ウ ソ ツ キ 何の変哲も無い初夏の午後。私は、指に挟んだピアニシモから灰が勝手に落ちていっても、別段気にする必要も無いくらい、フワフワした気分でいる。今シーズン初めて履いたミュールの、久々のあの感触に、早速靴擦れが出来てしまったけれど、それも気にしない。ミュールを脱ぎ捨てて、裸の足を投げ出して、そして隣でやはり裸足になっているカオルくんの左足に、私の右足をぶつけて遊んだりする。あまりにも平和な時間。 よくよく考えてみれば、むしろ何の変哲も無さ過ぎるのが、かえって非日常的な午後なのかも知れなかった。だって、いつものカオルくんは気紛れで我儘で嘘つきが過ぎる。お陰で私は、ドキドキしたり怒ったり泣いたり笑ったりするばかりの毎日だ。私の顔に、ただ緩やかな微笑だけを湛えさせるような時間など、あり得ない。 『三コマ目の講義をサボって公園で昼寝をしたい』などと言う私の独り言に、大人しく同意して付き合ってくれるだなんて、絶対にカオルくんらしくないのだ。ひょっとしたら、滅多に表には現れない私の意志を、単に珍しがっているだけかも知れないけれど。 「ねえ、カオルくんの夢には、色はある?」 こんな、何の役にも立たないような会話を交わせるのも、私は嬉しくて仕方が無い。 「何、それ? 俺の将来が色っぽいかどうかってこと?」 「ばか。そうじゃなくて、眠っているときに見る夢のほう」 「ああ」 「夢の中で見る光景は、カラーかモノクロかってこと。色や音や匂いのある夢を見る人と、そうでない人がいるって、この前読んだ本に書いてあったから」 「どうだろう。色なんて意識した事ない。だいいち、夢なんて殆ど覚えてないし、どうでもいいよ」 カオルくんは、たいして興味もなさそうな様子で答えた。いつもならば、そんなカオルくんを見て、それ以上何も言えなくなってしまう私なのだけれど、今日は何を言っても大丈夫な気がする。 「私も。モノクロだと思ったこともないけれど、はっきりと色を感じたことがないから、どっちだろうと思って」 カオルくんは、くつろいだように芝生の上に仰向けに寝転びながら、私のくだらない話に、続きを作ってくれる。 「音は良く感じるんだけど」 「あ、私も!」 私たちは音楽を通じて知り合ったので、どんな話をしていても、結局は、音の話に落ち着いてしまう。 「すげー格好良いメロディが思い浮かんだりして、ギター弾きながら歌ってる夢をよく見るよ」 「だけど、目が覚めると、どんなメロディーだったか覚えてなくて、悔しい想いをするんだよね。夢が録音出来たらいいのにって」 「そうそう。何で解るの?」 「私も、そういう夢をしょっちゅう見るから」 そんな事を言い合って、私たちは少し笑った。 私は、歌が好きな事以外には、何の取柄もない人間だ。悲しいことに歌唱力は人並みなのだけれど、「好きだ」という気持ちだけは、唯一自分の芯を支えているものだと、自信を持って言える。それは、カオルくんに言わせると、「俺のギターへの執着並だから、認めてやる」というレベルなのだそうだ。私とカオルくんの間にある大きな違いは、カオルくんが少々きれいな顔をしていて、女の子にモテ過ぎる事なのだけれど、だからと言って私が引け目を感じなくて済むのは、カオルくんが音楽仲間として私を受け入れてくれているからなのだと思う。 だから、今はこうして一緒に居られる。 すぅっと体温が引いていくような気配がして、ふと隣を見ると、カオルくんはもう目を瞑って、眠ってしまったようだった。彼の身体の周辺に生い茂っている緑の芝生は、ところどころむしられていたり、穴を掘られていたり、蟻が時々歩いて行ったりして、決して作り物のように美しい訳ではなかったのだけれど、だからこそ、とても鮮やかに輝いているような気がした。木漏れ日は影と光を上手く調合して、風は肌に感じる程度の控えめさで通り過ぎていく。その中で、長い睫毛を伏せたカオルくんの端正に整った顔や、力の抜けた細くて長い腕や、ジーンズの先に付いている意外と大きな足は、何だか美しすぎて、私は溜息も出ないくらいだった。何処までが真実で、何処までが虚構なのか、見えなくなる。作り物みたいな、何の変哲も無い初夏の午後。 「好き」と言えれば良いと思った。 いっそ、彼が寝ている隙に、勝手にキスをしてしまえば良いと思った。 だけど、出来なかった。 その夜、私は夢を見た。 まるで今日の続きみたいな、光の溢れる公園で、すやすやと寝息を立てるカオルくんが隣に居て、私は気付かれないように小さく囁く。 「好き」 すると、寝ていたはずのカオルくんが、同じくらい小さな声で言う。 「ありがとう」 私はびっくりして、それにカオルくんの声が小さかったので、「えっ?」と飛び起きて、改めてカオルくんの顔を見た。 「ありがとう、すごく嬉しいよ」 そう言ってカオルくんは優しく微笑んだ。けれど、彼はいつもの彼とは全く違っていたので、夢の中にいる私は、がっくりと肩を落とした。 なにせ、彼の髪の毛は狂ったようなエメラルドグリーンをしていて、おまけに瞳にはカラーのコンタクトレンズを入れたかのような、奇妙に鮮やかな色が付いていたのだ。しかも、右には深い緑、左には明るいレモン色。めちゃくちゃだ。 それこそ本当にビー玉のような眼をして、この上ない美しさで優しく微笑むカオルくんを見て、ああ、この人は嘘をついているのだと思って、とても哀しくなった。 そんな夢だった。 いつも通りに朝が来て、布団を頭から被ったまま、今朝見たばかりのその夢を思い出した。それで、私はふと気が付いた。やっぱり私の夢には色があったのだった。しかも、あれほどまでに鮮やかな色が。脳裏に焼き付けられた、カオルくんの左右違う瞳を思い返しながら、私はまた少し哀しくなった。 「私の夢には、やっぱり色があったよ」 私は、今日また学校でカオルくんの姿を見つけても、昨日の会話の続きのように話し掛けることは、絶対に出来ないだろうと思った。だって、どんな夢を見たのかを訊かれたら、私は言葉に詰まるしかないのだから。 (終わり)
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