに。物語を書くのは好きだから、出来れば快く引き受けたいのだけれど、10日間で一つの物語を書く自信がなかった私はいい返事ができないでいた。
『あとで詳細についてのメール送っておくから。とにかく頼んだからな』
 彼はそう言い残してオフラインになった。いつもこう。彼は私の意向なんてお構いなしだ。
 とりあえずテキストエディタを立ち上げて、適当に文字をタイプしてみる。そこには何の意図もない、ただの文字の羅列が表示された。この一文から膨らませることはできないだろうか。しかし発想の貧困な私は、そこから何かを広げることができなかった。

 ぼんやりした頭をしっかりさせようと、私はキッチンにコーヒーを淹れに行った。そこには風呂から上がったばかりの姉が、頭にタオルを巻いて牛乳を飲んでいた。
「またインターネット?」
 白い目で姉が私を見る。
 家に帰ってからすぐにパソコンを起動することや、寝るまでその場から離れないことが理解できないと、姉は私にいつも文句を言う。姉はパソコンは持っているものの、メールもロクにできない時代遅れな人間だ。そんな人にはネットの面白さなんて解からない。私だって、男に振られて三日三晩泣いたり、その挙句髪を切るなんて今時流行らないことをする姉のことなんて理解できないし。
 私は返事をせずにコーヒーを注いでキッチンを出た。背中に受ける姉の視線が痛かった。

 パソコンの前に戻ると彼からメールが着ていた。そこには今回の企画の詳細が書いてある。せめてもっと前に誘ってほしいのに。私はそう毒づいて溜息をついた。
 さて何を書こうか。
 少し考えて思いついたのは、今回この企画に誘われた経緯をそのまま物語にしようということだった。突然誘われて、有無を言わさず引き受けさせられたということを少し皮肉混じりに書いてみようか。腹の立つ姉のこともネタにしてやろう。私ができるささやかな仕返しだった。


「『なあ、主人公が非現実に迷い込むというテーマで小説を書いてほしいんだ』
 ディスプレイの向こうにいる彼は突然私にそう言った。」
 書き出しはこうだった。やっぱり事実を元にするとすんなりと書ける。引き受けてもいないのに勝手に私を参加者に加えた彼と、さっき私を嫌な目で見た姉を登場させておいた。
「腹の立つ姉のこともネタにしてやろう。私ができるささやかな仕返しだった。」
 そこまで書いて手を止めた。
 さてと、ここからどう展開させていこう。そうだ、自分の書いている物語の中に主人公である自分を迷いこませてみようかな。ベタな手だけど、時間もないし仕方がない。


 私は、自分が書いている物語の主人公である私に、自分を主人公にした物語を書かせた。私が書く主人公の私は、自分を迷いこませるため、テキストエディタを立ち上げた。そして同じ文章をタイプし、再び自分を主人公にした話を書き始める。そしてその主人公の私も、同じように自分の書く物語の主人公にテキストエディタを立ち上げさせた。
 私が今見ているテキストエディタの中で私はテキストエディタを開いている。そのテキストエディタの中でも私はテキストエディタを開いている。そしてそのテキストエディタの中でも私はテキストエディタを開いている。更にそのテキストエディタの中でも私はテキストエディタを開いている。そして更にそのテキストエディタの中でも私はテキストエディt






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 From: "マユミ" <mayu_1105@yahoo.co.jp>
 To: "TBC" <tbctbc@tbc.club.ne.jp>
 Sent: Wednesday, October 22, 2003 7:17 PM
 Subject: 真由美の姉なのですが

 この文章を残して妹がいなくなってしまいました。もう一週間連絡がつきません。
 そちらにこの小説を投稿しようとしていたらしく、パソコンに残っていました。
 途中のようなのですが、よくわからないのでそのまま添付しておきます。

 そちらの方で、妹の行方は分かりませんでしょうか。
 何か手がかりでも、と思い、メールさせていただきました。
 迷惑をおかけして申し訳ありませんが、もし何か分かりましたら
 ご連絡をいただけないでしょうか。どうか宜しくお願い致します。