バーキング・オン,ラビット


<1>

神田 良輔












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 時間が流れていくのを感じる。それはすごく現実的に感じられるのが、僕にはどうしてか――よくわからない。時間というよりも音楽とかいうほうが正確みたいだ。3分で終わる音楽も3時間続く音楽も、おなじようにつるりと僕の表面を撫でるみたいに――だから時間とは音楽に近づいているみたい、そういう感じに思う。細かい分け目なんて、なんの意味もない。
 今年は何年になったっけ?――忘れた。
 思い出すことは――どうやらできないみたいだった。数字がいくつかアタマに浮かぶが、どれも当てはまらない。一月、一週間……どうして一月っていうんだっけ?……そうか、月の一巡りが30日だからだ。あれ?30日だったかな?『いざよい』って十四日目だっけ?……
 考えるのをやめて僕は実際に新聞をとり、開いた。……2010年。
 そうだ、今年はどうやら2010年のようだ。
 なかなか気が付かないものだ。そうか、もう今年は、2010年になるのか。
 なんだか不思議な気がする。とても現実感がない数字だ。二千十年。2・0・1・0。いままで僕にまったく関わってこない数字だ。58とか0632とかのほうが親しい。体重にマラソン大会の記録。年月なんてそういう具体性からかなり遠いところにある……のかな?あれ?なんかおかしい?
 とにかく……そう、僕にはいくつも身近なものがある。いろいろな形や数字や名前が僕にいろいろ関わってきたのだ――名前、名前ならすぐに思い出せる。ここ数日だけでも数回呼ばれたし、名前なら忘れない。僕にまとわりついた確かなもの、僕が実感できるものだ。
 僕の名前は――小川保。
 小川保。





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 この間、僕はある女性と引き合わせてもらった。
 人と会う仕事ではないし、こうでもしないとなかなか女性と知り合う切っ掛けがないのだ。僕はもう29歳だし、そろそろ結婚を、とも考え始めた。仕事の同僚の妹の知り合い、ということだ。なるべく結婚を頭に入れている人がいいなあ、とそれとなく彼には言っておいた。「けっこうキミの希望どおりみたいだ」と彼は言ってくれた。僕はそれを聞いて、うれしくなった。

 アミューズメント・パークで僕らは待ち合わせた。
 彼女は綺麗な女性だった。僕はさらにうれしくなった。結婚を考えている女性、と聞いていただけでなにか先入観があったのかもしれない。目尻が下がっていて、笑うととても愛嬌のある顔立ちになった。そんなかわいい顔をみていると、僕は自分が気に入られるか、少し心配になったりもした。
「どんな仕事をしてるんですか?」
 彼女は僕に聞いた。
「ええと、まあ、あんまりおもしろい仕事じゃないんですけどね」と僕は前置きをした。「要は電話の仕事なんです。元は秘書業を斡旋していた派遣会社だったんですが、業務を拡大してね、期間いくらで秘書を雇うんじゃなくて、電話一本いくらで秘書を雇う、とかまあそういう形になったんです」
「おもしろそうなお仕事ですね」
「いやあ、そうでもないんですよ」僕は喋った。「一人が数十の法人契約をして、いろいろ管理するわけですから、身体も使わなきゃいけないし、要は小間使いですから。顧客のゴルフのスケジュール合わせから、公共料金の払い込みまでね、なんでもしなけりゃいけない。身体を使うだけで、益はあんまりないんですよ」
「へえ」
「しかもね最近さらに業務拡大とかで――なんだか僕ばっか喋ってますね、ははは――契約なしのフリー、まあ一般の人たちからの電話もうけなけりゃいけなくなっちゃんたですよ。ほら、CMとかでやってるでしょ、『なんでも聞いて!』てやつ。普通の人がちょっとしたことを聞きたいことって、ありますよね。『駅に向かってるんだけど終電間に合う?』とか『明日の天気は?』とか。そんなのをデータベースから引っ張ってきて、答えるんです」
「へえ、大変ですね」
「基本的に、『わからない』っていえないんでね、巧く情報引っ張れないと面倒ですね、確かに。客もいろいろいるから、「三角形の内角の和は?」とか聞いてくるやついるんですよ」
 彼女は笑った。
「いや、マジであるんですよ、そんなのが。ほんと、『なんでも相談室』なんですよね。まあ僕はけっこう長いんで、ほとんどフリーの客からの電話うけることないんですが」
「そういえば、聞きましたよ」彼女は言った。「小川さんはマネージャーなんですよね。頼りになる上司だっていう話を」
「いやあ、そんなことないです」僕は少し照れて言った。「要は現場の人間ですから。顧客が付くと、ずっとついて行かなきゃいけないしね、そういう仕事なんですよ」
「でも、すごいですね」
「いやあ」僕はさらに照れた。

 その日は一緒に食事をして、いくつかのアトラクションに入って遊び、最後に外に出て酒を少し飲んで別れた。わりに楽しかったし、彼女も楽しんでくれたろうと思った。




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 僕はまあ、確かに良い上司だと思う。その自信は、少しある。
 僕らは24時間体制で構えなければいけないので、常にある程度の人数を電話に出られる状態にしておかなければならない。彼女にはあのように言ったけど、僕らははっきりとした顧客、という形で付いているわけではない。客が個人のサポーターを選んで電話をかけるには、また別のプランに申し込んでもらう必要があるのだ。電話に出た誰もがその情報を引き出し客に伝え、情報を入力するためのシステムがある。そのため、24時間常に安定したサポートを供給することができるわけだ。
 僕が頼られることが多いのは、単純に「電話にでることが多い」という点だと思う。僕らは基本的に個人で電話を受ける。データベースにさえつながっていれば仕事ができるため、ある程度手慣れてきたサポーターはみんな出社せず、自宅で電話をうけるようになる。僕は眠るときと食事の時以外、たいてい待機中、電話がかかってくる状態にしている。風呂に入りながらだって電話はできるのだ。そのため僕は対応数も多いし、面倒な問題をうけたサポーターを助けたりすることもできる。
 僕には面倒な持病があるが、それもほとんど問題にならなくなった。はじめのころはストレスのせいか、頻繁に発作が起こったが、最近はまた安定し、週に1度程度になった。それも前触れ……というか前兆を感じることができるようになっている。きそうだな、と思ったらログオフして、発作をおこさせる。二時間前後で発作は去り、そのまま続けて電話をうけることができるようになる。不思議と発作は電話中や誰かと話している間にはおこらないので、今では特に不自由なところはない。弱い薬を定期的に飲んで、発作を無事に起こさせてしまえば、致命的になることはない、と先生も言ってくれた。

 僕は昨日のことを、妹に伝えようとメールを書き始めた。書き始めるとすぐに、メールの受信を端末が知らせた。
 僕はそれを見た。妹からだった。
 こういうことはよくあるんだよな、と僕はひとりで苦笑して、読み始めた。


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 兄さんへ。

 こちらは近頃寒くなってきました。そちらはどうですか?
 山を見上げるとひどく暗鬱だし特に夕暮れがすぎて夜が来るともうダメ、どうしょうもない気分になってしまいます。どうやら私がここを出ていけるのはまだまだ先なんだな、と感じます。私の部品のいくつかは壊れたまま、私もそのうちに若さも失ってしまいますね。それは悲しいことだと思います。そんなこと考えてるとちょっと冷静になれないかな、やっぱり。
 最近私はよく悲しくなります。すごくセンチメンタルで、ちょっとしたことで喋れなくなったり、泣いてしまったりします。ドクターには良いことだと言われるのだけど、私にはロクなものじゃないんです。こちらに来る前はそうじゃなかったのに。悲しさなんて私にはよくわからないものだったのに。でも今では、私の目の前にすぐに顔を出してしまうのです。青い色をした悲しみとか赤い色をした悲しみとか、そういうものがごちゃごちゃになって今日は赤と青が混ざって一緒になって現れたりするし、私にもそれが「ああ今日は赤と青がちょっと混ざった悲しみが私の前に現れたわ」とかわかるのだし。兄さんと同じものを見ていたときがすごく懐かしいのよ。こんなふうに言ってても、だいいち兄さんにはまったくわからないのだし、デカルトとカントの思考様式の違いくらい、兄さんには頭に入らないものでしかないんだものね。私にはこんなによくわかるのに。ねえ、ちょっとは私のいうことをわかってくれるようになった?
 ――手紙ばかり書いていてごめんなさい。なんだか私は悲しさにとらわれると手紙を書いてしまうみたい。手紙を書いてしまうともっと悲しくなるのだけど、それでもやっぱり書いてはっきりさせないと私にはどうにもなりません。なんだかものすごく疲れるのだけど、でもやらないといけない。いつか私は――ああ、ごめんなさい。もう言わないよ。
 でもいろいろ言わせてください、おにいちゃん。おにいちゃんくらいしか言う人がいないから。だから悲しくなったらまた手紙を書きます。それでもいい?でも書くよごめんね。悪い妹でごめんね。



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 はじめからさいごまで目を通して、僕はメールを書き始めた。

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 やあ、どうも。保だよ。

 実はこのまえ、前から話していた彼女、ほら、僕に女の子を紹介してくれる、って話をしただろう?その彼女と、ついに会って来たよ。デートだぜデート!

 初めて顔を見たのだけど、とても綺麗な女性だった。丸い顔で、長い髪の毛で、白いシャツにあんまり短くないスカートを履いてた。写真くらい見せてもらえばよかったけど、やっぱり見ない方が会ったときの驚きが大きくて良かったな!とにかく十二分に可愛い女の子だったんだ。
 それほど僕のことも嫌ってなかったと思う。そういえば言ってなかったけど、歯医者で七万円かけてティース・ブリーチングをしてきたんだ。もう煙草も吸ってないからこれで僕はずっと白い歯で一生を終えられるって話だぜ。フェイスパックもしたし、髪の毛も三十分くらいかけて整えたし、なにしろ買ったばかりのVansのスニーカーとグレーのジャケットを着ていったんだからね!

 もっといろいろ彼女のことを話したいな――職業とかは、忘れた。僕にはよくわからない職業だった、としか覚えてないかな。でも僕とズレない職業だってのは覚えてるし、なにしろ僕と歩いていてもぴったりくるんだよ。ジャスト15cmに近かったと思う、僕との身長差のことだけどね。なんだか、完璧に似合ってるような気がしてきたよ、僕ら……

 実はまだ、次に会う約束はしてないんだけど、どう誘ったらいいか、今考えてる。僕の会社の先輩のから聞いた話だと、彼の上司で二回目会って結婚を決めてしまった人がいるらしいんだ。まあ僕がそう早く結婚するわけではないんだけどさ……まあ、ゆっくり会って考えるよ、僕は。だから映画を見たりショッピングをしたりしようと、考えてる。良い映画がなければ退屈してしまうから、街歩きで楽しむことになるかなあ。
 じゃあまた、報告するよ。



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 僕は仕事をはじめた。
 まず端末を立ち上げ、会社のデータベースにログインし、チームメンバーの状況を確認する。僕のログインと同時にレギュラーの何人かが僕のチームに割り振られる。八人が僕と繋がった。全員、一度以上僕と繋がったことがある人たちで、特に問題があると思われる人はいない。データベースの更新ログを読み、主立った変更がないことを確認すると、端末上のスイッチを押し、受信待ち状態にする。僕の場合はヘッドセットを装着するのと同時に通常タイプの電話も使うことにしている。チームメンバーからの連絡や会社からの連絡はこちらでうける。ソフトでヘッドセットの会話を切り替えるよりも、こちらのほうが具体的に切り替えられるし、同時に繋がることもできるのがとても便利だと思う。会社では推奨されていないのだけど。
 すぐに一件、電話が入ってきた。コードとパスを告げられ確認する。新潟にある書店の社長で、日販の営業の方にアポイントメントをとっておいて欲しい、ということだった。使える時間、場所、をメモし、データベースに登録、以降は電話連絡、と話を聞いて、電話を切る。以前にも頼まれたことがあるので営業の方のデータも残っていた。そちらに電話をする。すぐに本人が出た。こちらの名を名乗り、 用件を伝える。すんなりと話が通った。丁寧に電話を切り、すぐに折り返し電話をする。お客様が出て、向うが了解してくれたことを連絡、用件は以上、ということだった。サービスのお礼を言い、電話を切った。手作業でデータを登録し、送信して、一件終了。
 次の電話は福岡の国立大学の助教授だった。このお客様は僕の専門担当で、僕以外のものが電話にでることはない。僕は比較的学校関係者が多いようだった。用件は、資料の収集と整理で、向こうは探して欲しい資料を読み上げ、こちらは箇条書きでそれをメモする。

・**大学経済学部**さんの論文すべて(大学データベースとマガジン)
・株式会社**と**、**、**、**、の1985年から2005年までの大まかな状況と各社の労組活動状況の(経団連データベースと各地域総評、各ホームページやその他雑多な資料も見つかるだけ)
・1986年発売コンピュータ・ゲーム、「ファミリースタジアム」のTチーム、各選手データ。

 電話を切り、電話を調査中にしておいて、それぞれの資料を集めた。資料を集めるのもコツがあり、それを身につけてる人が好まれ、担当にされているようだ。こちらはどのように資料を探したかも先方にお伝えしなければいけないので、雑に行うことはできない。このお客様は思いついたような適当な注文を毎回最後に追加される変わった方で、結構大変なのだ。巧くデータは見つからなかったが、幸い、個人的にこのゲームを手元にもっていたため、アナライズプログラムを見つけ、それに放り込み、データをピックアップすることができた。すべての仕事が完了するまでに、二時間近くがかかった。間に一つメンバーからヘルプが入り、答えたりもした。
 それをまとめ、送信する。データベースに登録する間に、お客様からメールが来た。


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 依頼していたもの、受け取りました。ありがとうございます。
 小川さんの時間、手際、結果にはいつも満足してます。



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 僕は少しうれしくなる。だけど喜び過ぎても行けない、と気をひきしめる。余分な検索が5つ6つあったし、もっと巧く素早くまとめることだって出来たかもしれないのだ。