心中




織る子






 その手に力を込めた。女の首にめり込む指先が熱い。トクントクンと規則的に脈打っていた血管は次第にドクンドクンと早く強くなっていく。私は今……をこの手にかけている。

 あまりにもおぼろげな記憶が確かならばそこは一面グレーに染まったお風呂場で、やっぱりグレー色した天井からは水滴がポタッポタッと断続的に落ち、たまに私の背中や腕にあたっては弾けた。じっとり淀んだ空気は幼心に恐怖を植えつける。ステンレスの浴槽、ピンクの椅子そしてライトブルーの滑り止めマット。その上に座らされた小さな私は、どうしてだかわからないが頭の上から引っ切り無しにお湯をかぶせられていて、それから逃れようと必死に両手を振り回していた。その時の私は泣き声をあげていたかもしれないし、向かい側に座りお湯をかけている張本人である母を、自分の長く黒い髪の毛の隙間とお湯の切れ目からなんとか捉え「やめて」と切願していたかもしれない。これがたぶん、この世に生まれてきてからの私の第一の記憶。

 母は18歳の時に私を生んだ。そしてその直後私の父である男に捨てられた。そのせいか私に対する態度はとても冷たかった。母が私に笑いかけてくれるところをあまり見た事がないし、ふたりでいても会話するということはほとんどなかった。

 4歳か5歳ぐらいになった私は、薄いオレンジの絨毯の上に座っておままごとをしていた。母は赤と黒のチェックのシャツを着て隣の部屋にいた。こちらに背を向けた格好でグリーンのカバーのこたつの中からコーヒーカップを手にし、テレビを見ていた。カップの色は淡いピンクだった。
 私は持ち手が黒色をした白い鍋の中にプラスチックで出来た人参や大根を入れ、もちろん火など出るはずも無いコンロの上にその鍋を乗せ、あたかもグツグツ煮ているような想像をしながら食べられない料理に精を出していた。台所に立つ母の後姿を部屋の隅でいつも見ていたのでそれを無意識に真似ていたのかもしれない。彼女とふたりで部屋にいる私は何もする事がないので黙々とそのおままごとに熱中した。ただ熱中したといっても母の動向を身体全部で感じ取るという器用な事をこの頃から習得していたので、完全に没頭していたなんて事は一度だってなかった。彼女に変化があった時にはすぐに身構えられるよう常に気を張り詰めていて、その日も私のアンテナは敏感にそれをキャッチした。
 テレビがCMに切り替ると同時に母がゆっくり振り返る。(くる。何か言われる。)「めぐみちゃん。鍋の蓋はどこにあるのかな?」
 ビリビリと背中から何かが襲ってくるような感覚と焦り。(蓋……。)そういえば今日は鍋の蓋を手にした覚えがない。「探してごらん?」言葉は優しいが私は知っている。怒っていないように見せかけているけれど、本当はもう私をどうやって殴ろうか考えている。即座に私は「はい。」と返事をし、おままごとセットが入っていた箱の中とおもちゃ箱の中を隅々まで見て探した。(怖い怖い怖い。蓋が見つからなかったらどうしよう。怖い怖い怖い。……。どこにもない。)
 愕然としながら縋るような目で母を見つめる。とてもじゃないが「ありません。」と私から言葉にする事は出来ない。その様子を見て取った彼女の眼はみるみるうちに鋭いものへと変わり、こたつから出て立ち上がる姿はスローモーションのように私の目に映った。この狭い部屋の中、私に近づくまでに3〜4歩。逃げる場所もなければ時間も無い。(いやだめだ。逃げてはいけない。)
「どこへやったんだ!」という怒鳴り声と『バシッ!』と左頬が強烈に熱くなるのはほぼ同時だった。(始まった。)硬直する私。なるべく痛みを感じないように全身に力をいれる。
「どこへやったか聞いてるんだよ!」顔面が絨毯にグリグリと押し付けられ、脇腹には蹴られるというよりも踏まれているような痛みが走る。その痛みは背中へ向かい反対側の脇腹に移動し最終的には顔へ到達する。「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」私は何度も謝るけれど母の暴力が緩められる事は決してない。それどころか私が何か言葉を発するたびに激しさを増すような感じさえある。だから成されるがまま泣く事も叫ぶ事もできずただ殴られ続ける。誰かお家に来てくれないかな。電話がかかってこないかな。と心の中で来るはずのない助けを求めながら。
 髪の毛を掴まれた。そのまま自分を軸に私の身体をグルングルンと回転させる。途中、部屋においてある箪笥やおもちゃ箱に足や手がガツンガツンとぶつかりキリキリとした痛みが走るけれど、この痛みも後少しすればだんだんなくなっていく。ジンジンもキリキリもヒリヒリも全て消えてしまい、あんなに殴られるのが恐怖だったという感情も同じく消えてしまう。頭の中は空っぽで何も考えられず、どんな理由があって殴られているのかもわからない。ヒステリックな母の声と「わかりました。もうしません。許してください。」と懇願する私の声が部屋中に響き渡った。
 回転が止まる頃にはハァハァと母の荒い息使いだけが聞こえた。両手両足をフルに活用して殴るため、終わる頃にはいつも彼女の肩は激しく上下していた。(もうそろそろ解放されるのかもしれない。)クラクラした頭をやっとの思いで起こした瞬間、私の予想を裏切って彼女の拳がお腹に『ガツン』と衝撃を与えた。まだ殴り足りなかったようだ。
『ゴフッ』お腹の中から生暖かい液体が逆流し喉を通る。ドロドロッとしたそれは、私が必死に堪えていたにも関わらず唇の端から流れ、とうとう口を開けなくてはいられないほどの量になり溢れてしまった。そのせいで服が汚れたのがわかる。胸のあたりが生暖かい。(また殴られる)母は部屋を汚されるのと服を汚されるのをとても嫌った。咄嗟に私は身構えた。ところが彼女は私の顔を見たまま呆然とし殴る気配がない。それどころか「大丈夫!?」と私に対して気遣いをみせた。
 何が起こっているのかわからず母を凝視したまま身動き一つとらないでいると、彼女は立ち上がりお風呂場へ行ってしまった。そしてブルーのバスタオルを手に戻ってくると私の前に屈み口元や顎を丁寧に拭き始めた。「気持ち悪くない? よく見せて。」母が私の口の中を見る。それから少しお腹を押して「痛い?」と聞く。見るとブルーのバスタオルは黒く汚れていた。それが血のせいだと理解するまでにそれほど時間はかからなかった。私がこれ以上吐かないところを確認すると母は当たり前のようにこう言った。
「お父さんには内緒だよ。」私は頷いた。
 結局鍋の蓋は見つからなかった。


(続く)