バーキング・オン,ラビット






<10>

神田 良輔














■■■■■
小川→小川(妹)
■■■■■














「兄の病気は私に深刻なダメージでした」
 私は言った。

 ……


 「談話室」と名付けられたその部屋は、別の組織ならば集会場とでも言われるような部屋で、数百名が一同に集まる事が出来る。今日は”going to the moon”と名付けられた特別なイベントの日だ。
 初めは一般会員だった私は、ここで生活していくうちに、エンジニアとしての技術があることが認められた。私はいっさい経歴を言わなかった。特になにか仕事をしたかったわけではなかったし、なにより私の場合は「療養」という、さらに極端な会員レベルで入会したわけで、それも当然だったのかもしれない。


 彼が私を訪れたのが始まりだった。
 彼と話をしていると、私は人と会話をしているのだ、と意識しないわけにはいかなかった。ここに来て以来、私は会話をしていなかったから。
「役割が定められていない会話がこんなに難しいものだとは知らなかった」
と私は思ったし、そう口にもだしてしまった。
「でもあなたはこなせていますね」
と私の言葉に応えて、彼は言った。
 確かに私は会話をすることが出来ている、と自覚した。ものすごく緊張している。次に何を言えばいいかまったくわからない。それに彼は私の言葉を待っていて、黙っているわけにもいかない。
「はい。一応出来ているみたいですね」
 私は言った。
 そして彼のために笑顔を見せた。
 笑って見せたことで、私の言葉は堰をきったようにあふれ出した。
 彼が求める以上のことを私は喋り、思いつくままに話を転換させた。そして笑ったりもした。自分で、自分の言っていることにおかしみを覚えたからだ。彼は私の笑みに追従してくれた。そのおかげで私が喋ることは誰が聞いても楽しいのだ、と錯覚することができた。


「小川さんは非常に聡明な方だと思います」
彼は言った。ありがとうございます、と私は言い、私は聡明だけど煙草を吸わないんですよ。と笑って言いかけたが、彼は手を出して私の喋りを止めた。
「私たちの中で幾分かの作業を手伝ってもらえないでしょうか?」
「作業?――どんな?」
「あなたの経歴を見ただけでも出来る仕事はいろいろあると思います。単純に言えば、技術者が不足している。それの手伝いをしていただければ、非常にうれしいのですが」
「お仕事ですか?よろしいのですか?」
「なにがですか?」
「私がその仕事を出来る能力があると思われてますか?」
「はい」
「コミュニケート力がまったくないんじゃないですか?」
「私と成り立ってます」
「少し不安がありますが、おもしろい側面もありそうですね。でもそうなると詩は書かなくても良いのでしょうか?」
「詩はいくらでも書いてください。むしろ詩が本職と思われていてもかまわない」彼は言った。「詩を書ける能力があるならば、技術を使うことなんてとても容易い」
「私も同じように考えます。詩は地面から飛び立たなければなりません」
「そうその通り」彼は言って、にっこりと笑った。私と同時だった。初めてのタイミングだったので私は少しびっくりした。
「詩は地面から飛び立たなければならない。手を動かすことだったら、歩きながらでもできる」彼は続けて言った。



 その後私は彼らの中で働くことになった。
 初めは簡単な仕事を割り当てられた。ごくごく普通の事務作業で、能率的な業務ではなくいくらでも改善の仕様はあると思った。手と身体を動かしながら、こんな事をしてる自分は19世紀の奴隷みたいだと思った。とはいえ気分が悪いわけではなく、楽しんで仕事が出来た。すぐ隣で同じ仕事をしてる人がいて、それを見ているだけでもおもしろかった。同じ事をしているはずなのに、いくらでも私と違う仕草が見つかるのだ。
 次に与えられた仕事は、一人で行う仕事だった。学校でやっていたことと似たところがあり、その作業自体はなにも難しいことはなかった。かつての自分の生活をなつかしく思った。
 私があの生活を投げ出してしまったのはなぜだったのだろう、と考えた。その原因がまるでわからなかった。その当時の心の動きもうまく思い出せない。(いらいらしてる自分の姿は思い出せるのだけど)。もう2年が過ぎようとしていて、すべて忘れてしまっているのかもしれなかった。また戻ることは出来るのだろうかと考えたが、結局それは諦めた。その生活に戻るには、詩を書くときと同じ「飛び立つ」ことが必要になると思ったからだ。「飛び立つ」楽しさは、詩を書くことで十分満足していた。その難しさと手間の多さが、考えただけでイヤになった。そんなことを考えていると、仕事はあっという間に終わってしまった。お金が現金でもらえた。
 そして私は、私に話しかけて来た彼と同じチームに入ることになった。あわせて4人のチームで、彼がそのリーダーだった。
「歓迎します。フルに能力を使ってください」彼は言った。