メタモルフォシス

−増殖−


朝倉 海人






 M駅で発見した物体を男は満足そうに眺めていた。それは人の形をしているようでもある茶褐色の奇妙な物体であった。座り込んでいるようにも見え、地下鉄入り口の建物に支えられて項垂れているようにも見える。
「いやあ、綺麗に残りましたね」
 と、隣にいたもう一人の若い男がその物体に近寄りながら言う。
 それは明らかにD・D作用による現象であった。D・D作用とは、「ドラマチック・デストロイド作用」の略称である。人間が何らかの原因で炭素化する作用のことを指し、これで四体目の発見である。特徴は全身が茶褐色に変色し、ミイラのように体が乾燥化する。その乾燥した物質を食べた者がまたD・D作用に陥るという循環である。医学的、もしくは科学的原因は未だ不明の状態である。
 男はゆっくりと立ち上がり、その物体から離れた。
 わかっていることは、被害者の部屋には何の変哲もない段ボールが一つ封を開けられた状態で置いてあることと、部屋中にこの炭素化した体の一部である粉が散らばっていることである。それ以上はわからない。メディアは沈黙を通していた。どこかからの圧力によるものか、自主的なものかはわからない。いつもと変わらないつまらないニュースが流されている。それはこの事実を受け入れたくないという暗黙のメッセージとも考えられた。
 男は頭を掻き、空を見上げた。それはとても平凡な空だった。快晴でもなく曇りでもない、曖昧な空である。再び、物体に目を移すとその茶褐色の物体は変わらずにそこにあった。男はその物体を念入りに確かめているようだった。
 M駅は市内でも活気のある場所にある。近くには高校や大学があり、若者の人通りが多く、目撃者も多いはずである。しかし、この被害者がいつからここにいたのか、誰も知らない。地下から地上に出るこの出入り口は、大通りの交差点の一角にある。夜でも人通りは多い方だ。それでも目撃者がいないことに男は内心喜んでいた。
 テレビや新聞などのマスコミはこのニュースを積極的には流さなかった。「○○さんが△△で遺体となって発見されました」というだけで、詳しいことは触れられていない。人々は「D・D作用」というよくわからない驚異――それが驚異であるかもわかっていないが――に無防備で生活していた。いや、無防備というよりも多くの人たちは、その街に転がっている茶褐色の物体が見えないかのように無関心であった。
「これは凄い」
 若い男は笑みを浮かべて茶褐色の物体を調べていた。
「綺麗ですね」
 男はその若い男の言葉に反応しなかったが、否定をする様子もなかった。

 Bは市内の大学に通う学生である。元々はA県の隣り、S県の人間だが、大学合格を機にY市で一人暮らしをしていた。
 水曜日には午前中に講義がなかったことから、彼は昼近くまで眠っていた。週に数回しかできない贅沢である。昨日は友人と飲みに行ったので少々頭が痛い。ベッドから起きあがり、狭いワンルームの部屋を見渡す。遮光カーテンのせいで部屋は日中とは思えないくらい暗かった。Bはカーテンを開け、ボサボサの髪を手グシで整えた。ぼんやりとしていた視界も徐々に視点があってきたようで部屋の中を把握できるようになった。弁当の空き箱や脱ぎっぱなしの服などで散らかった部屋から玄関の方を見ると、見慣れない段ボールが置いてあった。
 Bは二日酔いが原因であろう頭痛を追い出そうと飲み物を探すためにベッドから玄関近くにある冷蔵庫へ向かった。そのついでに、その見慣れない段ボールを見ると、やはり心当たりはない。しかし何となく無視できない気持ちにさせるのである。
 段ボールは茶色のどこにでもありそうな物だった。会社名などのプリントがされていない無地の物で、大きさはA4の紙ぐらいだろうか。ガムテープで封がされていて、「S共和国」という聞いたこともない言葉がそこには書かれていた。
 Bはふと頭の中で考える。「S共和国」などという国はどういう国だったろうか? という疑問についてである。
 そういえば、石煉瓦で舗装されたメインストリートを歩いていたな。ヨーロッパにある小さな国だった。人間は気さくな感じがして、どこか古き良き時代を思わせる雰囲気が街の至るところにあったはずだ。……などなど、いつの間にか彼の頭の中には「S共和国」なる国が生み出され、それは普通に存在していたかのようになった。それは人間の弱さなのだろうか? 自分の知らないことがあるはずがないという奢り、もしくは哀しさだろうか?
 Bは自分の妄想に浸って満足していた。ここまで考えると、Bの中でその段ボールの箱は「不審物」ではなくなるのだ。それは最早Bにとって「宝物」であり、忘れかけていた記憶を思い起こす「思い出」ですらあった。
 Bは、その段ボールを開ける時には心が躍るような気分になっていた。人間とは思い込む存在である。病気だと思えば病にかかり、賢いと思えば自信家となる。同じようにS共和国を知っていると思い込めば、S共和国はそこに生まれるのだ。
 段ボールを開けたBは躊躇うことなく、茶褐色の物体を一欠片、口にした。それは今まで経験したことのない食感のような気がしたもののBは気にとめなかった。そして、D・D作用は静かに始まるのだ。
 Bは徐々に茶褐色になっていく自分の肉体を凝視していた。が、慌てることはなかった。その変わりゆく自らの肉体よりも、D・D作用が起こると同時に心の中で芽生えた「使命」を全うしたいという思いの方が強かったためだろう。「使命」? それは一体何なのかはわからなかった。非常に漠然とした感じで迫ってくるのだ。それはD・D作用に陥った人間特有の症状なのかもしれなかったが、Bにそれがわかるはずもなかった。
 B――いや、もうそれはBという人間ではなく、ただの茶褐色の物体でしかないのだ――は、静かに歩き出した。体が崩れないようにゆっくりとした足取りで、部屋の外に出て、目的地があるかのように一心不乱に歩むのである。歩んでいく中でも、体は徐々に崩れていった。左足が途中でとれた。その物体は無くなった左足を庇うことなく、這って進んで行った。その物体には最早「意思」などという崇高なものはないのかもしれない。あるのは茶褐色に変色し、ミイラのように水分がなくなり、崩れていった物体だけだった。しかしそれでも、物体はプログラミングされたかのように一定の方向に進もうとするのである。
 物体はM駅の入り口に寄りかかるようにして動きを止めた。恐らく、そこが目的地ではないだろう。物体が物体でいられる限界に達したのだ。左腕は肘から先は無くなり、右腕は手の辺りが取れている。そのボロボロの状態からはその物体がかつて人間だったことを思い出させてはくれない姿となっていた。誰もその物体に注目する者はいなかった。自分から面倒に巻き込まれようとする人の好い人間は既に絶滅していたのだ。

 元Bであるその物体はどこに行こうとしていたのであろうか? 今日のニュースではさすがにD・D作用を無視することもできず、この茶褐色の物体たちのことばかりを話していた。元Bの他にも四名の元人間たちがどこかを目指して進んでいる途中に力尽きていた。「D・D作用になった人間にしかわからない、この混沌とした社会から脱却できる場所を目指しているのだ」と、偉い学者は顔を赤くして言った。
「選ばれた人間だけが、D・D作用になることが出来るのだ!」
 と宗教家などは叫んでいた。
 宗教家や学者の無責任な叫びは、彼らの思惑という枠から飛び出し、人々に伝わっていった。「世の中は正しい意見が通るのではなく、声の大きい人間の意見が通る」と、どこかで誰かが言っていたが、それは全くその通りだった。D・D作用は今や、負のイメージからすっかり脱却し、救世主のように歓迎をされていた。誰もがこの世界から抜け出して楽に生きたいと思っているのかもしれない。
 人々はD・D作用になるために茶褐色の物体を探し回るのである。「S駅のホームで見つけた」という噂が出ればS駅に集まり、「N周辺にはよく現れる」という言葉でN周辺に多くの人間が集まった。人々のその変わり身の早さに元Bはどこかで苦笑しているかもしれない。彼らは街の至るところを探した。プラスチックのゴミ箱の中、路地裏、自動販売機の下、トイレの個室などなど……。
 茶褐色の物体は日常に入り込んできた。昨日、隣で仕事をしていた人が今日にはいなくなり、先ほどまで電話で話していた人間が途中で応答しなくなったり、多くの人間が物体へと変わっていった。物体に変化した彼ら彼女ら――最早、性別など意味をなさないが――は、目的地に向かって歩み始めるのである。街の大通りには茶褐色の物体が、日に数十体から数百体、数千体へと数を増やし、埋め尽くしていた。
 元人間たちは静かに歩みを進めている。中には体の一部が崩れ落ち、それ以上進めなくなったものもいたが、それを踏みつけて違う物体が歩き、または這って進んで行った。その光景は穏やかな茶褐色の小川のような一定の流れを保っており、慣れれば違和感もなかった。
 街はD・D作用を静かに受け入れているようだった。人のいなくなったオフィスビル。あらゆるところで横たわっている茶褐色の物体。「S共和国」と書かれた段ボールの数々。それら非日常的な光景こそが、この街の「日常」であり「常識」になりつつあった。国はこの街を封鎖し、外へ広がることを防ぐのに精一杯のようだった。もう、この街に人間はいないのかもしれない。いや、この街すらもうD・D作用に侵されているのかもしれない。それは誰にもわからなかった。誰にもわからなかったが、元人間たちは未だに進むことを止めない。