ラビット・バーク


<2>

神田 良輔







  2.

 僕らの住む部屋は、大宮だということを差し引いても家賃がひどく安い。地下にあるのだ。
 もともとこのマンションには地下室を賃貸住宅として貸し出そうと思ったわけではないようで、住居と呼ぶには奇妙な形をしている。
 一階の通路を奥まで入り、トイレと掃除用具入れと流し(良く考えたら、これがあるのも謎だ)のある小部屋を抜けるとさらに奥に小さく細い階段がある。それを降りると、冷凍倉庫みたいな大きい扉があって、これが僕らの部屋の入り口だ。
 玄関には段差がない。僕が作った敷居の内側に靴を脱ぐだけだ。
 敷居を潜ると部屋になっている。8畳間ほどの部屋だ。生活に必要なものは大抵この部屋にそろっている。 ダイニング設備一式、洗濯機乾燥機、エアコン、ソファ・ベッド、ソファ、テレビビデオオーディオ一式。ごちゃごちゃしてる居間みたいなものだ。
 奥の壁に二つ扉がある。1つを抜けるとユニットバスと脱衣所になっている。もう1つの扉を開くと、さらに奥に向かって通路が伸びる。左手壁に、3つドアがある、行き止まりの通路だ。扉を開くと3畳ほどの狭い部屋になっている。
 一番手前の部屋はベッドルームになっている。この家にあるベッドはこの1つしかない。僕と妹は――僕が極めていいかげんな生活をしているおかげで、大抵睡眠時間がずれる。妹と交互に使っている。扉が開かないときは――この家の扉はすべて鍵が内側からかかるようになっている――妹が使っているわけで、そうなると僕は居間のソファベッドを使う、ということになる。
「おいおい、こんなので生活していけるわけないじゃないか」
 僕は妹がこの家に暮らし始めることになったとき、そう言った。「だいたいおまえはいいのか?女だろ?」
「私は別にかまわないわよ。だから女の子を連れこまないでね。あ、あと1つ、ルールがあるよ」
「何?」
「部屋に入るときは鍵をかけること。入ろうとするときは、ドアノブを静かに回すこと。これが守られてれば、あんがい不自由ないわよ。多分」
「本当か?」
 僕はここでまた妹の先見性に感服することになった。結局妹の言うとおりだったのだ。暮らしてみたら、僕に不自由はなにもなかったし、妹もそう思っているようだった。少なくとも、僕には文句を言わなかった。
 衣類は居間に置いてある――妹の着替えには出くわしたことがない――。一人になりたいときには、ちゃんと鍵がかかるし、一人の空間は安定している。おかげでドアノブをまったく音を立てずに回す癖がついた。ソファ・ベッドは特に寝心地が悪いとも思わなかった。僕には特に連れてきたい人はいなかったし、友達とは外で会えばよかった。妹も誰も連れてきていない。とりあえず今までは。そして、元から安かった家賃はさらに折半することができた。公共料金も食事も。
 意外に上手くいくものだ、と僕は思っている。

 二つ目の部屋には机とコンピュータの端末が置いてある。僕のデータと妹のデータは共有するものはして、しないものはロックがかかっている。もう一台、居間にノートタイプのコンピュータが置かれており、それはネットワークで繋がっていて、まったく同じように使用できる。僕の仕事(厳密に言えば仕事ではないけど)にも妹の仕事にもコンピュータは不可欠なので、大概この部屋はどっちかが使っているようだ。また、妹とのコミニュケーションは、ここのコンピュータと居間のコンピュータを介して行われることも多い。僕は最低限の情報しか送らないし――ヒマだったら、居間で妹が顔を出すのを待つ――、彼女も僕の邪魔になったことはなかった。
 三つ目の部屋には、なにも置かれていない。裸電球が1つぶらさがっているだけで、壁紙すら貼っていない。4面(正確に言えば六面)がコンクリート剥き出しになっている。壁紙がなくなったので、中途半端に貼るよりはこのほうがいいと思ったのだ。
 僕はこの部屋になにも置かなかったし、まったく使っていなかった。妹は引っ越してきたとき、この部屋にひとつ人形を置いた。ウサギの耳をつけた、女の子の人形だ。
「寂しい時には彼女とお喋りするんだ」妹は笑いながら言った。「秘密の、二人だけのお喋り」
 彼女の少女趣味な所は昔から知っていた。僕だってそういうセンチメンタルなものは理解できる。
「でも、こんな部屋じゃかわいそうだろ」僕は言った。「置きっぱなしにされて」
「大丈夫だよ。彼女はね、1人の時はずっと踊ってるんだから、ぜんぜん寂しくないの。私が来たときだけ、踊りを止めてお喋りに付き合ってくれるんだよ」
「きっちりしてるんだな」僕は笑いながら言った。
「理解しあってるからね」妹も笑いながら言った。



 僕はノブを回した。音もなくノブは回った。電球は光っていて、中の様子が見て取れた。すべての部屋の電気はつきっぱなしになっているのだ。ウサギの耳をつけた彼女が、オレンジ色の微かな灯かりの下、踊りを止めて扉を開けた僕を見つめ返していた。
「ただいま」と音にださず僕は言って、扉を閉めた。

 家は静かで、妹もいないようだった。靴がなく、妹の内履きが敷居の中に転がっている。
 僕は冷蔵庫を開け牛乳を直接飲み、部屋着に着替えた。買ってきたもの――数日分の食料――を冷蔵庫の中にしまった。
 冷蔵庫の中にラップをかけたサラダがあったので、それをテーブルの上に置き、テレビをつけた。
 このサラダは妹が作ったものだ。彼女がアスパラガス・サラダばかり作るのでそればかり食べているが、全然飽きない。飽きたら食べないだけの話なのだが、逆にアスパラなしのサラダは食べる気がしなくなってしまった。感化されやすい、と自分でも思う。
 テレビはドラマをやっていた。若い医者の話だった。彼の嫁が自分の父と彼の話をしていた。嫁は彼のことが好きのようだ。
 そう言えば僕も好かれているんだよな、とこの間の話を思い出した。
 どうも奇妙な話だ、と思う。今まで僕に、面と向かって好きだ、と言ってくれた人はいなかった。好感を見せるというのならわかるが、好きだ、と言われてどうしたらいいのかわからない。うれしい気持ちもあるが、どちらかといえば、本当に困るのだ。こっちも好きだと言い返さなければいけないような、借りをうけたような感触。そして――おそらく――彼女、向田恵美という女が好きなのは僕1人で、その借りを返してやれるのは僕だけなのだ。――川で子供が溺れていて、それを見つけたのは僕一人、それとまったく同じだ。プレッシャー。
 なんとなく、僕に期待してくれた人のことを思い出した。そして、ことごとくそれを裏切ってきた自分を振り返った。僕なんかに期待するのは間違いなんだよ、と、教えてあげられる前に、失望されてしまった。なんだか僕の人生はそればかりだったような気がする。
 頭を振って、イヤな気持ちを振り切った。サラダも食べ終わった。なにかしよう、と僕は思った。  失職して以来、僕の一日はおおまかに言って3つのパターンがあった。
 1つはベッド・ルームと居間を行き来しながら終わらせる一日。ソファに転がりながらビデオを見たり、ゲームをしたり、ベッドルームで本を読んだりしながら一日を過ごす。1つはコンピュータをさわりながら、僕の仕事をする。もう1つは今日の様に大宮市街に出てぶらぶらと街の中を歩きながら過ごす一日だ。浪費はなるべく抑えても、一日外にいるだけでいろいろ時間は潰すことができる。
 今日は本屋に数時間いて、映画館をチェックし、ゲームセンターに入ってからスーパーでじっくりと買い物をした。スーパーの買いものは僕の役目になっている。妹はその中から料理を作り、たまに僕のぶんまで作ってくれたりする、というわけだ。
 シャワーでも浴びようか、と思ったが、タオルをとったところで眠いのに気がついた。タオルをカゴに戻し、ソファに戻る。
 うん、眠ってしまおう、と僕は思った。僕は眠るきっかけは見逃さないことにしてるのだ。
 時計を見ると21時だった。今の僕はいつ眠ってもいつ起きてもかまわない。大学に入ったときから、睡眠時間は一定しなかった。一度睡眠障害を起こして薬に頼った生活を経て、眠ることへの意識が変わった。活動時間の半分の時間だけ眠るようにする、と3ヶ月前に決めた。どんな規則でも構わないから、起きる時間と眠る時間をはっきりさせておかないとまともな生活に戻れなくなってしまうのだ。昨日は18時間起きていたので9時間眠った。今日は15時間起きていたので7時間半眠ることにした。4時半にアラームをセットし、ソファ・ベッドに横になる。動くのも面倒になのでここで眠ることにした。テレビはいつもつけたままにしておく。それが僕の眠る儀式だ。
 僕は目を閉じた。テレビはドラマがまだ続いていた。僕はそっちに意識を集中した。そのまま眠るつもりで。
「・・・・・・でね。ねえ――ちょっと。ちゃんと聞いてるの?」
「仕事が終わったと思ったら、今度はオマエの文句聞かなきゃいけないのか?いいかげんにしてくれよ!今日は残業明けに急患が二件飛び込んで、クタクタなんだ!好きなだけ寝かせてくれよ、頼むから!」  ――そりゃヒサンだなあ、アンタ。
 ――僕は今日なにもしてねえや。



 3.

 僕が自分に与えた仕事は、絵を描くことだ。
 中、高校は絵画部に所属していた。高校時代は部長だった。絵を描くことは好きだ。最近になって、それを思い出した。
 失業中のヒマな身体にまかせて、再びコンテを取ってみた。絵を描くことには集中できた。時間を忘れることができた。自尊心を失いそうな生活の中で、疲労を感じ、達成感を得ることができるのは、これだけだった。
 しばらくの間、僕は適当に辺りのものを描き散らかした。林檎を描き、部屋を描き、街を描き、人形を描いた。妹にモデルを頼み、嫌がられて実現しなかったりした。
 そのうちに、僕の中で1つのテーマが浮かんだ。
 あまりにも漠然としたテーマで、なんとなくイメージはあるが、上手く表現できない。箇条書きにするとこういうことになる。

 ・完全に空想で描ききること。
 ・ごちゃごちゃいろいろなものを、1つの絵の中に描くこと。
 ・それらは全て、僕の好きなものであること。
 ・仏教の曼荼羅、東方正教のイコンのようなもの、それでいて、それらの形式は使わないこと。
 ・コンピュータ・グラフィックで作りあげること。

 もしこれらを完全に満足する絵が描けたとしたら、それは僕の一生を通じて助けてくれるものになるだろう、と思った。僕が作った、僕のためだけに存在する絵――あまりに閉鎖的で自己満足気味ではあるけど、目標としては申し分がないように思えた。

 妹にラフ・スケッチを見られて、僕はその絵のテーマを話さなければならなかった。上手く言葉にはできなかったが、考えながら、まあなんとか妹にこの絵を伝えようとした。
「兄さんって芸術家だったっけ?」
 妹は言った。
「確かにその通りだな」
 僕は少し考えてから、笑った。

「まあでも、これで『お兄さんはなにをなさっているの?』って聞かれたときに応えられるわ。『失われた芸術を求めて苦悩してます』って言えるから。『まあ、げいじゅつかなのね、大変だわね』って応えてくれるよ、きっと」
 妹は言った。
「やっぱり、おまえも完成しないと思う?」
 僕は訊いてみた。
 妹は笑った。
「まあ、でも、そういう人がいても悪くないと思う。がんばってみてよ」
 妹は言った。
 ちゃんと言葉を考えてくれたのだ。ありがたい妹だ。頭があがらない。


 これは僕のライフ・ワークだ。これはまあ長い時間がかかるだろうし、これにつきっきりになるわけにもいかない――実際まったく進んでいないのだ。とにかくは就職しなければならない、とは思っている。いくらなんでも、このまま妹に頼りっぱなしというわけにもいかない。
 とりあえず絵を描くことを仕事にできる職種に限って、履歴書と手紙を送りつづけている。広告代理店が中心で、後はインテリア業、アパレル業、など。どうせならここは妹に甘えておこう、と、かなり会社を厳選しているため、未だ面接の声さえかからない。
 そう言えば、1社に送った手紙があった。僕は目が完全に開かないままノート・コンピュータを引き寄せ、立ち上げた。1通、手紙が来ていた。送り主はその会社だった。
 僕は手紙を開いた。





 


 この度はわが社に手紙を送っていただき、ありがとうございました。
 あなたの言われるところの広告業は、現在人員を募集しておりませんので、まことに申し訳ないのですが、申し出をお断りしなければなりません。重ねてお詫び致します。

 しかし、わが社が内々で調査したところ、貴方の経歴はわが社にとって利益となるような事柄に満ちております。いづれはわれわれの方から貴方の元にお話しを伺いにいったでしょう。この度は貴方の方から手紙を送って頂いて、驚くのと同時に恐縮しておりました。
 手紙では詳しい話をすることができないので、我々の方から直接、御自宅にお伺いさせていただこうと思いました。この手紙にそのものの名刺を同封いたします。お会いしていただければ、わが社のみならず、貴方の申し出にもなんらかの形で応えることができると思います。お願いして恐縮ですが、ぜひ、お会いになって頂きたいと思っております。
 下記にその日時をお伝えします。
 真に失礼とは思いますが、ぜひ、お願い致します。







 添えつけの名刺は
「取締役 神田圏輔」
 と書かれていた。

 日時は、今日だった。今日の12時だ。僕はあわてて時計を見た。デジタル時計は4:47を指していた。

 僕は混乱した。