喫茶マロンへようこそ




朝倉 海人







 背広を着て歩くのが仕事とは言え、昨今のこの暑さは異常ではないだろうかと思ってしまう。背中から首筋にかけて日差しが容赦なく照らし焦がしているのが手にとるようにわかる。その上、それだけではなくアスファルトの大地からこれまた顔面にかけて茹でられているかのような熱気を受ける。私はそういう『異常気象』と手短に表現されるこの炎天下を歩いている。営業の仕事は、文系学部を卒業した自分にとって一番身近な就職先であった。就職浪人は他への体裁があるためにできず、かといって何か取柄があるわけでもない。そんな私が就職したのは、メーカーの営業職である。ノルマという言葉と営業成績だけが問われるこの仕事を選んだ自分に、不条理な怒りと後悔の念を抱きつつ私は歩いている。
 私鉄の小さな駅で降り、改札口がまだ自動化されていないなんとも懐かしさというよりも私に古さを感じさせるようなこの町に来たのは初めてだった。私は営業先の企業との約束の時間にまだ相当あるのを右手首にしている時計で確認し、どこか時間を潰せる所はないかと探しつつ歩いていた。
 駅前の商店街を通り抜け、少し脇道へ入ったような所にその喫茶店はあった。

 喫茶マロン

 なんとも田舎な感じを受けるネーミングセンスが逆に私の気を引いた。昔ながらの喫茶店ではあるが、それに似つかず大きい店である。もしかしたら私の知らないこちらの地方では有名なチェーン店なのかもしれない。私はマロンの方へと歩を向けた。
 茶色い木目調のデザインの扉を引く、「チリンチリン」と扉についている鈴が鳴った。店内は少しオレンジがかった光で照らされていた。古い洋楽が流れているのが、この店内の雰囲気に妙にマッチしていて私は少し気に入った。
 店員に一人であることを告げ、席に案内された。メニューを見ずにアメリカンを頼む。
 煙草に火をつけ少し落ち着いた私は、店内を見渡した。地元の客が多いようで店内は結構賑やかである。私はトイレに行こうと席を立った。見渡したが場所がどこにあるのかわからない。店員に尋ねようと私は、一人の店員に近づいた。
 「トイレはどこですかね?」
 「あ、そこの奥の左手です」
 丁寧に教えてくれた店員に軽く会釈してトイレに向かう私は、一つの違和感を覚えた。「あの店員は、さっき注文を聞きに来た店員なのか」ということである。確か、注文を聞きに来た店員は胸に『伊藤』と名札がついていた。私はトイレから席に帰る途中、店員を横目で見た。『伊藤』と書いてある。顔も先程の注文を聞きに来た店員だ。チラッと見ただけだが覚えがあった。

 しかし、次の瞬間私は自分を疑った。店員の名前が全て『伊藤』なのだ。それだけならともかく4人いる店員全てが同じ背格好をしているではないか。私は席に座り自分に言い聞かせた。「何かの見間違えだろう」と。もう一度、店員が集まっている方を眺めてみる。しかし何度見ても同じ顔の『伊藤』がそこに4人いるのだ。私はこの気持ちを誰かに伝えたかった。そして同じ驚き、戸惑いを共有したかったが、生憎、今この時間に誰かに電話しても皆仕事中のはずだった。
 注文したはずのアメリカンは中々私の元に来なかった。私は4人の同じ顔の『伊藤』という出会いの戸惑いとやって来ないコーヒーへの苛立ちが混じった不思議な感覚に包まれていた。
 「ちょっと、すいません」
 私は堪らずに『伊藤』に声をかけた。「はい、なんでしょうか?」と寄って来る『伊藤』は、やはり先程注文を聞きに来た男と同じ顔だった。
 「アメリカンが来ないんだけど」
 と私はなるべく平静を装って言った。が、相手の『伊藤』は驚いたように、
 「え?お客様、注文されましたか?」
 と、言うではないか。私は少し機嫌を悪くし、「さっき席についてすぐに言ったじゃなかいか」と言うと、「どちらの店員に申されましたか?」と返してくるので「『伊藤』さんだよ」と私は答えた。
 「伊藤と言いますと、どの伊藤でしょうか?」
 『伊藤』は真顔で聞いてくるのだ。私は「私をこの席に誘導した『伊藤』さんだよ」などと言い方を変えて何度も言うのだが、『伊藤』には伝わらないらしい。
 そうこうしていると、他の『伊藤』3人が私のテーブルに来た。『伊藤』たちは互いに誰が注文を受けたか話していたが、その声すらも同じ声質だった。「お前だろ」と『伊藤』を罵る『伊藤』、「その注文票はどこに行ったんだ?」とエプロンのポケットをあさる『伊藤』、「ここはお客様に謝ろう」と『伊藤』たちに言う腰の低い『伊藤』、『伊藤』だらけだ。
 そういうやり取りが10分ほど続いた後、4人が意見の一致をしたようで私にこう聞いてきた。
 「この中のどの伊藤でしょうか?」
 私は絶句した。こんな店がこの世の中にあっていいのか、と言いかけたが止めた。「もう、いいよ。お代は払うから出て行くよ」と私は言い、飲んでいないアメリカン代450円を置いて店の外に出た。「チリンチリン」と扉の鈴が、ご丁寧に再び鳴った。

 店を出て目的地に歩き出そうとすると、携帯電話が鳴った。取引先からだと思い、慌てて電話に出た。
 「もしもし、○□会社の伊藤ですけれど…」
 私は、肩を落として『伊藤』さんの話を聞いていた。