バーキング・オン,ラビット






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神田 良輔













 ここでの暮らしは快適だった。
 適当な時間に眠りにつき、自然のままに目を覚ます。課せられたレッスンは緊張感のかけらもないし、第一、レッスンのノルマ自体もものすごく楽だ。たったの12時間、40時間とかではない。なんとなく丸一日眠って過ごすこともなんの躊躇も要らない。気の向くままに女を買ったりふらふらしたり出来る。
 そうこうしているうちに数日が過ぎていった。レッスンをこなしていく度に、僕はこの街に受け入れられていくのを感じていた。どのようなものであっても、なにかを積み重ねていく生活は安定するようだ。
 女子高生が僕を訪ねてきた。
「カンダ様。おめでとうございます」と彼女は言った。「あなたは必要な研修をすべてこなしました。あなたは名前を名乗り、この街の住人として生活していくことが許されました」
「名前はどのようにして決めるのですか?」
「あなた自身で、自分に与えてください。その名前が決定するのと同時に、この街の中央で認可され、名前に応じた職が与えられます」
「どのような名前でもかまわない?」
「ええ。まったくの自由です。日本語でなくても、固有名詞でも形容詞でも感嘆詞でも。文の一節でもかまわないし、記号でもかまいません。原則的に、自由です」
「自由であっても、名前は定められなければならないのですね」
「そうです」と言って女子高生は笑った。知的ななにかを挑発したみたいだ。「定められるということでは強制されています。存在が強制されるならば、名前は存在しなければならない」
 僕は腕を組み、しばらく考えてみた。なかなか思いつきそうにない。
「少し、時間をいただけますか?」
「けっこうです。48時間以内に決めてください」
「48時間以内ですか?」
「できれば。ちょっと事務的にややこしくなるので」
「わかりました」
女子高生は去っていった。






 ウサギの耳をつけた娼婦の名前を僕は聞いていなかった。
「あんたの名前は?」
 彼女にたずねてみた。
「ああごめんなさい。ドリンクをきらしてしまっているわ。コーヒーしか残っていない」彼女は僕に背を向けて言った。「あなたはいつもお茶よね。アルコールは飲まないし、コーヒーも好きじゃない。そうよね?ごめんなさい、コーヒーで我慢していただくしかないわ。ミルクをたっぷり入れるから、これで間に合わせていただける?飲みたくなかったら置いておけばいいわ」
 息をつかせずに話しつづける彼女を見るのは初めてだった。 彼女は僕に背を向けてゆっくりと時間を使って、彼女はコーヒーを作った。
「ビールはある?」
「あら珍しい。飲めないんじゃなかったのね。ええ、だったら用意できるわ」
「たまには飲むよ」
「いつもはどうして飲まないの?」
「あんまり好きじゃないから」
 グラスを二つ持って、彼女は僕の脇に座った。ビールのグラスを手に取り、彼女のグラスと合わせる。
「あんたは飲まない?」
「飲めないの。私はコーヒー」
「名前を聞いちゃいけないかな?」
「そんなことより、セックスしない?」
 彼女はグラスをそのまま置き、足を僕のひざに絡ませる。
 肌のやわらかさが感じられた。誘うしぐさを見せる彼女は彼女の新しい一面だった。
 彼女の肩紐をはずし、胸をこぼれさせた。片手で押さえるとものすごく柔らかくて、思わず力を入れて掴むと指の間から桃色の乳首がぐにゃりとひしゃげて彼女は小さな吐息を漏らした。
 手を離して立ち上がり、この部屋の明かりを消した。この部屋には何度も入っているから、スィッチのことくらいわかる。






「名前ですか?」
「はい。少し決めかねています」
 ようやく詩人を会話場で捕まえることができた。数時間の間彼を探していたのだ。
「僕にはどのような名前が似合うでしょうか?」
 一瞬目の焦点を宙にあわせてから、僕の顔に視点を移す。それが詩人の癖のようだった。
「詩と名前とは、決定的に異なる点があります」詩人はゆっくりとしゃべり始めた。
「一般に誤解されているようですが、詩とは公共に向かって開かれている言葉です。
 言葉というのは関係性の中のみに存在して、決して形があったり重さを量れたりするものではありません。言葉というのは、話し手と聞き手の二つが存在する必要があります。原則的に、です。これは必要条件なのです。この二つの間にある、ということがあって初めて、さまざまな属性がその言葉にも与えられるのです。
 ひとつの例を出しましょう。二人の人間が往来でばったり顔を会わせます。その二人は出会いの挨拶を交わし、お互いを了解し合い、お互いでそのことを確認することができた。そういう場面を想像してください。
 そして挨拶の後、一人は『イシ』と言った、とします。
 瞬間、それを聞いた相手はありふれた形でない言葉に困惑するでしょう。唐突です。『イシ』。『ici』『意思』。
 その後『イシ』と言った方はなにもフォローせず、聞き手がその言葉の意味を受け取ってくれることを、待っている。聞き手は意味を知ろうと、彼の内側に入らなければならない。
『日本語以外の言葉と日本語を使った言葉遊びであろうか?』
『出会った人に「イシ」という言葉を聞かせてどういう反応が返ってくるかを実証的に試しているのだろうか?』
 ――そして、もうひとつ別のパターンを想像していただきます。この場合、話し手は『イヌ』と言ったとします。
 聞き手は単語でしか発語しない話し手を多少不可思議に思いながら、それでも彼の意図をすぐに推測できます。話し手との間には、聞き手が飼っている犬の話を何度もしたことがありました。話し手は聞き手が飼う犬について興味を持つようであり、もちろん聞き手も自分が飼っている犬について話すことは喜びでもあります。この場合は、聞き手は『ああ、今日も私は犬と一緒に散歩をしてきましたよ。今日は大通りを渡って中学校のそばまで足を運びました』とか、応えたりできるでしょう。
 前者のパターンが名前です。後者のパターンが詩です。
 詩は話し手−聞き手の間において、聞き手側のほうに開かれなければなりません。これは詩が望むことであり、存在する意義です。詩は聞き手側に受け入れられるような形で存在しなければならない、そのための技巧をみつけ、発展させること、それが詩があるべき理由のすべてです。
 対して名前とは、話し手の側に開かれた言葉です。前者のパターンのように、『イシ』の意味が明確でない場合、聞き手は話し手の背景を想像し、二人の間に共通するデータがないときは多くを類推によって開かれねばなりません。話し手がどういう意図を持っているか、聞き手が多くの手間と意識を使わなければ、コミュニケーションは失敗に終わります。なぜ、このようなリスクの大きい言葉をしゃべらなければならないかというと、話し手の方が『伝えなければいけない』という使命感を持っているからです。
 これらは無論、極端な色分けに過ぎません。実際の『名前』と『詩』はこの二つのパターンの両面を持ち、それらを使いわけながらコミュニケーションの達成をもくろんでいます。しかし、名前‐詩がもつ差異を拡張させる、という目的からは誤りではないでしょう。
 話が長くなってしまいました――ようするに、詩は名前のもつ役割とは別のことを果たそうとしているわけです。詩は聞き手に対して細分化し、奥行きを持たせるための言葉。名前は、話し手が自分自身の必要に応じて話される言葉で、極端に言えば、聞き手は誰であろうとかまわないのです。
 私は、詩人です。聞き手にはあざやかな彩りが次々に煌き、それらをもって魅惑させることを望みます。名前が望むこととは、また違うのです。
 私は力になれません」






 一日に2度目の訪問をしたため、彼女は多少驚いているようだった。
 セックスを終えた男の再びの訪問の意味を察したのか、彼女は今度はなにも言わずに飲み物を作った。
 グラスを並べる。どちらもビールが入っている。僕はひとつを手に取り、彼女のグラスとあわせた。
「この耳を見ると、あんたが本当にステキな女性だということがわかるんだよ」と僕は言った。
「ウサギの耳があんたにはとてもよく似合ってる。
 はじめは少し奇妙に見えた。どこかおかしい女なのかもと思った。でも、そうじゃない、あんたは、より綺麗になろうとして、この耳をつけたんだ、ってわかったんだ。普通の耳だけじゃたどり着けない綺麗さを、ウサギの耳をつけることによって身につけようとしてるんだ、って。
 そんなあんたはとてもステキだ。ウサギの耳。僕はあんたにいつまでも身につけていてほしいと思う」
 彼女はビールを口に含んだ。黄色の液体が内臓に流れるのと同時に、彼女の皮膚が真っ赤に染まっていった。顔は紅潮し、目がうつろになり、涙が一筋こぼれて唇の脇を流れた。
「私の名前は『抱きウサギ』」
 彼女は僕にもたれかかり、目を閉じた。しばらくはまどろんでいるだろうが、そのうち意識をなくしてしまうだろう、と思った。






 女子高生はきっちり48時間後に僕の部屋にやってきた。
「カンダ様、どうでしょう。お名前は決まったでしょうか」
「その前に少し話をしませんか?」僕は言った。
「けっこうです」女子高生は言った。

「この街はコミュニケーションによって成り立っている街なんですね」僕は尋ねた。
「はい。そうです」
「コミュニケーションがきちんと並んでいる。計測され種類ごとにまとめられ、そのおかげで生活が成り立っている。生活がコミュニケーションの上に存在する街――今はまだ完成されていない。しかし、その目的のために、すべてが用意された。コミュニケーションが形作られ、大手を振って町を歩いている。豊かなコミュニケーションはみんなに称揚され、それを持つものは街の階層の上位に立つ。そのシステムを運営させるために、この街が作られた」
「正確な理解です」女子高生は言った。
「途方もなく壮大だ。理念として美しい。夢としてもつ価値もある」
「カンダ様――この名前で呼ぶのも最後になりますね。あなたが選んだ名前はなんですか?」
「僕はこの街をでようと思います」

 女子高生は言葉を切り、少し考えてから僕の顔を見つめた。
「この街の意思には賛同していただけたのではないでしょうか?」
「ええ、とてもすばらしいです。一生かけて行う価値があるでしょう。
 僕は多分、街で、大勢の人と暮らすことになれないだけだと思います。偏屈なんだと思う」
 僕は言った。








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 神田良輔のテキストはこれで終わっていた。
 全部で20キロもない、短いテキストだ。
 全体としては、小説としても失敗作のように思えた。最後に意志はあるが、テーマが明確でない。舞台が完全に把握できないままに、終わってしまった。僕の読解力に問題があるのかもしれない。
 僕は何度かこのテキストを読み返し、いつでも読めるように端末上に保存した。電源を落とし、横になると部屋が真っ暗だったことに気がついた。
「横になるだけで眠れる」
と僕は言った。すぐに眠ってしまうことだろうと思う。