ラビット・バーク


<6>

神田 良輔







「小川さんですか?」
古沼は言った。
「はい」僕は言った。



 私と会っていただけませんか、と古沼は言った。僕は了解した。今すぐでも大丈夫だ、と言うと、ではすぐに、と古沼は言った。場所は、と僕が言うと、古沼は少し考えて、小川さんのお宅に行って良いでしょうか、と言った。僕は今は妹がいて妹の知り合いも来るというので外に出たい、と言った。
「小川さんのお宅には、使われていない部屋がありましたよね」古沼は言った。
「はい、あります」
「あそこでお話したいのです。なるべく静かで、なにもないところに行きたい」
 淡々と、古沼は言った。それは彼女のかすかな自己表現だ、と僕は思った。ひょっとしたら彼女はこういう仕方でしか自分の希望を言えないのではないか、と僕ははじめて気がついた。
「わかりました。こちらにお越しください。お待ちしています」僕は言った。




 外出してくれ、という僕の頼みに妹は抵抗した。
 これは少し予想外だった。僕らはお互いのことに気をまわしてやってきたのだ。どちらからともなく部屋を空けたり、逆に帰ってきたりということは黙っていてもやってきた。そういうことを円滑にしてこれたからこそ、僕らは二人で暮らすことができたのだ。僕は理由を尋ねた。
「向田が来るから」
と彼女は言った。理由になってない、と僕は思った。これも妹には珍しいことだった。だいたい僕らはお互いのことを考えあってきた。僕がここを開けて欲しいという気持ち(微妙な話をしたいから)は妹にはわかるはずだった。僕の希望と彼女の希望がぶつかったときにはそれを二人で持ち寄り共通意見を引き出して行動することができた。しかし、彼女は、自分の意見を喋らない、と決めたのだ、と僕はこれを聞いて思った。
 僕らの間に緊張した空気が流れた。妹にこんなに緊張したのは久しぶりだった。思い出せないほど昔にしかなかった。
「頼むよ。連絡くらいつくだろ?古沼さんとはちゃんと話をしたいんだよ。なるべくまじめに」  僕は言った。まじめな話、と言って、少し混乱した。どういう話をしたいのか、よくわからなかったからだ。
 妹はそれに沈黙で答えた。僕の顔を見ずに、真剣な顔をしていた。
 妹には勝てない、と僕は悟った。
「じゃあ俺たちは奥の部屋にいるから、なるべく静かにしててくれよ。頼むから。向田が来るのもわかった。この部屋にいるのはかまわないよ。俺たちが奥の部屋に入るのも了解してくれよな」 「古沼さんって兄さんの恋人じゃないよね」
 妹は急に僕の顔を見た。
「違うよ。言っただろ」
「私の考えを言っていい?兄さんは古沼さんに会うんじゃなくて、向田と会うべきだと思う。それか少なくとも、私と向田と一緒に古沼さんに会うとか」
 一瞬なにを言ってるのかわからなかった。
「どうして?」僕は言った。
「私は思ったのよ。向田は兄さんにとって、とても大事なことを伝えることが出来る、って。あの子、本当に兄さんのことが好きなんだよ。私もはっきりとは気がつかなかったけど、そういうことなんだ、って気がついたんだ。兄さん、ちゃんと誰かに愛してもらったことないでしょ?そういう意味でもものすごく貴重なことだと思う。あの子って――絶対兄さんがなにか教わることがあると思うし、なんていうか、それだけじゃない、って思う。兄さんにとって、向田はかけがえないものになるって思う」
 喋りながら妹は僕から目を離した。

 僕らはお互いにはクールにやってきたのだ。約束は守るし、約束しないことはやらない、そういう感じだ。だから僕は妹の言葉を正面から聞くことができなかった。
 妹の言いたいことはわかった。妹は僕のために言ってくれたのだともわかった。僕のことを妹がわかってくれたこともわかった。
「古沼さん、すごくヘンだったよ。だいいち私の電話なんてどこから知ったんだろ?――兄さん教えた?」
 いや、と僕は首を振った。
「兄さんのこと調べたんだよ、私の電話番号調べるくらいまで、徹底的に。そういうやり方って、ものすごくおかしいと思う。だいたい、神田圏輔ってなにものなのよ?兄さん会ってないんでしょ?言わなかったけどね、神田良輔って人のことは終わりだよ。私だって連絡しなくなった友人っているけどね、それはすごく自然なことなんだって気づくし、気づかなきゃいけないんだよ。それ、兄さんのセンチメンタルな悪いトコで、そういうのは忘れなきゃいけないんだよ。だから、いっさいそういうのは終わりにした方がいいと思う。兄さんは新しく兄さんの居場所を見つけなきゃいけないんだって思う。向田はね――私は思ったんだけど、新しい兄さんの一つのやり方で、間違ってない、と思うよ。とにかく私はそう思った。だからとにかく、向田に会ってよ、兄さん。私が間違ってたら本気で謝るから。兄さんはこんなガラクタみたいな生活じゃなくて、しっかりとした生活をしなきゃいけないんだよ」
「とにかく古沼には会うよ」僕は言った。
「なるべくきっちりと話を聞いてみたいし、話せることがあるなら話をしてみたい。だいたい向こうがなにをしたがってるかさえよくわからないんだ。おそらく神田良輔がらみのことだとは思うけどさ。とにかくそういうのをしっかり――終わらせるにせよ、話はしなきゃいけない」
 僕は立ち上がった。
「古沼が来たら奥の部屋に通してくれる?そこに入って待つことにするよ」
 妹の顔を見ずに、僕は言った。歩き始めようか迷っていると、「わかった」と妹が言った。



7.



 扉を開けると光が部屋の中を照らし、ウサギの耳をつけた人形が僕を見返した。視線は僕に定まっていなかったけど、僕が来るのを待っているように見えた。彼女のテリトリーに入るのだ、と思わないわけにはいかなかった。僕は扉をしめて、暗い部屋の中に入った。
 やはり光は一筋もささなかった。暗闇に目がなれたところでなにかを感じられるとも思えないほど、その部屋は闇だった。だいたいの見当をつけて手を伸ばし、彼女を手に取ろうとした。数度空をきって、爪先が彼女に触れた。僕はそれを手に持って、座った。しばらく考えて、横になった。冷たい床が背中一面に感じられた。
 入ってしまうと暗闇はとても僕の気持ちを落ち着かせた。不思議なくらい、僕はリラックスした。集中力が充実するのを感じた。はじめから僕らはここに来ればよかったのかもしれない、と僕は思った。扉が開いても直接光を浴びない位置に転がりながら移動した。直接に光を浴びたくなかったし、こんな姿を古沼に見せたくもなかった。僕の手の中で、ウサギの耳をつけた彼女は黙っていた。僕は彼女を組んだ腕の中に抱え込み、横を向いた僕の顔、額と触れるように置いた。そう言えば、こんなふうに誰かと顔を寄せることってすごく久しぶりだ、と思った。少し緊張もした。それに気がついて、苦笑した。暗闇では苦笑がしっかりしとできるように思えた。完璧な苦笑を、ウサギの耳をつけた彼女に見せることができた。
 
 気がついたら目を閉じていた。僕は眠いのかと思ったが、気分は集中していた。眠ってしまっても問題はないだろうが、と思った。眠りに任せたほうが楽なのは当然だった。僕は眠るのが大好きなのだから。
 でも眠りは訪れなかった。妹の言葉が思いついて離れなかった。神田のことは――神田たちのコトは、もう忘れてしまった方がいい、というのはとても説得力があるように思えた。
 神田たちは、僕に残したものを考えた。多分、希望だ、と思った。なにがしかをなしえるかもしれない、という希望。だいたい、なにをなしとげるのか、僕にはわからなかった。が、なにか大事な、少なくとも成し遂げればものすごい充実感に包まれるものが、そこにはあるはずだった。神田たちはそれをめぐって悩み、行動していたのだ。
 僕ももうかなり歳をとっていた。わけのわからないものからは離れなければいけないのもわかっていた。僕と同じ歳でいろいろなものを――たとえばお金とか、子供とか、仕事とか――を身につけ、育てている人達は大勢いるのだ。僕はなにも身につけてはいなかった。もっとわけのわからないものしか、僕の周りにはなかった。わけのわからないものはわけのわからないままでは、なにも価値がなかった。誰に対しても理解を求めるのは不可能だ。それは僕にはわかっていた。わからない人間なんていないのだ。
 神田良輔は、そういう男だった。なにかを求め、そしてそれに向かって行動していた。達成すればなにかものすごいことになる、ということを常に念頭に置いていた。幾分その行動は無価値で、意味のないことに向けられがちだった、と今では思う。しかし、彼の努力とか能力とかは、誰にも馬鹿にできたものではない、と僕は思った。
 神田良輔はなにかを達成したのだ、と僕ははじめて気がついた。そしてそれをめぐって神田圏輔や古沼静かは右往左往している。考えてみれば、それ以外にありえなかった。そして神田良輔なら、それをなす事ができるように思えた。彼ならなにかに達しないわけがない、とすら思えた。彼は僕とは違って何をするにも勘が良く、動作は機敏だった。ねばり強さも備わっていたしどんな手間も惜しむことはなかった。方向さえ定まれば、なにかをしないわけがないのだ。
 じゃあなにをしたんだろう、と僕は考えた。彼はいろいろなことをしてはやめていて、それらにはあまり一貫性がないように思えた。小説を書くこともあったし、音楽のリミックスも熱中していた時期もあった。ゲームを作るソフトでコンクールに応募しようとしたこともあった。ボクシングのジムにも週一で通っていた。そして様々な種類の本も読んでいた。――結局なにをしたのだろう?と僕は考えた。どこかの会社に就職し、そのレールに乗ってなにかを成し遂げたというのもあり得る。僕のまったく知らない世界でなにかをしたのかもしれない――

 「言葉」

 唐突に僕は思い浮かんだ。

 僕と別れる直前、彼はパソコンに向かうことが多かった。僕は訊ねた。
「プログラミング」
 と彼は言った。僕はプログラムはまったくわからないので、上手く相槌がうてなかった。
「言葉のルールを作ろうと思ってさ。日本語のルール、それを数式化してコンピュータにレスポンスを打たせるようにしようかと思った」
「対話するコンピュータってやつ?」
「対話か」神田は苦笑した。「まあそこまで行くのは、原理的には可能だと思うけど、とても俺の力じゃ無理だよ。なによりも言葉の世界はルールが定まってないようなものだからさ。そのルールを暫定的にでも定めてやろう、っていうのが俺の試みだ。アーカイヴソフトは知ってるだろう?あれと原理的には一緒で、あれだって一種の言語ルールには違いない。0と1の配列を組み替えて、より少ないデータに翻訳し、またデコードする。そのコード化を、言語に適応できないか、と思ったんだ。チョムスキーたちがやろうとしてたことの、極々暫定的なものだ。ただ、実用的になにかを成し遂げるための、便宜上のコードに過ぎないよ」
 僕はほとんど意味がわからずに、頷いた。

 そうだ、それに違いない、と僕は思った。言語のルールを作ろうとしていたのだ。プログラムというテクニックをつかって。
 神田圏輔はコンピュータの仕事をしていたし、理系の大学を出ており、そして文系的な指向もあった。この二人が共通するスキルは、コンピュータしかないのだ。

「古沼です」
 ノックと同時に声がした。電話で聞いた彼女の声だった。
「どうぞ」
 僕は寝転がったまま返事をした。どうせ、暗闇で見えはしないのだが。
 僕の顔を見つめているはずの、ウサギの耳をつけた彼女は、静かに僕の腕の中にいた。