宝物は何だっけ?

其の十

上松 弘庸


 
 ここで、昨夜伸一が一晩考え続けた、卑劣極まりない、そして紛れもない真実に対する現実の仕打ちを書き記したいと思う。伸一が、光を選んだのか、それとも闇を選んだのか、それは残念ながらあまり重要な事ではない。何れにしろ結果は変わらなかった。長い前触れであったが、私がこの小説―もしこれが小説と呼べるものならば、だが―で書きたかった唯一の事柄である。果たして本当にこんなに長い前振りが必要であったのか、私には分からない。だが、恐らく全く必要なかったという訳でもないだろう。
 舞台は伸一が自分の進むべき道を「自分の意志で」決定した翌日、郡山の伸一の部屋。時折聞こえる電車の音以外、全くの静寂といって差し支えないだろう。部屋には机とテレビのみ。テレビは部屋の装飾品にしかなっていない。



 『宝物はなんだっけ?あの輝かしい毎日、俺は何を宝物にしてたんだっけ?』伸一は考えた。今の俺は蜘蛛の巣の中でジタバタもがき、苦しんでいる蝿そのものじゃないか。『何が大切だったんだろう?いつの間に、俺はそれを忘れてしまったんだろう?』



『昔、俺は何をしていたんだろう』伸一はふと考えた。伸一には昔の記憶が殆どない。脳腫瘍摘出手術の為かもしれないが、原因はそれだけではないような気がした。何か大切な、とても大切なものを忘れているような…。


夕方
『そうだ、あの毎日が、あの一瞬一瞬が宝物だったんだ。あの無限に広がる可能性が俺の宝物だったんだ』伸一は思う。『しかし、なんで俺はこんなに空虚なんだろう。可能性?今の俺にだって可能性なんか溢れるくらいあるじゃないか』『何故俺がここまで苦しまなきゃいけない?』『それに、俺が不幸な理由は、俺が紛れもなくその事を事実として認識している一点に尽きるじゃないか』



 『しかし、こうして今俺が苦しんでいる間にも、なんという多くの人達が幸せを感じている事だろう!』ふと眺めると時計は23時を回ろうとしていた。『この瞬間に、どれだけ多くの人が楽しい夢を見ているのだろう。どれだけ多くの人が恋人と一緒に満たされた時間を共に過ごしているのだろう?』『人間は、例え自分が幸せでなくとも多くの人が幸せだという事実だけで幸せになれる筈だ。そうだ、俺は俺個人の幸福よりももっともっと尊い幸福を知っている。俺が真に大切にすべきはこの時間にどれだけの幸福が存在するかという可能性だ』


深夜
 『精一杯生きたい』伸一は痛感した。『一生懸命に生きたい。精一杯生きる為に、五感を研ぎ澄まして生きる。少しの無駄もないように生きる。俺は一日一日を、いや、一瞬一瞬を生きている。生きているのだ。痛み、苦しみ、それに喜びまでもがこれほどまでに強く俺の中に入ってくる。俺は、正にこの瞬間を生きているのだ!』

 『見てろ!俺は必ず恐怖に打ち勝ってやる!俺は…俺は………

 急に、いつも通り何の前触れもなく彼の意識の糸はプツンと途切れた。刹那、感じるのは強い恐怖。そして、焦り。一体彼に何ができるというのだろう?何をするべきというのだろう?彼に今最も必要なのは、この雨の中冷たいアスファルトに横になり、目を瞑り、ひたすら耐える事のみだ。それ以上の事を一体誰が彼に望むというのだ!神様だってそれ以上彼に望みやしない!「あぁぁぁ!あああああ!」声にならない声を上げ、焦点が定まらない目で宙を見つめる。この時間、彼は誰よりも孤独だった。この瞬間、例え世界が幸せに満ちていたとしても、そして勿論彼と同じように苦しんでいたとしても、彼は孤独だった。一体それが彼の罪だろうか?ああ、読者諸氏よ、先程まであれほど一生懸命に生きたいと願っていた男の結末がこれでよかろう筈があるだろうか!これが他人の幸せを心から願う人間の行き着く先だというのだろうか!そんな事が実際ありうるのだろうか!ああ!私は心から願う!困難は必ず乗り越えられるものだという事を!