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佐藤 由香里







 多分僕は殺される。もう少しで。

 それを感じ始めたのは半年前の冬。中学一年の冬休みに入った頃から、まるで僕を狙うような事件が何度か起きている。車に轢かれそうになったり、食べたものに有害物が混入していたり。その度に唯一の肉親である母に病院へ連れて行かれて、なんとか助かっている。

 でも僕は発見してしまったんだ。
 今から3ヶ月前、母の部屋のタンスの引き出しの中にある生命保険の契約書を。僕名義で、母が受取人の契約書。契約書を見ても難しいことばかり書いてあって、詳しい契約内容は解らなかった。けれど、一つだけはっきりと理解出来た。死亡時受取金。僕が死ねば母さんに1000万円の保険金が入るらしい。
 うそだろう。母さん。
 僕は何度も何度も頭の中でそう繰り返した。たった一人の家族である母が、まさか僕の命を狙ってる? 信じられなかった。信じたくなかった。でも、無情にも、契約日は去年の冬。今から半年前だった。


* * *



 玄関の鍵を開けて靴を脱ぐ。自分の部屋に入り鞄を置いて服を着替える。冷蔵庫の中を見て、ある物で適当に二人分の夕食を作り、母の分にはラップをかけて冷蔵庫に入れ、残りを僕が食べる。食べ終わったら自分で食器を洗う。母は水商売をしていて、僕が帰る頃は既に仕事に出かけてしまっているから、もうこういうことをするのも慣れた。

 僕は母と二人で暮らしをしている。父親はいない。母は若くして僕を身ごもったが、結婚しようとしていた男に逃げられて、結局僕を女手一つでここまで育てた。でも僕は思う。母は僕のことが邪魔なんだろうと。母はまだ32歳。やりたいことがたくさんあるだろう。だから僕は中学を卒業したら家を出て、一人で生活することを心に決めていた。何より、僕は生きたい。こんなにビクビクしながら過ごす毎日から開放されたいんだ。家を出ることが、僕の命を長らえさせる唯一の方法なのだと信じていた。ただ、現実問題、まだ中学ニ年生の、生活能力のない僕が家を飛び出しても、まずどこも受け入れてくれない。あと二年の我慢だ。そうしたら、僕は解放される。

 深夜、宿題をしていると、玄関のドアが開く音が聞こえた。がさがさと物音がしたかと思ったら、勢いよく襖が開いて母が入ってきた。そして酒の匂いをぷんぷんさせて僕に抱きついてきた。吐き気がこみ上げてくる。露骨に嫌な顔をすると母は「冷たいなあ」と呟きながら部屋を出て行った。すぐに隣の母の寝室に行き、まもなく寝息が聞こえてきた。僕はここ3ヶ月、寝るのが毎日2時3時。さすがに寝不足だけれど、母よりも先に寝るのは怖いから、僕はどんなに眠くても母が寝たのを確認してからでないと眠らないようにしている。少しは落ち着きたい。


* * *



 学校は嫌いだ。父親がいないことや母が水商売をしていることを理由に僕はクラスメイトから虐められている。僕は何か言われても何も言い返せない人間だから、クラスメイトは面白がって、虐めはどんどんエスカレートしていく。担任にも相談したが、余計な揉め事は避けようとしてなにも行動を起こしてくれない。所詮教師なんてそんなもんだ。

 先日、数学の教科書を開いたら平べったくなったカエルが挟まっていた。奇妙な色の液体が教科書を汚していて、もうとても使い物になりそうにない。僕が教科書を投げ捨てると、クラスの何人かがクスクスと笑った。一人じゃ、ないんだな。

 学校なんて行きたくない。でも家には昼間母がいるから、僕はどんなに辛いことがあっても学校を休む訳にはいかない。


* * *



 また死にかけた。もうすぐなのだと思う。

 ホームルームが終わって教室を出ると雨が降っていた。視界の悪い夕方だった。傘が視界を遮っていたというのもあったから、ゆっくり歩いていたお陰かもしれない。とにかく運が良かったのだと思う。学校の帰りに家の近くの工事現場の前の道路を歩いていると、上から鉄鋼の塊が落ちてきた。あと数メートル先を歩いていたら、僕は間違いなく即死だっただろう。上を見上げると、一瞬黒い人影が隠れたように見えた。それ以外に人の気配は無い。雨の日は危険だから、今日は工事自体が休みだったのだろう。それを狙った犯行なのだろうか。

 僕が死んだら得をする人なんて、どう考えても一人しか思いつかない。


* * *



 酒臭い母が、50代くらいの脂ぎった男を連れて帰ってきた。ついこの間までは年下風の若い男だったのに、やっぱり金を持ってる男の方がいいのだろうか。

 母と男は玄関で靴を脱ぐとそのまま母の寝室に入っていき、間もなく衣擦れの音が聞こえてきた。壁の薄いこのボロアパートじゃ、隣でなにが行われているのかすぐに判る。僕は吐き気を我慢しながらヘッドフォンのヴォリュームを最大にした。母の寝室から艶かしい喘ぎ声が響いてきて、ヘッドフォンから聴こえてくる音の間を縫って僕の鼓膜まで届いた。母の息遣いの合間に男の不気味なうめき声が聞こえる。僕は我慢できなくてトイレに駆け込み、胃から逆流してくるものを全て吐き出した。

 思春期の息子に何の配慮もない母親。もしかしたら僕の命を狙っているかもしれない母親。それでも僕の母親。なんて皮肉なんだろう。どうして僕を産んだんだろう。

 結局僕は朝まで眠ることが出来なかった。


* * *



 朝、教室に入ると、クラスのみんなが一斉に僕を見た。嫌な予感がした。見ると僕の机の上には花瓶に生けた菊が飾ってあった。僕の机の上にはクラスの集合写真が貼ってあって、僕の部分は切り取られ、写真の左上に切り抜いたものが貼り付けられていた。写真の中のクラスメイト達はみんな笑顔なのに切り取られた僕の表情は曇っていて、確かにそう配置した方が幾分まともだった。

 僕は俯いたまま微動だにしなかった。出来なかった。クラスのみんなが僕を蔑んでいる。笑っているやつがいる。無視しているやつも、憐れな目で見ているやつもいる。そんな状況の中、担任が教室に入ってきた。教室中の雰囲気と僕の机の上にあるものを一瞬ちらっと見て、何も言わずにいつも通りに朝礼を始めた。

 僕には守ってくれる家族も友人も教師もいない。自分のことは自分で守るしかない。そう思っていたのに、こんな環境じゃ生きてたって仕方がないのかもしれない。もしかしたら僕はこの世に生まれてこなかった方が良かった人間なのかもしれない。

 家でも学校でも、僕の居場所はない。


* * *



 僕は家に帰るとすぐにロープを探した。母の姿はなかった。いつもはまだいる時間なのに、どこかに出かけているようだった。それだけが救いだった。

 ロープは見つからなかったので、洗濯用の紐を代用することにした。それを部屋のテラス戸の上部に引っ掛けて端を輪状に結んだ。適当な高さの椅子をキッチンから取ってきた。背の低い母が高い場所にあるものを取る時に使う丸椅子。

 以前集団自殺の事件が起こって大きく報道で取り上げられていた。あの頃の僕は、死ぬ勇気があるならどうして生きないんだろうと思った。死ぬのは怖い。自分の存在がこの世から消えてしまうのが怖い。その頃の僕に死ぬ勇気はなかった。母の目論見も知らなかったし、学校は面白くなかったけど、当時はまだ可もなく不可もない生活をしていた。その時、自ら命を絶つ人間は弱虫だとニュース番組のコメンテーターが言っていたが、正にその通りだと今の僕は思う。生きることの方がよっぽど難しい。死んでしまえばこれから味わう苦労も、辛さも、感じる必要はないんだから。でも僕は弱虫呼ばわりされたって構わない。生きることってこんなにも辛くて哀しいことなんだ。僕にはもう生きる勇気がないんだ。

 椅子の上に乗って輪の中に首を通す。もう全てから開放されるんだ。足元が震えて上手く立っていられない。怖いからじゃなく、もう生きなくていいのだという喜びからくる振るえなのだと自分に言い聞かせて、僕は椅子から足を下ろした。

 最後の瞬間に聞こえたのは、母の悲鳴だった。僕は苦しく悶えながら母の方を見ると、母は顔面を蒼白させて僕を見つめていた。僕は心の中で母に呟いた。
 母さん、僕はこの世からいなくなるから、1000万円で新しい人生を始めなよ。


* * *



 目を覚ますと僕は病院のベッドの中にいた。僕は死んだんじゃなかったのか。ふと隣を見ると、母が僕の手を握りながらベッドの端に頭を預けて眠っていた。もしかしてずっと付き添ってくれていたのだろうか。母にとっては僕がいなくなった方が好都合なんじゃなかったのか。僕は戸惑った。

 母は僕が目覚めたことに気付いた。そして「あんたがいなくなったら、母さん、独りぼっちになっちゃうじゃないのお」と言って抱きついてきた。母は涙で顔をくしゃくしゃにしている。僕はなにが何だか解からなくなっていた。母さんは僕の命を狙っていたんじゃなかったのか。もしかすると僕は、単なる偶然を、見つけてしまった生命保険の契約書にこじつけていただけだったのだろうか。

 母の涙を見ていると、僕もつられて泣けてきた。
 母さんはこんなに僕のことを思ってくれていたのに、僕はなんて酷いことを考えていたんだろう。母さん、ごめんね。ごめんなさい。
 僕は心の中でそう呟きながら母の手を強く握った。

 母さん、僕達は唯一の家族なんだから、これからはもっと一緒にいよう。


* * *



 幸せな毎日が、何にも恐れることのない平穏な日々が始まると思っていた。

 あの事件から一ヶ月が経とうとしていたある暑い日。学校帰り、僕はいつものように駅のホームで電車を待っていた。それはほんの一瞬の出来事だった。背中に受けた突き飛ばす手の感触も、宙に浮く無重力感も、砂利と線路の凹凸の上に叩き付けられた痛みも、ほんの一瞬。
 どういうことなんだ。まだ、終わらないのか。

 幸いホームと電車の間の隙間に上手い具合に入ることが出来て、僕はかすり傷だけで済んだ。事情聴取のため警察に行くことになったが、かすり傷で済んだということもあって早めに解放してくれた。そんなことよりも、僕には確かめたいものがあるんだ。早く、早く、家に帰らないと。

 走って家に帰って母の部屋のタンスの引き出しを開けると、一枚しか無かったはずの生命保険の契約書か三枚に増えていた。死亡時受取金の合計は2500万円。もはや「推測」ではなく「確信」だった。僕は母さんに殺される。
 契約内容を以前よりも慎重に見てみた。多分字が小さくて気付かなかったのだと思う。決定的な文章がそこに記載されていた。

『保険契約日から1年以内に自殺した場合や契約時に健康状態や病歴を偽って報告した場合(告知義務違反)などは保険金が下りないことがあります』

 そうだよな。契約日が7ヶ月前だから、今僕が自殺しても保険金は下りないもんな。事故死じゃなきゃ駄目なんだ。お願いだから、そんなに回りくどい手段を使うくらいなら、いっそ一思いに殺してくれ。



 僕の悪夢はまだ終わりそうにない。