死人



上松 弘庸



 父の話では、母は大層美しかったようだ。
 「そりゃあもう、お前を生んだ女は確かにきれいな女だった。今でも俺は、あんなにきれいな女を見た事がないくらいさ。当時、餓鬼の俺はあの女にゾッコンだったし、それは何も俺だけじゃなかった。みんなあの女に参っちまってた」
 母の姿を写真でさえも見た事のない私は、その話を聞く度に言い知れぬ満足を得る事ができたし、また至極容易に、卑猥で妖艶な夢想に浸る事ができた。乱れる髪。響き渡る叫び声。強く握り締られ、強姦者の指の間から食み出た胸の、青紫に透き通った枝分かれする血管の細微に至るまで。
 私がこの世に生まれた3日後、22歳になる16日前に、母は自らの命を絶った。私が生まれてから母が死ぬまでの3日間、幼いながらに、私は母の憎しみの全てを受け入れてきた。胎児の頃から徹底的に憎まれ、蔑まれ、非難され続けてきた私の体を構成する細胞の核一つ一つに至るまで、母の感情全てを受け入れてきたのだ。
 眼下で邦子が蹲る。
 私は断言し、誓ってさえ言おう。目の前に居る邦子は母そのものだと。私がその欲望の限りを邦子にぶつけたとして、それが一体何故いけない事なのだろう?母は、長年私を蔑み続けてきたが、私がその対象で居続けなければならない限り、私が母に欲望の哭を焚き続けてならない理由があるのだろうか?目の前に居る邦子が血を吐いている事に対して、私は何か罪を償う必要があるのだろうか?

 強姦者は、父だった。しかし、一体それが父の罪なのだろうか。強姦者は父の他にも無数に居たのだし、何れ私が邦子に行うであろう行為をしただけの事だ。邦子は母でなければならない。何れ、私を産む事になろう。産まれてくる私は、私の父になる為に母を捜し、見つけ出し、そしてさらに私を産ませるであろう。嗚咽と共にある絶望の眼を向けられ、私は、なおも邦子の中で達した。


 「人間の価値観って何だと思う?」
 と、或る女の子が言った。
 その女の子は生まれつき体が弱く、両親と離れて施設に入っていた。
 女の子はとっても可愛かったので、僕はその女の子を喜ばせようと様々な物を与えた。
 でも、女の子は何を与えても喜んでくれなかった。
 「一体、何が欲しいの?」
 と、或る日僕はその女の子に尋ねた。
 「秩序」
 迷いなく答えたその女の子は、僅かに戸惑っていた僕の前で続けた。
 「倫理。あとは概念」
 その女の子が邦子だった。


 私は時々考える。
 人生は楽園だ。多くの人がその事に気が付かないで、自分がまだ手に入らない物を捜し回る。奪い合い、恨み合い、そしてやっと手に入れて始めて気が付く。そんな物は全く必要なかった、と。
 秩序と倫理と概念が欲しいと邦子は言った。争い合い、嘆き合い、手に入れるがいい。そしてその後になって初めて、そられが如何に無益だったかが分かるだろう。
 私は地獄に落ちるだろうか。否。私は天国の住民である。人生は楽園だ。多くの人がその事に気が付いていない。
 母の鳴き声は何れ歓喜の歌に変わるだろう。その頃、きっと邦子は望んだものを手にしている事だろう。
 何度でも言おう。我々は、天国の住民であり、人生とは楽園である。
                                                  (未完)



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