リリック

(1)

岩井市 英知






 部屋は薄暗く、電球のひとつも灯ってはいない。夜はそれがどんな夜でも冷たく、そして沈黙はどんな種類の沈黙だろうと重かった。重いことには変わりがないのだが、事態から喋り出すきっかけと喋り出すことの整合性を欠いただけだとしたら、それはそんなに悪いことでもないのだろう。十分にあることだし、そして十分にあるということは、そこに何かしらの意味があるはずだ。僕らが合間見える沈黙には多分意味がある。そんな風に思ってはくれないか。


 時計は壊れたように針を回転させ、いくつもの時が無駄に流れた。さやは囁いた。
 「ねぇ、眠ってしまった?」
 歳若い女性の標準の声の高さよりも気持ち高い声で、震えるような響きで、暗闇が圧し掛かる箱の中でそれはこだまする。臆病な内面を推し測ることが出来るように響いた。だが、実際の人間、特に女性は実にいくつもの側面を持ち、出すべきところや出さぬべきところで合うものや合わぬものを更にもったいつけるように小出しにするものだ。だから、彼女が臆病であるとは言えない。しかし、逆も言えない。天井の蛍光灯の灯らぬ彼女の部屋の沈黙の中突如切り裂くように響いた彼女の声は、長い間待ってやっと降った雨のようだった。しっとりと大ぶりの深緑の葉を濡らす。
 「いや、寝てないよ」
 振り返らずに、頭ひとつ動かさずに答えは返る。その声は楽しげな会話の声より殊更低く、夏の真ん中の入道雲のように地面すれすれを這って過ぎ去った。草原に立ち空を仰ぐとまるで落ちてくるように感じたほどだ。それぐらい低い。
 「眠い?」
 彼女は尋ねる。
 「眠いならばさっさと眠るさ」
 「眠くない?」
 「眠くないなら寝ないさ」
 「それはそうね」
 互いに背を向けたまま交わされる終点のない会話は、沈黙よりも部屋の空気の硬度を上げる。水にも軟性・硬性があるように空気にも硬度があった。鉱物の硬さのような数値付けも出来たかも分からない。強いて言うとサファイヤぐらいか。そしてそれは水の温度の変化によって状態が変わるように、なぞらえると水蒸気や湯から氷への変化のように、行ったり来たり、容易に硬度を変えた。
 深夜には誰が住む部屋もが沈黙に包まれたことと思う。みなが寝静まる時間から働く人もいるが、そういう例外を除けば大概の部屋は沈黙に包まれた。黒い霧にすっぽりと包まれた部屋ではまさに一寸先も見えない。瞼も重くなり、考えることもやめる。森で迷い助けを待つようなものだ。だが、敢然と姿を表し立ち塞がる沈黙もあった。部屋を包むよりは部屋の中に、存在感を持って、あるいは同じ布団の中で背を向け並び横たわるふたりの間に割って入って。眠りを妨げ。森の出口へは導かず。いたずらに同じところをぐるぐると回らせた。
 「ねぇ、何を考えていた?」
 さやは背で話し出す。
 「ううん、別に何も」
 台詞を間違えたような、そしてそれを誤魔化したような白々しさがあった。
 「静かだね」
 「ああ、車の走る音も、人の笑い声も聞こえない」
 「寒くない?」
 「大丈夫だよ。別に」
 「そっち、掛け布団からはみ出していない?」
 「少し」
 「もっと寄れば」
 「そうする」
 腰を下ろしたままの椅子を手前に引き寄せるような動作で、布団の中心に寄る。リノリウムの床と椅子の足の底に被されたゴムが擦れる音こそしなかったものの、まさにそんな感じで体をミリ単位の慎重さでおおまかに移動させる。彼女も掛けた布団を少し浮かせるようにしつつ、特に宣言もなく中心に寄った。背と背が触れる。羽根と羽根を交互に数度動かした後、ゆっくりとたたむようにだ。もし、羽根があれば、の話であるが。中空で距離を取り、同じ高度で会話していた。風の音や何かが阻み、大きな声を投げかけ合う必要があった。疲れからか、もっと別のものからか、地上に降りた。
 そっと体を反転させる。
 「息、熱いよ」
 彼女は開口1番そう言った。そう聞こえると同時に彼女の息もが顔に吹きかかり、もちろん熱い。
 「そっちのも熱いよ」
 「白くなるかしら?」
 さやは大げさに口を開き、大きく息を吐いた。手の平を翳し、そこへ吹きかけ温度を確かめる。白くはならない。
 「白くはならないわ」
 彼女は面白くもなさそうに唸った。
 「そりゃあ、そうだ。いくら寒いとは言え」
 クスクス、と小さく笑い、言う。リスのくしゃみのよう。
 会話が切れて、互いの顔を見合った。途端、沈黙は重く圧し掛かり、それが嫌で無理に会話を切らさないようでもあった。眠りに落ちてはいけない雪山、2度と目を開くことの出来ない眠り。恐怖から口を突いて出るものが無数にあって、それでも確信に触れることは避けなければいけない、遭難の風景に似た。深い深い、闇の中、途方もない場所を漂った。
 同じ頭を乗せたひどい長方形の枕から伝わる緊張は、心音が指し示す。まったくひどい長方形のせいで。この長方形のひどさと言ったら、枕の定義を捻じ曲げるのに十分だった。枕の柔軟性は心臓が弾ける度に乗せた頭を跳ねさせる。救助マットのように上から飛び降りた衝撃を吸収するのは良いのだが、傍目に目立ち過ぎるのが問題だった。救助マットの上に落ちた者は自分の意思で落ちようとも、不可抗力で落ちようとも、救助されたのだ。怪我はしなくて済むのだが。
 「何故、そんなに心臓が打っているの?」
 彼女はそう尋ねた。
 「息苦しいんだ」
 「わたしも」
 時計の秒針の音だけが響いた。それから溜息のようなものを吐く。
 顔の造形を指でなぞるように、言う。
 「わたしとあなたでは、何処にも辿り着かないわね」
 「自信があるのかい?」
 「自信がないの?」
 「なくはないよ」
 「じゃぁ、想像出来る?」
 「出来るのかい?」
 少しの静寂。彼女は暫く考えて、堰を切るように言った。
 「無理よ、無理だわ。笑っちゃうもの」
 彼女はフランス語のように笑った。ケスクセ。
 「何も無理に想像しなくとも良いんじゃないか。現実的に、こう、あるわけだし」
 「例えば、下着姿のように?」
 「例えば、下着をつけていないように?」
 「それでも無理ね。だって、意味がないもの」
 さやは断定的に言う。
 「意味?」
 「それから、どうするのか?と、いうことよ」
 「先のことなんて誰にも分からないさ」
 「分かりたいの?」
 「知らないほうがいい」
 「それはそうね」
 また秒針は薄いアルミ板をプレスする町工場のように響いた。合間に吐く溜息は機械の吐き出す蒸気よりも熱かった。胸を曇らすほどに。
 「ねぇ」
 彼女は切り出した。
 「何?」
 「名前を呼んでみて」
 「君のかい?」
 「そうよ。敬称をつけて」
 「ささやか・さん」
 「変でしょう?」
 「まぁね」
 「だから縮めないと駄目なのよ」
 「なるほど」
 日常では耳を擦りぬけて行く事柄が、絡みつく。毛糸玉に足を取られた羽虫のように。
 「お母さんも呼ばないわ。弟も、友達も、恋人も、誰も呼ばない。ひどく呼びずらいのよ」
 気のせいだけで物理的な距離も変わるものだ。そう感じるということは、そうあるのだとも思う。彼女は気のせいか中心よりも寄り、ふたりの距離はほとんど無いに等しい。それに伴い声の大きさもトーンも下がり、暗闇の中で耳に当てたヘッドホンから直接流れ込むように、耳に当てられてはいない唇から放たれる言葉は直接響いた。
 「じゃぁ、誰が呼ぶんだろう?」
 彼女は自問するかのように問いを宙に浮かばせた。そっと置いた川面に浮く笹の舟よりも流れに翻弄されるその問いは、流れに乗りそのまま海に出るはずもなかった。  互いの足先が噛むように、そして交差し、腕こそ腰や肩に回さないものの、ほぼ抱き合うのと相違ない近しさではあった。4月に降る雪のようだった。恐らく正しくはない。牧羊犬に追い立てられて誘い込まれる正しい場所とは絶対的に違った。本来収まる場所とも違う。
 「少しの幸せを望むとき」
 突如前触れもなく切り出された言葉に、さやは伏せていた瞳を開き、驚いた。
 「なに?それは」
 「そんな時に呼ぶんだ」
 彼女は何も言わなかった。そして紡いだ。
 「でも、無理よ。そんなこと言ったって少し嬉しいだけだもの」
 「うんと喜ばそうとは思っちゃいないさ」
 「そう。ありがとう」
 彼女は投げやりに礼を言い、他にも何か言葉を紡ごうとしていたがそれ以上出て来なかった。躊躇したように。あいも変わらず沈黙は重く、度々発せられる大げさな息づかいや、早朝に土に根を張る霜を踏み歩くように雨音のように交わされる会話だけがそれを欠いた。喋り出すことの動機や整合性とは明らかに異なるものではあったが、何か、ふたりの間に横たわるものにより、突き動かされたのだろう。
 同じ姿勢を取り続けることは一種の苦行のようなもので、柔らかな綱で緊縛されたかのように動くことは可能でも動くことが出来ない。いくら綱が柔らかくとも、緊縛とはそういうものだ。そして綱は互いの体にも繋がっており、一方が動くともう一方にも影響する。
 一方が態勢を仕切り直す瞬間、やはり綱はもう一方にも影響した。
 「確かに君の言う通り、無理なんだとは思うよ。僕と君は恋人同士じゃないし、そうはならなかったし、多分それはこれからもそうなんだろうと思う」
 「望んだことは?」
 彼女は顔を伏せたまま、尋ねた。
 質問に答えはない。質問と答えは対ではなかった。
 「まぁね、それは多分決まったことなんだと思う。過ぎたから良いこともあるんだと思う。でも」
 取り止められた続きは、消え入らず、姿だけを消した。山頂から展望した景色は、遠くなるにつれ次第に霞んでいった。日が昇り始め朝が来る頃、霧は晴れる。
 「少しの幸せを望むとき、わたしの名前を思い出してくれればいいわ」
 「そうするとしよう」


 その年の4月にも雪が降った。





■おわり■