バーキング・オン,ラビット


<7>

神田 良輔












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 深夜過ぎに僕の電話が鳴った。
 僕はたまたま寝付けずに本を読んでいた。いつもの僕なら眠っていたところだ。
「あ、えーと」
「どうしたの?」
 僕の彼女だった。
「もしもし。起きてました?」
「起きてたよ。たまたま」
「ああ……よかった。迷惑じゃない?」
「大丈夫だよ」
 僕は本を閉じて、起きあがった。
 退屈な小説の空気が入れ替わる。


 おととい、会社から転勤の話をもちかけられちゃって、どうしたらいいかわからない。
 と彼女は言った。
 名古屋に新しい支社を造ることになった。うちの会社は全国規模で展開していたのだけど、関東の営業を縮小することになった。だから関東ではごく少人数のチームだけしか残されず、派遣はすべて首を切られた。自分は古株だし、社員となって長いので残ることも出来るかもしれないが、直属の上司が名古屋の一部門(関東の顧客管理部のひとつ)を任されるから、できればついてきてほしいと頼まれた。
 給料はあがるし、役職もつく。実質的に昇格だと思う。関東に残っても、仕事内容が全然変わってしまうし、まったく一から始めなければいけない。仕事続けるなら異動したほうがいいのは明確だ。でも会社に長くいるつもりもなく、それほど仕事に依存した生活をしていたわけでもない。生活が変わってしまうのが不安だ。
 どうしたらいいかまるで見当がつかない。

「へえ……いい話ではあるね」
 僕は言った。
「ねえ、あなたはどう思う?」
「驚いてる――まだうまく想像できないよ」
「でしょう?私もうまく想像できないの」と彼女は言った。
「このままずっと同じ生活が続くのかと思ってたんだけど――ううん、そうじゃないな、思ってもみなかったっていうのが合ってるかな、自分が違う生活することとか、あんまり考えたことがなかった、そういうことを考えるのが苦手なんだと思う、昔から。入学式とかすごく緊張するタイプだった。できればあんまりそういうのはない方がよかった、そういうふうな変化する生活って私はうまく馴染まない、なるべく同じことだけやってる生活が私には似合ってると思うのに、なんでこういうことになってるのかわからないの」
 正直に言って、僕にもわからなかった。
「時間をおいて考える必要があると思うよ」僕は言った。「考えたいならつきあうよ」
 彼女は少し考えた。
「うん、今度会って、相談にのってくれる?」
「もちろん。電話でもいいよ」
「なんか――もう考えるのも疲れてるの。もう考えたくない」
「わかった。今度会ったときに考えよう」
「ああ、本当にもう考えたくない。あなたが決めてよ」
「そういうわけにも」と言って、僕は一呼吸置いてしまった。「いかないだろ」
「わかってるよ」彼女は言った。



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 僕の問題として考えなければ少しは簡単になる。
 仕事について想像する。その生活は仕事が変わらない以上、あまり変わらないだろう。上司も同じだし業務も同じだ。一緒に連れて行きたい、と言われてる以上、上司との関係も悪いわけではない。彼女も不満はない、と僕に言った。仕事するだけなら、望ましいのだ。
 問題は生活が変わることだ。住居が新しくなる。一人暮らしをすることも、彼女にとっては初めてのことだ。今まではその必要がなかった。必要がなければ考えることもない。彼女にとって一人暮らしとはどういうことなんだろうか――それは僕にはわからない。話を聞くことがあるとしたらそこだろう。
 そしてその想像を煮詰めていく。その生活が楽しそうなものであり、期待できるようなことなら異動すればいい。不安で、大がかりな恐怖になって襲いかかられるようなら、この話はなかったことにする、改めて仕事を覚えなければならないが、そちらはいくぶん、想像がつきやすくプレッシャーがかからないし、それに気に入らなければまた職を変えればすむことだ。

 もちろん、ここでは僕のことは考えていない。
 彼女が住所を変え会えなくなってしまうのは悲しい。
 でも僕が引き留めることは出来ないように思う。僕は彼女の仕事について、あまり深くつっこみたくはない。彼女のプライドや人生にも関わることだ。あくまで彼女は、彼女の問題として考えるべきだ。
 それしかないように、僕には思える。



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 翌日また深夜に電話がなった。眠りかけていたところだった。部屋の明かりをつけ、受話器をとる。
「もしもし――私古沼です。夜分申し訳ありません」
「はい――小川です」
 彼女かと思っていたので、少し反応が遅れる。
 古沼静香だ。古沼。ラングコード。
「実はちょっとした成果があったので失礼ながら、このような時間に電話させていただきました。よろしいでしょうか?」
 記憶と違った印象を持った。彼女の口調は一定じゃないのだ。
「なんでしょう」
「では手短に話します。お時間は大丈夫ですか?」
「はい」
「私本日、神田良輔の実家に行って参りました」
 彼女は冷静な口調で話し始める。
 僕は部屋の電気を消した。ほとんど無意識的にそうした。
「彼の古くからの友人だとお話すると、お母様は特に疑いもせずに私を招いてくれました。彼は都内の学校に入ってから、ほとんど実家の方には帰っておらず、もちろん現在もそちらにいる様子はありません。私は歓待されました。神田のお話を、少しでも聞きたがっている様子で、こちらが恐縮してしまったほどです。私も彼の情報を集めるのが目的ですので、いろいろとお互い尋ねることに事欠きません。
 現在の神田の様子については、私と同じ程度の情報しか持っていませんでした。そちらはあまり期待していなかったので、特に落胆することもありません。お互いの間で交わされたのは、主に印象的なことになりました。都内で彼はどんな生活をしていたのか、お母様はほとんど知らなかったようです。その頃から、彼はいっさい没交渉であり、とても心配している様子がわかりました。私がみてきたままをお話するだけで、大きな反応を返してくれました。
 私は彼がどのようなものに影響を受けたか、どんなふうにして育ってきたかをお聞きしました。でも成果ははかばかしくありませんでした。お母様は愛情を持って神田をお育てになられたようでしたが、実際的なことに目が向いていて性質的なことには興味を持たれなかったようです。神田も――想像していたとおり――家庭に対して理解を望むようではありませんでした。しかし、それが確認できただけでも良かったと思っています。
 お母様は私を彼の部屋に案内してくれました。期待していたとはいえ、期待以上に事が運び私はうれしく思いました。本やCD、レコードの類が見つかればそれは貴重なデータになります。」
 僕は適当に相づちをうつ。
 暗闇の中、彼女の声だけが響く。
「彼の部屋は彼がこの部屋を出て行った時のままに置かれていました。時折手を入れ掃除をされていたようで、非常に清潔でしたし、それにとてもきちんと整頓されておりました。
 神田の持ち物一つ一つは大切に、愛情を持って保管されていました。いつ神田が戻っても、昔のまま、すぐに帰ってこられるように、という配慮です。その愛情の深さを感じるとともに、その部屋の空気の濃密さには行き詰まるようでした。情報が、あまりにも多重にすぎたのです。
 お母様は私を――かつての恋人が、思い出に浸りに来た、と考えたようでした。それにお話した際に非常に信頼をしていただいたようです。私が神田のものに囲まれた部屋で、落ち着かずにいるのをみて、私を置いて部屋から出られました。私は一人で、神田の部屋に残されました。
 私はすぐに神田の机に向かいました。よくあるタイプの学習机の上には端末が乗っていたからです。
 神田や私たちの世代は――小川様も同じですね。ネットワークにつながらない端末を持っていることが多くありました。ゲームや音楽、ちょっとしたプログラムなど、ホビーユースに使われています。神田も、そうした用途に使っていたに違いありません。
 PCは起動することができました。
 そこは彼自身の資産の宝庫でした。音楽データやグラフィックデータ、テキストが多く残っていました。私は指をふるわせながら、それらの一つ一つを追っていきました。
 わかったことは――彼はやはり、多くのことをPCでこなす少年だった、ということでした。PCは当時としては高価な機材が使われており、そのデータを見る限りでは、資金も時間も多く使われていたようでした。モデムは見つかりませんでした。廃棄されたということもないでしょう、ネットワークやはり利用していなかった、ということは、彼は一人で、この端末に多くの時間を使っていたということがわかります。
 外部音源があり、音楽データがありました。256Mのメモリと、スキャナ、タブレットはCGも手がけていたことを意味します。そしてさらに、親指シフトキーボードまでが使われていたのです。
 この豊富なデータを、私は保管することを考えました。ネットワークにはつながっていないし、接続されてる記憶デバイスはフロッピードライヴだけ、とても収まるものではありません。一度大型電気店にいくことも考えましたが、私にはまちきれませんでした。
 私はマシンを分解しハードディスクだけ持ち帰ることを選びました。幸い私はドライバーを持っていましたので、お母様がそばにいないことを確認し、すぐにマシンカバーをはずし始めました」
「分解したのですか?」僕は尋ねた。
「はい」
「――よくドライバーなんか持ってましたね」
「私の鞄の中にはいろいろなものが入っているのです――10分ほどで作業は終わりましたし、ハードディスクだけでしたら持ち運びも苦労はしません。それになにより、これは直接神田が手をかけて作成したものなのです。神田の経歴を探る際、これほどはっきりしたものがあるでしょうか?」
「そうですね」
「私はそのことをお母様には告げず、そそくさと神田の家を引き上げました。
 私の端末に繋げることを急ぎました。古いタイプでしたし、私の知識不足もあってなかなかうまくいきませんでしたが、ようやく今データとして取り扱うことができました。端末とレンタルサーバに保管も完了し、これでもう失われることはありません。これから時間をかけて研究することができます」
 僕はまた相づちをうつ。
「この神田のデータに関して言えば、中途半端なものがあまりにも少ない、ということがあります。制作途中のものや手当たり次第に作ったもの、など、未完成のままになっているものはほとんど消去されているのです。おそらく神田が家からでる際に、そのような処理をしたのでしょう。まるで、私のような外部の人間がみることを予想していたように、整然としたデータ集になっておりました。
 おかげでテキストデータも、直接的な雑記のようなものはなにも残されていませんでした。あったのは、一括りの連作小説のようなものだけでした」
「小説ですか?」
「はい」
「神田は小説を書いていたのですか?」
「小説も書きましたし、作曲もしています。絵も描いています。もちろんプログラムも作っておりました」

「はあ」
「小川様もそれらに興味がおありかと思いますが、いかがでしょうか?」
「そうですね――ぜひ見てみたい」僕は言った。
「ではミラーサイトのアドレスをご案内します。ほとんどの手段でアクセスできるはずです。ぜひごらんになってください」
「そうですね――お願いします」
「なにか思うことがありましたら、いろいろ教えていただきたいと思っております。よろしくお願いします」
「はい」
 そして電話が切れた。



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 暗闇の中起き出し、端末のスイッチを入れた。
 古沼からメッセージが届いており、それにアドレスは記載されていた。すぐにそれを開く。
 画像データにまず注目した。小さい画像がほとんどで、僕はそれらをすべて端末に落とし、一覧表示させた。そして順繰りに拡大しモニターのぎりぎりまで拡大する。

 神田の書いた絵はよくあるコンピュータグラフィックであり、そこに新しい発見はなかった。少なくとも僕の方が技量的には上の絵をかける――いや、それは当時のマシンスペックのせいかもしれない。CGの概念からして違うのだ。当時はドット処理を施された物が優れたCGだった。今ではソフトがそれを行う。あまり考えられることがない。
 次々に展開させていく。
 神田は僕と会った頃は絵を描いてはいなかった。少なくとも、僕とそのような話をしたことがない。
 それらの絵には確かに達成感が感じられなかった。モノクロで書かれた自画像があり、アニメ風の女の子があり、一本の木が書かれたりしていた。それらは途中で投げ出されたような印象さえある。時間はかけられており、綿密に作られているのだが、次への課程が存在するのだ。そしてそれらは残されたまま、書かれていない。
 その画像をモニターから消した時には、なにかやるせなさが広がった。一人の友人として、その作品群を眺める気が萎えるのを感じる。それらは披露されるべきものではなく、また友人が見るべきものでもないのだ。
 古沼がこれらを――わざわざマシンを分解してまで――持ちだしたことに、多少のいらだちすら覚えた。眠らせておくべきなのだ。これは見なくてもいいものなのだ。
 そしてそう思う一方で――僕は次の神田のファイルを開いていた。開かずにはいられなかった。のぞき見ているような不愉快さがあったが、それでも。
 テキストファイルは一つしか存在しなかった。僕はそれを開いた。