暗送秋波


(1)

桂野 ラクダ








 長野に住んでいる友人に会いに行こう、と私は彼を誘った。
 その夫婦は私たちの学生時代の頃からの友達だ。大学を卒業するのと同時に、彼が長野で就職して、彼女はそれについて行った。仲がよいカップルだったが、結婚はやっぱりとても急だった。大学を出た途端、彼らはもう別の人生に入ってしまったのだった。すでにお腹の中には子供がいたようだったが、彼女は長野に住む前に堕胎してしまった。詳しい事情は聞いていないが、どういうつもりだったのか、私にはまるでわからない。
 今でも彼ら二人には子供がいない。彼女はすぐに長野で仕事を見つけた(コンピュータ関係の仕事だったと思う)。
 私が彼女に遊びに行きたい、とメールを出すと、とても喜んでくれた。


 ともだち夫婦は、私たちを歓迎してくれた。
 私と妻となった彼女とで食事を作り、4人で食事をしてから、持ってきたトランプでしばらく遊んだ。そうして遊んでいると学生時代と変わらないようでもあった。でも、そこは二人の住居だった。2階だての立派な社宅だ。そのことを口に出すと夫婦もすぐに理解してくれた。
「たぶんだんだんなれていくよ」
と、夫になった友達が言った。
「ここは長野だしね」
と、私の彼が言った。一瞬なんて馬鹿なことを言うのか、と思ったが、よく考えると的ははずれていなかった。もう東京にはいない、ということを言いたかったのに違いない。
「あーそうか、長野なんだね」
と私は言った。
「だから早く帰らないと」
と彼は言った。


 二人は私たちを引き留めてくれたが、私たちははじめから日帰りで、しかもそれほど遅くない時間に戻れるようにするつもりだった。私は明日休みをとっていたが、彼は仕事だった。休みがとれなかったのだ。
 彼らの家を出たときには陽が少し陰っていた。二人の家が見えなくなると、私たちは話し始めて高速道路を使うことに決めた。のんきに国道で帰っていると、帰りが何時になるかわからなくなってしまう。


 彼は来るときに来た道を正確に戻り、国道に入っていった。私はペンライトを使って、インターを探した。それほど走らず、しかも複雑な経路もたどらず、高速に乗ることはできそうだった。
 私は調べたままを彼に告げ、彼はそれに応えた。彼は道に強い。ポイントを告げてしまうと、あとは彼に任せてしまえばよかった。
 それを言ってしまうと、私はもうほとんどなにも喋らず、黙って車を走らせていた。
「疲れた?」
と私は聞いてみた。
「いや」と彼は、考えてから言った。こういう質問にも、彼はきちんと自分の身体について考えるのだ。「それほど疲れてないよ。君は?」
「私も疲れてない」と私は言った。
 実際、私はまだまだ元気だった。流れていく風景のひとつひとつに注意が向いた。今の私なら試験勉強だってできる、と思った。
 試験勉強。最近私は勉強をしていた。来月早々にTOEICの試験を受けるつもりでいたのだ。彼女(長野の嫁)は英語に強かったことを思い出した。彼女は英語を使う仕事をしていないが、おそらく今の私よりも彼女の方がよい点をとるのに違いない。そう思うと、少しくやしくなった。TOEICは勉強すればするだけ、点数がよくなると言った類のテストなのだ。
 ――あー、私来月TOEICだ。
 と言いかけた。でも結局、私はそれを口にしなかった。
 その話はすでに彼にしていた。彼はTOEICの試験を受けていられるような生活ではなかったのだけど、試験とかクイズとかは彼はおもしろがってやるタイプだ。だから、英語の質問をしたら喜んで応えてくれる。
 でもなんとなく、私はそれを言わなかった。おもしろがれるような話題ではない、と私はすでに気がついていたからだし、それになんとなく、全然関係がない彼をつきあわせる話題でもない、と思ったのだ。
 そうして、私たちはなんとなく黙ったまま車を進ませていった。私は特に口を開かずに周りの風景を眺めていたし、彼も特に口を利かなかった。時折、私は彼に注意を向けた。彼は運転に集中している、と言ったふうで、黙って前を見つめていた。角を曲がる時にはだまってハンドルを回した。
 そうしていると、いつのまにか高速のインターについた。幸い、それほど車は並んでいなかった。彼は前の車の後ろに並び、ゆっくりと車を進ませ、料金所で通行券を受け取った。
 券を受け取ると、彼はスピードを上げ、ウィンカーを出し、高速道路に入っていった。


 もうすっかり陽は暮れていた。
 空はただの暗闇だった。高速道路の防音壁の向こうには一面の闇が広がっていた。星も出ていない。一定の間隔で置かれた電灯が私が闇に集中するのを妨げた。
 私たちはもうだいぶ長い時間黙っていた。特に疲れたわけではなかった。彼も特に疲れたわけではない。そのことは私にはわかっていた。
 彼は常になにかを考えていると言ったタイプの人間だ。私が話しかければ、早くもなく遅くもない、絶妙なタイミングで返事をしてくれるだろう。そうして私が話しかけるのを待っているかと言えば、そういうわけでもない。彼は彼で、なにかを集中している様子なのがわかる。
 そのことが私にはわかる。
 でもなにを考えているのか、私にはいつもわからない。彼は昔から奇抜なことを考えるひとだったし、それは学校とか仕事とかでも突出したなにかをもった、そういう雰囲気を漂わせていた。途方もないことを、いきなり思いつく、そういうところが、私には魅力的だった。私は初めて会ったときから、ずっと彼のことが好きだった。そのことは、振り返ってみるまでもなく、私にはわかっている。
 もちろん今だってそうだ。私は彼のことを愛している。それにはなんの疑いもない。
 私は無言で、単調で代わり映えのしない景色を眺めていた。そうしながら、彼の様子をずっと探っていた。彼はほとんど視線を動かさない。まばたきだってほとんどしないように思える。頭を動かさずに、ハンドルを横に傾け、そして視線を少しずらす。その瞬間が、ようやく彼が集中をゆるめた時なのだ。しかし、またすぐに彼の視線は一点に集まる。その様子に散漫なところはまるでない。もちろん、疲れている様子はまるでなかった。
 気配を気取られないように、決して彼の方はみなかった。そうしていると、なにかこっそりと、後ろめたいことをしているような気分になってきた。顔を完全に左に向けて、それでいても私は彼を伺っている、それを彼は気づいている。
 そんな気分に押しつぶされるように、私はシートを少し倒した。
「ああ、少し疲れたかも。ちょっと眠くなっちゃった」
私は言った。
「いいよ、寝ちゃって」
と彼は、私を向いて言った。
「うん」
と私は応えた。
 椅子を完全に倒し、後ろの座席に脱いでおいたカーディガンを胸にかけて、私は目を閉じた。
 私はそのまま、しばらく動かなかった。眠る気配は、まるでなかった。全然考えることがまとまらず、なんども寝返りを打ちたくなった。でもなんとなくそれをすることが憚られた。眠くないのに寝ようとしているからだ。
 いろいろなことを考えた。そうして頭の中だけを回転させていると、ようやく一つのことを浮かべることができた。私が長野に暮らし始めたらどうだろう、とういことだった。
 彼らのように会社で用意してくれるマンションがあるわけではないし、今だってあまり貯金があるわけではない。でも、長野で仕事もわりにすぐ見つけることはできるだろうと思えた。だからアパートを借りて、友達夫婦のそばに住み、たまに会って――ご近所ともなれば、わざわざそろって接待してもらう必要もないし、また友人同士として、無駄話の相手として、時間を過ごすことができるだろう。
「そういえばね」
 と彼は口を開いた。
「最近気がついたんだけど、ひとの身体って、暑いっていうのと寒いっていうの、必ずどちらかを感じるものじゃない?「快適」て感じられる温度っていうのは、たとえば暑い外からクーラーの部屋に入った瞬間とか、つまり反動として感じるだけだよね。気温について、思いを巡らせたとき、それは必ず「暑い」か「寒い」かのどちらかだということに気がつくんだ。そのことに、なかなか気がつかなかった。
 だから気がつくと、今みたいな春とか中途半端な季節が一番大変だって思ったよ。僕の部屋にはコタツをまだしまえてないし、それにクーラーだってときどき稼働してる。部屋で仕事をしているときとか、ストレスがたまってきて、気温に我慢ができなくなるんだよね。だからコタツをつけたり、クーラーをつけたりを頻繁に切り替えたりしてる。だから、この時期がいちばん電気代がかかるんだ。みんな、そうじゃないのかなあ」
 私は目が覚めていたので、すぐに応えることができた。
「真夏がいちばん電気料が多いんだよ」
「まあそうだよね」
「電気は大切にしないと」
「電子ちゃんだなあ……まあ、これくらいの浪費は自分に許したいな」
「だめだよ」
 私は起きあがった。
「少しでも節約する方向に向かわないと、そのうちすごい電気料になるよ」
「浪費か――でも、賄えると確信できてるうちは、問題ないんじゃないかな」
 そういうもんじゃない、と私は思った。電気は節約しないと貯蓄もできないし、いざとなった時に大変なことになるのだ。電気は大切にしないと。
 と私は口を開こうとした。
「ねえ――そういえば、言ってなかったんだけど」
 と私は言った。
「なに?」
「1年くらい前ね、私浮気しちゃったの」
 と私は言った。







(続く)