心臓

――或は「左手は栄よ心臓は滅びるとも」――


sennju







 僕の携帯が短く震えたのは、日付がもうすぐ変わる頃、僕が彼女のソファに落ち着いてタバコに火を点けた時だった。
『23:47/From: 岡田実央/ What do you want? No where. Now here. どこからモノを見るかだね。っていうか、5W1Hだね。おやすみー』
 彼女が灰皿に溜まっていた古い吸殻を捨てにソファを離れた。空気清浄機にスイッチが入る。僕は心の中で毒づいた。
「まだ、何か飲むでしょー? 日本酒? ワイン? シャンパン? 焼酎?」
 洗い終えたガラスの灰皿を左手に持ちながら彼女がキッチンから左半身を斜めに覗かせて訊いた。僕は焼酎と日本酒はパスだな、と思った。ワインかシャンパンを少し、言葉も少しがいい。
「んー。何がいいかな」
 彼女はご機嫌な姿勢のまま言った。
「暑いから炭酸飲みたいな。私は」
「じゃあ、シャンパンでいいよ」
「いいよって言うなっ! ほんと主体性ないんだから」
「ああ」
 僕はわかったようなわかってないような返事をすると、薄く笑いながらタバコをふかした。洗いたての、底が半球状のガラスの灰皿がテーブルの上でダルマかヤジロベエのようにユラユラ揺れていた。
「またガサガサ言ってるよ。心雑音」
 彼女は右耳を僕の左胸に押し付けると言った。僕の心臓に雑音がするのだ。僕自身の耳には聞こえないけど。
「こないだの朝は普通だったのに」
「ふーん。アルコール飲むとなるんじゃないの?」
 僕はそう言ってまだパチパチと音を立てるシャンパンを口に含んだ。
「んなわけないじゃん!」
 医師免許を持つ彼女はちょっと小馬鹿に笑ってから目を閉じて「なんでだろうね」と言った。
 僕は、君が横にいるからさ、と心の中で呟いた。
「ちょうどよい頃に死ねるかもね」
 口の中ではそう呟いて、僕はタバコの先を赤くさせた。
「そんなこと言ってるから」
 彼女は起き上がって僕の肩をつねった。そして澄ましてシャンパンを飲む僕の髪をグシャグシャといじって僕の邪魔をした。
 僕は実央のことが好きだった。好きで好きで狂いそうだった。いや、正確に言うとすでに狂っている。



 彼女は僕の恋人ではない。僕は四つ年上の彼女のことを苗字でも名前でもなく、ただ「君」とだけ呼んだ。彼女も僕のことを単に「君」と呼んだ。
 僕はどちらかというと彼女よりも彼女の部屋のほうを気に入っていて、ときどき連絡を取り合ってフラフラと、ほとんど彼女の金で飲みに行き、それからここへ来るのだった。彼女の部屋は僕の部屋の二倍以上も広くて、僕の部屋にはない大きな空気清浄機がある。床には牛の薄くて硬い毛皮が敷かれていて、ソファとさらにテーブルを挟んで二つの黒い皮のクッションがゆったりと置かれていた。ベッドはキングサイズで、一人だったらどんな角度にも横になれる。白いシーツと枕はやわらかくてとてもいい匂いがした。
 僕は彼女の背中から彼女の両腕に自分の両腕を重ねた。そして彼女の後頭部に軽く歯を当てた。
「私が前に付き合ってた人とはね、」
 暗闇と僕の腕の中で彼女は話し始める。
「お互い好きなまま別れたんだよね。それからずっと、なんだか人を好きになれないの」
「そうか」
 僕はそんな話をただ静かに聞いて、細かいことを尋ねたりはしない。
「人間は好きになろうと思って人を好きになるわけじゃないさ」
「そっか。そうかもね。ねぇ、そう言えば、実央ちゃんとは会えたの? 行ったんでしょ? 東京」
 僕の腕に少し力が入る。
「いや、また振られたよ。いっそのこと殺して欲しいんだけどな」
「あは。なにそれ」
「いやさ。好きな人に殺されたら完結する気がしない? 自殺は嫌だけど殺されるんならいつでもいいよ」
「またそんなこと言っちゃって。私はまだ死にたくないなあ。まだまだやりたいことがあるもの」
「いつ死んだって同じだよ。十歳で死ぬ人もいれば百まで生きる人もいる。だからって十歳で死んだ人間が百まで生きた人よりもくだらないわけじゃないだろ? そんなの関係ないよ。問題は今がどうかだよ」
「そりゃそうかもしれないけど、」
 彼女はそう言って身をよじると暗闇の中で僕の目を探した。
「そんなの悲しいよ。なんとかならないのかな。ねぇ、もっと楽に生きようよ?」
 そうやって僕らはキスをしたり、しなかったりするのだ。



 僕が最初に彼女の部屋に転がり込んだのはいつだったろう。ある年の春、僕はなけなしの五万円を無為に捨てた。
『04:23/From: 岡田実央/人とコミュニケーションするのがめんどくさくて、携帯の電源もずっと切ってました。私、鬱かもな。リスカとかはしてないけど。なぜか涙がたくさん出ます。何が悲しいのか自分でもわからないんだけど。元気してる?』
 僕の町の山の上にはまだ雪が残る季節に、僕は飛行機に乗って東京に降りた。東京の陽射しはすでに生暖かかった。僕は実央から連絡が来るのをただひたすら待ちながら、週末を東京の美術館で雪舟の水墨画を見たりして過ごした。
 僕は実央の住所も知っていたけれど、実央の家の最寄の駅には近づかなかった。僕はただ実央が必要としたときに必要なことができる距離にいたかったのだ。そして、月曜日になって僕は帰った。離陸のために余分に圧し掛かる重力が無数の舫綱(もやいづな)となって僕の精神に絡まり、気圧が下がる頃には僕の頭の中は空っぽになっていた。
 僕と彼女の間に新しいルールができたのは、それからしばらく経った頃だった。彼女の名誉のために僕は弁解するが、僕らはけして不道徳な関係を結んだわけじゃない。
「僕は君を好きなわけじゃない」
 初めて彼女を抱いた朝に僕は言った。
「私も君を好きなわけじゃないわ」
 彼女も真面目な顔をして言った。
「どちらかが相手を好きになったら、そのときはもう会わないようにしよう」
 それが僕らの道徳だった。



『10:36/To: 岡田実央/今日は晴れです。ビートルズの Nowhere Man って歌があるらしいね。初めて知りました。どこからモノを見るか。どこへも行けない。今ここにいる。いろいろ他にも書いてたんだけど、フリーズして消えちゃったし、消えてよかったのかもしれません。改めて伝えられることもなく、改めて悲しめることも期待できることもないみたいです』



『02:04/From: 岡田実央/メールの返事書いて、出さないことはよくあります。(まえにも言ったよね?) 私、ちょーどいいって事を知らないみたいで、、、というわけで、何事もシンプルにいきたいです。まあ、でも、このメールで何が言いたいのか? 自分でもよく分かりません』



『12:19/To: 岡田実央/北や南は直線だけど、西や東は曲線だったとか、日本から真東を向いて直進したら南米につくとか、言われればわかるけどいつも忘れがちです。最節約されたシンプルなやり方は、実は逆に最も特殊化されたやり方でもあるよね。前に備うれぱ後寡(すく)なく、後に備うれば前寡(すく)なく、左に備うれば右寡(すく)なく、右に備うれぱ左寡(すく)なく、備えざるところなけれぱ寡(すく)なからざるところなし。 寡(すく)なきとは人に備うるものなり。衆(おお)きとは人をして己れに備えしむるものなり。たぶんね』



『17:37/From: 岡田実央/また来月からメールとか携帯とかやめます。たぶん自分のペースで毎日が進んでない。だからメールの返事とかできないんだろうと思う。いつもそう。そういう波。ちょっと動くとまた新しいものが増える。人とかさ。今はそういうの望んでないのに。ていうか、会う前にこんなメール書いてごめんね。いつもの私だと思って許してね』
 一月。横浜はもうすっかり春だった。蜜柑の木がまるで花のように鮮やかな実をつけていた。
「お。やっぱ目立つなー」
 ちっちゃな実央はそう言って僕を見上げて笑った。ブルーの洒落たサングラスをかけていた。
「久しぶり」
「だね。どこ行こっか。私横浜よくわからないんだよね」
「俺ももちろんわからないよ? でも桜木町まで行ったほうがよさそうだよ。ここよりも」
 僕らは電車に乗って桜木町に向かった。こうやって並んで座るのはいつ以来だろう。僕はリュックを開きながら言った。
「プレゼントあげよう」
「え? なにこれ」
「お菓子。レーズン駄目な人じゃないよね?」
「あ、これ知ってる。この前会社で誰かがお土産で持ってきてたよ。すごく美味しかった。これ北海道のお菓子だったんだ? ありがと。ちょーうれしい」
 それから僕らは静かな会話をぽつりぽつりとした。寝不足の話とか「明日も朝から用事がある」といったようなことを僕は「そうか」と言って聞いた。僕が持つタワーレコードの袋を見て実央が言う。
「CD? 何買ったの?」
 袋を開けて中身を見せた。
「パステルズのコンピ盤」
「知らないな」
 YOU DON'T NEED DARKNESS TO DO WHAT YOU THINK IS RIGHT というタイトルを訳して僕が言う。
「正しいと思うことをするのに闇は必要ない、かな?」
「かな?」
 そして僕らは桜木町で降りた。そしてまた「どこ行こっか?」と言い合いながら駅の周りを彷徨うように並んで歩いた。
「お、なんかUFO特集やってるみたいだよ」
 僕は広場で怪しげなポスターを並べてるサイトを指差して笑った。
「お、マジ? 行こう行こう」
 実央は獲物を見つけた狼のようにスタスタと東京人のウォーキングスピードで進んでいってしまった。僕が追いつくとそこはやっぱり怪しげだった。そこではバロック調の壁画に描かれたUFOとか、かぐや姫の挿絵に描かれたUFOとか、『微妙な発見』がたくさん報告されていた。
 僕らはしゃがみ込んでそれらを見て、「あり得ない。あり得ない」と笑い合った。それから僕らは近くの美術館に向かった。



 それは結構シュールな、というか先進的な、と言うべきか、とにかく不思議で魅力的な展示だった。
 僕らは最初それを一緒に並んで見てたのだけど、僕はすぐに実央の無秩序な彼女独特なペースについていけなくなって諦めた。僕らはだいたい数メートル以上離れたところで思い思いにそれを楽しんだ。実際、このほうがいいな、と僕はすぐに思った。
 僕も実央の無秩序なペースを真似て思い思いに、そう、例えば僕は展示の中でもマックス・エルンストの「流行は栄よ芸術は滅びるとも」という名のカメラを模式化したデザインがやけに気に入ってしまったのだけど、それを五分眺めては別のものを見て、そしてまた気になって「流行は栄よ……」のところまで戻ってきてそれをまた三分眺め、というように歩き回った。同じようにうろうろする実央を視界の隅で眺めながら。
 実際、実央のちょっとした動作すら僕には作品のように思えた。彼女はまるで羽を持つ小さな虫のようだった。歩き疲れた僕は手近の長椅子に座ってぼんやりと彼女を眺めた。彼女は作品の間をせわしなくあちこちへと飛び回ったり、それに疲れると遠くの長椅子に座って羽を休めて、そこに置いてある美術雑誌を眺めたりしていた。そして僕らはときどき同じ長椅子で羽を休めて一緒に雑誌を眺めたりした。
 僕はその前日、友人の家に泊めてもらったのだけど、そこがちょっと寒くて完全に鼻風邪をひいてしまっていた。思いっきり鼻をかみたくなった僕は、飛び回る実央には何も言わずにトイレを探して鼻をかみ、顔を洗った。僕が戻るとあれほど僕を無視して飛び回っていた実央が僕を探していて、「お、いた」などと言った。僕は「ごめん。ちょっとトイレ行ってた」と言いながら、この人はいつもこうなんだよな、と思って微笑んだ。



「あっちでもなにかやってるみたいだよ。写真だって」
 僕は貼り紙を見つけて指差した。
「お、マジ? 見たい。見たい」
 そうして僕らは写真家エットレ・ソトサスの特別展示も楽しんだ。それはとても言葉では表せないほど最高だった。砂漠の真ん中にシーツが干してあって、その前に誰も座ってない椅子が置いてある。そんな写真の下に「女にとっての労働の解放は……」といった感じの言葉が添えられていた。僕らはすっかりソトサスの虜になってしまって、「意外と、というかめちゃくちゃいいね。これ」「うん。私、この人の写真集売店に売ってたら間違いなく買ってた」などと言い合った。
 いつの間にか、午後四時だった。美術館を出てタバコを吸うと僕は言った。
「お腹すいたな。お腹すかない?」
「うん。すいた。ご飯が食べたい。白いご飯。それかケーキ」
 それで僕らは水炊きをおかずに白いご飯を食べてワインを飲んだ。
「まだ時間大丈夫?」
「うん。だってまだ夕方じゃん」
「いや、明日早いって言ってたから。最近疲れ溜まってるって言ってたし」
 僕は一応彼女に逃げ道を与えてみた。なんとなく。
「大丈夫だよ」
「そか。よかった。横浜戻ろっか。そんで飲み直そう」
「うん」
 横浜まで戻る途中、ショーウィンドウにきれいなウェディングドレスが飾ってあるのが見えた。
「うわー。あんなの着てみたいよ」
 普段は女っぽいことをほとんど言わない実央がエスカレーターから身を乗り出してそう言った。僕はそれを見て後ろから抱きしめたくなって、それから横浜まで一歩離れて彼女と歩くことにした。並んで歩いたら手を繋ぎたいという衝動を抑えられない、と思ったのだ。雨が少し降ってきた。僕は傘をささずに顔に雨を当てた。彼女は少し赤みがかった暗い色の傘を開くと、ちょっと不思議そうな顔をしながら僕についてきた。



 僕らはフランス料理と洋酒を出す店に入った。水炊きは正直ちょっともの足りなかったのだ。名前が奇妙だという理由でホロホロ鳥を、ワインは二人ともよくわからないので聞き覚えのあるカベルネ・ソーヴィニヨンを頼んだ。
 店は二階まで吹き抜けで、実央が二階席を見上げて言った。
「なんかあそこ座りたいな」
「はは。なんで?」
「何かが見える気がする」
 黒っぽいドレスで着飾った人達がワインを飲んで笑っていた。あそこから何が見えるだろう?
「そういや、旗は見つかったかい?」
「旗って?」
「旗は旗だよ」
 僕は半分無意味に謎をかけて微笑んだ。鈍そうに実央が首をかしげて遠くを見た。それから僕を見て無言で微笑んだ。
 食事が終わると、僕は店で出された竹箸をキャンドルの火で炙ってぐにゃりと曲げて見せた。
「お、竹って火で曲がるんだ?」
「うん。昔、こうやって凧とか作った。うまく飛ばなかったけど」
 僕は折れ曲がった竹箸越しにぼんやりと実央の両目を眺めた。実央の睫毛はマスカラで強調されていて、でも瞳は鈍い黒で、不透明でその奥には何も見えなかった。僕は実央に触れたかった。でも僕にできたのは実央の手首の、黒くて細いヘアバンドを引っ張ることだけだった。実央は全く動かなかった。僕は実央が怖くて彼女の顔を見ることができずに、そう、たぶん彼女の瞳が動いていなかったら、それが怖くて、黒いヘアバンドと彼女の白く透きとおった腕を見つめ続けた。



 その後、結局僕は鼻風邪がひどくなってしまった。僕は「寒い。お酒はもういらないや。ホテルのカフェに行こうよ。ケーキ食べなよ。ケーキ」と言って場所を僕が泊まるホテルに移してもらって、僕らはケーキと紅茶を楽しむことにした。
 そこで僕らは話をしたり、何も話さずにぼんやりした時間を楽しんだりした。ちょっと退屈したのか実央はカバンから雑誌を取り出した。僕らはそれを一緒に見て、「こんな変な店があるんだね」などと話して時間を潰した。もう午後十時だった。
「そろそろ帰る?」
 実央は腕時計をしばらく眺めて、
「うん。そうだね」
と言った。
「帰って早寝しなよ。疲れてるんでしょ?」
「うん。ありがと。そうする」
「俺も明日の学会発表の準備あるし、この風邪だし」
 そして僕は実央を横浜駅まで送って行った。駅に別れを惜しんで抱き合う若い男女がいて、僕は一瞬ドキッとした。改札まで来ると実央は立ち止まって深呼吸した。
「じゃ、行きます」
 僕の左腕が別個の生き物のように、にゅるっと伸びて僕の視界を横切った。僕は宙に浮いた左手を実央の頭の上に軽くポンと置くと笑って言った。
「うん。元気でね」
 実央も少しはにかんで笑って言った。
「うん。元気で。それじゃ、またね」
「うん。またね」
 実央はくるりと後ろを向いて改札に切符を通した。僕はすぐに人ごみの中に実央を見失った。たぶん彼女は振り返らなかった。僕は左手にビリビリと痺れを感じた。そしてホテルに着くまで自分を罵り続けた。



『05:52/From: 岡田実央/おひさしぶり。元気? 先月、友達の友達が2人も自殺したの。たぶん同じ歳なんだけど、ああ。。もうそんな歳なのかぁ。。って思った。バランスって大切。でも、時にはバランスしてないことも大切なのかなって最近思いました。ばい』



『00:18/To: 岡田実央/崩されると転んでしまうが、崩さなければ足が前に出ない? 「僕」は蜘蛛の巣の中心にいて、近くには網の目が張り巡らされているから、どの糸が切れているか他の糸を辿って確かめることができる。けれども僕の(7本目の?)腕から宙に放たれた糸が、ちゃんとどこかの(「君」のいる)枝にしっかりと結びついているのか、どこかで切れて宙をさまよっているのか、確かめる術はどこにもない。親友の父親の死を新聞の死亡広告で知ったり。なんて糸は細いんだろう。(まぁ、携帯に電話をくれていたんだけど夜中だったので寝ていた。) 蚊が何匹かいる気がする。 bye は嫌い。さよなら。また』



『19:04/From: 岡田実央/九月いっぱいで仕事やめて十月には中南米行きます。いつ帰ってくるとか、その他、未定。これからやることいっぱい。どう? 最近は。 take care... しーゆ』
 僕は再び、いや三度、違う。回数など忘れた。とにかく僕は東京にいた。
「そんで、実央ちゃんは来ないの? 相変わらず連絡なし?」
 友達の加奈が二本目のシャンパンを僕のグラスになみなみと注ぎながら言った。
「Kー1見に行くってさ」
 笑うしかない、と言う表情で僕は言った。
「あらま。アナタも大変ねぇ」
 加奈も笑うしかない、という表情で言った。
「加奈はどうなんだよ? うまくやってんのか?」
 すると加奈は少し気取って唇を突き出すと言った。
「別に私はフリーだもの」
「こいつひどいんだぜ」
 良治が愉快そうに赤ら顔で口を挟んだ。
「ほかの連中と一緒に飲むことがあるんだけどさ、」
 良治はビールで舌を潤すと言った。
「いっつも、私はフリーです、みたいな顔してんだよ」
「だから私はフリーなんだってば!」
『嘘ばっかり』
 僕と良治は異口同音に突っ込んで、そして僕らは笑い転げた。



 それは日曜の夜だったので、翌日仕事がある良治はさっさと帰ってしまった。
『22:18/From: 岡田実央/まだ飲んでる? どこにいんの?』
「渋谷だよ。まだ飲んでるよー」
「まだ飲んでる? まだそこにいる?」
「ああ、まだいるよー。俺たちゃ朝まで飲む覚悟だから」
 加奈がとろんとした目で言った。
「実央ちゃん? なんて?」
 僕は苦笑した。
「これから来るってさ」
「これから? すごいね。彼女明日仕事あるんでしょ?」
「うん。あると思うよ」
「すごいわ」
 加奈は一人何かに納得して二本目のシャンパンを空にした。
「ありゃ。もうなくラっちゃったよ。場所移ろっか?」
「やばいね。ペース速いね。良治ほとんど飲んでラいから、俺達一本ずつ空けた計算だよ」
 僕らはすでにろれつが回りかねている舌で、今夜のシャンパンがいかに美味かったかを声高に主張しあい、けして僕らが酒豪なせいじゃなくて、シャンパンが美味すぎるのが悪いのだということを確認しあって変な声で笑った。



 僕らは実央と合流すると居酒屋に場所を移して、また飲み直し始めた。
 半年ぶりに見る実央はなんだか飾ってなくて、少し醜くさえ見えた。加奈が度々「ちょっとお手洗い行ってくる」と席を外したので、僕らはしばらく二人で話し込んだ。実央のキョロキョロした目つきと自信に満ちた笑みと知性を感じさせる言葉の微妙な組み合わせは、やはり僕には好ましいものだった。けれど僕はいつもそうなのだけど、実央と二人で話していると僕は実央の存在そのものに満足してしまって、抱いてきた全ての欲求が霧散してしまうのだった。さらに飲みすぎたアルコールが僕の心に白いフィルタをかけた。つい六時間前までは、無理やりにでもキスしたいとか思っていたのだけど。実央が白いシャツを伸ばしながら言う。
「十月になったら、中南米行って一・二年いろいろ回ってくるよ」
 僕はアルゼンチンの先にあるSeymour島の話をして、そこが九千万年前にいかに生物の楽園であったか、などとくだらない話をした。
「俺もね、一・二年回り道したいと思ってる。なんだかそういうのがとても重要な気がするんだ。知識とか、経験とか、キャリアに対して足りないものが多すぎるんだよね。ものすごくそういうのを感じる」
 僕はたいして美味しくないカクテルだったかチューハイだったかを見つめながら言った。
「絶対そうしたほうがいいよ」
 実央ははっきりした口調でそう言った。彼女の目は相変わらずキョロキョロしていて、一点に定まっていなかった。



「うー。ちょっと吐いちゃったよ。もう大丈夫だけど。ブドウ危険だわ」
 トイレから帰ってきた加奈が少し青い顔で笑って言った。実央の使ってる電車はそろそろ終電の時間だったし、僕らは会計を済ませて実央を渋谷駅まで送った。加奈は自分も気持ち悪いからと、実央を送ったら僕を近くのシティホテルまで送って自分も帰るわと言った。
「じゃあね」
「じゃあ」
 僕らのそっけないやりとりが終わって実央が人ごみの中に消えてしまうと、加奈は僕の背中をつついた。
「もー、ハグぐらいしなさいよ」
「いや、そんな気分でも雰囲気でもないし」
 僕はKー1以下の価値しかない人間だと言い、加奈は居酒屋のトイレで吐く女だと言って、駄目人間ぶりを競って笑った。
「ごめんねー。お邪魔虫は適当に消えちまおうとも思ったんだけど、気持ち悪くてそれも果たせずだわ」
 加奈はそう言って少し笑うと、
「ああー、気持ち悪い。やっぱりもう駄目」
と言って突然手を上げてタクシーを捕まえた。そして僕の腕を引っ張って一緒にタクシーに乗り込むと、
「運転手さんー、一番近くのラブホまでー。すいませんねー。馬鹿な女が乗り込んできちゃって」
と言ってシートに倒れこんだ。タクシーの運転手は苦笑して「困ったなー」と言いながらラブホ街を徐行した。
「ごめん。気持ち悪くて電車じゃ家に辿り着けないわ」
 加奈はそう言うと、「襲ったら殺す」と呻いて笑った。



 僕らは並んで暗闇の向こうにあるであろう天井を見つめながら、ぽつりぽつりとくだらない冗談を言い合った。沈黙が、何よりも恐怖だった。「頭が痛い」と言いながら加奈は携帯でメールを打っていた。
「彼氏に、いやもう彼氏じゃないけど、オヤスミのメール打たないと。あの人、悲しむから」
 それから何やらブツブツ呻くと、「幸せになりたいね。いや、なるよ」と小さな声で言った。
 僕は暗闇の中で静かに右腕を伸ばすと、加奈のこめかみを掴んだ。
「ここは側頭窓(そくとうそう)と言ってね。顎を動かす筋肉があるんだ」
 加奈は「うー」と呻くと、
「少し楽になるわ。ありがとう」
と言って静かになった。
 黒くて青い空気が僕らを押しつぶしていた。僕はうとうとしながら加奈の顔の上をまさぐって遊んだ。加奈はむにゃむにゃ言うと僕の指にかじりついた。僕が指を動かすと、ワンテンポ遅れて加奈の舌が動いた。なんだか僕は目の奥が眩しくなった。
 僕は体を起こして加奈の唇にキスをした。僕らは「暖かい」「うん、暖かいね」とやっと訪れた安心を確かめ合って小さく笑った。そしてお互いの不足を補い合った。
 それから僕は太陽が真上に昇るまで吐き続けた。ホテルを出る前に加奈が烏龍茶を淹れてくれたけど、僕は香りだけ楽しんで「ありがとう」と言ってテーブルに戻した。
 渋谷駅まで来て、加奈が言った。
「どっかでお茶してく?」
 僕はフラフラしながら言った。
「いや、帰るよ。気持ち悪くて。ごめん」
「そか」
 僕らはどこか名前の忘れた駅で別れた。空港で横になりながら僕は加奈にごちゃごちゃと要領の得ないメールを書いた。
 そして僕は帰ってきた。太陽だけが同じで憎らしかった。僕は実央のことが好きだった。好きで好きで狂いそうだった。いや、正確に言うとすでに狂っている。
 部屋のドアを開けて荷物を放り出すと、僕は服を着たままベッドに倒れこんだ。そして「殺してくれ、殺してくれ」と呟きながら、いつの間にか眠りに落ちた。深い寝息と、ガサガサした心雑音だけがそこに残った。