ラビット・バーク 僕は古沼静香の顔を改めて眺めなおした。 顔は小さく、髪が短い、口元はゆるんでおり、鼻はややつぶれている。特に魅力的な顔立ちではない。目がその印象をひきうけているのだろうと思う。やや垂れた細長い二重の目で、僕の注意はそこにばかり向いてしまう。ズレているように見えるのだ。よく見れば斜視というのでもなく、焦点はあっているのだが。 「とても、奇妙なんだ。俺はそれにひきつけられるんだよ。小川にはいつか会わせてみたい」 と、かつての僕の友達、神田良輔は言った。古沼静香のことだ。 「よくおわかりになりましたね」 古沼静香は言った。 「あなたのことは僕の古い友達から聞いていました」僕は言った。「話を聞いている間は思い出せなかった。その友達のこともまったく。あなたのことを詳しく聞いたわけでもない。ただ、あなたがそうじゃないかと思っただけです。」 古沼静香はあまり驚いたようにも見えなかった。相変わらず僕をじっと見ている。 「私のことは」古沼は言った。「どの程度ご存じですか?」 「いえ、もう5年ほど前、少し噂を聞いた程度です」 僕は彼女が通っていた学校の名前を思い出した。「日本女子大学に通っていた、くらいしか知りません」 「そうです。私は2年前に卒業しました」古沼は言った。 そして僕らは黙った。古沼はマグカップをとった。 僕もマグカップをとった。コーヒーは冷たくなっていた。 神田良輔が、彼女のことを話していた。それはかなり昔の話、大学に入ったばかりのことだ。 なぜだろう、と僕は思った。僕らの共通の知人であり、僕らの線であるはずの男――神田良輔――の名前は僕を緊張させた。口にするのもはばかられる感じだ。古沼にその名前を口にするのが普通の話だと思う。話の流れ、だと思う。しかし、僕は躊躇した。 僕が神田を手ひどく裏切ったことがあるのか、と思った。そういう種類の後ろめたさが僕にあった。記憶をよみがえらせ、時間をかけて考えてみた。すぐに気がついた。そんなことはあるわけがない。ただ僕らはお互い連絡をとらなくなり音信が途絶えただけなのだ。 なつかしいね、と口に出せばすむことだった。でも僕は口に出せなかった。理由はわからない。 古沼も黙っていた。僕に手紙を読ませていた沈黙を引きずっているようだった。 「ご結婚はなされているんですか?」 沈黙は重かった。思いついたことを僕は喋った。 「いいえ」 「ああ、失礼しました」 「私は未婚です」 「――神田圏輔さんは結婚なさっているんですか?」 カンダ、と口にするのは気が重かった。かんだけんすけさん、と僕は意識した。 「いいえ、神田も未婚です。どうしてですか?」 「いえ、理由は別に」 古沼は自然だった。特に意識している様子もなかった。神田とは圏輔のことを指すに決まっている、と言っているようだった。神田良輔を彼女は知っているはずだった。なのに彼女はまるで意識していないように見えた。その視線は、やはりまともでないなにかを見ているように見えた。 「神田圏輔とはなにものですか?」僕は言った。 「神田良輔と神田圏輔とは、いったいなんなんですか?」 一息に、僕は喋った。 古沼はうつむき、そして黙った。 とても長い時間がすぎる。 僕は立ち上がり、カップを二つとってキッチンに向かった。換気扇をつけ、立ったままタバコに火をつける。その一本を吸い終えてから、薬缶に火をかけた。 インスタント・コーヒーは5年ほど前、神田良輔から教わったことだった。 その頃の僕は今の僕からやはり遠い。 湯をわかし、コーヒーの粉と砂糖とミルクを入れることを習慣化するのは、当時の僕には遠いことだった。薬缶を洗い、マグカップを洗い、コーヒーとミルクと砂糖を切らさずにしておき、飲む必要を感じたときにはお湯をわかるところから始める。それは僕にはあまりに面倒なことだと思っていた。ペットボトルのソフト・ドリンクを飲む以外に方法がない、と思っていた頃の話だ。 神田はほぼ毎日のようにコーヒーを入れていた。神田の家に居座ったとき、神田の代わりにコーヒーを入れることがあった。そしてそのことを覚えた。僕は自分の家でコーヒーを飲むことができるようになった。考えてみれば、それが僕が家事をすることの第一歩だった。 「今まで一度もお湯をわかしたことがないなんて、信じられないな」神田は言った。 「そういうのは、僕の役割じゃなかったんだ」言い訳がましく僕は言った。「僕は僕のすることがあった。僕は僕のやることさえしてればよかったんだ」 「でもそういうことがイヤになったんだろう?」神田は言った。「キミは人生のすべてを知りたかった。だから家を出たんだろ?」 「まあ、そうだね」僕は認めた。 その記憶がよみがえるのと同時に、やはり僕の気は重くなる。ごめんなゆるしてくれよ神田、と僕は思った。そう思うのが適切な気がする。そう思わなければいけないような気がする。 「神田良輔のことについて」古沼は喋り始めた。流し台に立つ僕を見つめている。「私は今日話そうと思っていました」 沸騰する前だったが、僕は薬缶の火を止めた。 「神田圏輔の名前を見て小川様が神田良輔に気がつかないはずがないからです」 コーヒーを作り、古沼の前と僕の前に置く。そして、座った。 「はい」僕は言った。 「ですがあなたはそれに気がついていなかった。私はすぐにそのことに気がつきました。それに驚きました。私と神田――神田圏輔はしっかりと計画をたてています。あなたがなにを訊ねてくるか、なにを喋るか、そしてこちらはなにをあなたに教えるか。しかし、まさか神田の名前に気がつかないとは思いませんでした。あなたが神田圏輔の名前から神田良輔を思いださないほど鈍感ではない、と私たちは思っておりました。それは私たちの理論であり、そして、私たちはそれの正確さには自信があったのです」 「申し訳ないです。関連してるとはまったく思わなかったのです」僕は言った。 「私は正直、少し腹をたてていました。私たちが思い違えるのは、ひとえにあなたの無責任さ、不条理さに原因があると思ったからです。あなたは神田良輔を忘れるべきではないのです。彼があなたに与えた影響について、私たちは詳細に知っているのですから」 「忘れてはいません」 「はい。どうやらそうでもない様子でした。神田圏輔の手紙で、あなたは神田良輔を思いだした、そうですね?」 「そうです」僕は言った。「神田圏輔の手紙は、神田良輔を思い出させた。内容も神田が話すような内容だったし、なによりしゃべり方、文体です。文体がそのまま神田を、神田良輔を思い出させたんです」 「あなたはすぐに神田良輔と結びつけることができました。正直、そういう種類の思い出され方は自然ではないように思います。あなたはそういう思い出され方をする人だとは思いませんでした。」 僕はよく話をとらえきれなくなっていたが、とりあえず頷いた。小学校の先生に怒られてる、とまた思った。 古沼は僕を見つめて、そして黙った。 「目下の状況が私にとらえきれない状況になった以上、私はあなたになにも喋りたくありません。私も少し冷静さを失っています。失礼させて頂こうと思います」 古沼は立ち上がり、玄関に向けて歩き出した。内履きを脱いだところで、僕は立ち上がった。 「ちょっと待ってください」僕は言った。「僕はまだ大事な話を聞いていないのですが」 「申し訳ありません。私は今、なにも喋るつもりがありません」 「そういう問題じゃない」と僕は言った。「僕をこのまま放っておくつもりですか?僕がそれで納得するとでも?」 僕は彼女の腕をとった。表情ほど特徴のない腕だった。 「申し訳ないと思います。私は今、なにを話すかわからなくなってしまったのです」 「僕が神田良輔に気がつかなかったのが、それほどあなたを怒らせたんですか?」 「私が怒ったとか、それはあまり関係がありません」 古沼は捕まれた逆の腕で僕の腕にふれた。僕の力がゆるむ。 「問題は私がなにを喋ってよいか、わからなくなったことです。神田と相談しないと、私一人で考えることができる問題ではないのです」 「じゃあ、一つだけ教えてください」僕は言った。「神田圏輔とは、なにものですか?神田良輔のことですか?神田がなんだか知らない名前で僕に、あなたを寄こしたのですか?」 古沼は悲しい顔をした。僕まで悲しくなるような顔だった。 「もうしわけないですが私には言うべきことか判断できません」 再び僕は腕に力を込める。「それは言ってください。僕だって腹をたてているんです」 古沼はまた下を向き、僕の腕にふれた。僕は今度は力をゆるめなかった。 古沼はだいぶ長い時間そうして動かなかった。僕も放すつもりはなかった。古沼はまったく動かなかった。心臓の動きも聞こえなかった。タイミングは狂いはじめていた。緊張感が妙に高まった。僕はそれにつぶされそうになるたび、腕に力を込めて耐えた。絶対に喋らせる、と僕は思った。 「いいえ、違う人間です」古沼は言った。下を向いたまま喋るのは初めてだった。「神田圏輔とは神田良輔とは別の人間、名前が似ているだけの偶然の一致です。これでよろしいでしょうか?」 「はい」僕は言った。「神田に、神田圏輔に、今度直接会いたい。僕がそういっていたと伝えてもらえませんか?」 「わかりました」 僕の手を払い、古沼は自分の靴を履いた。 「神田良輔は」僕は言ってみた。「元気ですか?」 なにも言わずに僕の顔を見ずに、古沼は扉を開け、閉めた。 僕は急に一人になった。ソファに戻る。 すぐに妹が扉を開けた。 「今の人、家に来てたの?」 「そうだよ」僕は言った。 買い物袋を置き、冷蔵庫に入れる。うがいをして手を洗う。 「怖い顔してる」 妹は小さな声で言って、寝室に入った。 5. 古沼が帰って、時間が過ぎた。僕はテレビをつけ、ものを食い、タバコを吸った。なんの気なしに立ち上げたPCに、妹からのメッセージがあった。 <どうしたの?別れ話でもした?私、今日はよそに泊まろうか?> 妹は仕事室にいるようだった。彼女はオンライン上にいる。僕もメッセージを返した。 <いや、そういうんじゃない。なんだかわかんないけど緊張はしたな> メッセージを送り、しばらくタバコを吸ってから、妹に再びメッセージを入れる。 <よければ出てきて、話でもしないか?> すぐ、妹は出てきた。 僕は妹に喋った。なるべく多くのことを、客観的に並べるように心がける。妹と話すときの癖みたいなものだ。起こったことを順番に、並べるように喋れば、妹はそれをきちんと理解してくれる。神田圏輔が書いた手紙はまだ残っていた。それも妹に見せた。 「時間をかけて読んでくれ」古沼が言ったように、僕も言った。 神田良輔のことは、妹はまったく知らなかった。妹がここに越してくる前、ほとんど毎日遊んでいた友人のことを、僕は一言も喋っていなかったのだ。 彼女は神田良輔について細かいところを知りたがった。僕はいちいち話さなければいけなかった。 「どんな人だったの?」 「変なやつだったよ。いろいろなことを知ってた。犬の種類とか数百くらい知ってたんじゃないかな」 「頭がいい人だったの?」 「まあそうかもしれないけど、微分積分はまったく知らなかった。俺が教えてやったことがある」 「なにして遊んでたの?二人して」 「喋ってた。それかゲームしてるか酒飲んでるか外出るか――いろいろしてたよ」 「毎日遊んでたんでしょ?」 「うん。俺はほとんど毎日あいつの家で寝泊まりしてた。半同棲といってもいいくらいだ」 「――なんだか要領得ないなあ」 「上手く話せないんだよ、なんだか」 「――ようするに、好きだったのね?兄さんは神田くんのこと」 「まあ好きだったよ」 「愛してたの?」 「――それはセックスしてたってことか?するわけないだろ」 「だってほかに恋人も作らずにずっと一緒にいたんでしょ?神田くんも」 「特に恋人作りたいとも思わなかったんだ。あ、神田は恋人いたぜ、古沼だよ」 「――でも古沼さんと兄さんとは会わなかったのね」 「うん。神田は俺がいると、俺と遊んでるのを選んでくれてたんだ。俺がそばにいるとうるさそうに電話に出て、すぐ切る。『今小川といるから。じゃね』て。何度も聞いた」 「なにそれ」 「俺はけっこう人見知りする、ってわかってくれてたからだと思うけどね」 「兄さん神田君の彼女だったの?」 「だからそんなわけないって」 神田良輔の話をすると、やはり僕は得体のしれない罪悪感のようなものを抱いた。僕の舌はもつれたし、上手に話せなかった。一瞬躊躇したが、結局僕はそれを妹に話した。なんだか罪悪感のようなものがある、俺は神田を裏切ったような気さえする、なんなんだろう?と。 妹ははっきりと言った。「だから、それ、別れた恋人に抱く感情だってば」 僕は上手く納得できなかった。そういう意味でなら僕は神田のことを好きではなかったと思うからだ。 「俺たちはよく一緒にいたし、一緒にいて楽しかったけど、そういうもんじゃないって。神田とセックスしたいなんて思ったこともないし、別に俺と毎日会ってたわけじゃないし、外でセックスしててもなんとも思わないし、だから単純に、喋っててもおもしろかったし趣味も同じだったしヒマだったし、だから一緒にいただけだ」 「認めなよ。兄さんは好きだったんだ。セックスしたくてうずうずしてたんでしょ?」 妹は半分にやけながら言った。 「バカか?おまえ」 と僕は言った。「で、なんだと思う?神田良輔と神田圏輔と古沼静香は、なにを考えてるんだ?なんだか必要以上に手が込みすぎてて、古沼はあんなにシリアスで、神田圏輔はよくわかんない手紙を送ってきて。俺はどうするんだ?」 「わかるわけないでしょ」 妹は言った。「もっと兄さん、自分のペース持ちなよね」 |