タナゴと薀蓄と、恋。
「村上春樹を読んでるとさ、小説が書けそうな気になるから不思議だね」 ページをめくりながら僕は言った。 「へぇー。そういうもん? 私は逆。ああいうよく言えば天才的な文章、絶対書けないと思うからさ」 そう言って彼女はタバコの煙を吸い込んだ。 「うん。タナゴについて薀蓄をたれる恋愛小説とか、さ」 「あはははは。なんとなく雰囲気はわかったよ」 「書けそうでしょ?」僕も笑った。 「きっとそれをキレイに書くのが難しいんだよ。やってみたら? タナゴと薀蓄と、恋。おもしろそうだよ」 そう言って彼女はにっこりとタバコをくわえなおした。 * アクション、そしてリアクション。物語に必要なのは、たった二つの存在だ。それだけでいい。僕とあなた。僕と彼女。作用と反作用だ。例えばキャッチボールのように。僕の意志が込められたボールをあなたが受け取り、あなたの意志が込められたボールを僕が受け取る。たったそれだけできっと一つの物語になる。 存在が必ずしも人間である必要はない。僕とまわりの世界、であってもいい。この場合、僕はボールをコンクリートのブロック塀に投げつけることになる。僕の意志が込められたボールは物理的な不確実性の影響を受けながら僕の指を離れていく。放たれたボールは僕の見当とは少しずれて飛んでいき、漂うそよ風に乗ってブロック塀にぶつかる。ブロック塀の不均質なデコボコがボールの回転と反射角度を微妙に変化させる。そうして跳ね返ってきたボールの弾道は、もはや僕が予測し思い描いていたものとは別物だ。僕は体重を移動して、新たなボールの弾道を追いかける。作用と反作用。そうやって物語が生まれる。 * 「『ファンタズマ』を聴きながら、『風の歌を聴け』を読んでた」僕は言った。 「ふむ、これでアナタもすっかりハルキストだね。いや、『世界の終わりと――』読んでからかな」隠れハルキストの彼女が言った。 「酒の飲みたくなる本を読みたかっただけさ。ビールがあると良かったんだけどね」 「なーるほど。それにはぴったりだね。微妙に眠いけど、眠れない。お酒飲みたいけど明日仕事だし……」 「アナタの分まで飲んでおくよ。まかしときなよ。失恋した夜は他にやることがないんだ」 「む。よし、じゃあ私も飲もう。ちょっと待ってて。用意してくる」 「待てよ。失恋した夜に失恋の相手と酒を飲むなんて、聞いたこともないよ」 「駄目だよ。だってもう飲み始めちゃったんだもん」 戻ってきた彼女がそう言って、勝ち誇ったようにグラスに唇を合わせた。 それで僕は、話をしながら酒が飲める場所に、地図の座標を移動させた。 * 「よ。乾杯……献杯? 待てずに飲み始めちゃった」 「読書はベッドでしてるんだ」僕は言った。 「あら、じゃあ呼びつけちゃったね」 「村上春樹を読んでるとさ、小説が書けそうな気になるから不思議だね」僕は言った。 * そういうわけで、僕はまずタナゴについて書かなきゃいけない。 と言っても、僕はタナゴについて多くを知っているわけじゃない。その日、僕はNHKでグスタフ・マーラーの交響曲第6番「悲劇的」を流しながら、最近飼い始めたタナゴの喧嘩を眺めていた。 認識して、反応する。なんだ、僕の恋愛と全く同じじゃないか、と思った。ただそれだけだった。 タナゴについて書こう。コイ目コイ科タナゴ亜科バラタナゴ属の淡水魚で、亜種名でいうとタイリクバラタナゴというらしい。ペットショップではメダカや金魚くらいにありふれている。体長は五センチくらいのもので一匹二○○円ほどで買える。体形はフナに似ている。 そんなフナみたいな魚を何を好き好んで飼うのかと思うかもしれない。たしかにぱっと見は金魚のほうが鮮やかだと思う。けれど、金魚のあの女の口紅のような朱色は、金魚鉢の淡いブルーやカモンバ(水草)の柔らかい緑色に添えられて初めて、美しさが完成されるように僕には思えるのだ。 それに引き替え、タナゴの美しさはその自然な体色にある。タナゴの銀白色の体は淡い七色にスペクトルを反射させる。そして春の産卵期になるとそのスペクトルに、まるで春の日の夕焼けの陽光のような赤みが差すのだ。風呂上りの女の子の白い肌に、ふっと暖かくなったきれいな血の色が透き出てくるようにね。 * 「ディズニーランドのお土産食べてみよ。む。甘い。甘いもの好きじゃないって言ったのに嫌がらせかなあ」チョコレートを齧りながら彼女が言った。 「ディズニーランドのせいさ。駄目だよ。ハルキストがそんなもん食っちゃ」 「だってしょっぱいものが無かったんだもん。マメがいいよね。なんだっけ。ピーナッツ?」 「そう。皮を五センチの厚さに散らかすのさ」 「問題は、マメは好きじゃないってことなんだよね。かといって、父が作った男のカレーはつまみにはならないし」 「だったら違う話を書きなよ」僕は言った。 「書くの? 私が?」 「そう」 「うーん。どうだろうね。書かないかな」 「汗をかきながらヤキソバを作って酒を飲む女の話」 「もうヤキソバないんだもん。書けないよ」 「じゃあ小説が書けない女の話でもいいよ」 「アナタがどうして私にそんなにも書かせたいのかわからないよ」 「酒を飲みながら女に小説を書きなよと言う男の話でもいいよ」 * 認識して、反応する。なんだ、僕の恋愛と全く同じじゃないか、と思った。ただそれだけだった。 タナゴについてもう少し書く必要がある。タナゴの産卵はちょっと風変わりで、二枚貝の出水管に産卵をする生態を持っている。それで、産卵期になるとオスは産卵に適した二枚貝を見つけて、そのまわりに縄張りをつくる習性がある。この習性は水槽の中に二枚貝がいてもいなくてもあんまり関係ないみたいで、オス達は不毛な縄張り行動を水槽の中でも演じ続ける。 認識して、反応する。オスは視界に別のオスが入ってくると、身を翻して目標に対して突撃を開始するのだ。煌く二つのスペクトルがぶつかる。 こうやって書くとすごく単純なことにも思えるかもしれないが、よくよく考えてみるとそこには複雑なプログラムが存在しているように僕には思える。タナゴのオスは一緒に買ってきたヤマトヌマエビやメスのタナゴには見向きもしない。彼がヌマエビに突撃を仕掛けるというのはありえないのだ。 ということは、このタナゴのオスは別のオスをきちんと同種のオスであると認識しているに違いないのだ。彼は視界に入ってきたものを瞬時に分別している。危険なものか、安全なものか。攻撃を加えるべきものか、無視すべきものか。彼は彼の行動に相応しいものを認識し、そして反応している。僕が、愛おしい女の子を認識して、そしてキスするように。単純に。そして複雑に。 * 僕らの共通の友人が書いたインターネット上の文章について、彼女が話した。 「私のことを書いてるんじゃないかなって気になった」 「そう?」 「なんとなくー」 「最初に読んだときに脳みその5%くらいでちょっと気にしたかな。あの人の文章」 僕は言った。5%、20分の1。アルコールで言えばビールくらいだ。 「そうやってさ、共感というか、私のことかなって思わせる力ってスゴイと思う」彼女が言った。 「言葉はそういうもんだよ」 「そういう言葉をつむぎだせる人はすごいと思う」 「人間が二人いて初めて言葉が生まれるのさ」 「前にも言ったけど、」彼女は煙を吐き出した。「私は共感なんてしてもらいたくないんだけどさ」 「ほら、そうやってアナタはまたあの文章に共感して同じことを言ってる」僕も煙を吐き出した。 「むぅ。やっぱり傍観者でいいや」そう言って彼女はタバコをもみ消した。 * グスタフ・マーラーの妻アルマは第6交響曲『悲劇的』について次のように書いた。「私達は、あの頃二人とも泣いていた」 グスタフ・マーラーは一八六○年にオーストリア領ボヘミアのユダヤ系商人の家に生まれ、一九一一年にウィーンで死んだ。音楽と並行してウィーン大学で歴史と哲学を学び、指揮者として活躍した。 マーラーの音楽を形容するのは難しい。大きな誤解を覚悟してあえて表現するならば、死に対する恐怖、哀しみ、そしてそれらを音楽として表現したときに目の前に表れる美を通して昇華された悦び、そして愛だ。彼の音楽には常に死に対する予感がつきまとっている。ベートーヴェンやシューベルト、ブルックナーらが第9交響曲を書き上げると世を去ってしまったことに彼は迷信的な恐れを抱き、彼は九番目の交響曲に番号をつけなかった。十番目の交響曲に「第9」と番号をつけた後、十一番目の交響曲「第10」の作曲に取り掛かるが、その半ばで迷信どおりに世を去った。死の床では哲学書を手放さず、彼が最後に言った言葉は「モーツァルト、モーツァルト!」だった。 僕がマーラーの音楽を初めて耳にしたのは一九九二年の夏だったと思う。父が買ってきたフォン・カラヤン指揮の第5交響曲のCDだった。そのものものしく不協和音だらけの音楽を、はじめ僕は全く理解できなかった。それでも何かが僕の心を捉えて離さなかったのだろう。僕はときどきそのCDがとても気になって、何度も聴いた。それでもやっぱり理解できなかった。 その頃の僕は手塚治虫の『アドルフに告ぐ』の影響で、リヒャルト・ワグナーの音楽を好んで聴いていた。それでマーラーの第5交響曲も、威厳のある嵐のような第一楽章と第二楽章を集中して聴いていた。けれども、あるとき僕は何かの拍子で第四楽章からそれを聴いてみたのだ。そして、初めてすべてを理解した。 それからの僕は、まるで麻薬中毒患者のようだった。手元にまとまったお金が貯まるとそれはすぐにマーラーのCDに姿を変えた。そしてマーラーの哀しみを理解できるまで、僕は何度も何度も繰り返し聴いた。一回聴いただけで理解できる曲はたった一つもなかった。一つの哀しみを理解するとまた別の哀しみを求めた。一年ほどで、僕はマーラーの交響曲と管弦楽曲のCDを一通り揃え終わっていた。 哀しみの不協和音が、自由落下曲線の螺旋を描きながら僕のまわりに美しい波紋を描いていった。もしかしたら漂っていたのは僕のほうかもしれない。それは第6交響曲の第三楽章、カウベルの音が泣き声のように鳴り響いていたときだった。スピーカーの前で僕も泣いていた。思春期の僕が聴くにはきっと美しすぎる音だったのだ。 大学入試の二次試験で、僕は思ったように解答できなかった。それは結局杞憂であったのだけど、僕が人生で最も大きな不安を抱いた瞬間だった。詳しくは書かないけれど、僕はそのときの入試に落ちていたら、故郷だとか恋人だとかいろんな大事なものを捨てようと考えていた。 僕は家族がみんな寝静まった深夜に一人、マーラーの交響曲第9番をかけて聴いた。その最終楽章は深い、休息に満ちたアダージョだった。静かに、可能な限り静かに、すべての音が消えていった。 それ以来、僕は哀しいことがあると必ずマーラーの第9交響曲をかけることにしている。 * そういうわけだから、僕はもうコーネリアスの『ファンタズマ』だって怖くない。 * 「うう。飛ばして飲みすぎた」 「落ち着きなよ。世界も誰もアナタを置いては行かないさ」 「元気です」 「僕は僕の儀式を儀式どおりにやってるだけだから気にしなくていいし、あの人もあの人でアナタのことが好きなだけさ。それ以上でもそれ以下でもないんだ」 「儀式、ですか」笑いながら彼女が僕に訊いた。 「そう。鶴がダンスを踊るようにね」 「いろんなこと考えると後悔しそうだから、何も考えずに聞いておくー」 「マーラーを聴いて酒を飲む。そういう儀式だよ。今日はたまたまテレビでやってたから、ちょうどよかったんだ」 「なるほど」少し間をおいてから彼女は静かに言った。「聞き役は私、って気がしたんだよ」 「儀式の?」 「そ」 「いいね」 「なにが?」 「いいじゃないか。そういう気がしたんなら」僕はそういう自然な感覚が好きだった。 「最近、私は質問しすぎる気はしてる。うん、いいね」 「パズルだよ」 「パズルか」彼女が相槌を打った。 「訊かないの?」僕は笑った。 「考えてみた。わからなかったけど。というわけで、パズルって?」 「足許について理解しようとすることさ」僕らの共通の友人が書いた文章を引用して、僕は言った。 「うーーーーん」 「女の子に考えさせるのが好きなんだ」 「過大評価しちゃダメですよ」それから彼女は付け加えた。「女の子全般に」 「ピースの場所を間違えたから僕がマーラーを聴いて酒を飲む。間違ったピースを正しい場所にはめようとしてアナタも酒を飲む」 「間違えたわけじゃないよ、きっと。そう思う」 「うん。何が正しいかは僕が決めることじゃないから、厳密には間違えたわけじゃないさ」 「ちょっとタイミングが悪いだけさ」少し考えてから彼女は言った。 「タイミングのことを考えたくないんだ」彼女よりもう少し長く考えてから、僕は言った。 「だって他に表現する言葉がみつからないんだ」僕の口調を真似て彼女が言った。 「表現の問題じゃないよ」 そのとき僕は急に、何か面白いことが始まりつつある、と思った。そして言った。 「このまま小説にしたいね、これ」 「してみたら?」彼女は笑った。 「酔ってなかったらね」 「酔ったまま書くのも乙なものかも」 「その発言は小説向きじゃないよ」 「私に期待しないで」 「側にいたらキスするタイミングだね」 「じゃあそろそろ正直に行こう」しばらく考えてから彼女が言った。「アナタのことを意識しまくりなんだけど、それをとめるのに一生懸命なんだよ」 * 「アナタにとって小説を書くってことは、アルファベットを覚える玩具みたいなものなのかな。子供の」彼女が言った。 「そう見える? そうかもしれない」 「うん。ちょっとそう思った。アナタが言ってた、その用途に応じて写真と日記と小説を使い分けてるって表現、とってもわかりやすいと思うんだけど」 「それはいいことなのかな」 「悪いことじゃないと思うよ」 瞬間と連続、そして輪郭が生まれる。 「それで、輪郭を最後まで書くためにある程度の長さが必要なんだ。そう、薀蓄が必要なんだ」僕は言った。 「まだまだ薀蓄不足ってわけね」彼女が笑った。 「うん、もうひとつくらい入れたほうがバランス良かったかもしれないね」 「そう言われてみれば。良かったなんて過去形で言ってないで、加筆すればいいじゃない」彼女は笑って言った。 薀蓄には閃きが必要だ。 「もう閃かないの?」彼女が簡単に言った。無駄のない、シンプルな笑顔だった。 * アメリカの文化人類学者ウィリアム・ジョンストンは一般向けの著書『物理法則で解き明かす文化学』(Johnston, W., 1963)で次のように述べている。 ――我々が知覚する三次元世界では、電磁力や重力といった物理力は距離の二乗に反比例して弱くなる。例えば、電燈の見かけの明るさは、その電燈から離れた距離の二乗に反比例する。つまり、電燈から二倍離れると四倍暗くなる。なぜだろうか? それは電燈の光が、北に南に西に東に、そして空に地面に、球状に広がって拡散していくからだ。球の表面積を求める公式は、S=4πr 2 である。球の半径が二倍になると、球の表面積は四倍になるのがおわかりだろうか? つまり、光の密度は四分の一になるのだ。 このような理由から我々の三次元世界では、物質の作用と反作用の強さ、すなわち物質同士の関係の強さには、距離の二乗に反比例して弱くなるという法則がある。 さて、この章では、この「物質同士の関係は、距離の二乗に反比例して弱くなる」という法則を、人間同士の関係に当てはめて考えてみることにしよう。 最初のテーマは「出会い」だ。ある男性とある女性が出会う確率と、距離の間にはどんな関係があるのだろうか。ここでまず注意しなければならないのは、私達人間は、ほとんど地球の表面にべたっと張り付いて生活をしているということだ。つまり、私達の世界は三次元空間ではなく二次元の平面ということになる。私達は空に向かって飛ぶことも出来ないし、地面を掘って地球の中心で「やあ」と友人に出会うこともない。だから、人間関係は球状ではなく、円状に広がっていくことになる。 円周の長さの公式は、L=2πr だから、円の半径が二倍になると、円周の長さも二倍になる。つまり人間同士の関係の強さは、距離に反比例して弱くなる。しかし、これは本当だろうか? ただの机上の空論かもしれない。 幸いなことに、私達にとって興味深いひとつの研究がすでに報告されている。ドイツの遺伝学者パウル・フォン・ビューローが一九一二年に発表した『ドイツ南部ベルゲンシュタット村の女性達の嫁ぎ先に影響した環境的要因』(von Bülow, P., 1912)だ。 フォン・ビューローは、オーストリア国境近くのドイツ南部の村ベルゲンシュタットの戸籍を過去三○年に遡って詳細に調べあげた。そして彼はベルゲンシュタット村の女性達の嫁ぎ先を調査し、その場所を地図上にプロットしていった。できあがった地図を見れば、彼女達が男性とどのように巡り合ったのか、その傾向(トレンド)が一目瞭然というわけだ。一体何が「運命の出会い」を演出したのだろうか? それをフォン・ビューローは、事実の結果を重ね合わせていくという、愚直ではあるが反論の余地のない手法を用いて明らかにしていった。 できあがった地図を見てみると、明らかにある境界を境にして「入嫁率」が急激に落ち込んでいた。一つは河川である。たとえ川に橋がかかっていたとしてもそれは同じだった。そして川幅が広ければ広いほどその影響は顕著だった。もう一つの顕著な境界は、オーストリアとの国境だった。 さらに言えば、彼女達の「入嫁率」の分布は同心円状のそれでもなかった。それは何か脈のようにも見えた。それは道路だった。彼女達の多くは幹線道路の近くで「運命の出会い」を見つけていた。道路が支道や側道に入ると「運命の出会い」は急激に低下していた。 そして一般的な傾向としては、距離が遠くなれば遠くなるほど「入嫁率」は低下していた。フォン・ビューローは結論付けている。「その場所へ至るまでの所要時間や費用、そして利便性が総合的なものとして、女性達と男性の『実際的(プラクティカル)な距離』を決定していると言えるだろう。このように、我々人間のように文明社会に生きる知性ある生き物であっても、生物の交配には地理的、経済的要因が強く影響しており、遺伝子プールにおける特定の遺伝子の伝播を考察する場合には、そのような様々な要因を考慮に入れて伝播の経路や分布可能範囲を推測する必要があると考えられる」―― この話は全部嘘だ。たった今、僕が書いた。 * 「僕はタイミングを憎んでいるんだ。ずっと。今の話をしてるんじゃなくて。アナタが逆のことを憎んでいるように。いや、逆とかじゃないかもしれないけど」 「うーん。いつのタイミングを?」 「いつ、とかじゃなくてさ。タイミングというもの自体を憎んでいるんだ」 「タイミングって限定された時間だよね」 「でも、タイミングって言葉はいつでも存在してるだろ。言い換えると、限定された時間を憎んでいる。いつからだろう」 「どうして憎むんだろう。自然なことなのにさ」 「飛びたいときに飛びたいだけだよ」 「どうして飛べないの?」 「タイミングが悪いからさ」 「なるほど。だから憎いのか」 「そうだね、場所が悪いとか時間が悪いとか」 「恋愛なんてさ、ホント、タイミングな気がするよ」 「今はキスする時間でもキスできる場所でもないの。なんてさ」 「タイミングが悪いから場所じゃないよ」 「そう? 時空は連続してるんだぜ」 「連続してても手が届かないじゃない」 「何の話?」 「時空ー」 「知ってるよ。手の話だよ」 「手?」 「時間と空間の話をしてるのさ。 なぜアナタがそれをわけるのかってこと。要は座標の話さ。四次元のね」 「一緒なのかな」 「じゃあ、アナタの言うタイミングって何? 場所じゃない」 「なるほど。場所だ。でもそうじゃないと思ってたんだよ」 「キスが許される座標と許されない座標があるんだろ。タイミングか場所が悪いと許されない。許されなくても僕はキスをするから、やめなよって言われる。そして僕はタイミングを憎む」 「私は先を常に考えちゃう人間なんだよ。それだけ」 「まあ、アナタを責める気はないよ。女はそういう性なんだから。誰かが書いた本の言い草を借りるとね。代りにタイミングを憎むだけ」 * 「ねぇ」僕は言った。 「うん?」 「こんなのクレージーだよ。ダメだよ。振った相手をその晩に捕まえたら」 「だって私の役目だもん。誰がなんと言おうと、それは譲れないよ」 僕はCDプレーヤーにマーラーの交響曲第9番をセットした。静かに、可能な限り静かに。 * ジョンストン氏自身はお見合い結婚だった。彼の家庭は二男一女に恵まれた。 もう少し、ジョンストン氏の話にお付き合いいただこう。僕が話すよりきっとずっと説得力がある。 ジョンストン氏は『物理法則で解き明かす文化学』で次のようにも述べている。 ――フォン・ビューローが暗に指摘するように、人間同士の関係の強さが本当に距離に反比例して弱くなっているのかを検証することは、実際問題として、極めて困難なように思われる。しかし、逆に言えば、データが持つ属性を統一しさえすれば、それを数学的に扱うことは可能になるはずだ。そこで私は、フォン・ビューローのデータから幹線道路沿いのデータだけを抽出し、支道や側道沿いのもの、国境や橋を越えたものなどをすべて除外してみた。そして、二点間の直線距離ではなくて、幹線道路沿いの長さを測った「実際的距離」を記録していった。そして私は縦軸に「入嫁率」をとり、横軸に「実際的距離」をとってグラフにデータをプロットしてみた。 結果は驚くべきものだった。「入嫁率」は「実際的距離」に反比例してはいなかったのだ。それどころではなかった。「入嫁率」は「実際的距離」の二乗に反比例していたのだ! まるで、光や重力のように! いったい何が起こっているのだろうか? 私は同僚のケネス・キャベンディッシュにもグラフを見せてどう思うかと訊いてみた。ケンは少しめんどくさそうに(私と違って彼はとても忙しいのだ)簡単に言った。「ウィル、そりゃ君、もう一つ次元があるってことだろう?」 最初に書いたとおり、我々の住む地球表面は二次元の平面に近似できる。いろいろ考えてみたが、どう考えてみてもこれは正しいように思われる。ということは、もう一つ別の次元が存在していることになる。思い当たるのは一つしかない。つまり、時間軸だ。 時間。なるほど、考えてみるとこれは至極もっともなことのように私には思えた。なぜなら、私達人間は記憶する生き物だからだ。私達人間は記憶という時間の中に生きている。 三日ごとに会えるカップルと三週間ごとにしか会えないカップルの成功率を比較すれば、前者のほうが成功率が高い、ということは大いに考えられることだ。そして、どのくらいの頻度で会えるかという問題は、彼らがどれくらいの距離に住んでいるかという問題と強い関連性がある、というのもありそうな話だ。おそらく、この再会の頻度の間隔と彼らの(実際的な)距離の間には、統計的に見れば、正比例の関係が成り立っているに違いない。 悲しいことに、私達人間は忘れる生き物でもある。一度感じた強い感情も、時間が経つにつれて曖昧に、おぼろげになっていく。こういう経験は誰でも持っているに違いない。とても親しかった友人が就職や転勤などで遠くに旅立ってしまい、最初は手紙のやり取りなどもあったけれど、いつの間にか音信不通になってしまった、というのはよくあることだ。愛情がどれだけ持続するか、ということに考えを巡らせば、私達は「時間」というファクターを絶対に無視できないはずだ。 つまり、私達は時空というものの中で、愛情や友情の「重力圏」を持っている、と言い換えることができるだろう。そしてこれは何も個人間の問題だけではなく、社会間、国家間、文化間においても当てはまる問題なのだ。それで私達は文化間の相互作用についてこのような「重力圏」を念頭に諸問題を考察していく必要があると言える―― * 「その人を知るとは、その人が興味を持ってることと、何に対して怒るかを知ることなんだってね」 彼女が言った。「アナタは何に怒るんだろう。私は何に怒るんだろう」 「ねえ、違う言い方をしてたら重力圏は変わってた?」僕は訊いた。 「変わってないと思う。私は、今現実のアナタに触れる手段がないもの」 * 僕の指と彼女の指が絡まって、僕は二人の指を区別できなくなった。朝の日の香りのように、柔らかく暖かいキスだった。 彼女はまるで一四歳の少女のように恥ずかしそうに小さく微笑んだ。そして目を瞑った。僕は目を閉じて唇を合わせた。一秒と永遠の違いなんて、そのときの僕らには何の意味も持ってはいなかった。 * ジョンストン氏は若い頃、小さな従姉妹のメアリーが好きだった。 そのジョンストン氏はこうも述べている。もちろん『物理法則で解き明かす文化学』で、だ。 ――宇宙空間において、バランスのとれた二つの天体は、重心を中心として釣り合っており、その重心のまわりに楕円軌道を描いている。釣り合っている、ということをもう少し詳しく書くと、二天体の遠心力と引力はいつも等しい。遠心力は天体の質量と速度によって決まるから、二天体は遠くにいるときは引力が弱くなるからゆっくり動き、近くにいるときは引力が強くなるから忙しく動いている。 ケプラーの法則と呼ばれるこの法則は、我々人間の「重力圏」に対しても有意な示唆をもしかしたら与えているかもしれない。もし、二つの天体が間違った距離で間違った速度で軌道を進んでしまったのなら、二天体間のバランスは崩れ、ばらばらに宇宙の逆方向に飛び出してしまい、彼らは二度と出会わなくなるだろう―― ジョンストン氏は本から目を上げると僕を見て言った。 「地図の座標をずらすことはとても便利なことだ。君たちはそうやって『一時的に』二人の重力圏を重ね合わせることができる。でも、それに慣れてしまってはいけないよ。座標を戻したときに現実世界で失うものが大きくなりすぎてしまうから」 ジョンストン氏は灰色の瞳で僕を見つめ続けた。 「そうですね」僕は言った。「大事な人ほど遠くに行ってしまいました」静かに、可能な限り静かに。 * 「すごく葛藤したんだ」 「何を?」 「アナタが大事にするものを僕も大事にしてる。片方だけじゃ人間は生きられないんだ。僕だってアナタと同じように考える。キスをした向こう側の未来にこういう時間があるのも知ってる。でもキスとか愛情は僕にとってはそういうものだから。未来のことを考えたらキスが汚れちまうんだ」 「私はホントにその瞬間しか考えてなかったから。あのとき、アナタの腕が心地よかったから。それだけ。結局さ、夢物語なんだよ。だからこそ、今どうしていいかわからない」 「明日もできるキスなんてなんの価値もないよ」 「私は刹那主義的には生きられない人間なんだよ。今が大事なのはわかっていても、明日のことを気にしちゃう人間なんだよ」 「主義じゃない。真理だ。生きるためには両方必要だけどね」 「うん、実際真理だとも思う。だけどできない」 「本の中で、『鼠』が言ってる」 「なに?」 「『優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういったものである。』」 「うーむ。難しそうだ」 「右翼と左翼、二つを含有したところに真の政治があるのさ」 「難しいけど、その真理を知ったから、がんばらなきゃな、って気分ではあるよ」 「一時性と永続性、二つを含有したところに真の恋愛がある、と言い換えてもいい」 「やっぱり難しいかな、と思ってきた」 「ははは。そういうこと言うところが大好き」 「がんばりだけじゃなんともならないことのほうが多いけどさ」彼女は遠い目で言った。 「がんばるんじゃないんだ」 「努める?」 「例えば、地平線に両耳を傾けてさ。瞬間と繋がりを感じるんだ。両手を耳に添えてね」 「感じられるのかな、果たして」 「そういうアナタみたいな可哀想な女の子をそういう場所に連れて行きたいんだ。世界はもっともっともっと広くて開かれているんだよ」少し考えてから僕は言った。「本来、枕を並べてする話だけどね」 「うん、同じこと思ってた。アナタの声で、同じベッドに寝っころがって聞きたかったって」 「もう寝なよ。そろそろ地図の座標を戻さなきゃ。僕はどこにも行かないからさ」 「うん」 * もう少しだけ話をしてから僕らは、おやすみを言った。儀式は第四楽章を奏で始めたところだった。 最後に彼女は「あれでよかったんだよ、きっと」と言った。タナゴと薀蓄と、恋。僕はどこにも行かない。でも女の子というのはどこかに行ってしまうものなんだ。 携帯電話がぶーん、と鳴ったような気がした。でも、気のせいだった。 僕は残りのコニャックで第四楽章を胃の中に流し込んだ。 参考文献 ウィリアム・ジョンストン著 坂井圭佑訳 『物理法則で解き明かす文化学』 東京うそ書房 パウル・フォン・ビューロー著 佐藤真紀訳 『ドイツ南部ベルゲンシュタット村の女性達の嫁ぎ先に 影響した環境的要因』 うそ文芸科学 村上春樹著 『風の歌を聴け』 講談社 |