夜明けのミュウ




千村はつひ







 午前六時半。
 リナ、起きなさーい! という母の怒号が家の中に響いて、ミュウは私の布団に潜り込んできた。こうして私を起こすのが、いつからか彼女の毎朝のお仕事になっている。
 ミュウは私を起こそうと、布団からはみ出した私の手の甲に軽く爪を立てる。けれど、私の寝起きはとても悪い。
 と、そこへ突然家の外から赤ん坊の泣き声のような大きな声が聞こえてきた。低血圧の私でもさすがに目を覚ますほどの声だ。季節柄、発情期の猫の声だろう。ミュウがとても切なそうな顔をしたように見えた。
 ミュウには子宮がない。私がミュウを拾って、母にこの子を飼いたいと懇願したときに、飼うことを認めてもらう条件として不妊手術を言い渡されたからだ。私もミュウを飼いたいと思うばかりに、よく考えず不妊手術を受けさせてしまった。
 けれどミュウには発情という感覚が解るし、だから子宮のないことをとても不本意に思っている、と思う。発情の季節には、ミュウの股の間に分泌液が垂れてしまうことさえある。今日のように。
 私はティッシュでミュウの濡れた部分を拭ってやり、「ごめんね」と呟いて彼女を軽く抱きしめた。
 ミュウは「ミュー、ミュー」と鳴いた。

■ □ ■


 私は起き抜けに熱いシャワーを浴びる。頭から水を被るのは好きじゃなかったような気がするけれど、こうすれば目が覚めて頭が冴えてくる。
 七時過ぎ、シャンプーした髪の毛を乾かしてから朝食を摂る。母は毎日ご飯と味噌汁とちょっとした玉子料理と焼き魚か何かを用意し、私は毎日それをきっちり食べる。ミュウがおこぼれにあずかろうと、ご飯を食べている私にまとわりついてきた。私はついついおかずを与えてしまって、母に「デブ猫になるわよ」などと怒られる。
 それから私は歯を磨き、顔を洗い、服を着て、軽く化粧をして、靴を履く。これだけのことをこなすと、だいたい毎朝同じ電車に間に合うように出来ている。
 朝の電車は混雑していて、時々味噌汁のような匂いがする。私はこの電車に偶然乗り合わせるまでの、周りの人たちの生活について思う。きっと同じような時間に起きて、同じような味噌汁を飲んで、同じ電車に乗っているのだ。人間は皆、同じようなことばかりして生きている。
 八時過ぎ、私は会社に到着する。このご時世にそれなりの企業へコネでなんとか潜り込んだ一般職の私にとって、朝の仕事とは、課の皆さんの机を拭くことだ。今日は朝イチで部長に来客があるので、お茶とお茶請の準備も調えておく。
 難しい仕事は何もない。だからといって、頭にくることもないわけではない。だから私は仕事の合間に給湯室で事業部長の秘書である杉本さんとお茶を飲みながら、愚痴を言い合って楽しむ。
 そんなことやっている間に、すぐに昼休みだ。最近、時間の経つ早さに唖然とする。同じことばかりの繰り返しに疑問を持ち始めてしまうと大変だ。人間の人生というのがこういうふうに終わっていくものなのだと考えると、生きていても仕方ないような気がしてしまうから。
 お昼休みは、同期の由香と一緒に社員食堂でBランチを食べる。社員食堂のご飯はあまり美味しくないけれど、いつものことなので特に何も思わない。
 昼休みが終わってすぐ、課長のお供で取引先を訪問する。何をするわけでもなく、ただ後ろからついていって、愛想笑いをするだけの簡単な仕事だった。雇ってもらっておいて文句は言えないけれど、こういう女の子を一人キープしておこうという会社の考えがよく解らない。
 あまりに笑いすぎて頬の筋肉に痛みを感じながら会社に戻ると、『明日の会議資料を作成して五十部コピーしておいて』と机の上にメモが残されている。こういう仕事があるなら早く言ってほしいと、心の中で毒づいた。
 それでも、課長について行ってただ後ろで笑っているだけの仕事よりは、書類を作るほうがいくらか意義を感じられる。笑っているしか脳がないと思われたくないので、私はこの依頼をきちんとやり遂げないといけない。
 実は、今夜は一週間振りのデートの日でもある。待ち合わせ時間にはまだまだ余裕があるけれど、化粧直しやらなにやらと女の準備には時間がかかるもので、なんとかこの仕事を定時内で終わらせようと、私はがんばった。必死でがんばった。けれど、到底無理だった。結局、一時間半の残業をこなして、デートには三十分遅刻した。
 幸いなのは、裕樹は私がどんなに遅れてもずっと待っていてくれる優秀な彼氏だということだ。今日も彼は私を笑顔で待っていてくれた。ただ、相当お腹が空いているようで、開口一番「何が食べたい?」と訊かれてしまった。ムードが無いとは思ったけれど、私もすっかりお腹が空いていたので、思わず「魚!」と即答してしまった。
 そこで裕樹は、会社の先輩に連れて行ってもらったことのある店だと言って、私をある和食のお店に連れて行ってくれた。決して高級店ではないけれど、生簀で泳いでいる魚を指名して食べられるお店だったので、私はとてもはしゃいだ。本当に新鮮で、本当に美味しい。
 その店でたらふく食べ、アルコールも少々摂取した私たちは、暗黙の了解でいつものホテルに向かう。
 焦らないでと言うのに、裕樹はいつもシャワーを浴びる時間すら惜しんで私をベッドに押し倒す。そして、強引かと思えばその後はとても丁寧に私を優しく愛撫しながら、ゆっくりだけど見事な手さばきで一枚ずつ私を裸にしてしまう。
「今日のリナは、なんだか獣っぽくてイイね」
 なんて言いながら、私の身体じゅうを撫でたり舐めたり揉んだり刺激したりするので、私も同じだけのことを裕樹にしたくなって、する。裕樹が今にも爆発しそうなのを精一杯こらえたような顔をするので、私はそれを見てますます熱くなってしまう。
 私たちはまだ結合もしていないのに、お互いの汗と吐息で溶けそうになるくらい、ドロドロに感じ合う。こんなにねちっこくていやらしい交尾をする動物は、世界中探してもきっと人間くらいだろう。裕樹は、私の股の間に分泌液が垂れてしまうくらいまで「おあずけ」をして、そして、一気に私の中に入ってくる。

 ――私はただただ気持ちよくて。
 やっぱり人間に生まれて来れば良かった。と、心底思いながら、



 鳥のさえずりで目が覚めた。



 リナ、起きなさーい! というお母さんの怒号が家の中に響いたので、私はいつもの通りリナちゃんの布団に潜り込んだ。リナちゃんをこうして起こすのが、いつからか私の毎朝のお仕事になっている。
 昨日の朝、リナちゃんを起こそうとして布団からはみ出した手の甲に軽く爪を立てたときに、どうやら私はまたやってしまったようだ。
 私には女の機能がない。おまけに家の外に出ることもほとんどない。その欲求不満が高まりすぎたせいだろうか、私はある時から無意識にリナちゃんに取り憑いて、人間の一日を経験してしまえるという不思議な力を持つようになってしまった。
 人間の世界は楽しい。シャワーを浴びれば気持ち良いし、服を着ておしゃれをすることも出来る。仕事中は意味が解らないほどつまらないけれど、そんなことは問題にならないくらい、食べ物が美味しいし、交尾なんて生殖行為の域をはみ出すくらいエキサイティングだ。
 意識が戻った時に思わず股の間に分泌液が垂れてしまったりするけれど、この不思議な能力は欲求不満の解消には最高だ。外でみっともなく発情して大声を上げているそこらの猫たちとは違う感覚を、私の身体や心は知っている。素晴らしいことだ。

 リナちゃんはティッシュで私の濡れた部分を拭ってくれて、「ごめんね」と呟きながら私を軽く抱きしめてくれた。
 私は「謝らないで。リナちゃんのおかげで楽しんでるから」と言った。