ラビット・バーク


<9>

神田 良輔









12.

 それから数週間が過ぎた。
 様々に雑多なことが、私の生活の中にも起こった。見知らぬヒトからメールをもらった。学校で、テストが始まった。バイトの関係で新しい口座を作った――私の生活それだけを維持していくのも、手間と労力がかかるものだった。望むにせよ、望まないにせよ。
 あれから何度か清恵さんと連絡をとった。

 それまで私たちの間では連絡は専ら電話によるものだった。私が暇を見つけ、話を聞いてもらいたくなると電話をかける。清恵さんの手が空いていると清恵さんは話を聞いてくれて、それで私にいろいろなことを言ってくれた。時間が合えば、会ってもくれた。電話で喋るより会って話すほうが気楽だ。清恵さんは研究の生活、そして20代の女性の生活を送っており、私の気楽な生活以上のものがあった。生活にはレベルがあるのだ。私の生活よりも彼女の生活の方が何倍も重いし、忙しいし、大切だ、と私は思いこんでいる。
 つまり、時間を割いてもらっているのは私の方なので、身柄を押さえて食べ物と私自身しか情報がないくらいのところに押し込めてしまわなければ私は彼女を捕まえるのが難しい、というより気後れしてしまうのだから。

 以前とは決定的に異なったのは、私から話すべきことがなにもなくなっていたことだった。
 電話をかけようと思うと、私は躊躇した。彼女は今までの彼女以上の新しい問題を抱えることになったのだ。私はそれまで彼女の問題のようなことを知らなかった。それは私たちが共有することではなかった。でも私はすでに彼女の一部を抱えるようになったのだ。
 それは新しく彼女に覚えた、責任だった。それを私が抱えるのは意外で、荷が重すぎることのような気がした。――それはたとえば、社長の愛人だった自分に経営不振の悩みを打ち明けられるようなものかもしれない。私が関わろうとするには相手はあまりに偉大だし、それでも私しか話を聞くことができないのだ。
 私はためらった末、メールで彼女に連絡を取ることにした。私は今までメールを、ごく親しい人とのつきあいで使ったことはなかった。ましてや子供の頃からの知り合いに、今更書き言葉でなにを言えばいいと言うのだろう?
 私はつたないながらも、長い、まとまりのない手紙を書いた。どうにもこうにも初めは手が出なかった。電話のほうがラクじゃないか、とも思った。でも結局は私は手紙を書く方を選んだ。
 清恵さんはほとんど一日おかず、返信を返してくれた。私のだらだらとした手紙に対して、彼女の手紙は短く、簡潔だった。私よりも手紙を書き慣れている、と思った。喋り言葉以上にまとまりがついていて、しかも効果的に伝わりたいことが伝わってくるのだ。それはつまり、喋り言葉だけで構成されている世界、それだけを使うよりも彼女が奥深いものを持っているからだろうと思った。


 13.

 小川保は長い間眠った。そして目が覚めた。彼はまともに喋ることができた。いくつか彼女は質問をした。それにも上手く答えることができた。一見、なんら変わったところもないように思えた。
 でも清恵さんはそこに普通ではなくなってしまった兄を見た。何かが決定的に変わっている、と彼女は察知した。だから清恵さんは注意深く彼を見守ることにした。一週間ほど休みをとり(それはどれだけ彼女の生活にとって難しいことだったのだろう?)、兄に付きっきりの生活を始めた。
 清恵さんはいくつか精神分析の本を読んだ。兄はどうなったのか、それを知ろうとした。
 あの日に起こったことを、清恵さんは尋ねてみた。小川は明晰に答えた。古沼静香となにを話していたのか、を聞いた。
「そうだな、一言では言えない」小川は答えた。「会話の内容はほとんど覚えていないんだよ。くだらないことだったと思うけどね」
 そして小川は心配そうにしている彼女に、どうしてそんな顔で自分を見ているかを尋ねた。

 まずはこれが、私を心配にさせた一つ目です。と清恵さんは言った。
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『 彼のパーソナリティを、私はいかに知らなかったか、と直面することになってしまいました。
 古沼さんと兄の話は、兄にとって、なんらかのイニシエーションであったはずです。過去の友人への――罪悪感、義務感、責任感を実感したはず。彼はそれをいかに彼自身が重大に思っているか、それを私は知っています。
 彼をそれは、私に対してひどく客観的に喋ったんです。冷静な態度、客観的な考察。それは主観というものを持つ人間にはマスクであり、ポーズでしかないのです。
 ならば私は、私の知っていた彼は、すべて彼のポーズでしかない、彼の作り出した彼自身でしかないのではないでしょうか?
 それは可能なのでしょうか?兄妹が仮面を付けたまま生活していくことが?』
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 彼は、24時間に1時間ほどの割合で、眠り込む、と清恵さんは書いた。それはまったく唐突で、時間も決まっていない。1日に2度眠ることもある。
 たとえばディスプレイをにらんでキーボードをたたきながら、急に彼は倒れこむ。目は開いているし、呼吸も正常だ。しかし、その間はこちらがなにをしても反応しない。引きずれば、引きずられるままに動く。しばらくすると、また唐突に目覚める。

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『 彼に尋ねたら、
「唐突に意識がなくなるみたいだ」
 と答えました。
 たとえばそれがビデオを見ているとします。彼はソファに寄りかかっている。ふと、気がついて彼を呼ぶ。でも彼は返事をしない。彼を引っ張る。彼は引っ張られるまま、倒れる。
 そして、30分後に目が覚める。
「あれ?」
 と彼はつぶやく。
 そして、彼は、何事もなかったかのように、ビデオを巻き戻す。
 これが私を心配にさせた二つ目です
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 医者に相談してみると、彼は鬱病、と診断された。
 鬱病には周期があり、急になにもできなくなる、という症状もある。ストレスをなくし、健康的な、規則正しい生活を心がけ――簡単な仕事をすることを勧められた――、定期的にクスリを服用すれば、必ず良くなるから、あまり心配しないように、と医者は言った。

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『 しかし私は鬱病ではない、と確信しました。
 鬱病の症状なら私はよく知っています。そういう症状を持つ人は概して不規則な生活をしており、何事に対しても興味がなくなる、そういう性質を持っているはずです。それは兄が持っていた性質と言えば、そういうものでした。
 ある決定的なイニシエーションというものは、鬱病への致命傷とは言えません。それはどちらかと言うと精神的外傷に属する物、強烈な体験をは、次のなにかにつながるもの、もしくは、まったくうち消され、抑圧されるべき物事です。鬱病とはそういう契機を発見できない人が起こす症状です。
 その話を医者にしてみました。医者は無能でした。イニシエーション、というのを上手く想像できなかったようでした。前々から鬱気質だった彼の症状を言われ、それはきっかけにすぎない、と言われました。きっかけ、という言葉を理解してない!

 兄は最近ではよく本を読みます。ビデオも見ます。完成することがない、と思われていた絵の着色に入りました。睡眠は――それなりに不規則ですが、しっかりと夜寝て、午前中には目を覚まします。太陽の下、私と散歩をすることも面倒がらなくなりました。
 これが、三つ目です。兄は、鬱気質ではなくなっているのです。』

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 もちろん、クスリはいっこうに効果がない、と書かれていた。

 清恵さんは結論を出したがった。それはなかなか上手くまとまらなかったようだった。そういう時は、清恵さんはなにも書かないのだ。  つい最近に受け取った手紙は長い手紙になっていたが、それも上手くまとまっているとは言えない。それは結論をつけようとした清恵さんが無理につけた結論、としか、私には見えなかった。
 清恵さんがそんな、強引とも言える論理をつかって喋るコトバを、私ははじめて見た。それは、絵の上手い人がひどくヘタな絵を真剣に披露する様とひどく似ていた。

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 私は厳密な意味で、鬱病とは、精神の病、神経の病とは思っていません。

 目の前にコーラがあるとします。
 しかしそれに、興味を覚えなくなる。
 それが飲み物だということはわかる、飲み物は生命活動に関わる大事なことだとわかる、それは資本主義社会に生き残る優秀な商品であることがわかる、つまり飲めば甘くておいしい、ということもわかる。
 しかし、それに手を伸ばさない。手にとって冷蔵庫に保存しておけばいつでも飲めるようになるのだけど、いつか誰かがそのコーラを手に取り飲み込んでしまうかもしれないのだけど、手を伸ばさないという状態。
 これがコーラだけでなく、すべてのオブジェクトに向かったとき、これが鬱病と呼ぶ状態になる、と思っています。

 鬱病の自殺者というのは、決して鬱状態では死にません。「また鬱に陥ることを怖がって」自殺するのです。
 環境病、とでも言うべきものだと思っています。環境が変われば、病の症状はなくなるはずで、それを変える力がないとか、イベントがない、とでも言うべきものだと思います――これは極論で、もちろん、個人が最大限の力を発揮しきった、環境が最大限に許容する、とかそういう状況で鬱病が起こらない、と確信しているわけではないのですが。それを調べるには多くのモデル・ケースが必要だと思うし、現代の拡大社会でも、実証が可能だとも思いません。
 ともかく、鬱病というのは――マスコミが作り出した疑似病にすぎない、と私は思っています。
 本当の鬱病というのは、未だだれも体験したことがない。
 鬱病は、「病気」と呼ぶべきものではなく、「感情」の一振幅であると思ってます。


 では兄はどうか、というと。
 彼の眠り、の時、は目を開いてはいますが、そこになにも情報を得ていません。おそらく外部刺激のいっさいが脳の中に入らない、判断の材料になっていないとおもいます。
 これは可能な現象だと思います。我々は眠っている時に耳にする音を聞いていないことがある。それが視神経にも及んだ、それだけです。
 これは、「病気」に属する事柄だと思います。

 しかし、私は彼を病気だとも言い切れません。
 兄が自分のことをどう考えているか、私は聞いてみました。
「なんら変わったことはない」と彼は言いました。「時折意識がなくなることがあるみたいだけど、特に大事だとは思えない。まあ、仕事するようになったら、考えるけどさ」

 これを聞いて――たとえば恵美ちゃんなら、どう思いますか?
 初めて会った人がこういうことを言うなら、それはわからない話でもないかもしれない。ふうん、そういう人もいるんだ、という感じで。
 でも、こういう言い切りができる人ではなかった。「仕事するようになったら」ではなく、「仕事できないなあ」って言うはずだった。「変わったことはない」とかではなく、「そうだね、ちょっとおかしいね」って言う人だった。
 喋るコトバが変わった、つまりは意識的な変化が起こった。つまり精神病じゃない、彼は個人的に納得をし、変化した。

 私は彼が忘我状態になるのは、彼の「意識的」な行為だと思っています。彼はそれをコントロールしている。
 眠るとき、私たちは<眠り>へ突入しようか、選択している一瞬があります。あ、これを考え続ければ眠るな、という感じで。おそらくそれと同じようなことを、彼はあの状態――それは目を開き、唐突らしく見える、こちらからの情報をシャット・アウトする、あの状態に入る寸前に、考えているのではないか、と。
 つまり、彼は病気でもなんでもなく、新しい行動――手をあげてのびを覚える、マスターベイトを覚えるように覚えたのではないか。

 そしてそれは――とてもあやふやなコトバだけど――病気でもない、感情の一振幅でもない、ある問題を抱えたのではないか。
 それは問題として考えるべきで――たとえば「今月二〇〇〇円しかない」とかみたいに、なおさなきゃいけない問題なのではないか。
 と私は思っています。


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 清恵さんは恋をしたことがあるのだろうか、と清恵さんの手紙を見ながら、ぼんやり考えた。
 清恵さんは昔から、一人でなんでもできた。誰にも自分の問題を喋らなかったし、喋らなくても自分で解決してきた人だった。おそらく、彼女は全うな――対等な関係、というものを持ったことがないのではないか、と思った。

 彼女は関わり過ぎだ、と思った。
 彼女にとっては肉親である、兄、小川保以外に、対等さを持ったことがないのだ。彼女は彼を失うことは考えられるのかもしれない、唐突に死んでしまったりしたら、それはそれで回復することができるのだろう、と思う。しかし、彼が彼女の範疇外に出てしまうことには耐えられないのだ。理解を超えてどこかに行くことには、全力を持って追いかけるしか方法を知らないのだ。

 ずるずると彼女は人間の持つ暗闇の部分に近づいている、とう実感があった。そこはどれほど清恵さんが優れていても、追いかけるべきことじゃないのだ。それは個人内で消化されることでしかない。文学にも芸術にもならない、そういう種類の物事なのだ。
 私は彼女の姿を思い浮かべた。

 私はそういうことを彼女に教えられるのだろうか?
 それとも、私は彼女を助けるべきなのか?