バーキング・オン,ラビット 古沼はオールドスタイルで僕を待っていた。 薄手の生地を何枚か重ねたスカートは、少し動いただけで大げさに揺れる。白を基調にしたカーディガンを羽織り、店内だというのに大きなつばのついた帽子をかぶっていた。僕を見て、古沼は軽く微笑んだ。なにも伝えない種類のほほえみは、僕にアニメのキャラクターを連想させる。非現実的にすぎるのだ。 それを見て、僕は古沼静香のことを思い出した。彼女は目がくらむような非現実性であり、彼女自身はありとあらゆる極端なところにいる。そういう人なのだ。 僕は彼女の隣まで歩き、座った。アルコールは欲しくなかったが、ジントニックを頼んだ。 「お久しぶりですね、小川さん」 彼女は僕に言った。 「そうですね」 僕は言った。 「最近はなにをしているのですか?」 僕は考えながら口を開いた。1センテンスごとに間が開く。奇妙なことに、古沼の顔を見ていると言葉にまとまるのに時間がかかるのだ。 「今は電話応対業をしています。もう数年になりますね。おかげさまでそれなりに出世したし……まあ生活も安定してきました。この年にしてやっと、です」 古沼は話を聞く体制を変えなかった。僕は流れで、そのまましゃべり続けた。「――手紙にあった、用とは、なんでしょう?」 「あら、話が急ぎですのね」 「――なんだか、緊張しているみたいだな、僕」 笑おうとしたが、うまく笑えなかった。彼女はずっと、僕の顔を見たままで、僕はほとんど彼女の顔を見ていない。 「それじゃあ、少し私がしゃべろうかしら。しばらく、私の話を聞いていてくださる?それなら、緊張していても大丈夫ですし、その間にあなたも私に話す言葉を思いつくはずです」 「そう――」 古沼という極端さは、あまりに僕と異なった場所にいた。話し口は気取っていて、それでいて不自然なほど流暢だった。昔から、知り合った頃からこういうしゃべり方をする人間だと知っていたら、こうも僕は慌てることはなかっただろう、自分の言葉をもって彼女に接することができたはずだ。 僕の知っている古沼は、こんなしゃべりかたをする女ではなかった。彼女はいつも、極端にすぎる。僕の理解を超えている。 「そうですね――とは言えなにから話すのが良いか、うまく思いつきませんね」 古沼は話し始める。 「履歴書のように話すと、私は秘書を辞めた後、しばらく働いてはいません。両親に食べさせてもらっているのです。家には私一人を養うだけの余裕があるようで、特に重圧を感じることなく、今までやってこれています。私としても、そのような身でいるのはあまり苦ではありません。職業というのは確かに生活の規範となるものですが、それ以外のことをベースにやっていくこともできる、そのような生活は理解していただける、と期待してもよいですよね?――」 僕は頷いた。 「たとえば、遊びとか。恋人とか。とはいえ、私はそれほど器用な人間ではありませんから、そう生活の規範を変えることもできません。そう、小さかった学生の頃から変わっていません。私は目の前の目標を定め、そしてそれを解決しようと努力し、それが納得するとまた新しい目標を定める。それの繰り返しでここまでずっとやってきています。特に揺らぐことはなかったですわ。そうですね、考えてみるとこの年になるまで。これは私がたぐいまれな不器用さでやってきていることの証になるでしょうね。 そうやって私はいくつかの目標をクリアしていきました――年間にして、2つ、3つ、という感じでしょうか。もちろん、なかなか思い通りにいかないこともありましたし、予想外のことが障害になりました。しかし、生活のベースを問題解決に当てている以上は、いつかはクリアされるものです。そのようなことも――あなたにならおわかりでしょう。解かれない問題とは、解く意志がないから、解かれないのです。そうして身につけてきたものは、今では私の財産となっています。数年前にあなたとお会いした頃から、私はいくつか成長している点があることはおわかりでしょうか?また、少なくともいささかの自尊心としてあなたの前に現れていることをおわかりでしょうか。もちろん、これは完全なものではありませんし、いくつかの点では完全に謙虚にしていることもありますが。ただ、私たちはそうやって生きてきています。それ以外のことでは、私たちは生きていくことさえできませんよね…… 小川さんの感じてらっしゃる違和感のようなものをいくつか解きほぐせればいいと思って、今、私は話しています。どうですか?」 僕は無言で首をふる。 「今私のテーマはジャーナリスティックなコミュニケーション、ということです。いかにして適切に物事を伝えるか?それはいかなる物事を通じて伝えるべきか?また、伝えるべきものはなにか?伝えるためにはどのような姿勢でいるべきか?など、言葉にするとそういうことです。並べるとどうも陳腐ですね、モデルとして70年代後半から80年代前半にかけての女性アイドルを浮かべていただく方が適切だし、まだ陳腐化は避けられるでしょうか」 話は大まかにしかわからなかったが、とにかく僕は頷く。それをみた古沼は笑った。 「やはり私ばかり話していては退屈されてしまうでしょう。そろそろテーブルトークをする土壌はできたでしょうか?小川さん」 「一つ聞いていいかな」僕は言った。 「はい」 「両親とは仲良くやってますか?」 古沼はびっくりしたように目を大きく見開いた。 「質問に答える前に――いいかしら?」 僕は古沼の目を見ずに頷いた。 「あなたがそういう話し方をなされるだろうことは想像していましたが――やはりこうして直接向き合って言われると、少し驚きます」 もう一度、頷く。 「そうですね、表向きは非常に穏やかに暮らしています。言い争うこともないし、ご飯も一緒に食べますし。ただ、心の交流というものは、あまりないように思います。あの方々は、私を理解するには多少教養が足りないようですし、私も強いてお二人には教養を得て欲しいと望んでいませんから。私のことは私のこと、お二人のことはお二人のことと生活は分かれています。そういう意味では、私のほうから両親を理解することも、もうできないことです」 「ご両親はあなたに結婚か――それかどこかに働くことを望んでいると思う」 「たぶんそうでしょうね。しかし、私にはお二人の期待に応えることはできません」 古沼は応えた。「ただ、その関係のどこにいびつな点があるでしょうか?私たちはそのようにお互いの期待を裏切りあうことで、ここまでやってきています。あの方々にとって、私は異人だし、私にとっても同じ。それでいて同居し、お互いの場所をシェアすることによって、成り立っています。私は、どこにも不自然さを感じませんし、またそれを問題として提起されようにも、注意を向けることができません」 「あなたを責めるつもりはありません」僕は言った。たしかに、彼女の話を聞いているというべきことを思いついていく。「僕の言葉は、僕の意見です。それをあなたがうけとろうと、同意しようがしまいが、僕には関係がない、強いて同調してもらいたいとは思わない」 「では、なぜ口にしたのですか?」 「ただ、そう思ったからです」 僕は言った。 「あなたのお話はとてもよく理解できますわ」古沼は言った。「煙草を吸っていいでしょうか?」 僕は頷いた。ゆっくりとした動作で彼女は煙草をとりだし、僕は視線をはずした。火をつけ、煙を小さく吹きだし、それから彼女は口を開いた。 「私はそれでも、あなたにはある程度私を理解していただきたいと願っているのです。ここに呼んだ用件の主要なものの一つは、私たちはわかりあう必要がある、ということですの」 そういえば昔もそんなことを言っていたな、と思い出した。 立ち位置が変わっても、かつてと同じことを言っているということなのだろうか。しかしそれはもう全然違ったもののように思える。 「それをもって私たち――いえ、とりあえず今は私だけ、と限定してもかまいません。大きく変革させる可能性を持ったラング・コードを読むことが必要なのです。私一人のこととしても、あなたの力が私には必要なのです。私はあなたにそれを読んでいただきたいと思ってるのです」 「ラング・コード?」 「はい」古沼は言った。「数年前と言っていることは全く一緒です。思い出していただきましたか?ラング・コードです。神田良輔が私たちに残した、私たちに必要であり十分であるもの」 僕はしばらく考えた。昔のことを考えると、それはごちゃごちゃしたものがぎゅっとまとめられた小さな固まりとしか思い出せなかった。なにも浮かんでは来ない。美しくも楽しくもない。 「あなたの元にそのソースコードを送っておきました」古沼は言った。「厳密に言えばこれはソースコードではなく、言語としてつながりを読むことができません。特殊なアーカイヴとしてのみ、私の手元に残ってました。これは、神田がそれを読み込ませまいとしたせいです」 「待ってください、僕にはプログラムのことなんてわかりませんよ」 「プログラムではありません。言語です」古沼はきっぱりと言った。 「コンピュータ的に言えば、これはどんなシステム上でも動かないプログラムです。原理的にオペレーションシステムとほぼ同等のものでありながら、プラットフォームを必要とします。ただ、あるメジャーなシステムの上で実行すると、一部分のみを利用した反応が返ります。数百語のみに対応した日本語−英語の翻訳機能です。これがどういうことか、おわかりになりますか?」 「さっぱり」 「日本語のある言葉が、理解できないブラックボックスを通って英語となって出力されるということです。日本語で言った言葉が、英語になって返ってくる、ということです。デジタルな一貫性を持って」 僕は黙っていた。 「――つまり、AIを積んだ言語変換システムを、神田は完成させたのです。この部分にのみ注目したとしても、市場効果は莫大なものになり得るでしょう。文字の一つ一つを当てはめるだけで応用が可能なシステムは、技術的にすべての翻訳ソフトに組み込むことが可能です」 「可能なんですか?」 「可能です。神田は純粋にプログラム言語のみを使ってこのソフトを組んだのですから、日本語を除く言語同士の翻訳も問題になりません。拡大を続けていけば、最終的に各言語間の差は撤廃されます。マイクロソフト社のオペレーションシステムの世界統一に似ており、さらに追随者は今のところ存在しません」 「大変な話だ」 「ええ」 「しかし、どうしてそれを僕に話す?」 「まず、第一に」古沼は言った。「ラング・コードのことを知っているのは私とあなただけです」 「――そうなんですか?」 「はい。神田は完全に一人でこのプログラムに取り組みました。独自に彼はプログラムの組み方を覚えたし、それ以外に有効に機能するプログラムを一つも組んでいません。話し合うべき友人も一人も持たなかった。彼の周りにいたのは学校のともだちにバイトともだち、麻雀ともだち、それに私とあなただけです」 「もっと有力な、たとえば学校とか企業とかに持ち込んでみれば」 「公的に言えばこのプログラムの権利はすべて神田良輔個人に帰します。私にはこれをどうこうすることはできません」古沼は言った。「それに、私はこのプログラムの社会的な展開には興味がありません。各国言語間のポテンシャルの差を楽しむことも、私の性にはあわないと判断しました」 「どういうことですか?」 「私はこのプログラムを読み込むことに興味があります」 「読み込む?」 「対話することです」古沼は言った。「言語の本質を理解することです」 そう言って古沼は口を閉じた。 煙草がほとんど形を崩さずに灰になっていた。今まで僕の顔を見続けていた古沼はやや視線を逸らし、口元をひきしめている。かえって僕に喋っていた時よりも僕を意識しているように思えた。僕は変わらず視界の端に彼女の顔を捕らえ続けている。 「神田はどうしたんですか?」 「わかりません」古沼は言った。 「死んだ?」 「消えてしまったのです」 古沼は言った。 僕が喋る順番なのだ、と気がついた。 「正直言って、うまく理解できないところがあります」僕は言った。「単純に、あなたの話としてだけ考えてもよくわからないことがある。あなたが僕をどう理解しているのかがわからないことが中心です。僕に、神田の残したプログラムをどうして欲しい?プログラムの勉強を一からはじめて、あなたの助手のような役割をすることを望んでいるのですか?」 「そういうことではありません」古沼は顔をあげて言う。「私たちはあくまで対等です」 「僕はあなたと対等でいられるとは思えないし、それに、僕がそのプログラムに熱意をもてるとも思えない」 「確かに、私が持っているのは一方的な期待です」古沼は言った。「でも、私が理解している限りのあなたは、そういうことを期待される人だったはず。そのことはわかっていただきたいのです」 「――わかりません」僕は言った。 「あなたは今の仕事に満足されているのですか?あなたは、電話がかかってくるのを待ち、それに技術を持って応えることをこれからもし続けるおつもりですか?」 「どういうことですか?」 「生活とは、求め、追いかけるものではないでしょうか?シーク&ファインドを繰り返し、そしていろいろなものを身につけていく、そういうことをし続けることをこそ、あなたは望んでいたはずではないでしょうか?――私の話は、神田のラング・コードはあなたのなにかに触れませんでしたか?あなたを焦らせてやきもきさせて、くやしかったり馬鹿にしてやりたかったりおもわなかったのですか?偶然出会った女の子を抱え込んでいくことを、あなたはこれからも望むのですか?」 「あなたはなにを知っているんだ?」 言いながら、僕は仕事のことを考え、知り合った彼女のことを考えさせられていた。僕の生活。 「今日はもう返ろうと思いますわ。また手紙を出します。少し時間をおいて考えていただきたいです」 古沼は立ち上がった。ハンドバックを持ち、歩き出す。 僕が言葉を考えているうちに、彼女は階段を上り、扉の向こうに消えていった。 |