ルミネッセンス情熱

<3>


谷中






 講義が終わったところで携帯電話が鳴り、原口の携帯電話の番号が表示される。通話のボタンを押した。
 「もしもし、原口?何の用?」
 「何の用とは酷ぇな。菊地、オレの出席の欄にマルしてくれた?そろそろ日数がやばいんだけど」
 「いや、してない」
 「しろよ、いや、してくれよ」
 「だったら原口講義出ろよ」
 僕は『代返』が嫌いという訳ではなかったが、原口はあまりにも他人に頼り過ぎなので僕はあいつの代わりに出席をつけることは断っていた。僕ひとりが断ったところでその他の、原口を中心とした人間のそういった持ちつ持たれつのコミュニティーを、解散には追い込めない。特に原口はルックスも良く、輪の中心に位置しやすい。音楽やファッションの話、それらから広がる異性の話は彼の十八番だからだ。僕のコミュニティーじゃないから質はどうでも良いのだが。
 「まぁ、いいや。それよりオマエ飯食った?」彼は代返の話をもう忘れた。
 「まだ」
 「じゃぁ、一緒に食おうぜ。オレ学食にいるんだよ」
 「分かった」
 そう言って通話を切り、食堂へ向かい歩き出した。赤茶色のブロックが埋め込まれた舗装された道を行く。植え込みが曲がりくねった進路を示し、僕はガラス張りの大きな、学校が借金して建てた建物の地下へと階段を下る。駅に寝転ぶ浮浪者のごとく地べたに座り込み、また、寝転ぶ学生。その歓談、笑い声を尻目に食堂へ入り、すぐに原口を発見した。彼の隣にはまた先日連れていたのとは違う女の子がにこやかに微笑んでいた。
 「まぁ、座れや」
 僕は椅子を引き腰を下ろす。リュックサックを背から下ろし、立ち上がりから食券売り場へ歩くまでランチにすべきかそれとも他のものを食べるか考えていた。そしていつものように慣れで400円のランチのボタンを押してしまう。トレイに載せたものをこぼさないように注意深くゆっくりと持ち、席に戻って来た。僕は魚のフライを食べ、味噌汁をすする。
 「菊地さ、うちのクラスの子と付き合ってるの?」
 原口は煙草を持つ右手で僕を指差して言った。僕は顔を上げて彼を見た。彼は続ける。
 「オレ見たんだよなぁ。波多野千春だろ?一部始終見たよ、スクープよ、ブッコヌキよ」
 僕は口の中の噛みかけの白飯を飲み込み、「違うよ」とだけ言う。原口はそんなことでは納得せず、「事の真相を話せ」と言う。僕は仕方なく「彼女はきちんと彼氏いるってば」と原口に言った。
 「菊地、可哀想。おまえの好きな女はみんな男付きかぁ、ついてないなぁ」
 愉快そうに笑い、とても納得したようであった。原口の頭では男女は交際の目的の他にはただ話すことすら許されない、接触ももたないのだろう。もしくはただ性欲処理のためか。世界はそんなに単純じゃないのに、と、昼食を食べおわり、シャツのポケットから煙草を出し火を点ける。ゆっくりと肺深く吸い込み、食後の満腹感を実感した。原口はラーメンをすすっていた。口をすぼめて息を吹く。
 「おーい。菊地くーん」
 学食の仕切りガラスの向こうで手を振る者がいる。小さく飛び跳ねる度に背中のリュックが送れて跳ねる。むしろリュックに千春が振り回されているようだ。なおも「こっちー」と大きく手を振る。ガラス越しとは言え、声を遮断する程の物々しいガラスではないので彼女の声ははっきりと聞こえる。だが、彼女はゆっくり大きく口を開いて無音で呼びかける。読唇術でもしろと言うのか。
 「本当にあの子彼氏いんの?」
 原口は立ち上がった僕に向けて煙草を咥えたままで言った。僕は「何で?」とわけがわからず、尋ねた。
 「だって、すっげぇオマエのこと好きだって顔して手を振ってるじゃん」
 呆れたような顔つきで彼は言った。僕は背のリュックサックを原口に見せる形で食堂を出ていく。僕は「気のせいじゃない?」と未来を想像しない頭で答えた。期待の持てない未来像だ、見ない方が良い。

 講義の途中で千春は頷きノートを取る僕に話し掛ける。僕は面白いと思って割と真剣に聞いていたので頬杖を突く僕の左手に小さな人形を這わせてちょっかいを出してきても暫く気付かなかった。壇上の彼はマイクに向かい『イブ・サン・ローラン』のロゴマークを制作した人物の事やその時代について話した。とても面白い、興味深い。僕は「うんうん」と今にでも声を出しそうな雰囲気で拝聴する。千春は小人の人形を持ち「とーう」と小声を出して、彼女から見て右隣に座る僕の股間の、ジーンズの寄せる皺の波に人形を着地させた。ポス。着地性交、いや、成功。
 「わ、何?」
 僕は驚いて左を振り返った。彼女は膨れた顔をして「つまんない」と不満を漏らす。
 「さっきから話し掛けてるのに無視するんだもん」と続けた。
 「ごめんよ、でも今は講義中だし。それにね、いきなり股間とか触らないで。驚くし、何かと思うでしょ」
 僕は咎める。
 「そんなもの触りたくて触ったんじゃありません。菊地くんが敏感なのはそこだけなのね」
 「あのね」僕は諭すのも諦めた。
 講義が静かに終わり椅子から立つ者のたてる「ギィ」という引っ掻くような音だけが講義室に響いた。それぞれが欠伸をしたり背伸びをしたりしながら酷く面倒そうに退室する。千春は僕の背中を突ついて尋ねた。
 「菊地くん、暇?」
 「暇だよ。何で?」
 「ちょっと飲みに行かない?」
 「クラスで飲み会とかあんの?」
 「ううん。ふたりで」指を2本立て、ピースサインのように。
 「なら、いいよ」と快諾した。

 電車に5駅分乗り、雰囲気の良いショットバーに入る。まだ時間が早いせいか客は僕たちの他はいなかった。僕はバーテンダーを呼ぶ。
 「アマレットをコークアップして下さい」と頼む。そして千春には「何にする?」と尋ねた。
 「ジントニック」彼女は答える。
 夏の陽は落ちきらず、外はまだ薄明るく、そんな時間帯からウイスキーを飲むのは早いだろうと考えた僕はコーラなんかが丁度良いと、バーテンダーの彼が350ミリリットルのコーラの瓶の栓を抜きグラスになみなみと注いだ後長いスプーンで2・3度ステアするのを見ながら、思った。
 「何か話したいことがあるんでしょ」
 僕はタンブラーを傾け、口を湿らせてから言った。
 「鋭いね、さすが」
 千春は片目を瞑りウインクに似た仕草をしてひとしきりおちゃらけた後、銀色のヘアピンが纏め逃した垂れた金髪を指に巻きつけながら徐々に話し出した。
 「結論から言いますと、別れちまいました」
 「別の大学の彼氏か」と僕は言い、「何で?」と尋ねた。
 「ほら、入学してから会ってないって言ってたでしょ?実は今だに1度も会ってないんだよね。電話は何度かしたんだけど、もう話が噛み合わなくなって何かおかしいなぁと思っていたら」
 千春はジントニックをグラス半分一息で飲み干して言った。
 「女つくってやがったよ」
 鞄からメンソールの煙草を取り出してその緑色のパッケージを見つめ、封を解いた彼女は勢い良く投げやりに銀紙を丸め、咥え煙草のまま目を細めて煙を吐いた。いつもと違ってポケットのないノースリーブの服を着ていた彼女は、僕の「どんな奴?」という質問にこちらを振り向いて少し考えた。
 「あたしたち予備校のときから付き合ってたのね。それでまぁ、別の大学になったわけだけど。遠距離になっちゃうけど大丈夫だって言ってたのに、愛してるって言ってたくせに大学入って周りに女いたら速攻だもんね。やっぱ仕様が無い男だったよ。大体予想つくけど、躊躇もなくあちこち、それこそ自由奔放に手を出してただろうね。あぁ、本当、セックスしか頭にない男だったし、下らない男だった」
 そこで大きく溜息をつく。
 「良く分かったよ」
 僕はグラスに残るアマレットコークを飲み干して言った。
 「千春サンがその男を好きなのが良く分かった。今だにね」
 「違うってば!」
 彼女はテーブルを「どん」と叩いてふたつのグラスを揺らし、僕とバーテンを驚かした。彼女がここまでムキになって否定する様が信じられなかった。
 「悔しいの、好きだったのが。全て好きだったのが。あんな奴を初めての男にしたのが嫌なの。可愛く信じちゃってた自分がムカつくの」
 今にも泣き出すのではないかと心配したが、彼女は泣かなかった。ただ顔を真っ赤にして俯いて耐えていた。やがて、僕の肩に頭を乗せて体を傾かせた。
 「まぁ、あたしも同じようなもんか」
 言葉を吐き出し、心をも傾かせた。僕の腕を絡め取り胸を押し当てる。その間僕は一言も発することが出来なかった。僕は沈黙を破るように「メーカーズ・マーク。ストレートで!」と告げ、半ばやけになった勢いで出てきたグラスの中身を飲み干した。
 店を出たのは11時頃だった。開店と同時ぐらいに入ったのだけど、僕たちは最早飲み比べかと錯覚する程酒を飲んでいた。ショットバーだったのでミックスナッツぐらいしか食べ物を口にしていなかったのだ、僕も彼女も足元がおぼつかなくなって当然だったかも知れない。千春は空腹を訴える。僕たちは大戸屋へ入った。ふたりで定食を食べていると段々自分たちの関係が曖昧になってくるのが分かる。濃い味の味噌汁を飲むと先ほどまでの滅茶苦茶な酔いも落ちつき、彼女の状態も無理にはしゃぐことのないニュートラルな状態へ戻ったかに見えた。焼き魚をつつき、僕は千春との新婚の家庭のような空気を味わった。
 人も少なくなった通りを歩いていた途中、突然何かを思いついたように言った。
 「菊地くんは最高の友達だね」
 その言葉を受けて僕は「おう」と小さくガッツポーズをとり、敢えて自分に言いきかせるように落胆を押さえた。僕は彼女にとって小さな希望のようなものなのだ、彼女とて、しっかりするよう自分に言い聞かせているのは明白なのだ、僕が何を落胆することがあるのか、と心の中で繰り返す。煙草の煙が風で真横に棚引いて視界が狭くなる。突風のように強い風が勢い良く体を押した。金色の細い髪が緊縛から解れて彼女の頬に張り付いた。一際明るさを放つ駅舎の方では鉄橋を鳴らす音と共に最終の電車がいってしまう。
 僕たちはゆっくりと駅から離れて行く形で歩いた。
 「どうする?」
 千春は僕の手を強く握り、伏せた視線を静かに上げる。
 「そうだなぁ、もう少し待ってからタクシー乗ろうか」
 僕の答えに彼女は「そうだね」とだけ言った。彼女はフィルター近くまで短くなった煙草の最後の一口を吸い、右手では僕の手をまた強く握り返す。あてもなくただ迷走するように、眠りにつき始めた町を歩く。ネオンが眩しいのは風俗街の側だからで、僕達はその通りを一本路地に入り思い懸けずホテル街に出る。何軒かのホテルの前を素通りしたところで「入ろう」とも「入らない」とも言い出ださずにホテルに入った。何も言わず、しかしそれは決して普段のふたりではなく、ただ無言で部屋に入った。
 「今日はあたしのワガママに付き合わせてご免ね」
 彼女はそういった形で口火を切った。僕は事を察する。
 「いい迷惑だよ、ほんと。友達冥利に尽きるよ、正味の話さ」
 わざと明るく投げやりに言った。「そうだねぇ」と彼女は笑う。
 「先にシャワー浴びよっと」
 千春はタオルを片手に言うと振り向いて続けた。
 「今、ドキドキした?」
 「しませんね。大体あなたセクシーさに欠けます。いくら僕が飢えてても全然ダメです」
 いつもする馬鹿馬鹿しい掛け合いの調子で僕は答えた。
 「失礼ね。あたしだって菊地くんとじゃ無理です。別れたてホヤホヤでも駄目ですね」
 「何言ってんのさ。前にオレとならしてもいいとか言ってたじゃない」
 「あれはボランティア精神でしょ」
 「ムカッ」
 効果音だかト書きだかをわざわざ声に出して笑う。彼女がシャワーを浴びる、タイルを水が打つ音を聞く間、煙草の煙が魂のように天に召されるのをずっと見ていた。ホテルの内装を隅々見渡す。扉が開く音がして濡れた髪の千春は僕の前に立った。彼女は備え付けの簡易な浴衣のような服を着ていて、その丈がマイクロミニスカートのような極端な短さだったことと、紐を引くだけで前が簡単に開いてしまうことで僕は生唾を飲み込む時痛みを感じる程緊張する羽目になる。もしかしたら、また彼女は僕をからかう目的なのかも知れないと考えて視線を顔に映した。ヘアピンを全て取り払った千春の髪型を僕は初めて見た。その時まで僕は彼女はとても童顔で子供っぽいと思っていたのだけどそれは間違いだった。目を細めて、斜めに顔を傾けてから彼女は大人びた微笑で僕の目を見た。
 「菊地くんも入れば」
 彼女は言った。

 布団を盛り上げて山を作るふたつの体。彼女と僕は向き合うように横たわる。
 「もっと近くおいでよ。落ちるよ。大丈夫よ、別に取って食うわけじゃないから」
 千春はけたけたと笑って軽く言った。バスルームの近くの灯りだけを残して全ての電気を消した部屋は暗く、逆にその薄明かりが何とも言えない雰囲気を僕に警鐘として伝える。何かが起こるのだ、と。期待を胸に。
 遠くの部屋からカラオケの音が聞こえていた。車の音も聞こえない、そのカラオケの音以外は何も音声がないことは異様であったように思う。空気に惑わされて、ついに僕はどうしても気になっていたことを尋ねてしまった。
 「その服の下、何か着てるの?」
 長い長い沈黙があった。重く、そして深い闇のような沈黙であった。
 「確かめてみれば、触ってさ」
 「え?」
 僕は耳を疑う。絶対に聞き間違うわけはないのだけれど。
 「菊地くんはトランクス履いてる」
 彼女はそう言って、横になった体の上になった方の足の膝を立てた。膝頭が僕の股間に触れた。
 「そして、起ってる」
 棒読みに、状態を描写するように彼女は言った。千春は足を僕の閉じた両足の間に差し入れて、下になった手で服と下着の上から隆起を鷲づかみにした。瞬間、じんと中心が痺れる感覚を得る。
 「確かめていいの?」
 僕は訊く。頭も痺れる。
 その答えを待ち、前が合わさる服と両足の付け根の隙間に手を入れた。予想は当たった。「ざら」とした感触が指の先に残る。
 「菊地くん、前にたまってるって言ってたけど本当だね。ガチンガチン」
 トランクスのたわむ足の口から手を入れた彼女は添えた指に力を入れる。僕は「はっ」として、彼女の顔を見る。赤面する僕に千春は和やかな表情でゆっくりと言った。
 「友達同士でもあたしは女なんだよね。だから男同士みたいな友情は菊地くんとの間に生まれないんだよね。異性だと大事にしたいものも一時の感情で失くしちゃうんだよ、あたしは菊地くんが好きだけど付き合うのを諦めることは出来る。でも助けて貰うことが出来なくなると寂しいなぁ。ねぇ、あたしはどっちを選んだら良いんだと思う?正解はあるのかな。菊地くんがあたしを彼女にしたいと思わなくてもあたしに価値が残されている方が良いんだと思わない?ただ寂しくて側に優しい人を置いておきたいあたしのエゴなのかなぁ?それともあたしは淫乱なだけ?」
 涙が彼女の頬を伝ったが、それは「泣いた」のだと僕は一瞬気付かなかった。泣くには泣く顔があり、それは少しも泣きたい顔ではなかったのだ。自然に伝ったのだ。僕は見とれていた。
 「手をどけるんなら今だよ」
 千春は言った。少しの間があり、彼女は僕のトランクスを途中まで下ろして中のものを握った手を上下にゆっくりと動かした。僕はすっかり脳が麻痺して動けないでいた。ただ手の動きに合わせて腰が浮き、勝手に細かく動いただけだ。もうわけがわからない。彼女の指の冷たさだけが鮮明だ。
 「線を引こう、友達の」
 千春の言う言葉の意味も分からなかった。視界が狭くなり、彼女の服の紐を引く。前が開いて現れたふたつの丘陵に目を奪われ恐る恐る手で包む。上下左右に旋回するように何も考えが及ばずにただただ揺すった。唇どうしをつけ、目を閉じると本当に頭の中は空である。舌を吸うことしかないようだ。徐々にスピードを増してゆく彼女の手の動きに僕は重力を失い、平衡感覚を失くす。そこには何かを思い遣ることやそれをしない自己を責める気持ち、目の前の女性の体のみを貪る醜い自身も何も有りはしなかった。眼前はいつのまにか彼女の裸である。僕も裸だ。お互い一糸纏わぬ姿で文字通り貪る。奇妙なバックグラウンドミュージックを耳に口唇性愛に夢中になっていった。遠くの部屋のカラオケはまだ続いていて、それに混じって遠近を失ったように千春の嗚咽ともつかない短い嬌声がランダムな間隔で響く。不規則ではあるが、確かに僕の動きと呼応した彼女の切れ切れの喘ぎ声を聞きながら僕は初めて彼女の持つ女性の、その部分を、間近に暗がりで見た。自分と逆さまになった相手の顔を見れない。表情が分からない。声だけが聞こえる。彼女は僕の熱源を5本の指と唇とそれと舌で滅茶苦茶に分解した。
 音楽、だった。まるで。蘇る民族音楽だった。僕の語彙で言うならば。歴史古く、テクノロジーに支えられた根源の衝動だ。僕自身良く分からない、何が起きたのか。説明出来ない。
 「出して」
 口を離さないまま不明瞭に彼女はそう叫んだ。僕の意思とは無縁の、命令に従う従順さで言葉通りになる。予言みたいだ。僕が激しく呼吸をする中、ひとしきり指を動かして事後処理のその後でティッシュペーパーに口に含んでいた液体を出す。上目遣いで彼女は言った。
 「引けた?」
 僕はその言葉も聞かず一体自分は何を舐めていたのかと、今の今まで目の前にあったものに思いを馳せていた。酷く感銘を受けた。すごい、凄過ぎる。拙いが。


  [2]
 朝まで寝つけないでいた。1限目に講義があり、その為ではないけれど、まぁ、丁度良くはあった。僕は自分の部屋でステレオのアンプのスイッチパネルが柔らかく光るのをじっと見ていた。CDの山の中から選んでかけた音は僕の耳に届くと頭の中で映像に変換される。ぐにゃぐにゃと変化して次第に女性器を形作る。汗でないものが滴る。脳からも何かが滴る。目を閉じ、ズボンと下着を半分下ろして僕は千春と行った性愛の感覚を、純粋な快楽を再度求め、その晩のことを反芻して自慰行為にふける。終わるとますます眠れない。そしていつしかまた考えはそこに辿りつく。彼女が僕の性器を口に含んでからというもの、僕は本能的にそして酷く男性的に彼女を求めた。そしてもう一回。
 服を着替え玄関を閉めて家を出た。まだ学校に行くには早かったが、どうも家にいるとマスターベーションばかりしてしまうので朝方のひやりとした空気の中、僕は自転車で走り出した。横目に写る観葉植物の鉢や植え込みの葉に乗る夜露がきらきらと輝いて静止した時間の理の無人世界を早い回転で散策する。自宅の前を掃く老人や新聞配達が動き出した。指に挟んだ煙草を口に持ってゆき、煙を吐く。途中、自動販売機でジュースを買い、落ちてきた缶のプルタブを起こすと「パキッ」と心地よい音をたて無数の気泡の弾ける音が僕の耳に追加される。喉を鳴らして飲み干すと缶をゴミ箱に捨て、学校の方へと走り出した。
 まばらにしか自転車のない駐輪場に自転車を置きチェーンロックを施して校舎へ向けて歩き出す。中庭に出ると煙草の箱から一本抜き取り、火を点けてからまた学校の敷地内をあてもなく散歩した。講義が始まるにはまだおよそ2時間もの時間があり、学校の中も恐らくほぼ無人である。敷地のはずれに位置した機能しない噴水のある枯れた池のほとりに行く。入学してから幾分時間が経過してはいたが、自分に用事のない校舎に行くことはないし、利用する施設とて限られたものである。従って僕の知らない場所はまだいくつもこの学校内にはあるのだ。あてもなく歩く。見渡し、そして身を反り空を仰ぐ。
 ひとりの女の子の姿を見かけた。まさか僕以外にこんな時間に学校に来ている者がいるとは考えなかったし、僕だってこの時間から正門が開いていたことにすら驚いたぐらいだったのだ。僕は気になってその人影を意識的に追う。しかし、なかなか姿を捕捉出来ない。比喩として言うなら、ひとつ角を曲がり終えると相手はもう次の角を曲がるという感じなのだ。ひらひらとしたスカートの端だけが写るような感じ。勿論、「感じ」であってこの学校のだだっ広い敷地に角なんてものはない。不思議の国のアリスのようだ。既に日は高かった。
 僕がここに来てから10本目の煙草に火を点ける動作をしながら円形に作られたステージのような、コロシアムを半分にしたような、建設意図の分からない造形の場所に出た時、顔を上げた僕の目に映ったのはまぎれもない蓮実だった。彼女はそのステージの中央に立ち、右手を掲げ、目を閉じていた。僕は声を掛けるのをはばかり、その雰囲気に飲まれ、及びもつかない何かの儀式のようなそれをずっと見守った。ごく、と唾を飲み込む音だけが予想以上に響いた。
 「菊地君」
 蓮実は目を「ぱっ」と開き、その大きな吸い込まれそうな瞳で僕にそう言った。掲げた右手を下ろして半身だった体を正面のこちらに向け、歩み寄る。
 「檜山さん」
 僕は彼女の苗字を口にするのが精一杯である。
 「こんな早くに何してるの?」
 そう微笑んで膝丈のスカートの尻の下の部分を抱え込むようにして、腰を段差のある場所に下ろす。手招きをする仕草で僕を隣に座らせた。彼女の側にいると暖かい陽気も冷たく感じる。僕はTシャツしか着ておらず、腕に鳥肌がたっていた。蓮実は5分丈の薄いカーディガンのようなものを脱ぎ、その異様に美しい動きを見て、僕は下半身が疼くのを感じた。張り出した胸の膨らみが痩身の彼女の女性を表現して、そのノースリーブの白い服の中身を想像する。そのような汚れた目で薄い化粧だけを施した蓮実をじっと見ていた。
 「檜山さんは何してたの?」
 僕は尋ねた。
 「朝の早い時間はね、様々な感情がさ迷っているのよ。わたしの短い人生では経験し得ない種類の感情なんかもね。そういうものは誰の所有でもなくて自由に寄せることが出来るの。だから、わたしは寄せていたの。それらを」
 蓮実はゆっくりと確かめるように言った。
 「寄せる?鳥寄せみたいに?」
 驚いて質問した僕にまた彼女はこう言った。
 「あのポーズは別に何でもないのよ。ただ大仰なほうが自分自身が入り込み易いだけ」
 「トランス状態みたいなものなのかな?」
 「どうかな?良く分からないけど。鳥寄せみたいではあるわね、ある意味。だって餌はあるんだもの。何だと思う?」
 「いや、想像もつかない」
 「わたし自身よ。果たして人と人が交錯するのは無料かしら?現実にだって何かしらの代償は必要なんじゃない?例えばわたしがあなたに自分を良く知って貰おうとしたら、わたしはあなたに体を開く。セックスね。どう?それは代償かな?」
 「…違うと、思う。良く分からないけど、そういうものじゃないと思うよ」
 僕は俯き、捻り出すようにやっとの思いでそう答えた。
 「菊地君は良い人ね」
 蓮実は言った。そしてこう付け加えた。
 「何も知らない間は」と。
*
 講義が終わり、今朝の蓮実との邂逅を思い出していた。千春が後ろから駆けてきて腕を絡める。
 「この後なーに?」
 そう尋ねた彼女はいつものようにはヘアピンをしてはいなかった。耳が隠れる長さの金髪の髪を、纏めずに整髪料で撫でつけていた。服装も普段よりも強調して女性的である。グロスで光る唇の光沢を見ていると、艶かしく恍惚が蘇る。この口が射精に導く。僕は努めて動揺を隠していたが、恥ずかしさでうまく喋ることも出来ない。
 「全部休講になっちゃったんだ」
 僕はやっとの思いでそう言った。
 暫く彼女は僕の顔を見て、それから「嘘つき」と言う。
 「じゃぁ、あたしも休講にしちゃおっと、行こ」
 手を引き、「何処へ?」と尋ねた僕に微笑んで「あたしのうち」と答えた。
 僕たちは残りの講義を全部サボり千春の家で過ごすことに決めた。自転車で並び走る間中、捲くれそうな彼女のスカートの裾を密かに見ていた。胸が何故か期待に膨らむ。股間も、か。
 部屋に入ると以前見た時よりも幾分すっきりとしていた。今日僕を部屋に呼ぶことを想定していたのかな、と、勘ぐる。鞄をベッドの上に放り、大きく息をついて「疲れた」と彼女は言った。僕はリュックサックをくすんだベージュ色のカーペットの上に置き、それからベッドに腰掛けた。千春は倒れる達磨の要領でごろんと寝転ぶ。その際に高く上げた足が天井を指し、足の付け根に一瞬白いものが見えた。反動で細かいチェック柄のスカートはふわりと。時計の「カチカチ」という時を刻む音だけが部屋の中では大きく響き、遠くで鳴るサイレンもない。何もない穏やかな午後の渓流に身を浸す。
 彼女は「お腹減ったね」と言った。
 僕は千春のスカートの中に手を入れる。太股を伝い、先ほど見えた白い布に指を這わせた。驚いた顔をしていた彼女が事態を飲み込むのに数秒かかり、その後で僕のチノパンツの股間の膨らみに手を添える。お互いの呼吸が荒く交互に、午後の光がカーテン越しに部屋を照らす中、発せられた。僕の中指が彼女の性器を1枚の薄い布越しに探り押す。強く押す。そして弾力が指を押し返す。泣き声のような声を上げた彼女は僕の首に腕をまわし、へし折らん程に強く、すがるように脆く、力を込めて何かに耐えた。
 例えるなら、「ほぞ」。それと挿し込む支柱。僕たちはお互いの性器を刺激しあう。そこには会話はなく、言葉が生まれる以前から有る、コミュニケーションと言ってはあまりに根源的な行為に耽る。言語を駆使しない原始人のような声が耳を刺し、手の動きや舌の動きの速さはあるピークまで登ったところで僕の果てる一際大きな合図で下降した。彼女はにやにやとした表情で吸ったものを口に溜めていたが、いたずらに口を開けて舌の上に乗せた白濁色の粘液を僕に見せつけた。
 「何食うか?」
 そっぽを向いて僕は言い、千春は「遅すぎ」と笑った。

   彼女は撫でつけた金髪のショートカットの、額に落ちかかる1房を右手で耳にかけた。その拍子に耳の、まるでルーズリーフバインダーのような状態の沢山の輪状のピアスが覗く。間近で見た顔はやはり幼く感じられて、視線を形の良い乳房に落とした。つま先まで目で追って、その幼さと妖艶さの危ういバランスの拮抗が内在する体を僕は独占した。必ずしも男女交際イコール性愛ではなくて、僕たちは行動を共にしたし、僕は彼女の服の中身を知っていたし彼女は僕の性欲を理解している、と僕は認識していた。故に僕は、僕が彼女の家に行くか彼女が僕の家にくるかもしくはホテルに泊まるかいずれかして、おおよそ週のほとんどを費やし執拗に彼女の体を求めた。無限とも言える止めど無い性欲を処理した。全く言い訳にはならないが、何しろ彼女のフェラチオは甘美だったので。まったく。
 同じクラスの男が千春に好意を向けていると噂に聞きつけて、彼が想像するであろう千春の裸体を僕は既に知ることでえもいわれぬ優越感を得たり、また同じクラスの千春以外の女の子と彼女を比べることでも益々思い違えた増上慢にさせた。ただひとつ不満を言えば、僕は彼女にインサートしてはいない。千春の全てを知ってはいない。眼前に広がる秘所の、その奥の感触をまだ知らない。

   小雨の振る日、僕は彼女の部屋で夕飯を食べ終えた。食事の用意と後片付けを進んでした僕に彼女は訝しげな顔つきで「何企んでんの?」と冗談まじりに尋ねた。
 「別に、何も」
 それだけ答えて僕は煙草を消してから千春の側へとにじり寄る。目を閉じていつものようにこれから始まる行為に備えて体の力を抜いて彼女はベッドに仰向けに寝そべる。部屋の明かりが一段暗く落とされて、そして僕はキスをしてから紫色のカラージーンズのボタンを外しゆっくりと脱がせる。裸に近づくにつれ、次第に彼女は小さくだが歓喜の声を上げてゆく。
 僕は自分の体を千春の体に預け、目論みに従いいつもとは違う到達点を目指した。順番通り進んできたことがとある分岐点で進路を変えたのだ、彼女は驚きのあまり勢い良く上半身を起こして叫んだ。
 「ちょっと、待って」
 手の平を僕の胸板に押し当てて僕の身を引き剥がそうとする。僕は支えを押し壊して彼女に覆い被さるように、彼女の閉じた膝を割り、断れない体勢を固めてから「いれさせて」と脅迫じみた懇願をした。
 「どうするの?これ以上あたしたちどうするの?ねぇ、いれてどうするの?」
 彼女はそう涙声で矢継ぎ早に言い、膝で僕の侵入を拒む。そんな質問は全く耳に届かず、入り口に押し当てた物を、大きな木の槌で強固な城門を壊すのをイメージして、待機させ快諾を待った。結局は僕達は結ばれるだろうと考えていた。
 「友達しかないんでしょ?」
 最早怒声に近い千春の声を無視して、僕は僕の中の完全なるセックスのイメージを遂行した。実行に移す際、千春は全てを言い切らないうちに侵入を許した反動で体を仰け反り「ううぅ」という獣のような泣き声を上げたが、僕は無我夢中で腰を動かした。深い堪能のうちに彼女の腹に衝動の残りカスを吐き出した。彼女はしばらくしても顔を両腕で覆って視界を遮ったまま、こちらを向いて微笑んでくれるどころか起き上がる気配もなく動かずに横たわり、ただ時間の流れにその身を委ねていた。僕だけが満足のうちに行為を終えてから1時間が経過し、さらに彼女が1時間前から微動だにしないのを10分眺めたところで、初めて僕は自分が犯したかも知れない禁忌の可能性を探った。拭かれずにいる腹の上の、僕の放出した残骸がやたらと不吉に思えて仕方がなかった。汗が伝う。
 「良かった?」
 そのままの体勢で彼女は口だけを動かした。僕は咄嗟に「うん」と答えて、だるそうに起きあがった千春を不安な眼差しで見ていた。
 「そう、良かった」
 そう言い、彼女が微笑んだので、ほっと胸を撫で下ろした。僕は間違っていない。