眠れぬ夜


上松 弘庸




 この上、私に一体何が残されているか、正直分からない。しかし、よもやその後知る事のない彼の事についての記述―しかも成るべく詳細な記述が好ましいだろう―をする事が、私ができ得る最後の務めであろうと思う次第である。勿論、私は彼について殆ど見識がない。その為に、私の記述は聊か正当性に欠けるものとなってしまうだろうと思う。今更、彼について詳細の記述ができうるとは思っていないが、それでもなお、特に外の天気が今日のような陰鬱な五月雨のような日では、私は彼の事を考えずにはいられない。彼の苦しみ抜いた人生は、果たして本当に幸福だったのだろうか。
 しかしながら、私は彼の名前も知らない。私の仕入れる事ができた彼の情報は非常に乏しいのだ。私は勿論、私の小説の読者にとって、彼の名前がさして重要ではないと認識してはいる。しかしそれでも、いくらなんでも名前も知らない人物をこのような長編の―まだ私はこの小説を書き始めたばかりだが、この作品は間違いなく長編になるであろう事を予感している。それも、今まで私が書いてきたどの作品よりも長く、憂鬱なものになりそうである―主人公に据えてしまった事に対して、読者に或いは弁明をせねばならないと思うのである。作品を読む前から弁明をする等という事は言語道断であるが、致し方ない。正直、彼がその後どうなったかは私には知る由もないのであるからしても、この作品が弁明してもしきれない程の、中途半端な、終わりなき終わり方を遂げる事は目に見えているのだが。
 全て終わってしまった今でさえ、私が彼の作品を書こうと思ったのは、私自身、彼に非常に興味を抱いているからである。私はもう一度彼に会って話をしたいと、あれから後日、彼の思想をもう一度聞かせてもらいたい一心で、彼に以前会った事のある陰鬱な店に足を運んだ。私にはまさしく彼が必要だった。なんとしても彼に会い、私の新たな考えに対する見解を知りたかった。しかし、その後彼は姿を現さなかった。私はこの物語の中に彼を感じ、物語の中で彼に私の考えに対する答えを求めている。私の質問はこうである。

 苦悩を誰よりも愛したはずの貴方が、一体どうして天国の住民でいられたのですか?





………それでは、物語を始めようと思う………





 三ヶ年前、最愛の妻が死んだ。妻は甲高い笑声をあげながら、血管を破って、血を吐いた。妻の精神はその年の春、一時回復に向かった。私が一縷の望みを抱き始めた頃、再び血管は破れた。妻は更に苦しみ続けた。死の苦悶の果てに彼女が得たものとは一体なんであったろうか。解らない。解らない。私にできる事は、血を吐き続ける妻と一緒に歌い続ける事だけだった。長い間の恐ろしい苦責に耐えているうち、妻は次第に酩酊していった。私は跪いた。大地に接吻し、許しを乞うた。相変わらず空は遥かに蒼く高く、太陽は燦々と輝いていた。
 耐えられぬ憂鬱な日々が続いた。現在の一切を軽蔑し、憎悪した。卑劣な黒い塊が夥しい数の頑強な群集となって私を襲った。私は深淵を挟んで酔夢と向かい合った。現世との隔たりが余りに長く広く、全て自身の作り出した幻のように感じた。

 鴉よ、大鴉よ。お前の背中は焼け爛れた。如何なる災いもお前の爛れた背中にこれ以上の仕打ちはせぬだろう。お前は幾度この静寂を引裂こうと、懸命に翼をはためかせた事だろう。悲哀と憂愁と幻想に彩られた、お前のその鮮やかな漆黒の翼を。鴉よ、大鴉よ。私が何時か窶れ果て、再び想いに耽る事があろうなら、どうかその時は、躊躇いなくお前のその嘴で私の頭蓋を突抜いて欲しい。私は微睡の中、再びサイキィに巡り逢えるだろうから。
 荒涼たる大地に佇んで、私ははたと気が付いた。夢路に迷うこの想い、ひっそりとしていて音も無い。嗚呼、私のサイキィよ、木霊となりて、この闇を切り裂いておくれ。そして私は僅かに呟いた。そうすれば私は永遠を手に入れられるだろう。無慈悲な災難が幾度重なり合おうとも、空想の糸を辿ったこの想い、誰に向けて放てばいいのだ?嗚呼、愛しのサイキィよ、誰でも無い、お前に向けて私は放つ。お前の為に、私は歌おう。
 空地は益々濃くなった。休息はもう要らぬ。願いは徒、愁いを忘れ、崇めるべき神。冥府に抛り投げたこの理性、心行くまで弄び給え。惑わしの、栄華の果てのその果ての、蔭さえ落とせぬその王座に座りし才知と精神の王よ、弔いの幕布を下ろし給え。私は徒、歌うばかり。彼女の為に歌うばかり。下された審判に異議の申し立てをするまでもない。私はいつまでも歌い続けるだろう。たとえ其処に一雫の救いさえなくとも。

出来る事ならいつの日か、再び彼女に出逢える事を。

                                                  (未完)



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