SCARLET TEARS




佐藤 由香里







 俺は喜びに震えていた。
 目の前に横たわる彼女の姿はとても美しい。お前は俺の物になったんだ。陶器のような滑らかな肌も、髪から漂ってくる芳しい香りも。全て。
 記憶が飛ぶ。過去と現在の区別が、何だか曖昧になっている。


「ねえ、隆弘。私ね、今度はプーケットに行きたいの。」
「今度はって、先月オーストラリアに連れて行ってやったばかりだろう。」
「だって日本はこんなに寒いでしょう? 何処か暖かい所に行きたいのよ。」
「仕方がないな、お前は。 …解ったよ。」
「わあ! いいの?」
「…ああ。」


 俺は彼女を抱き起こした。
 ソファの背にもたれた彼女の視線は俺から離れない。そうだ。他の男なんて見ずに、そのままずっと俺だけを見ていてくれ。俺がお前をずっと見ていたように。
 記憶があちこちに飛ぶ。


「おい、玲子。お前が中年の男とホテルから出てきた所を見た奴がいるんだ。どういうことだよ。」
「ちょっと触らないでよ。ネイル塗り直さなきゃいけなくなっちゃうじゃない。」
「どういうことだって聞いてるんだよ! こっちは!」
「ああ、あのオヤジね。あんまりしつこいんで、仕方が無いから寝てあげたのよ。」
「なに開き直ってんだよ! お前、この前だって年下の男と…」
「あのさあ、この際だからはっきり言っておくけど、別に私が嫌なら別れてもいいのよ?」
「おい、待てよ。俺はただ…」
「私があなたと付き合ってあげてるってことを忘れて欲しくないわね。もしこれ以上何か言うんだったら…」
「解ったよ。 …もう何も言わない。」


 俺は彼女の服に手をかけた。
 色白で華奢な彼女の体に、この純白のキャミソールワンピースはよく似合う。少し引っ張ると、細い紐はするりと肩から落ちて、青白い胸元が露になった。
 その瞬間に、俺は勃起した。


「ちょっと、何よこれ! 私が欲しいって言ったのは赤いワンピースよ?」
「赤は売り切れてて白しか無かったんだよ。仕方ないだろ?」
「ふん、こんなものいらないわ。赤が欲しいのよ。」
「でもさ、それ結構高いんだよ。もう一着買うのは、ちょっとキツい。」
「そんなこと知らないわよ。私は赤がいいって言ってたのに、白い方を買ってきたのはあなたなのよ?」
「それはそうだけど…」
「これはこれで着るから、今度は赤いのを買ってきて。」
「…ああ。」


 俺は小刻みに震えながら、夢中で彼女を求めた。
 強引に彼女の中に押し入ると、少しだけ潤ったその部分に押し戻され、その摩擦でさらに俺のものは熱を増す。
 ほんの少しだけ、俺は中に射精した。


「困りますよ。これ以上の融資は我社としても出来かねます。」
「どうしても今月中に30万円必要なんです。お願いします。」
「今でも融資限度額ギリギリなんですよ。これ以上はちょっと…」
「じゃあ、いくらなら融資して頂けますか?」
「そう言われましてもねえ、あなた今までに何度も返済が滞ってますし、正直、信用がねえ。」
「どうしてもだめなんですか? お願いです!」
「お客さんお若いのにこんなに借金して、一体何にそんなに必要なんですか。」
「それは…」


 俺の震えは段々激しくなった。
 彼女は俺を見つめたまま微動だにしない。もぎたてのイチゴのようにみずみずしい唇は開かないし、象牙のような白く細い指は動かない。
 どうしてだか、頭が痛い。


「この前素敵なコートを見つけたんだ。ねえ、買って。」
「玲子、悪いけど、もう限界なんだよ。」
「え? 何が?」
「正直言うと、俺にはもう、お前に何か買ってやる余裕がないんだ。」
「……」
「……」
「……別れる。」
「え?」
「お金がないあなたと付き合っても仕方ないから、別れるって言ってんの!」


 蘇っていく。何もかもが、思い出されていく。
 バラバラに切り離された記憶の断片が、まるでパズルが出来上がっていくかのように、段々と繋がっていく。
 気がつくと、俺は真っ赤なナイフを握っていた。


「なんだよ別れるって! 金がない俺には用はないって言うのか!」
「そうよ。相手してあげただけでも感謝しなさいよ。」
「俺はこんなにお前が好きなのに、お前は、お前は…」
「私はあなたが好きで付き合ったんじゃないの。鈍い人ね。それくらい解かってよ。」
「俺のこと、本当に好きになってくれよ!」
「失敗したわ。今度はもっとお金を持ってる人を選ぶことにする。妻子持ちなんて良いかもしれないわね、後が面倒くさくなくて。」
「…絶対に別れないぞ。お前は俺だけのものなんだ。他の男に取られるくらいなら…」
「な、何するの…。やめて! やめてよ!」


 俺は辺りを見回した。
 彼女の剥き出しになった下半身から流れ出る精液。まるで焦点の合っていないビー玉のような瞳。鮮血がとめどなく流れ出ている胸部。見る見る赤く染まっていく白いワンピース。
 だってお前、赤いワンピースが欲しかったんだろう? これで満足だろ?
 俺は泣いていた。泣きながら、彼女の体の至る所にナイフを突き刺した。赤く裂けた傷口からは鮮やかな赤の飛沫があがって、泣きながら笑う俺の顔に次々と飛び散り、俺の涙を赤く変えていった。

 アイシテタンダヨ、レイコ。


* * *


『さて、次のニュースです。
昨日未明、××市内のマンションで、一人暮らしの女性の他殺体が発見されました。殺された女性は倉橋玲子さん22歳。現場の状況から、部屋に荒らされた様子は無く、物色された形跡も無いため、顔見知りの犯行によるものと思われます。また、玲子さんの体には無数の刺し傷があり、犯人は玲子さんに相当の恨みがあったと見られています。尚、現在玲子さんと交際中の男性が行方不明となっており、警察は重要参考人として男性の行方を追っています。
それでは次のニュースです…』

「絶対この『交際中の男』が怪しいよな。」
「行方不明ってところが特になあ。」
「この人込みの中にいたりするかも。」
「はは、まさか。」

 夕暮れ時の交差点。信号待ちをしている俺の目に留まったのは、オーロラヴィジョンの画面の中で笑う玲子の写真だった。俺は、まだ血のついたままの手でポケットを弄り、取り出したタバコに火を点けて、画面の向こうで笑っている玲子に微笑み返した。