覗き穴




日比野 永







 引っ越してすぐ俺の目に留まったのは、あまりにも不自然な壁紙だった。以前来た時には気付かなかったが、下見をしたのは仕事が終わった夜だったので、もしかすると見落としていたのかもしれない。いかにも応急処置で貼り付けたように、少し黄ばんだ壁紙の一部分がやけに白い。しかしこれだけはっきり判るのに、見落とすなんてことはあるのだろうか。外観はただのボロアパートだが、立地条件は良くて格安の部屋ということもあって、かなりいい部屋を見つけたと喜んでいたのに、いくらなんでもこれはないだろう。同じ一階に住む大家さんに怒鳴りに行きたい気分になった。とにかく目立つ。気になって仕方がない。
 試しに爪で軽く引っ掻いてみると、白い壁紙はいとも簡単に剥がれ、下からは野球ボールの大きさほどの穴が現れた。中を覗くと、暗くて短いトンネルのような空間の向こうには、赤い水玉模様のカバーを掛けたベッドが見える。どうやら穴は隣の部屋まで貫通しているらしい。しかも赤い水玉模様ということは、隣の住人は女の子なんじゃないだろうか。穴を発見した途端、あんなに嫌だったこの部屋が一瞬で楽園に変わった。もしかしたら、引っ越し早々俺はツイているのかもしれない。
 可愛い子だといいなと期待して隣人の帰りを待っていたが、夜中になっても帰って来なかったので、そのまま壁紙を再度貼り付けて初日は大人しく寝た。


 次の日、仕事から帰って真っ先に例の壁紙をめくってみると、赤い水玉模様のベッドには裸の女の子がうつ伏せで横たわっていた。俺は突然の光景に驚いたが、せっかくのチャンスだからと舐め回すように彼女を見た。これが隣の子か。いい女だ。骨格がはっきりと確認できるほど痩せていて、肌には赤みがなく、浮き出ている血管は青白い。束ねていない乱れた黒髪は腰辺りまであって、手足の長さが彼女の細さを強調させている。突っ伏したままちっとも動かないが、眠っているのだろうか。
 しばらく様子を見ていると、彼女は突然むくっと起きて仰向けになった。そしてその状態で足を開いて下半身に手を伸ばした。艶かしく動く細い指。それに合わせて小刻みに発せられる声。漏れる吐息。俺は激しく勃起した。彼女の指の動きが段々速くなり、声も徐々に高く、大きくなっていく。女の子の自慰行為を見ること自体が初めてだったし、しかも向こうは俺に見られていることに気付いていない。俺は今まで経験したことのない状況にただただ興奮していた。しかしモノに触れると声が漏れてしまいそうだったので、俺は生殺しの状態で必死に我慢していた。唾を飲み込むと、喉が思った以上に大きく鳴り、彼女の声の一瞬の隙をぬって部屋に響いた。まずい。聞こえたか。彼女は指の動きを止めてゆっくりと上体を起こした。彼女と目が合う。どうしよう。見られた彼女も恥ずかしいだろうが、それを覗いていた俺もかなり恥ずかしいぞ。
 この雰囲気をどうすればいいのかと戸惑っていると、彼女が穴の向こうから話しかけてきた。
「ねえ、あなたはしないの?」
 今、なんて?
「今の、見てたんでしょう? 欲情しなかったの?」
「それは……」
 彼女は覗かれたことなど何も気にしないように微笑んだ。
「我慢しなくてもいいからさ、私のを見てしてもいいよ」
 その言葉が完全に俺の理性を吹き飛ばした。急いでベルトを外し、ジーンズとトランクスをまとめてずり下ろすと熱くなったモノが勢いよく飛び出した。そして、もう我慢できなくなっていた俺は、彼女の指の動きに合わせて激しくそれを刺激した。
「見て。あなたに見られて、私、こんなになっちゃってる」
 彼女が卑猥な言葉を口にするたびに、俺は身震いするほどの絶頂感に襲われた。彼女の方も、快感に歪む俺の表情を見てさらに指の動きを速くする。セックスの経験は人並みにあったが、こんなに興奮したのは初めてだった。性欲を鎮めようとして自分を慰めている女が壁を隔てた3メートル向こうにいるというのに、手を出せないというもどかしさが堪らない。
 俺と彼女は計ったようなタイミングで同時に果てた。

「ねえ。あなた、名前は?」
 お互いにそれぞれのベッドで微睡んでいると、彼女はそう聞いてきた。
「ああ、ナオキだよ」
「ふうん。私の前の恋人もナオキだった。あなた、雰囲気も少しあの人と似てる。」
「君の名前は? まさか俺のだけ聞いて自分は内緒ってことはないよな」
 俺は半ば煽ったように尋ねてみた。非現実的な出会い方と掴み所のない女を前に、何を信じればいいのか判らなかったのかもしれない。けれど、そんな疑惑を抱いていた俺に、彼女はあっさりと答えた。
「アヤ」
 短くそう言い、彼女は寝返りを打って背を向けた。一瞬だけ、彼女が哀しそうな表情をしたように見えた。

 その日からアヤと俺の壁を挟んだ同棲生活が始まった。穴を開放することでお互いの存在を常に確認していた。家に帰ると穴の向こうからアヤが「おかえり」と言い、俺は「ただいま」と応える。食事は別々の物を食べたが、必ず一緒に食事をした。夜になるとどちらからともなく相手を求め、肉体を交わらせない性行為を繰り返した。たまにアヤに触れたくて、「そっちに行ってもいいかな」と言うと、アヤは少し困った顔をして首を横に振った。そしてそのたびに、「私たちは体じゃなくて、心でセックスするの」と言った。俺には彼女の意図が解らなかったが、「これが究極の愛なの」と言うだけで、それ以上のことは語らなかった。
 もちろん最初は腑に落ちなかった。やっぱり直接触れたいし、温もりを感じたい。抱き締めてキスをして、一緒に眠りたい。しかし何度アヤに言っても許してくれず、そのうち納得か諦めか判らないような感覚になって、それさえも次第に薄れていった。きっと、こういう関係もあるのだと割り切ったのだろう。恋人に指一本触れられないというなんとも奇妙な関係だが、そうやって俺達は壁越しの恋愛を少しずつ育んでいった。壁の穴は、云わば二人の世界を繋ぐトンネルだったのだ。


* * *


 ある日、仲間内で集まって俺の部屋で鍋パーティーをすることになった。けれど壁の穴を塞がないままで友人を招き入れることは出来ないので、アヤに断ってその日は元の通り白い壁紙を貼り直すことにした。アヤは、「遠距離恋愛になっちゃう恋人みたいね」と哀しそうに言ったが、穴の向こうに恋人がいるなんてことは誰にも話していないから仕方がない。
「次の日はみんな仕事だから泊まりはしないよ。みんなが帰ったら紙は剥がすから、それまで我慢してくれな」
 そう言ってアヤをなだめたけれど、俺の言葉を聞いてもアヤは哀しそうな表情を変えなかった。
 パーティーは大いに盛り上がった。久しぶりに仲間と集まり、お酒も入って、まだ時間も早いというのに壁一枚向こうにアヤがいることを思い出さないほど酔っぱらっていた。だからだろうか。アヤの存在を思い出させるように、突然壁の向こうから若い男女の声が聞こえてきた。最初は空耳だと思っていたが、そのうち声は熱を帯び、女の喘ぎ声と男の呻き声に変わった。
「おいおい、ここ壁が薄いな。丸聞こえじゃないか。お隣りさん、すげえ激しいな」
 きっと俺の顔は、嫉妬のあまり醜く歪んでいたに違いない。壁紙を剥がしてやめさせたいが、この状況では出来ない。
 うそだろうアヤ。俺は駄目なのに、他の男は部屋に上げるのかよ。

 真夜中。パーティーは終わり、俺は玄関先でみんなを見送った。部屋に戻って真っ先に壁紙を剥がすと、裸でベッドに横たわるアヤと目が合った。
「ずいぶんと盛り上がってたのね」
 笑顔のアヤ。しかし目はちっとも笑っていなかった。アヤの部屋から精液の匂いが漂ってくる。
「さっきまでいた男がいただろ。誰だよ」
 俺は沸き上がる怒りを押さえるのに必死なのに、アヤは、「一体なんのこと?」と、シラをきるばかり。アヤはベッドから出て素肌にシャツを羽織ると、俺の方に近づいてきた。
「嫉妬で腹を立てるナオキも好きよ」
 そう言って、穴の中から俺の頬に手を伸ばし、優しく撫でた。
「ねえ、今日はしないの?」
 アヤのその言葉に俺の理性は吹っ飛んだ。もう我慢できなかった。俺はアヤを抱く。他の男に汚されたアヤを俺が清めてやる。
 俺は急いで玄関を飛び出してアヤの部屋のドアをノックした。
「アヤ、開けてくれ。今夜はお前の隣にいたいんだ。」
 やっぱりアヤは開けてくれない。俺もノックを繰り返した。
「なあ、お願いだよ。アヤ!」
 すると、真夜中の騒ぎで目が覚めた大家さんが部屋から出てきた。訝しげな表情で俺のことを見つめている。
「君は、105号室の……。何かあったのかい?」
「ああ、大家さん。すいません。ちょっと彼女と……」
「彼女? 何のことだか解からないが、そこは空き部屋だよ。」
 ……なん、だって。
 俺が言葉を失っていると、大家さんは一度部屋に戻り、合鍵を持ってきてくれた。鍵を開けるとドアはキィィッと鳴り響いて部屋の中を見せた。何もない。タンスもテーブルも、ベッドやカーテンも、アヤも。残っていたのは、微かな精液の匂いだけだった。
 俺が毎日言葉を交わしていたのは誰だ。俺が毎晩欲情していた相手は誰なんだ。俺が愛した女は誰だったんだ。
 顔面を蒼白させている俺を見て、黙っていた大家さんが、重い口を開いた。
「申し訳ない。君が気味悪がるだろうと思って言わなかったんだが、3年前、この部屋に住んでいた女の子が自殺したんだよ。」
「じ、さつ?」
「そう。ベッドの上で手首を切ってな。私が発見した時、白いシーツには血の跡がいくつもついていたよ」
 赤い水玉模様のベッドカバー。あれは……
「今君が入ってる部屋には以前男子学生が住んでいた。彼は、隣に住む若い女性の生活を見るために壁に穴を開けて、彼女の私生活を覗いていた。二人の関係がどうだったのかは解からないが、男は失踪し、彼女は自殺して、残ったのはあの穴だったんだよ」
 アヤは、生きた人間じゃないのか? じゃあ、俺は今まで……

 大家さんは何度も何度も俺に頭を下げて自分の部屋に帰っていった。俺はどうすればいいんだ。あの部屋で今まで通り暮らしていくのか。だって隣の部屋には……。
 俺は自分の部屋に戻り、壁の穴に目をやった。穴の向こうには満面の笑みで俺を迎えるアヤがいた。
「ねぇ、しようよ」