待ち合わせ場所、虹の下






佐藤 由香里







 朝、あれだけ降っていた雨はすっかり上がり、雲の切れ間から覗く太陽が僕たちの様子を窺っていた。濡れたアスファルトに陽射しが反射して、表面に散らばる細かい石の粒がちらちらと光っている。路上には水溜りがいくつも出来ている。
 衣替えの合図と同時に暑苦しい上着を脱ぎ捨てた小学生たちが、行儀良く列を作って下校していた。長靴で水溜りの上を滑ったり、持っている傘でナメクジをつついたりして、思い思いに雨上がりの帰り道を楽しんでいる。
 僕の傘に残っていた雨の雫が水溜りの水面に落ちた。小さな波紋がゆっくりと広がっていく。
「それにしても、4コマ目が休講で助かったぁ。研究発表前だってのに、教養科目の授業なんかに時間を割いてられないよね」
「ん? ああ、そうだな」
 上の空で返事をする僕に、朋美は不満そうな顔をした。
「もう、敬二ったら、全然人の話を聞いてないんだから」
 彼女は頬を膨らませ、僕を置き去りにしたまま先に行ってしまった。ああ、怒らせちゃったかな。僕は目線を落として足元を見た。だって、彼のことを思い出していたから。雨が降らないと会えない、僕にそっくりな彼のことを。


*


 僕は幼い頃、他人にはない特別な能力を持っていた。
 初めてそのことに気付いたのは小学校低学年の頃。当時の僕はとても無口で気弱だったから、クラスメイトにからかわれる恰好のカモだった。僕は毎日教室の隅で泣いていた。小学生になれば自動的に友達はできると思っていた僕にとって、なかなかみんなと打ち解けられない学校生活は大変な苦痛だった。
 ちょうど今日のような雨上がりの午後、その日もいつものように一人ぼっちで下校していた僕は、水溜りの中で泣きそうな表情の少年に出会った。彼は僕と同じくらいの年齢で、僕と同じ服を着て、同じ髪型をしていた。僕は彼に向かって小さく呟いた。 「もう、学校なんて行きたくない」。すると彼も僕の気持ちを解かってくれたらしく、悲しそうな顔で僕を見た。空を見上げると、そこには大きな虹が架かっていた。しばらくの間、僕たちは黙ってその虹を見つめた。そして、その日から僕たちは友達になった。
 僕はやっと友達が出来たことを言いふらしたくて、次の日の朝一番にみんなに言った。「僕、地面の下に住む男の子と友達になったんだよ」。ところが、みんなは大笑いして、或いは白い目で僕を見た。「バカだな敬二。それはただ単にお前が水面に映っただけだよ。地面の下に別の世界なんてある訳ないだろ」。違う! そんなんじゃあないよ。みんなには見えないの? でも誰も信じてくれなかった。
 僕はその力を他人に教えることで、今以上に馬鹿にされることを知った。だから僕は自分の能力についてそれ以上話すことをやめたし、既に言ってしまった人間にはあれは冗談だったんだよと誤魔化した。僕と彼との関係を誰かに伝えようとしたところで、到底解かってはもらえない。そう悟ったのだった。

 彼との付き合いは実に密やかなものだった。晴れて地面が乾いている時は彼に会うことが出来ないから、朝起きて雨が降っていると僕は大喜びした。そんな様子を見て母は、変な子ねえと溜息をついた。彼と出会ってからほぼ毎日、僕はクラスメイトに言い返せなかった愚痴や学校に対する不満を彼にこぼした。彼は僕と同じような憤りの表情で、その話に耳を傾けた。
 彼の住む世界を想像したりもした。きっと、僕が踏みしめている大地は、実は皮膚のように薄いのだ。けれど、降り続く強い雨の力で地表は削られ、最も薄くなった部分にくぼみが出来る。そしてそのくぼみに溜まった雨水の表面こそが、お互いの世界を分断する境界に現れた窓なのだ。僕はそんなことを考えながら、彼と会える雨の日を楽しみにしていた。そのうち、家族のことや将来の夢なんかを語るようにもなった。僕には彼がいるんだ。一人ぼっちなんかじゃない。だんだん僕は、もうクラスメイトと仲良くなる必要なんてないんじゃないかと思い始めていった。

 梅雨の時期が過ぎて、彼に会う回数はぐっと減った。でも雨が降った時、彼はいつも僕が行く先々で待っててくれた。相変わらず彼は一言もしゃべらなかったけれど、夏季写生大会で僕の描いた絵が入選したことや、運動会のクラス対抗リレーでアンカーに選ばれたことなんかを嬉しそうに話すと、彼も一緒に笑顔で喜んでくれた。
 ある日、僕は彼に言った。「君と話してるのが一番楽しいや。もうクラスのやつらなんてどうだっていい。僕の友達は君だけで十分だよ」。彼は困ったような顔で僕を見た。別れ際に手を振ると、彼は少しだけ悲しそうな顔をして手を振り返した。辺りには赤く染まった落ち葉が風に吹かれて舞っていた。
 それが、彼との最後。冬が来て、雨が雪に変わってしまってからは、もう彼に会うことが出来なくなった。唯一の友達を失くした僕は、再び一人ぼっちになった。誰か僕の話を聞いて。お話ししようよ。僕は孤独を埋めようと、クラスメイトに少しずつ自分から話しかけるようになっていった。

 春が来て、また雨が降るようになっても彼は現れなかった。僕は彼と毎日しゃべっていたお陰で随分と饒舌になっていたから、その頃にはもうすっかりクラスのみんなとも打ち解けていた。休み時間になると、僕の話を聞きにみんなが僕の周りに集まるようになった。からかわれても、以前なら泣いていた僕は、その頃には冗談交じりに言い返すことが出来るようになっていた。
 もう、水溜りを覗き込んでも、そこに映るのは彼ではなく自分だった。僕は雨が降るたび彼を探したが、もう彼に会うことはなかった。僕の能力が退化してしまったのか。それとも彼に嫌われてしまったのか。いくら考えても、その答えを見つけることは出来なかった。

 結局彼のことは、僕の成長とともに少しずつ忘れ去られることとなった。突っつけば目覚めてしまいそうな遠い日の記憶は、まるで思い出すことを禁じられてしまったように意識の奥へ押し込まれた。けれど極薄の膜にくるまれて僕の心の隅っこで眠っていた思い出を、さっき水溜りの水面に落ちた拍子に雨粒が突っついてしまったのだ。


*


 水面に広がった波紋は静かに消えていき、水の鏡に僕を映した。水面に映る男を見つめると、男も僕を見つめ返している。背が低く線の細かったあの頃の少年は、もうすっかり成長していた。
「久しぶり」
 僕は言った。こうやっていつも彼と話しをしていたのが嘘のようだ。水面に映る彼はやっぱり僕と同じくらいの年齢で、同じような服を着て、同じ髪形をしている。馬鹿みたいだ。どうして彼を地下世界の住人などと思ったのだろう。目の前にいるのは、ただの水に映った僕じゃないか。世間の常識に辻褄を合わせようとする表面上の僕は、彼の存在を信じ続ける本当の自分に向かって何度もそう否定した。心が痛む。僕は今、僕自身を痛めつけている。

「ちょっとぉ、敬二。 ぼおっとしてないでさ、また降ってきたよ、ほら!」
 向こうの方から聞こえてくる朋美の声で我に返った。上がったと思っていた雨が再び降り始めている。瞼の上で弾けた雨粒に促されて、僕は閉じていた傘を広げた。
「ずっと黙っちゃってさ。なに考えてるの?」
 そう言いながら、朋美はゆっくりと歩み寄ってきた。まだ少しだけすねている朋美を見ると、そのことを話してもいいという気になった。
「朋美さ、この足元の下に全く別の世界が広がってるなんてこと、考えたことある?」
 朋美は、なによそれ、なんて言いながら怪訝な顔をしている。誰にも言わないと決めた日からずっと本当に誰にも言わずにいた僕は、幾重にもくるまれた薄い膜を優しく剥がして、その中でずっと息をしていたあの日の記憶を朋美に見せた。不思議なものでも見るような目で僕を見つめる朋美。彼女の冷静な視線に僕は怯みそうになる。

「へえ。敬二って意外にロマンチストだったんだ」
 話し終わった後の朋美の第一声に、僕はきょとんとした。白けた雰囲気に色が塗られたような、意外な言葉。僕は複雑な心境になる。
「やっぱり朋美も信じられない?」
「うーん、そんなふうに考えたことがなかったから。でも、そういう発想は好きだよ」
「やっぱり、変な子供だったってことなのかな」
「そうでもないんじゃない? だって、ほら見て」
 朋美が指差した先を見ると、子供たちの差す色とりどりの傘が道路を埋め尽くしていた。後方から僕たちめがけて延びている色彩の道は、陸橋の上を通って横断歩道の向こうまで続いている。
「まるで、虹みたいだよね」
「え?」
「雨の日って、なんだかとっても神秘的だと思わない? 一本一本はただの傘でも、集まるとこんなに大きな虹になっちゃうんだもん。敬二の言うような地下の世界が実在してて、雨の日だけ現れるってのも不思議じゃないかもよ。それに、そう考えた方が素敵じゃない」
 僕は、なんだか救われた気持ちになった。きっと笑われるか、絶句してしまうだろうと思っていたのに、朋美はそんな僕を受け入れてくれた。本当は、薄っぺらい地表の裏側で、彼はいつも僕を見守ってくれていると信じていたかった。けれど、成長するにつれて周囲から空虚な常識を押し付けられ、それを飲み込んで生きていく方が楽だと諦めてしまった勇気のない僕は、後ろめたい思いを抱えたまま大人になった。無理して否定する必要はないという彼女の言葉が、鎖につながれて自由を失っていた僕を解放してくれたのだ。
 見上げると、空は晴れていた。雲は流れ去り、さっきまで隠れていた太陽は堂々と僕たちを見下ろしている。この雨は、きっと通り雨だろう。

「おーい! 敬二ー!」
 突然、後ろの方から呼ばれる声で振り返った。大学のクラスメイトが立っている。
「今夜、太一んちで飲むんだけど、お前も来ない?」
「今夜?」
「そ。あと、俊也や大祐も来るよ。なあ来るだろ? お前がいないとつまんねえよ」
「別にいいけど、発表前だってのに、準備はいいのか?」
「いいのいいの。たまには息抜きも必要だって」
「いつも息抜きばっかりじゃん」
 そう言うなよ、待ってるからさと言って、そいつは雨の中を走っていった。また後でと僕も手を上げる。隣でそのやり取りを見ていた朋美が吹き出しそうになりながら言った。
「それにしても、敬二が無口だったなんて、なーんか信じらんない。今ではそんなに友達いるのにさ。本当に全然友達がいなかったの?」
 そうそうと言いかけて、僕は黙った。ちょっと待てよ。僕は最後に彼に何て言った?
『僕の友達は君だけで十分だよ』
 そう、確かに僕はそう言った。もしあのまま毎日を過ごしていたら、きっと他の友達なんて出来なかった。彼がいなくなったのは、もしかして僕に他の友達を作らせるためだったんじゃないか? そんな確信が生まれた。いじめられると僕は真っ先に彼に会いに行った。そしてクラスメイトに言えなかったことを泣きながら彼にぶつけた。でも、きっと彼はこう言いたかったに違いない。『自分の意思を伝える努力をしないで泣いてたってだめだ。僕じゃなくて、本人に本音を伝えなきゃ。相手に心を開いて欲しかったら、まず自分の心を開くんだよ』と。心に底に温かいものがじわりと染み込んでいく。10年以上経って初めて実感した。彼に出会わなければ、今の僕はいなかった、と。

 子供の頃、僕はいつも下を向いて歩いていた。彼と出会ったのは必然かもしれない。水面に映る僕の顔は凛として、あの頃の弱々しさなどどこにも見当たらなかった。ありがとう。心の中でそう呟くと、水面に映る僕が微笑んだように見えた。
「さあ、もう帰ろうよ」
 朋美の言葉に今度はしっかりと返事をして顔を上げた。足元に広がる水溜りを飛び越えようとして身を翻す。けれど足元にいる僕は微動だにしない。笑顔のまま立ち尽くしている僕の口がゆっくりと開く。
「ほらね、ちゃんと友達出来ただろ?」