落日




佐藤 由香里







 今年の夏の終わりに、確かに私は夏の足音を聞いた。
 夏は誰にも気付かれないようにそうっと近づいてきて、いつの間にか私達の間に紛れ込んだ。余りにも静かに近づいてきたので、誰もが夏が来たことに気付かなかった。けれど夏というのは不思議なもので、始まりはそんなにも密やかなのに、終わりは余りにもにあからさまだ。のんびりと私達の生活に居座っていた夏は急にすくっと立ち上がり、早足で立ち去った。大きかった足音は次第に小さく、遠くなっていく。残暑という置き土産を残して。


* * *


 酷く喉が渇いていた。白いタンクトップには汗の跡が滲み、短く切ったジーンズは素肌に張り付いている。贅沢は言わないから、せめて扇風機くらいは欲しいと思うのだけれど、そんなささやかな願いでさえ聞き入れてもらえなくて、私は毎日汗を流しながら夏休みを過ごしていた。縁側から吹き込んできた風が、掛けてあるセーラー服の裾を揺らした。夏休みに入って二度しか袖を通していないし、新学期が始まって一ヶ月もすればすぐに冬服になる。出番の少ない夏服は、まるで私に着ることを促すように胸のリボンをはためかせている。
 窓の外には田園風景が広がり、あぜ道が遠くの方まで続いている。時折、田舎道を涼風が通り過ぎてこの部屋の中まで吹き込んでくるけれど、私の汗を乾かすには至らない。遠くの方から聞こえる風鈴の音が午後の暑さを誤魔化そうとしているけれど、そんなものでは私の渇きは癒せない。潤いが欲しくて手元にあったグラスに手を伸ばした。汗を掻いているグラスは氷で冷やされた麦茶で満たされている。グラスに触れると、それまで同じ体勢で我慢し続けていた氷たちは、突然の衝撃でカランと音を響かせた。

 私は胡坐を掻いて楽器の手入れをしていた。しばらく磨いていなかったトランペットは手垢によってくすみ、艶を失っている。乳白色のポリッシュをクロスに垂らして擦り付けると、艶のない銀色のトランペットはたちまち白く色を変えた。クロスで丹念に拭き取らないと、この白い汚れは取れない。そして全ての汚れを拭き取った時、ようやく下に隠されいていた銀色に輝く肌が現れるのだ。案外力を使うこの作業に、段々と気が滅入ってくる。けれどメンテナンスを怠れば楽器の寿命は縮む。私は気を紛らわそうとして、夏休み前に配られた楽譜に目を通した。

 ショパン作曲 『別れの曲』

 譜面の上部にはそう記されていた。夏休み明けの定期演奏会で三年生が引退する。その演奏会のフィナーレでこの曲を演奏するのだ。
 目の前に楽譜を置いて自分のパートを確認し、私は愕然とした。中盤にトランペットのソロがある。きっとスタンドプレイだろう。私はソロもスタンドプレイも苦手だ。私の演奏に観客の目が注がれるだけでも緊張するのに、その上椅子から立ち上がらなければならないなんて。観客席の照明は落としてあるのに、意外にステージ上から観客席はよく見えるものだ。直前まで主旋律を担当していたフルートやクラリネットは、私が立ち上がった途端に音を落として伴奏に早変わりする。その瞬間、多くの視線が一斉に私に向けられ、観客は私の演奏に耳を傾ける。間違えることは許されない。
 楽譜を見ながらピストンを押して、指を確認をしながらメロディーを口ずさんでみた。蝉の声が邪魔をする。私は声のヴォリュームを少しだけ上げる。楽譜と手元を交互に見ながら、一つ一つの音符を声に変換する。

 暑い。お盆は過ぎたというのに、一向に涼しくなる気配はない。手を止めて噴き出す汗を手の甲で拭う。規則正しく並んだ畳の目の五線譜に、私の額から流れ落ちた汗の音符が散らばる。蝉たちによる情熱的な伴奏は余りにもうるさくて、主旋律である私の声はあっさりと掻き消されてしまう。
 私は諦めて、蝉の声に惑わされながら譜面の音符を辿った。指でピストンを押すとたまに引っかかる。あとでオイルも注しておこう。そんなふうに程よく気を散らせながら、私はソロの部分を目で追っていた。楽譜通りに演奏すれば、このソロはそんなに難しくない。装飾音符を勝手に付けて、自分なりにアレンジしてみようか。こういうメロディーだと、普段よりもビブラートを効かせた方がいいかもしれない。そんなことを考えていると、徐々に夢中になっていく自分に気付く。そのうち蝉の声など気にならなくなってくる。頭の中で、どう演奏するかが次第に組み立てられていく。


 どのくらいの時間が経ったのだろう。蝉の声が半音下がったような気がして顔を上げると、外はすっかり日が暮れていた。窓から射し込む陽が部屋の中に長い影を作っている。私は慌ててクロスを手にし、楽器に残っていた汚れを拭き取った。徐々に現れてくる銀色の肌。すっかり磨き上げられた楽器に顔を近づけると、満足げな笑みを浮かべた私が映った。
 最後の仕上げに、動きの悪くなったピストンを外してオイルを注した。ついでに抜き差し管を全て抜いてグリスを塗っておいた。これで演奏中に指が引っかかることもないし、チューニングする時も管が滑らかに動くようになる。まるで新品の楽器を手にしたように、私の心は躍った。

 左手に楽器を、右手に楽譜を持ち、縁側から外に出た。汗はすっかり引いていて、少し、肌寒い。物干し竿にぶら下がっている洗濯ばさみで楽譜を留めた。誰もいない今なら、緊張することなくのびのびとした演奏が出来ると私は確信した。
 艶の蘇ったトランペットに息を吹き込んだ。私の息は長い管を巡り、ベルを抜けて音に変わる。高らかな金属の音は、さっきまであれほどうるさかった蝉の声を一瞬で伴奏に変えた。観客のいないソロ演奏。夕暮れのステージに響く悲しい旋律は、辺りの空気を静かに震わせ、優しく溶けて消えていった。
 突然強い風が吹いた。昼間に吹いていた風とは違う、ひんやりとした風だった。今日夏は去ったのだ。早足で去って行った夏はすれ違いざまに強い風を巻き起こし、私の肌に残っている乾いた汗を撫でた。揺れる前髪が私の額をくすぐる。私が奏でた旋律は、図らずも、夏に向けた別れの曲となった。


 開け放した居間の窓からテレビの音が漏れている。天気予報番組は、明日以降の気温を私に知らせた。明日からしばらくはまだ暑いらしい。夏が残した置き土産は、まだまだ私に汗を掻かせることになるだろう。まったく夏ってのは、いつの間にか紛れ込むほど図々しいくせに、なんて律儀なんだろう。
 昼間あれだけ元気だった蝉たちは、今、悲しい声で鳴いている。もしかしたら、いなくなってしまった夏を想って泣いているのかもしれない。橙色の空の向こうが紫色に変わっている。きっと来月の今頃は、この空はあの紫色になっているんだろう。

 もうすぐ夏休みが終わる。きっと秋は、もうすぐそこまで来ている。