ルミネッセンス情熱

<6>


谷中






[05]
 もしかしたらあなたにも何かきっかけがあればいつか理解して頂けるのではないかと思う。
 何かを失くすことはただの過去の出来事ではないし、失くすという現象はただの過失にのみならずそれは何にもまして決定的な事柄なのだ。誰しもが何かを失くすのではなく、損なう人間は損ない続けていくしそうでない人間は得もせずに緩慢と生きてゆく。しかし、それこそが至上の幸福なのだ。

 自分に憐憫の情を投げかけ更にそれを恥ずかしくもなく受けとめるという作業を続けてしばらくして僕はいつしか無感動でいる自分を発見する。感覚が麻痺し、喜ばしいことや遣りきれないこと、それらの合切が混沌としてどれもが区別がつかなくなってしまっていたのだ。通常の感覚をもってすれば好感情も悪感情もを同じ器に収めることは赤の他人の汚れた下着と自分の下着を一緒に洗濯するような、そんな気分に多少なりとも陥るはずだが僕はガラガラと回るドラムランドリーの中の派手な柄や地味でプレーンなもの、綿やら化繊やら、トランクスやらまるで紐のような形状のもの、何もかも同じに見えた。持ち主の風体も関係がない。ドラムの中、無重力の中宙に浮くこの薄い水色のワイヤーブラジャーの持ち主の容姿を想像することも出来ない。髪の長さもスカートの丈も年齢もスリーサイズも、芸能人に例えると誰に似ているのかも。
 改めて僕の辿りついたのは諦観であったと気付く。そこは無我の境地ではなかったし、ある意味では悟りを知った気分言わば増上慢にあったと思う。
 僕は目を細める癖がついた。

 様々な人間が現われては消える。ならば、やはりまた僕の前には誰か現われるのだ。勿論、消えるという前提を承知の上で付き合うほかない。それが嫌ならば山に篭って仙術の修業でもするしかない。考え様によってはそれも良いかも知れない。何しろ神通力で千里からを駆けられる。僕は望まないけれど。僕はここに居たい。
 大学にまた通い出して臆することなく見渡してみればまだクラスには山ほどの人間が居た。籠に盛られた果物の山のように色艶の良い物から痛みの激しい物まで色々あるが、その中で手頃な物をひとつ掴む。運が良ければ口に合う。
 僕がクラスの山から偶然引き当てた林檎はとても色艶の良いみずみずしい物だった。彼女は僕よりも2つ歳下できちんとした恋人がいた。いささかきちんとし過ぎた、真面目な男だった。同じクラスということ以外何も共通点のない男だったが彼の真面目さというものは容姿に服装に表れていた。そして彼がきちんとしていればきちんとしている程に僕にもつけ込む隙があろうというものだ。彼女とは簡単に寝ることが出来た。まるで簡単だ、あっけない。

 明日香は声高に叫ぶ。
 「ああ、ダメ。あたし好きな人いるんだから」
 彼女は彼女の妄想の中で職場の上司に襲われていた。いつも教師とか上司とか先輩、そういう自分よりも権力のある関係の不可抗力の交接を妄想する。そしてまたも彼女はこの狭い僕のアパートの僕のベッドの上で一種滑稽なほど、フィクションの中の出来事のように乱れた。声量も大きい。
 彼女は多分普段性格的に自己を厳しく律している為に反動としてそうなると思う。明日香の琴線は相手が欲情して無理矢理という筋書きで、自分自身が望んでそうなるのではなく、あくまで「仕方ない」のであった。イメージプレイ。
 僕はただの遊びとしてだってあまり気分が良くなかった。明日香のそういう保身は好まなかったし、貞淑が好奇心に負ける様も好まない。正義の勝てない少年漫画のようなものだ。彼女は幼少時から優等生だったのだろう、それゆえ性的な好奇心も旺盛だった。ただ、彼女は容姿が端麗だった。
 「もし知られたら、どうしよう」
 ほとんど涙声に近い声を中空に泳がしながら、明日香は僕にしがみ付く。
 「バレたら、どうする?お前がこんなになってるの知られたらどうするんだ?」
 僕は言葉にしながらも吹き出しそうだった。冷静になればこんなのまるで官能小説だ。途切れ途切れの弱々しい声と呼吸が鼓膜を叩き、僕は瞳を閉じ、無心で腰を動かした。そして彼女の腹の上に射精する。
 お互い突っ伏したまま無言で呼吸を整えた。
 明日香は裾丈を短くサブリナ丈にロールアップしたジーンズをベッドに腰掛けたまま履いている途中に言う。
 「急がなきゃ」
 座ったまま太股までズボンを上げ、勢いをつけて立ちあがりそしてそのまま一気にウエストまでズボンを引き上げる。僕はロングスリーブTシャツを床から拾い上げて彼女に尋ねる。
 「腹へったな。何か食いに行かない?」
 「ゴメン。バイトなんだ」
 「ああ、そう。じゃぁ、送る途中で食うよ」
 「送ってくれなくていいよ」
 「何で?」
 彼女は何も言わなかった。黙り込んでしまい、必死で何か言葉を紡ごうとするのだけれど、どうも上手いセリフが出てこないようだった。僕は彼女が何を言わんとしているのかを空気で察する。
 「別に誤魔化す必要ないじゃん。バイトとか言ってさ」
 「嘘じゃないよ」
 「…いいから」
 「本当だってば」
 「…いいって。別にショックなんてないし」
 僕は早くこのアメリカの恋愛映画のような遣り取りを切り上げたかった。明日香にはきちんと恋人がいる、これから明日香の家に来る予定の恋人が。そんなことは僕は最初から知っていて近づいたのだ。嫉妬もない、自身が驚く程ないのだ。僕が嫌なのはこれから恋人と会う彼女が僕の家で性交を済ましてゆくことだった。その気持ちが分からない。理解出来なかった。僕が言うのもおかしな話だけれど。
 結局彼女は半分泣きながら帰って行った。
 僕は明日香に対して恋愛感情がない。とは言え、初めから「恋愛感情がないけれどヤラせて」とも言えない。そこは酒の席の酔いにまかせて調子の良いセリフをぽんぽんと投げかけた。それはただの常套手段であって、本心じゃない。正確に言うと僕は本心である必要がないとも思う。学んだことだ。

 僕は千春に投げ掛けられた言葉の通りの僕になった。暗い海の底のような場所をのたうち、這いずり回る奇怪な深海魚のように取りとめなく混沌とした時期を過ごす。そして端から順に要らない感情や事象、実に色んなものを切り捨ててゆき最後に残る捨てても捨てても無尽蔵に生まれてくるもの、それは、唯一性欲だった。初めての恋ではないにしろ、彼女が僕に齎した一瞬の幸福と永遠の業火のような苦しみ、全て一言で終わりの掛け声と共に片付けられるようなものではなかったし、後も考えることの一切が馬鹿らしく思える家電の電源を落とすような快楽、セックスだけは渇望したのだ。
 風俗店で解消するような健康的なものじゃなく、爛れた精神が溶けてひとつの黄色いバターになってゆくようなそんな朝から晩まで続き恐ろしく何もかもを消耗するものを欲した。幸い僕はまだ若く学校のクラスを見渡せばどいつもこいつも色欲に犯され欲情しっぱなしの若い女の子ばかりだったし、また、それらがどうしようもなく手に入らないほど僕は落ちぶれてもいなかったのだ。目を凝らせばどの子が潜在的に性交を求めるのかがはっきりと分かった。その中でも明日香は今すぐその場ででも下着を脱ぎ出しそうなほど求めていた。はっきりと分かった。実際彼女にはやや素敵とは言いかねる恋人がいたけれど、明日香は僕と簡単に寝た。ただ少しのきっかけを与えれば坂の頂上から走り出した手押し車のようなものであった。彼女は理性の部分で将来性のある真面目な清い交際をするものだという意識を持ちながら、その実、情報や噂に聴くような激しい交接を切望してもいた。そして真面目な恋人を選び真面目な交際という対面を重視するあまり恋人にそれを要求することも相談することも出来はしなかったのだ。僕は思った。
 臆病者は臆病者を知る。
*
 5号館の校舎を出て、明日香の姿を発見する。
 僕はベンチに座る彼女に背後から声を掛けた。
 「明日香、何してんの?」
 彼女は振り返り、言った。
 「菊地君、何か用?」
 「用事は別にないけど…そうだ、また今日あたりうちに来るヤル?」
 僕は決して彼女からは誘いはしないセックスの口実を彼女の為にも作ってあげねばならない。
 「やめてよ!…学校でそういうこと言うのやめてよ。誰かに聞かれるたらどうするのよ」
 途中から声のトーンを落とし、静かに言った。
 「いいじゃん、別に。誰も聴いてないし、それに聴いても何のことか分かんないよ」
 「彼待ってるの」
 「ああ、知ってる。彼氏来たら言ってやろうか?『手首縛った跡あるだろ?』って」
 僕はにやにやしながら言った。明日香は何も言わず、ただ下から睨むような恨めしい目つきで見上げていた。そこで僕はからかうのを止め、踵を返す。後ろから声がした。
 「夜に多分電話する」

 けたたましく鳴った携帯電話を取ると、明日香は「開けて」と言った。自室のドアを開けると彼女が立っている。ふと時計を見やると針は夜の10時を指していた。彼女の家から僕のアパートまでは近いので、彼女は大体9時半過ぎぐらいまで恋人と会っていたのだろう。いつも別れたその足で来る。
 何故か彼女は正規の恋人と会った直後に僕と交わるのを欲した。
 ベッドに腰かけた明日香に僕は尋ねる。
 「何か飲む?お茶もビールも色々とあるけど」
 「いらない」
 「飯は食った?」
 「食べた」
 「外、寒かった?」
 「べつに」
 「オレさっき煙草買いに出たら結構肌寒くて驚いたよ」
 「下らないことはいいから、はやく」
 僕がする日常会話は彼女に言わせると「下らない」らしかった。僕とて、うんと楽しくはないとは思う。だけれど。最早彼女の態度にも馴れ、そういう風に会話を省略して単純に行為だけを欲するパターンにも違和感を覚えなくなった。明日香は両腕を広げ、僕の肩にしがみ付く。愛情表現ではなかった。
 「眼鏡外せよ、曲がるぞ」
 「いい。服もこのままがいい」
 「あ、そう。今日は何?」
 僕は尋ねる。フィクションの筋書きだ。
 「『無理やり』」
 「はぁ、それ好きだね」
 僕は半分呆れながら答える。そして要求にも応える。彼女に覆い被さり手首を押さえつけ、空いた片方の手でシックな色合いのシャツの上から乳房を揉みしだく。明日香は明るくカラーリングしたセミロングの髪を振り乱して迫真の抵抗の演技をした。膝丈のスカートの中に手を滑り込ませる。膝をばたばたと動かし、またも迫真の演技。熱が入る。是非とも性交時の彼女には何かしらの賞を与えたいものだ。
 驚くことに瞳にはうっすらと涙を浮かべていた。背けた顔はとてもこんな交接を望むようには見えない、清楚な顔立ちだった。それを歪めている。背筋がぞくとする。思わず身震い。
 「いやぁ…やめてぇ…」
 明日香は完全に自分の内的世界に身を浸し、酩酊状態であった。壁掛け時計の秒針がチキチキと鳴り、一周するごとに歯車の動くような音をたてた。彼女は声量を調節することも忘れ、振り乱した四肢をはずみで壁にぶつけたが、それには気を止めない。体温は上昇し、頬は桃色にうっすらと上気してしかも汗ばんでいる。そんな彼女を僕は見て、吸い込まれるようにきつく結んだ唇の上に自らの唇を重ねた。少しの隙間もない彼女の上下の唇は頑なに侵入を拒む。
 「ん」
 顔を殊更顰め、嫌悪感を表に出し、背ける。鳩尾のあたりが「きゅう」と鳴った。
 「挿れるぞ」
 「いや」
 途中までボタンを外したシャツの中から顕になった彼女の腹の上に流れ出した僕の白濁は、拭き取られてくずかごに捨てられた。足跡は綺麗に消され、来た道をもう1度辿ることは叶わない。

 細くて折れそうな手足や、細くて折れそうな赤いフレームの眼鏡、細くて折れそうな心。友達から聞く性生活の話やメディアから垂れ流された情報を肥やしに肥大化し続けるものを、彼女は『魑魅魍魎』と表現した。抗うことをしない人間を見下したし、飼いならされる者もまた軽蔑した。それゆえ彼女はその細く折れそうな支柱で必死に落ちてくる天井を支えた。大概セックスの後で彼女は内省的になり、どうしようもなく男性の体を求める気持ちや純粋培養される性欲を憎んだ。1番弱いのは自分自身の心だった。
 僕と明日香が互いに必要としたのはそういう部分だったかも分からない。彼女は僕に人間的な魅力を感じてはいないだろうし、汎用的な言い回しをすれば、即ち、「体が合う」。彼女は自分を軽蔑する代わりに僕を軽蔑することが出来たし、例えば自分がもうひとりいたら痒いところに手が届くような2人3脚が出来ると想像したのかも知れない。しかしそれには予定外の「自分の滑稽さを目の当たりにする苦しみ」があった。だからまた、彼女は必要以上に僕を憎んだ。実際、僕が嫌な奴なことを差し引いたうえで。
 明日香はよく僕と交わる時に、妄想と妄想の狭間で瞬間的に我に返り、「畜生」と呟いた。

 僕は明日香と交わるのは好きだった。丹精な顔立ちの中でも、特にキリッとした眉や切れ長の目、きっと結んだ口、細くてすらと長い足や握力なんか少しもない小さな手のひら、それでいて身長は低くはなく、頼りなく、倒れそうなのを奥歯を噛み締めて耐えるような虚勢、泣き出す1歩手前の表情。悶えるような乱れ方、熱病にうなされるような感じ方、声の出し方、オルガスムスの到来、張り詰めた糸が切れるような泣き方。
 彼女と僕は正に性交時の性器以外では繋がることを知らず、例えば会話を満足にすることすら彼女は嫌がる。僕はそれでいいと思う。必要だとも思わない。僕の性器が彼女の性器と繋がることが彼女の拠り所になって夜中に悩みを聴くことに劣るだなんて一体誰に言えよう。掴む藁の違いだ。
 僕らはいつでも、些細なきっかけで容易に引力の勢力圏の外に放り出された。靴の底がゆっくりと地面から離れて、そして一気に空気のない場所まで運ばれる。だから僕は掴んだ。皆が掴んだ。地上に留まることを選んで。
*
 1週間のうち、4回は明日香と性交する。彼女は恋人と会う直前か直後に僕と1時間だけ交わり直ぐに僕の部屋を出てゆく。僕はそれ以外の時間を自由に使った。とは言え、趣味らしい趣味を持たない僕は自室のベッドに寝転び性交の余韻に浸るか下らない無為な時間を過ごした。何をするでもなく、腹が空けば満たし、もよおせば排泄し、時計が早く回るのを待った。飛び石のように存在する1時間だけの蜜月の間をジャンプするように毎日が過ぎた。やはり、飛びあがり石に着地するまでの滞空の時間、足の下には地面はないのだ。
 気が向けば外出し、少しの金で無為の時間を買ったりもする。僕は生活必需品を買うのも好きだったが、生活に直接関係のない商品を買うのも好きだった。目的が示されていない買い物も好きだった。例えばカラフルで例えば可愛らしい造形で、例えばチマチマとした物。
 明日香との性交を終えてすぐ暇になった僕は街へ出てウインドウ・ショッピングと洒落込む。体には彼女の手の平が擦った感覚が鮮明に残り、鼻腔にはまだ彼女の体が発した匂いが粘膜に付着していた。僕はそれらと一緒にたくさんの人と物に溢れた場所に埋もれた。目玉を動かすと映像に伝わってくる人間は全て腰から紐を垂らしていた。先は何処かに繋がっている。僕は滞空時間のスローモーションで、真下をゆっくりと見た。
 ひとつの雑貨屋に入り、可愛らしいグラスを見つけた。形も色も少し変わっていて、小さい、まるでアスファルトの道の端に踏まれ残る名も知らない花のようなペイントがワンポイントで施されている。ジンジャーエールを注いで飲んだらとても美味しそうなグラスだった。僕は手に取り、眺め、ジンジャーエールを注ぐところを想像した。レジに持って行き、金を払い、纏め髪の地味だが手先の器用そうな女の店員にこう付け加えた。
 「すいません。包装して貰えますか?プレゼント用に」

 2限の抗議が終わり、時間の空いた僕は3号館の校舎に向かい歩いた。僕のクラスメイトの大概はここを探せば必ず消息が掴めるのだ。いつまでも続くかと錯覚する螺旋階段を上り、最上階に来るとベンチには同じクラスの数人の人間が煙草を吸いながら談笑していた。僕は近づき、話し掛ける。すると一斉に皆が振返り、会話はぴたと止んだ。その中のひとりが右手で唇から煙草を離し、言う。
 「何?」
 僕は肩から掛けたショルダーバッグを背面に回し、少し申し訳なさそうに尋ねる。
 「梶原さん見なかった?」
 「あ?明日香?」
 男はまた煙草を唇に持っていき、斜に構え、他の者にも尋ねる。
 「お前、見た?」
 「ううん、見てない」
 女は答える。
 僕はもうひとりの女に訊く。すると逆に訊かれた。
 「明日香に何の用なの?」
 「別に用ってほどじゃないけどさ」
 僕は言った。
 「さぁねぇ、見たような見てないような。知ってても教えないような、金取るような」
 「ギャハハハ、意地悪しないで教えてあげればぁ」
 笑いが起こる。楽しそうに男は言い、楽しそうに女は笑う。
 「ギャハ、結局知らないんでしょ?馬っ鹿、死にそう、お腹痛い」
 酸欠状態のように息を吸いながら、女は大口を開けて笑った。僕は再度言う。
 「知ってんの?知らねぇの?どっち?」
 男は言う。
 「さぁね」
 僕は溜息をつき、無言で立ち去ろうとする。背後から聞こえる談笑。
 「最初から見てないって言ってあげればいいのにぃ」
 「え?オレ、いじめっこ?マジ?」
 「お前いじめっこだよ。いじめ、カッコ悪い」
 「ギャハハハハハ、ゾノだ」
 「分かるよ、あいつ暗いし。なんかムカツクし、喋んないし」
 「菊地?ああ、『尾崎』っぽくねぇ?」
 ナイロンのアノラックのポケットの中に手を突っ込んでいた。中でライターを握り締めていた。そしてそれを振り向きながら投げつけると、そのまま走り出す。遠くでジッポーライターが地面で弾けた硬質な音がした。
 カキーン。

 走りながら地面はゆっくりと遠ざかって去って行った。何もないところで自転車を漕ぐように足を回転させ、徐々に徐々に、街が小さくなる。離れていく。手の届く範囲に藁がなくなる。
 僕は明日香の姿を探していた。3号館の校舎から走り出したまま、5号館、2号館、縦横無尽に走る。疲れ果ててて中庭のベンチに座った。ポケットから煙草の箱を出して、そこでライターが無い事に気付く。仕方がないので購買まで買いに歩いた。
 煙草を吸いながら歩いていると、ひとりで歩く明日香と出くわした。探した時には見つからないが、諦めると見つかる。僕の存在に気付いた彼女は歩み寄って来た。
 「今日、行くかも」
 「彼氏と会うんだ?」
 「そうよ。当たり前でしょ」
 「見て、これ」
 「何?」
 僕は彼女の指し示した提げ袋の中を覗く。
 「高校のときの制服」
 「へぇ、とうとうコスチュームまできたね」
 「違う、違う。彼が見たいんだって」
 「それで上機嫌なんだ」
 「あ、分かる?」
 明日香は今まで僕が見たことがないほど明るく、そして僕が今まで接していた女の子とは別人のようだった。僕は静かに「よかったね」と言った。
 「でもまた彼が駄目かも知れないでしょ?だから保険として。電話する」
 僕は思い出したように声を掛ける。
 「これ」
 ショルダーバッグの口を開けて、中から綺麗な包みを取り出した。
 「何?コレ?」
 彼女は呆然と解さずに尋ねた。
 「あげる」
 「え?要らないわよ。貰う理由がないもの」
 「…でも、買ったんだ」
 「ごめん、もう行く」
 踵を返し笑顔で駆けてゆく彼女の姿を今度は僕が呆然と見送った。

 そして以来、電話は2度とかかってこなかった。
*
 人は失くしてゆく。いや、もしかしたら自分の思っている以上に何かを、何もかも、失くしてゆくのかも知れない。全ての事象には予め終わりの、言わば消費期限のようなものがあってそれで終わるのかもとも。そしてまた、得てゆく。時は流れ、失くす。時間の流れる限り、確実に消費期限の時刻は近づいているのだ。それが、どんなものでも。
 一時、蜜月のような出会いがあった。しかし、蜜月は永遠には続かない。全ての邂逅はジャンクションが偶然繋がっただけのことだった。列車が通り過ぎればまた接続は解除される。
 僕は内臓がどろどろに溶けていくのを感じた。藁は千切れ、5本の指をそれぞれ泳がせても何も触れない。ふわりと体は宙に浮き、後は何もない暗い空間に投げ出されるのを待つだけだ。そこには空気もなく光もなく、時だけがあった。

 眼前に川原がある。僕は土手の草原に直に腰を下ろし、そよそよと棚引く風を肌に感じた。目を瞑り、せせらぎの音もなく、寒くも暑くもない空気の中で僕はじっと座っていた。川に身を投げて消えることも細かく解けて消えることも僕には思いつきはしなかった。ただ、そこに座り風を受けた。
 既視感があって、首だけで後ろを振り返る。だが、そこには何もない。そのまま視線を頭上に上げると、空は生命感に満ち満ち、雲は清廉潔白に清い。午後の教室の日溜りの匂いと同じ匂いがそこら中を包む。視界の端に見える、それは何だ?振り返ると確かに誰もいない。天にはのっぺりとした水色とのっぺりとした白。それは何だ?その、視界の端に見える、スカートの端の主は誰だ?
 そして僕は上手に雲を集め、好きに操ることが出来た。止めど無く流れ流れて行く、やって来ては去ってゆく雲の絶え間無い変化と変化の狭間の刹那、僕は僕の思う通りに操る。

 住み馴れた町の歩き馴れた道を目的もなく歩いた。目に入る全ての物は見慣れた景色に見慣れた人達。個が違ってもさして差し障りのない、見慣れた世界。目的はなく、ただ足を慣性のまま動かすだけで。
 僕は思いがけない場所に出た。ばらばらに解けて消滅してしまった細胞のひとつが記憶してでもいたのだろうか。何ともらしくない場所に出た。昔見慣れたアパートの昔良く通った、昔は僕と繋がっていたアパートに。駐輪スペースを見ると乱雑に並んだ様々な自転車やオートバイの中にも見慣れた自転車がある。どの自転車にだって表情があった。僕は自転車に表情があるなんて知らなかった。
 階段をゆっくりと上がる。いなくなってしまった、僕と繋がりを失くしてしまったかつての友人のアパートの前で僕は何をする目的でもなく、佇む。手製の表札は残ったままだった。そう、失くしてゆくもの、いなくなる人、全て、繋がりを絶つものの全ては足跡を残していく。時に深く爪痕のように傷を残して。僕は表札の手書きの下手くそな文字を指でなぞり、くすと笑い、声に出した。
 「原口」
 皆が消えてゆく。
 何時の間にか泣いていた。僕は無人の部屋の扉に両手を付き、静かに嗚咽を殺す。
 「何泣いてんだよ、菊地」


 涙でにじんだ視界にはぼやけた像が浮かび、僕は繋がりを絶ち消えたものたちが僕に残したものの一端を突然理解した。
 涙のせいのみならず、『蛍や燐光のように』、ぼんやりと冷たく柔らかく光り輝く、それは希望の光。





■おわり■