鐘をききつつ朝




神田 良輔







 ある夕暮に、世界が一変していることに気が付いた。
 実際にはこれが変化と呼べるものか、はっきりとした自信はない。世界は連続性に満ちており、あまりに急速な変態とは言え、必ず因果の連鎖によって説明は付けられるのだ。断絶がない限り、変化という言葉はあたらない。そもそも自分にはその連続を理解し説明する能力があるわけでもないのだ。
 だからこういうのが正解だろう。僕がものごころついたころと比較すると、今はなにかが変わった、と。
 ――たわいもなく考えている間に短い夕暮時が終わり、漆黒の夜が訪れていた。僕は家路につく。






 どこかで鐘が鳴り、それと同時に目が覚めた。この街で鐘が鳴るのを聞いたのは初めてだった。いつから鳴っていたのだろうか?
 いつものように顔を洗い髭を剃り、朝食を食べて、出勤の準備をした。まだ時間は余っている。朝の輝かしい日差しをうけていると、活力が身体が満ちてくるのを感じる。持て余したため、再び着替えて、シャドゥ・ボクシングをすることにした。朝の冷たい空気を吸いながら流す汗は、とても心地よい。犬の散歩をしている老人たちに、軽やかに挨拶を交わすと、自分が新しいこの世界にうまく馴染んでいるような気がした。

 仕事は早めに上がることができた。まだ陽は残っていて、このまま家に戻ったとしても夜が長いだけだ。僕は恵美子を呼び出すことにした。すぐに電話に出た。
「今駅にいるんだが。出てこないか?」僕は言った。
「行く行く」恵美子は言った。
 彼女は仕事もせずに呼ばれるのを待っている。家に金がある有閑の遊び人で、僕の誘いを断ったことがない。多分だれの誘いも同じだろう。
 僕は電話を切り、駅の改札を出た。
 僕のマンションはこのまま歩けば10分ほどで着いてしまう。この街は狭くそれほど賑やかでもないが何事もまとまっていて機能的なところが気に入って、長く住んでいる。恵美子のような女がいるのも良い。
 僕はふらふらと歩き出して地下道を抜け、路地をいくつか抜けた。
 この街は線路と平行するように大きな川が流れていて、少し歩くだけで河原を歩くことが出来る。僕はそこまで行った。駅まで着けば恵美子は電話を寄こすだろう。
 河原に腰を下ろすと、ちょうど空が夕焼けをおこしていた。川の向こうは住宅が多く建ち並び、紛れるように大きな煙突がある。めっきり下火になり動いているかもわからない町工場の煙突だ。低い建物ばかりでその煙突はやけに目立つ。赤く焼けた光は均等に屋根を照らしていた。
 ふと気がついて、朝鳴った鐘はどこから鳴っているのだろうと、周りを見渡してみた。漠然と教会のような建物が出来ていることを思ったが、そんなものは見あたらなかった。特に目を引くものはなく、無個性な下町の建物が広がっているだけだ。駅の向こう側かもしれないし、もっと外れの方かもしれない。そこまで考えて教会の鐘ではないこともあることに気がついた。学校や寺や、なにかの物売りやなにかがスピーカーで鳴らしていたのかもしれない。また鳴った時に注意してみよう。
 夕焼けの光が徐々に弱まりまばらに光る街頭の灯りがちらほら見える頃に、ようやく僕の電話が震えた。
 恵美子は駅についたということだった。僕はそちらに向かうことを言う。
「どこまで行ったの?」
「河原」
「私がそっちに行くよ」
「来てどうする?もう暗いぞ」
「まあいいよ」
 と言って、恵美子は電話を切った。
 彼女が顔を出すまであまり時間はなかったが、あたりは暗がりになっていた。遠くを見ても光源のあるものしか見えない。車のライト、橋に備わった灯、遠くのネオン。恵美子の顔もろくに見えなかった。
 それでも彼女の服装に僕は目を見張った。パジャマのようなスウェットの上下に、薄いコートのようなものを羽織っただけで、素足に薄汚れたサンダルを履いている。彼女はいつも身綺麗にしているので、こんな格好の彼女を見るのは初めてだった。色気もなにもない。彼女ではないかのような錯覚に襲われた。
「やあ」恵美子は言った。
 僕はすぐに応えることが出来なかった。
「どうしたんだ?」
「服を着る気になれなくて」
 恵美子は言って苦笑するように、しかし大きな声で笑った。
 声の調子はいつものように快活だった。その調子を見て、ようやく彼女であることに自信が持てる。
 彼女は僕の隣に腰を下ろし、手に持ったビニール袋をがさごそとかき混ぜた。
 ふと、ある予感がした。少し考えたが、そのまま尋ねてみることにした。
「男でも出来たか?」
「うん。結婚する」
 恵美子は言って、袋から焼酎の缶を取り出した。
「飲む?」
 僕はそれを受け取る。
「どうしたんだ?」
「ん?……」
 手際良くビーフジャーキィの包みを開け、ビニールの袋の上に広げる。そうしてから恵美子は応えた。
「結婚したくなったんだよ」
 恵美子は言った。プルを引き缶に口を付ける。その動きを暗闇の中で目をこらして見つめた。
「そうか」
「相手はね、きちんとした人だよ。それほど魅力的じゃない。でも、私のことをすごく愛してくれている」
「ふん」
 僕は言った。
 恵美子はぺちゃくちゃと飲み食いしながら、いかに男と出会い結婚するに至ったかを喋り始めた。
 兄の会社の後輩で、ちらりと見かけた私に一目惚れをした男がいた。写真で彼のことを知らされ、それから兄の牽引で会うことになった。特に目を引く男ではないが、仕事に自信と誇りを持ち何事にかけてもはっきりとした口調で話す男だった。やや無骨に、それでも気を遣う様子を見せて、私を何度も誘った。最初に会った頃の鈍い感じはまだ去らないが、好感のようなものは感じ始めていたし、それに気がついた頃には結婚をしてもいいような気がした。兄にもそれを勧められ、彼にもプロポーズされて、それを引き受ける決心をした――
 僕はそれを聞いている間手に持った焼酎の缶を開けておらず、恵美子は喋りながらそれを催促し、僕からとって、飲み干すあたりで話を一通り終えた。
 話はとても平凡な話だと思った。でも恵美子の口からそれを聞かされると、座りの悪い気分しか起こらない。恵美子ほどその手の話の似合わない女はいなかったはずだ。
「なかなか信じられないな」僕は言った。
「現実感がないわ」恵美子は応える。
「なぜ引き受けたのだ?」
「ここ数日で決まったの」恵美子は言った。「なにかが私に変わった――」
と言ってから、恵美子は言い直す。「私がなにかに変わったんだね」
 座り疲れたことに気がついたので、僕は立ち上がった。それを見て、恵美子は広げた食い物をかたし、併せて立ち上がった。
「ねえ。帰ってセックスしない?」
 恵美子はそう言って誘った。僕は頷いた。
 河原沿いの道を恵美子は僕の腕にしがみつきながら歩いた。腕に吊されたビニール袋の中で、焼酎の缶がからからと音をたてた。
「そういえば最近鐘の音がしないか?」
 僕は思いついて尋ねてみた。
「鐘?」
「ああ。鐘が、ここ数日以来、鳴り始めていないか?」
 彼女は首を振った。暗闇でも彼女が首を振ったことはわかった。