宝物は何だっけ?

其の四

上松 弘庸





 
 カン、カン、カン。
 壊れた部分を修理する 壊れた所は修理しないと使えない
 カン、カン、カン。
 ポッカリ空いてた穴を 継ぎ接ぎで塞いで応急処置 ここはとっても大事な部分 脆く 儚く 手間が掛かる 壊さないように 壊さないように
 カン、カン、カン。
 また何かの弾みで穴が空くかもしれない でも まぁ大丈夫 穴が空いたらまた継ぎ接ぎすればいい
 カン、カン、カン。
 これでよし と


 「あー、また失敗だ…」
 田吾作はたった今作成した吸光スペクトルのグラフを見て誰にいうともなく呟いた。
 「また今日も報告書提出できないのか…」
 隣で見ていた伸一も、田吾作と一緒に溜息をついた。
 「原子吸光度及び固相抽出法による有機すず化合物の定量」、伸一が田吾作と一緒に行っている研究テーマだ。2人がやっている研究は、それほど大変なものではなかったが、何回測定しても吸光スペクトルのグラフが上手く作成できず、その為濃度を測るのに作成しなければならない検量線を作成する事ができないのであった。2人はかれこれ1ヶ月もここで躓いている。田吾作は焦っていた。こんな所で躓く訳にはいかない。
 伸一は最近、化学に対する自分の興味が徐々に薄れてきているのを感じていた。いや、むしろそれは最近になってからではなく、もうずっと前から興味が無くなってきていると言えるかもしれない。伸一は化学の合成や分解の過程に対して興味を持っていた。しかし、大学で学ぶ化学は物理学の計算や化学式、特徴などを暗記する事が大部分を占めていて、伸一が学びたかった高校化学の延長としての有機化学の分野は殆ど、いや、今となっては全く学ぶ機会が無くなっていた。AとBを反応させてCとDが出来る。AにもBにも見られなかったC’という特徴がCには見られる。その特徴を活かし云々…という事を学びたかった伸一は、今学んでいるポテンシャルエネルギーを求める為の計算だとか、電子が存在する確率分布だとかは全く興味が無かった。そして、それは何も伸一に限った事ではなかった。みんな嫌々ながら勉強しているんだ、と伸一は思う。何も俺だけじゃない。
 
 結局伸一が部活に顔を出したのは練習終了直前だった。
 「お疲れ様です!」
 外で巻藁に向かって弓を打っていた2年生―その2年生は実際伸一などよりずっと練習熱心だった―が必要以上に大きな声で挨拶しているのを疎みながら、伸一は道場に入った。
 「おぅ」
 「よぉ」
 「就職決まったんだって?」
 「あー、何とか」
 伸一が道場にいた数人の同級生と気楽に挨拶を交わしている間に、1年生は伸一の靴を仕舞い、雪駄(せった)を出した。そういう仕来りなのだ。伸一の横を通る為、伸一の靴を仕舞い、伸一の雪駄を出す為に横を通ったにも関わらず、1年生は「失礼します」と頭を下げた。そしてその事に対して疑問を持つ者はこの道場に伸一の他には居なかった。そういう仕来りなのだ。
 「親父さん喜んでたろ?」
 「いや、まだ伝えてないんだ」
 「なんで?心配してんだろ?」
 「いや、伝えようとしたんだけど、色々あってね…」
 伸一は今から胴着に着替えても間に合わないな、そう思ったが、後輩に示しがつかない、ただそれだけの為に胴着を持って更衣室に入った。その時もすれ違った3年生が「失礼します」と頭を下げた。伸一は、練習する時間もないのに道場に来て、胴着に着替えた。それによって1年生は伸一の靴を仕舞い、全く使う機会の無い筈の伸一の雪駄を出さなければならなかった。伸一にとって一番辛い事は、出された雪駄を使わなければいけない事だった。そうしなければ1年生が自分の靴を仕舞い、自分の雪駄を出した意味が無くなってしまう。そしてその為に自分の前を「失礼します」と頭を下げながら通った意味が無くなってしまう。しかし、そんな事を気に病む人間はこの道場に伸一の他居なかった。下級生が上級生の靴を仕舞い、雪駄を出すのは当たり前だし、下級生が上級生の前を通る時に「失礼します」と頭を下げるのは当たり前なのだ。その事で自分が練習終了後に自主練をやる必要は無いのだ。伸一は思った。自分はやはり体育会には向いていない。もう既に217回も思った事だった。
 着替えて道場に入ってみると、やはり練習は終わろうとしている所だった。
 「整列!」主将が言った。そして、その声は実に威厳に満ちた声だった。実際、この主将は伸一よりも年下だった。伸一は列の一番後ろに立った。4年生はここに立つのだ。そういう仕来りなのだ。
 「正座!」やはり主将が威厳に満ちた声で言った。伸一は正座した。そういう仕来りなのだ。
 伸一は目を瞑った。最近何だか特に調子が悪い。しかし、道場に居る間は何かあっては困るのだ。俺は4年生なのだ。俺は後輩に示さなければいけない。先輩のあるべき姿、この部のあるべき姿を示さなければならない。失態は許されないのだ。右足が気になる。不安だ。やはり俺は向いてない。何もかも向いてない。
 「目を開いて、礼」
 部活の練習時間が終わった。

 伸一は今すぐ帰りたかった。誰も居ない自分の部屋へ。誰も居ないのは酷く寂しいが、誰にも迷惑をかける事はない。誰にも心配される事も無い。今すぐ帰りたかった。しかし、今日も部活に顔を出さなければならなかったのと同様、全く練習してない今帰る訳にはいかないのだ。そう、伸一は全く、絶望的に一人になれなかった。そんな訳で結局伸一は練習を始めた。
 伸一は射の一連の動作をゆっくりと行った。儀式だ、そう伸一はいつも思う。
 足踏み。胴作り。取り掛け。物見。打ち起こし。大三。引き分け。会。
 伸一の心は無になる。無我の境地だ。この時だけは伸一はあらゆる一切を忘れられる。そう、あの絶望的な不安も。
 離れ。矢は音を立てながら的の方に向かっていく。一瞬の事だ。そして永遠の一瞬。
 矢は真っ直ぐ飛んでいった。
 残心。10時の方向に矢が的を外したのを確認し、伸一は少しずつ現実を取り戻す。それと共に徐々にあの不安が徐々に体を埋め尽くしていく。大丈夫だ。全く根拠が無い訳ではない。今日は調子が良い。震える右手に力を入れ、伸一は同じ作業をもう一度行った。
 足踏み。胴作り。取り掛け。物見。打ち起こし。大三。引き分け。会。そして離れ。残心。
 今度は矢は的の真下に飛んでいった。
 右足がいつもと違うような気がする。
 気のせいだ、そう伸一は思う。気にするからだ。気にする必要はない。今は射に集中すれば良いんだ。そうだ。集中すればいいんだ。
 右手の震えはまだ止まらなかった。

 調子が悪いのはいつも右だ。持っている八本の矢を打ち終わった後、伸一は射場を出ながら頭の中で愚痴った。右手も右足も要らない。
 的に当っている矢は一本だけだった。この世は嫌になるくらい生き難い所だった。

 色んな物を手に入れたい、そんな欲求が伸一にはある。別に特に欲しい物など無い。が、物欲に駆られる。寧ろ欲求と言い表すよりも、衝動に駆られる、と言った方が適切であろうか。その実、一つでも手に入らない物が在ると、伸一はもうそれだけで自分の持っている全ての物を放棄してしまう。その一つが弓道技術だった。他にも色々ある。友人、恋人、金、知識、信頼、そしてそれらに守られているという絶対的な安心感。
 要らない物も沢山ある。沢山在り過ぎて訳が分からないくらいだ。要る物だって要らない。薬も、要らない。病院も、要らない。全部要らない。要らない物だらけだ。全部無けりゃとても安心出来るのに。だけど安心も、要らない。要らない。要らない。全部要らない。
 もう何も望まない。だから何も奪わないで欲しい。お願いだからこれ以上俺から何も奪わないで欲しい。そっとしておいて欲しい。
 伸一は大きなごみの山の中で探し物をしている。探し物はなかなか見つからない。捨てなきゃ良かった、と伸一は思う。ごみの中に埋もれている探し物は、もう絶対に見つからない。何であんなに大切にしていた宝物を捨ててしまったのだろう。何で俺は捨ててしまったんだろう。

 しかし、我々は実に長い時間を人生として与えられえている。これらの信じられぬ、無限ともいえる人生の中で、何故我々は自己を向上させる喜びや、新たな知識を得る喜びに満足せず、過去に執着し、何時も見たされない気持ちになるのだろう?我々は一体これ以上、この無限の可能性の他に何が必要なのだろう?しかし、我々は満足しない。我々が犯す最も罪深い事は、この満ち足りた希望に全く気が付かず、自分を不幸な人間だと思うことではないだろうか。我々が生きている限り、喜びも悲しみも全て我々の内にあるのに!

 部屋に帰ってみると留守電が入っていた。
 「17時、46分です」
 ピーという耳障りな電子音に続き、聞きなれた声が流れてきた。
 「聡です。ちょっと聞きたい事があって電話しました」
 沈黙。
 「ちょっと家でゴタゴタがあってね。お兄ちゃんは心配しなくていいんだけどさ。うん。大した事じゃないから。それで、多分知らないだろうけど、知ってたら教えて欲しいんだ。お父さんがね…。…まぁいいや。一昨日、1回帰ってきたんだけどね、知らないかな、お姉ちゃん」
 規子?
 「お姉ちゃんが帰ってこないんだ」

 世の中は、伸一の知らない間に随分と住み難くなっていた。