ひもじい物語




朝倉 海人






「どうにも具合が悪いんだ」
 受話器からは苦痛に満ちた声が聞こえてきた。さっきからこんな調子だ。お前は一体何のために俺に電話してきたんだ? と思わず言いたくもなる。
「何の用なんだ?」
 言ってしまう。思ったことは心に溜めずに出した方が精神衛生上正しい生き方だ、と昨日買った新書に書いてあったのだから仕方ない。悪いのはそいつで俺はそいつに洗脳された被害者だというわけだ。
「用事というかな、ちょっと聞きたいことがあるわけよ」と野口は言う。
「あぁ、そうかい」と素っ気なく返す。
 電話のディスプレイに表示されている通話時間が着々と時を重ねていく。「時は金なり」という納得のいかない慣用句が頭をちらつく。もしかしたら野口に言ってやる分には有益かもしれない。先人たちもこういうタイプの人間に業を煮やしたということか。
 野口という男は高校時代からそうだった。惚れた女に告白するタイミングを逃し、どうみても奴よりランクが下な男に持って行かれてしまう。十年経っても人間は変わらないものだな、とつくづく思う。
「で、何を訊きたいんだ?」
 仕方なく会話の主導権を俺が握るというのも十年前から変わらない。
「電話じゃ言いにくいというか、説明しにくいんだけどな。あのな、なんかな、おかしいんだよ」
 思わず怒鳴りそうになる。電話じゃ説明しにくいんなら、直接会いに来いよ、と心底思う。が、人付き合いには忍耐が必要だということを俺はこの十年で学んだ。あぁ、そうさ人間は進歩する動物なんだよ。
「じゃあ、今から会うか? いつもの場所で待ち合わせでいいか?」
「悪い。家を離れられないんだ。こっちまで来てくれると助かる」
「あぁ。じゃあ、三十分後ぐらいに」
「悪いな。頼む。何しろ大変なんだよ」
 受話器を置いた。そういえば、家の固定電話で話すのは久しぶりだったなと思う。あいつ、携帯持ってたよなぁと、ぼんやりと思うが、それほど気にせずベッドに脱ぎ捨てられたままになっていたジーパンに足を通す。時計を見ると、午前十時に間もなくなるところだった。
 日曜日の午前中、男からの電話で起こされることほど憎いこともない。持って行きようのない怒りが沸々と心の奥底から込み上げてくるが、清く正しい社会人の俺は支度を急ぐ。
 車で行くよりも地下鉄の方が早いな、と頭の中で考えを巡らし、シャツを着た。テーブルに投げ捨てられているように置かれていた財布と鍵を手に取り、強い日差しが降り注ぐ外に飛び出した。
 「大変なんだよ」、「おかしいんだよ」という野口の言葉が頭をよぎる。一体、何があったんだろうか? 失恋して男友達を昼間から呼びつけるような奴じゃない。空き巣でも入ったか、警察にでも厄介になったか……。警察に捕まったのなら、あいつの家に行くことはないなと思い直した。
 野口の家は、地下鉄で四駅先だった。職場が近くということもあった。「朝が弱いから近くに住まないとな」というのも同じ意見だったのを思い出す。
 休日の地下鉄はそれなりに混雑していた。通勤のラッシュに比べれば可愛いものだが、見渡すと座れそうな感じではなかった。家族連れが多い車両は賑やかだった。

 ――夏真っ盛り!
  今年の夏はこの水着で男をモノにする!――

 中吊り広告の中の水着モデルの笑顔はぎこちなくて、あまり説得力があるようには見えなかった。たぶん、君なら水着じゃなくても男をモノにできるよ、とも思った。それにしても、男は水着を見て女に惚れるのだろうか? と思うと、何だか笑えた。「こいつらは何のために水着を着るんだ?」という疑問は言ってはいけないようだった。周りから見れば、そんな広告を凝視している俺こそが「そんな男」に見えたはずだ。

               ※

「俺だよ」
 と、インターホン越しに言っている自分はあまり好きではない。屈んでインターホンに近づいている姿は何だか間抜けに思えた。
「あぁ」
 と気の抜けた声を野口は返し、足音が玄関の奥から近づいてくるのが判る。ガチャッと扉が開けられた。が、隙間が狭く野口の目だけが見えた。チェーンがされている。
「いや、開けろよ」
「お前、俺の格好見ても驚くなよ」
 「時は金なり」の文字が目の前に見えた。もしかしたら、こいつはこういう不毛なやり取りをすることが人間関係だと思っているのかもしれない。まぁ、人生のやり取りの大半は不毛なものだ、と言い聞かせた。
「はいはい」
 適当に相槌をすると、野口はゆっくりと扉を開けた。扉が徐々に開き、野口の身体が視界に入り込んでくる。俺は思わず叫んでしまった。
「なんだそれは!」
「シー! 静かに! 近所に聞こえるだろ!」
 野口は俺の腕を掴むと慌てて家の中に入れ、扉を閉めた。俺はその目の前の光景が信じられなかった。呆気に取られて言葉が出なかった。
「朝、起きたらこんな風になっていたら、普通の人間なら驚くだろ?」
 と、野口は肩を上げ、「仕方ない」というような感じで言った。
「確かにな」
 俺も出てくるのは苦笑いだけだった。それ以上の反応をしようと思っても俺には出来ない。
 野口の身体は二週間ほど前に見た面影は全くなくなっていた。まず、腹が異常に膨れあがっていた。
着ているシャツはサイズが合わず、へその辺りが出ている。その出ているへその部分は人間の皮膚とはどう考えても思えなかった。
「厚紙みたいな感じなんだ」
 と、野口は表現した。触ってみると、なるほど厚紙というか単行本の表紙に使われている硬い紙のように感じた。それはとても有機物とは思えない弾力の無さだった。軽くノックをすると、「コンコン」と響く音がする。野口は上着を脱ぎ、上半身を俺に見せた。
「お前……、どうしたんだ?」
 ようやく口から出た言葉はなんとも間が抜けていた。
「問題はな、この身体だけじゃないんだ」
 野口は言いにくそうだった。俺はと言えば、これ以上何を言われても驚かない自信があった。なんと言っても目の前には書籍の形をした上半身を持つ男がいるのだ。これ以上、驚けと言う方が無理な話だ。
「腹が減って仕方ないんだ」
 野口は言った。「なんだ、そんなことなら俺が何か買ってきてやるよ」と、言いかけたところ野口は言葉を続けた。
「活字を食べるのを止められないんだ」
「活字? 活字っていうと、本とか新聞ってことか?」
「あぁ。なんというか、俺の意思とは関係なく活字を見ると、食べてしまうんだ。食べると、徐々にからだがでかくなっていく」
 野口の説明を聞きながら奴の部屋を見回すと、部屋にあった唯一の本棚は空っぽになっていた。もしもこの本棚に入っていた全ての書籍を食べてしまったとしたら、相当の量になるはずだ。この本棚は結構でかい。
「もう、家には書籍も雑誌も新聞も残っていないんだ。俺はこれからどうなるのか不安で。だからって、こんな身体で外に出たら、どうなるか……」
 「確かにな」と言おうと思ったが、止めた。友人をそこまで追いつめる趣味はなかった。しかしこの状態で外に出れば、間違いなく街中がパニックになる。何と言っても、街には活字が溢れている。駅のゴミ箱に捨てられている週刊誌や新聞紙、書店、電車やバスの中吊り広告……ちょっと思いついただけでもこれだけあった。野口は意思とは関係なくそれら全てを食い尽くしてしまうだろう。野口という男一人のためにこの国の活字が滅ぶかもしれない。
「野口、ちょっと待ってろ。取りあえず雑誌か何かをコンビニで買ってくる」
 俺はそう言い残し、一度その場を後にした。

               ※

 コンビニの若い女性店員は明らかに変な眼差しを俺に向けていた。あまりにもまじまじと見られるので殴ってやろうかと思ったが、思いとどまった。
 雑誌――住宅情報誌から求人情報誌、写真週刊誌、ファッション誌、情報誌など――や漫画、新聞など全てを買い占めている客など、彼女のアルバイト人生で初めてだったろう。大丈夫、君だけじゃなく、俺も初めてだ。
 膨大な冊数の雑誌などを店が用意してくれた段ボールに積み込む。台車があいつの家にあって良かったと心底思った。通りの反対側にあったコンビニからは綺麗に雑誌が消えていた。それは壮観ですらあった。
 野口の家は鍵が開けられたままになっていたので、俺は台車ごと玄関に入れ、扉を閉めた。持ち運べそうになかったので、段ボールから雑誌を次々に放り投げた。
「美味い。美味い」
 野口は早速、「anan」を食べていた。「anan」のモデルも野口にすれば邪魔な存在でしかないようで、タイトル以外の写真部分は放り捨てられた。贅沢な奴め。
 観察すると、本を丸ごと食べているわけではなく、一ページずつ確認しながら頬張っていた。写真だけのページは飛ばされ、破り捨てられていく。紙を一枚一枚食べていくごとに、なんだか野口の身体が大きくなっているようにも思えた。
 週刊誌などはほとんど全て食べてしまう。野口は幸せそうな顔をしていた。俺はただ立ち尽くすことしかできなかった。「こいつをこのまま放っておいたら危険だ」という思いが急に全身を巡り、居ても立ってもいられなくなった。しかし、最早これほどの巨体になっている野口をどこかに隠すとすれば、容易なことではなかった。地面に穴を掘ってそこに閉じこめるとしたら、どれほどの大きさがいるのだろうか。想像もつかなかった。
「『世界仰天人間』みたいな番組があったらお前が優勝だろうにな」
 気の利いたジョークのつもりだったが、野口を見ると、相変わらず元気に食べていた。四分の一くらい食べたのだろうか。第三次成長期のようだ。
 本格的にどうにかしなければならなくなった。身体が本になった男を治してくれる病院があるとは思えないが、対策は練らなければならない。
 野口の部屋にあるパソコンからインターネットで検索してみる。「本男」、「活字を食べる病気」などとキーワード変えてみるが、どれも空振りに終わった。野口よ、お前はこの広いネットの世界を越えた存在だな、とも言いたくなる。
 民事不介入の警察に電話しても仕方ない。やはり救急車を呼ぶのが一番いいのだろう。
「それは……ワイクイクイ病ですね」
 ワイクイクイ? 聞いたこともなかった。
「いいですか、その人になるべく活字を与えないでください。救急車が間もなく、そうですね五分以内に到着します。それまで猫をあやす様にですね。雑誌を見せてですね、そうですそうです。携帯電話からですか? コードレス電話ですか? あ、携帯でしたら歩き回れると思うので、大丈夫だと思います」
 救急司令センターの男は俺の説明を聞くなり断言した。「それはワイクイクイ病です」と。そんな病気を聞いたこともなかったが、とりあえず厚味のある月刊誌を持って、野口の注意を惹く。
「ほら、こっちの雑誌は活字が一杯だぜ」
 奴の目は猫が猫じゃらしを捕まえようとするときに見せる目をしていた。巨体なので、それほどスピードがなくてホッとした。もし、あの身体で飛びついてきたら、ひとたまりもない。
 遠くからサイレンが徐々に大きくなってくるのがわかった。「部屋の鍵は開いているので、そのまま入って下さい」と、俺は救急司令センターに言う。野口は月刊誌に夢中になっているようだった。
「いたぞ!」
「あそこだ!」
「ほら、あなた! さがって!」
 救急隊員がそれぞれ叫んだ。一人の隊員が麻酔銃を構えている。もしかしたら保健所の関係者なのかもしれないなと俺は思った。
 麻酔が発射された。野口の首筋に当たり、しばらくすると野口は倒れ込んだ。まるで動物園の檻から猛獣が逃げ出したという訓練を見ているようだった。
「ワイクイクイ病って何です?」
 野口が運ばれていった後、ようやく訊きたかったことを尋ねた。「ワイクイクイという種類の動物が時折起こす病気じゃないですか。いやだなぁ。もちろん感染の心配はありません。何というか、種族病って言うんですかね?」と、救急隊員は教えてくれた。
「ワイクイクイ?」
「え? 知らないんですか。人間に限りなく近い哺乳類じゃないですか。一万年前に人類と分かれたと言われていますね。国際法上、人類と同等の権利を認めるとされているんですよ。まぁ、違いと言っても活字が好きかどうかだけですからね。昔の言い方をすれば、『本の虫』みたいなものですよ。今、絶滅危惧種にも指定されていますからね。保護に努めているんですよ」
 もしかしたら、俺もワイクイクイかもしれないと思ったが、考え始めても良いことはなさそうだったので止めた。野口の部屋を見てみると、破り捨てられた雑誌の欠片が部屋中を埋め尽くしていた。救急車のサイレンが遠のいてゆく。俺は残った漫画を奴の本棚の中に並べることにした。
「お前、人間じゃないんだったら、『世界仰天人間』は無理だな」


  (了)