起きられない




菊池 公大







 朝日に暖められた空気の中に、微かな甘いにおいを感じたような気がして、目が、覚めた。ぼやけた視界が捕らえた枕元の目覚まし時計は、短針が8のところ、長針が12と1の間にある。
 は、ちじ、さん、ぷん?

「やばっ!」
 声に出したかどうか定かでないけど、そのはっきりと強い感覚で意識が活性する。7時半にセットした目覚まし時計、それから5分おきに3回は携帯電話のアラーム、全部止めた記憶がない。飛び起きてメガネをかけて目覚まし時計を手に取る。何度見ても時間は8時過ぎ、というか8時5分になろうとしている。
 またやってしまった。
 いや、まだ間に合う。駅まで自転車で5分、トばせば4分で着く。18分の電車に乗れればなんとか。
 目覚まし時計を布団の上に放り、昨日脱ぎ捨てた服を掻き集める。そういえばこのスーツもしばらく洗ってないけど、そんなこと言ってる場合じゃない。ネクタイを巻いて携帯を手に取ったところで8分。無理かもしれないと思いつつ急ぐことは止めない。
 部屋のドアを閉めて鍵をかけようとして鍵を忘れていることに気づき、ドアを開けて玄関の靴箱の上の鍵を掴んでドアを閉める。鍵穴に鍵を差し込む時に見つめるドアノブの周囲にノイズが走ったように見えた。多分間に合わない。チリチリと髪の毛が燃えるような音が頭の内側から聞こえるような気がする。こういうときに限って、2階の、しかも一番階段から遠い部屋を借りたことを憎むけど、憎んだってどうしようもないのでとにかく走りだす。階段に向かう廊下を向いても視界からノイズが消えない。消えないどころか、十数メートルの廊下を走る間にテレビの砂嵐のようなそれは徐々にその範囲を広げて、階段を2段飛ばしで下りるあたりで視界のすべてを覆った。

 目を開けた瞬間に眼球だけで左右を見回す。何か声が聞こえて、あるいは声を出して、その声で目が覚めたような気がする。夜と朝の中間より少し暗い室内。飛び跳ねるように上半身を起こして枕元の目覚まし時計を手に取る。まだ、5時になってない。大きく息を吐く。背中のまんなかを、ひとすじの汗が最初はゆっくり、徐々にスピードを上げて流れてゆく。暑い。
 薄い布団を跳ね除けて立ち上がり、水を一杯飲もうと思う。まだあと2時間も眠れる。キッチンはベッドルームよりも多少気温が低く感じるのは、きっと汗がひいてきた所為だ。グラスを蛇口の下に差し出し、コックを上げる。ゴポゴポという音がして、蛇口に溜まっていた水がこぼれてくる。
 水が出ない。
 ほんの少しの水を受け止めたグラスを流し台の上に置き、何度かコックを上げ下げしてみる。断水するなんて話は聞いていない。おかしいなと思いながら、さらに何度もコックを上下に動かす。

 目を開けてもう一度強く目を閉じる。外の道を行き交う車の音が、そろそろ起きるべき時間であることを知らせている。嫌な夢だった。寝返りを打つと綿毛布が腰にまとわりつく。また目を開けて枕元の時計を確認する。
 あと15分眠れる。
 これがいけないのは解っている。解っているけど、今度こそは大丈夫だと思う。反対側に寝返りを打ち、隣で寝ている女の方に向き直る。女は向こうをむいて寝息もほとんどたてないでいる。腕を布団から出して女の頭に手を伸ばし髪の毛を撫でる。しっかりと手のひらに感じる温度に安心して、意識が遠くなってゆく。
 「また遅刻した」
 寝言とは思えないクリアで大きい音に、閉じかけたまぶたを見開かされる。確かにこの女の声。でも、女はそれ以上何か言う様子もなく動かないでいる。
 これも夢なのか?
 布団の中で腕を伸ばして女の身体に触れてみる。確かに人に触れている感触がある。首をねじって枕元の目覚まし時計を確認するけど、全然遅刻するような時間じゃない。
「これは夢なのか?」
 声に出してみる。
「そう、これは夢なの。そして目が覚めれば、とうてい間に合わない時間になっている。」
「え?!」
 女はむこうを向いたまま、ぴくりとも動かないで続ける。
「時間を巻き戻したい?」
「へ?」
 何がなんだか分からない。こちらへ向き直らせようと女の肩をつかむけど、腕に力が入らない。
「巻き戻したい?」
 強い調子でクリアな音声は繰り返される。
「う、うん」
 小さく頷きながら、息を飲み込む。
 すると、女が肩を震わせ、それにあわせてクスクスと笑い始めた。いや、何か言葉を小さく細かく発しているようにも聞こえる。震え続ける肩をつかんでいる腕も、一緒になって震えている。

 目を開けた瞬間に眼球だけで左右を見回す。目が覚める直前、何か声が聞こえて、あるいは声を出して、その声で目が覚めたような気がする。夜と朝の中間より少し暗い室内。飛び跳ねるように上半身を起こして枕元の目覚まし時計を手に取る。まだ、5時になってない。大きく息を吐く。暑い。開け放した窓を覆うカーテンが揺らめいている。
 夢、か?
 身体を起こし、もう一度目覚まし時計を見る。やはりまだ5時になっていない。手のひらを額にあてると、粒になった汗が潰れて眉の上に流れてくる。隣で寝ている女が、ムニャムニャ音を出しながら寝返りをうつ。
 ひどくノドが乾いている。
 女を起こさないようにベッドから滑り降り、キッチンへ向かう。二三歩歩き出して立ち止まり、振り返ってベッドを見下ろす。この身体にか、この風景にか、どこか分からないけど、違和感がある。
 気を取り直して寝室のドアに手をかけた時、後ろで寝ている女がクスッと笑ったような気がした。

 目を開けてもう一度強く目を閉じる。さっきまで見ていた夢の違和感がまだ残っているような気がする。寝返りを打つと綿毛布が腰にまとわりつく。また目を開けて枕元の時計を確認する。
 あと15分眠れる。
 これがいけないのは解っているけど、今度こそは大丈夫だと思う。反対側に寝返りを打ち、隣で寝ている女の方に向き直る。女は向こうをむいて寝息もほとんどたてないでいる。腕を布団から出して女の頭に手を伸ばし髪の毛を撫でようとした。
「また遅刻した」
 女はクスッと笑い声のような音をだした。腕の動きを止めて息を飲み込む。
「時間を巻き戻したい?」