藍色の匣




高野 恵一







 雨に濡れた夜の車道には、青や赤の光がにじんでいた。車がその上を走っていくとき、その光の色の粒がはじけるように音をたてた。一也はもう一時間近くも舗道の上をさまよっていた。さいわい雨は小降りになっていたものの、良子の姿はどこにも見あたらなかった。街の中心にあるバスターミナルから歩き出して、ふだん良子と歩いたことのある道はすべて歩いてみたつもりだった。良子が部屋からいなくなって、これで二日めの晩になった。
 一也が良子と初めて知りあったのは、新宿にある小さなバーだった。新宿といってもこの店は繁華街から少しはなれた場所にあり、出入り口は暗く細い路地に接していた。この店のマスターは一也と田舎が同じで、一也は年齢のはなれたマスターと趣味の話は合わなくても同じ故郷の話題に困ることはなかった。この店では何人か郷里を同じくする客が常連になっていた。数カ月ほども前だったろうか、一也はやはり同じ郷里の知り合いに連れられてこの店にきたのだった。そして酒を飲みすすむにつれて田舎の話しになり、客の何人かが同じ出身地だということを知った。そして何回目だったろうか、一也はよくおぼえていないが、久しぶりにこの店に飲みにきたとき、同じ出身のひとだよと言って、マスターが一也に良子を紹介してくれたのだった。
 良子は丸顔で大きな目が印象的で、ひと目見たとき、一也はきれいな顔だちだと素直に思った。小さな鼻はきちんと筋がとおっているし、笑うと歯並びが見事なくらいにきれいだった。くちびるも品があると思った。そのときの良子の髪の毛は首の付け根に届くぐらいの長さだった。もっと髪が短くてもいいのにと思ったが、いずれにしても一也にとっては美人にうつっただろう。
 ある夜、一也は良子がその新宿の店から出ていくところを遠くから見た。まだ少し早い時間だったが秋の夜は早く、新宿の街は色とりどりの光に満ちていた。一也は店に寄ることをやめて良子のあとを追った。意外と良子の足ははやく、信号待ちをしくじったりすると見失ってしまうかもしれなかったが、なんとか地下街の出入り口で追いつくことができた。階段を軽くかけ降りながら、一也は良子の踵の高い赤い靴が石の階段の上を小刻みに踊るように降りていくのを見た。

「たったいま、最終のバスが行っちゃったけど」
 良子は卓袱台の上の指を組んだ手のひらを見つめるようにして言った。その言葉を聞いて、一也は思わず腕をおおげさに曲げて手首の時計を凝視するようにした。 
「正直、知らんかった……」
 部屋の窓からは、最終のバスを送りだしたバスターミナルの大きな灯りが、なぜか眠たそうにぼんやりと見えた。
「一也さんの布団敷くから、ちょっと向こうの部屋にいってて」
「いや、俺、ここでクッションだけあればいいから」 
「そこ、じゃまです!」
 小柄な良子の腰がぐいと一也を不意打ちのように押した。一瞬の間に一也は敷居をまたいでとなりの部屋に移動しなければならなかった。玄関につながっているとなりの部屋は蛍光灯もつけずに暗いままだった。玄関のドアから薄青い光が漏れていて、コンクリートの床にそろえた良子の赤い靴を冷たく照らしていた。
 一也がさっきのもといた部屋にもどると、卓袱台は壁ぎわに片付けられて布団が敷かれていた。良子は一也に背を向けており、小さな鏡の前に座り髪を直しているように見えた。一也は部屋の照明を消すと、そっと良子の肩を抱いてから、右手を良子の右腕の下にくぐらせて良子のからだを抱きよせた。
「ううっ……」と良子がうめくような小さな声を出した。
 それが抵抗なのか驚きなのか、あるいは当然のことなのか、一也にはよく分らなかったが 、その声を聞いて、なにか大切なものを探し出しているときのように、自分が美しい場所にいることのときめきを感じた。
 良子は何度か苦しみの声をもらすようにしていた。一也は顔を動かしながら、窓の外の街路の灯りが、ときどき風に吹かれて瞬いているように感じた。
「まだ、なにも良く、知らないのに……」
 一度、良子の小さな声が途切れるように聞こえた。 

 一也は、はじめてこの部屋にやってきた夜のことを時々思い返した。あの夜、新宿から同じ電車に乗り、東京駅までくるとは思いもせず、精算に手間どって良子の姿を見失いそうになったこと。さらに思いもよらず、東京からつくば行きの高速乗り入れのバスに乗る羽目になって持ち金が心配になったこと。バス停では、良子のずっと後ろに並んで、あやうく乗りそこなう寸前で同じバスに乗り込み、一也の姿を見て驚いた良子を見つめたときのこと。バスの窓に流れていく街の灯りが、なぜかとても懐かしいもののように感じたことなどを。
 つくばのバスターミナルに着いたとき、街灯の光に照らし出された停車場は、思いのほか肌寒かった。あとから降りてくる良子の姿が待ち遠しいと思った。
「あの、良子さん、こんばんは」
「高田さん? 一也さんでしょう」
 良子は首をかしげるようにして言った。 
「お会いするのは、もう三回目ですよね。つくばでまた会うとは思ってなかったですけれど」
「おうち、こちらなんですか?」
 ペデストリアンデッキに上がるエスカレーターに向かって、歩き出しながら良子がたずねた。
「はい、その、良子さんのうちはこっちの方向ですか」
「そうですけど」
「やっぱり。実は僕もこっちなんですよね」
「でも、やっぱりそっちは行き止まりなんですけど」
「はあ、やっぱり?」
 一也が間抜けな返答をしてしまったとき、良子はバッグを持った手を前に組んでうつむいてしまった。夜更けの街路樹の陰に街の光は届かなかった。一也は良子の肩に手をのせて、急いでそっとキスをした。 
 こんなに性急なかたちで恋愛をするのは初めてだ。一也は一瞬、胸がとても重くなる思いがした。

 一也は、都内に勤めているごく普通のサラリーマンだったから、そうそう良子の部屋にくることはできないと考えていた。しかし、そのうち深夜と早朝のバスが出ていることを知り、土日だけでなく普段から良子の部屋にいるようになった。早朝のバスで東京の会社にむかい、夜遅くなってからバスで帰ってくることも何度かあった。
 それでも一也は、金曜の夜など遅くなってから、会社から東京駅のバスのりばに向かうことが楽しかった。深夜にもかかわらず、都内からつくばに帰る多くの乗客がバス停に並ぶのがつねで、あまり時間が遅いとバスに乗りそびれる危険もあったのだが。
 しかし、一也はいつもわくわくした気持ちで、この列に並ぶのが嫌いではなかった。バスを待つあいだには、駅前のビルの姿をながめながら色々なことを考えることができたし、良子の姿を思い浮かべると仕事の失敗や嫌なことも、すべてどうでもいいように思えてくるのだった。
 そしてバスが発車してから、運良く窓側の席に座れたときなど、一也は東京のビルの合間を走る高速の上で、まだ窓の明るいビルやすでに暗くなってしまったビルの姿を見つめながら、ひとり夢のような思いにふけるのだった。疲れていていつの間にか眠り込んでしまうときもあったけれど、ほとんどのときは、ビルとビルの間の暗くせまい路にかくれるような人の姿を見つけたりして、自分がまだなにもわからない、小さな子供のような気持ちになってみるのだった。
 バスの窓から見える街の灯りは、いつも、しんしんと静かな音をたてるように光っている。やがてバスは素早く滑るように走りだし、たくさんの窓や街灯が窓の横を後ろに流れていく。良子とは男と女の関係になってしまったけれど、まだ良子のこころの中を知らない。一也は薄暗いバスの中で暗い天幕のような都会の夜空のことを思った。

 合鍵でドアを開けると、部屋の中は暗いままで、窓のレースのカーテンから入り込む深夜の街灯のかすかな光が感じられた。それはいつものように、部屋の中に薄青い陰をつくり出していた。もしかして良子は留守にしているのだろうか。玄関の足元を見ると、彼女の靴がちゃんとそろえてある。今夜も帰りが遅くなってしまったから、いつの間にか彼女は眠ってしまったのかもしれない。
 一也はとなりの部屋の引き戸を音をたてないように開けていくと、かすかに小さな音が聴こえはじめた。扉のすき間から、良子がこちらに背中を向けているのが見える。ヘッドホンをつけて、良子は小さなステレオの前に行儀よく座り込んでじっと音楽に聴き入っていた。
 何を聴いているのか一也にはすぐにわかった。
「それ気に入った?」
 良子は一也の気配に気付いたらしく、ゆっくりとふりむいて嬉しそうに首をすくめた。 なぜかヘッドホンをはずそうとはしない。
「それ気に入ったですか?」
 一也はさらに大きな声を出さなければならなかった。
「これいいねえ、"Shades Of Blue"っていう曲」
 やっとヘッドホンをはずしながら良子がため息をつくように言った。その曲は、一也が自分の部屋からステレオとともに運び込んできた、たくさんのCDの中の一枚におさめられていた曲だった。
「俺も大好きな曲なんだ。よく、思い出しながらバスに乗ってるよ」
「とっても寂しい感じがするけど、じっと聴いていると、なぜなのか希望もわいてくるのよ」
「不思議だよな。この曲をつくった人はこの曲がなにかなんて解説もしていないのに、聴いていると色んなことを感じるんだから」
「そこがおもしろいところなのかしら?」
「何が言いたいのか、そんな答えが書かれているわけじゃないし、自分で感じて自分で何かを考えるんだろうな。ただ聴き流すだけの音楽と違うと思うんなら」
「わたしも色んなこと考えてたよ……」
 良子はそっと一也の右腕に両手をからませ、一也の顔を見上げるようにした。その真剣な表情は、決して甘えているだけには見えなかった。 

 良子の口から、彼女が週のうち隔日で都内にある風俗店に勤めているのだと聞いたとき、一也は思わず顔をしかめていた。しかし、自分ではそんな表情をしていることなど頭の中になかった。一也は、このときのことを後から思うと、なぜか自分が子供だったときのことを思い出すのだった。誕生日に親から買ってもらったお気に入りのおもちゃが、自分の気付かないうちに誰かに傷つけられて投げ出されている光景を、一也は何度も思い出すのだった。 
 もちろん、良子の存在が一也にとって「おもちゃ」なのだと言うのではない。一也にとって良子は、誰かからあてがわれた女性ではないし、新宿の店で紹介されて出会ったとはいえ、あくまで一也は自分の意志で良子を好きになったのだ。
「いきなり風俗に勤めてるなんて言って、一也さん、嫌だったでしょう?」
「風俗って、いったいどんなことしてるんだ?」
 一也は不機嫌な表情を変えることができなかった。 
「くわしいことは、ここでは言いたくないけど……」
「おまえ、そんな風俗なんて仕事しなくても、ちゃんと普通に暮らしていけるだろう? 他に仕事が見つからないんなら俺もいっしょに探してあげるし、その間は俺と一緒に暮らしていけばいいだろう。なにもここに居なくても、東京の俺の部屋にくればいいんだよ。そしたら、俺がおまえのめんどうを全部みてやるんだ」
 良子はうつむいたまま、一也の右手を軽く揺らすように動かしていたが、やがて一也の目を見つめながらつぶやくように言った。
「一也さんは嫌いかもしれないけれど、わたしにはこの仕事が向いているし、好きなのよ……」
 一也は良子がなんでこんなことを言い始めたのだろうと不思議に思った。ふざけているわけではないし、嫌がらせでもない。しかし、もしかしたら良子は一也が部屋にくることが嫌になったのだろうか。まじめな男なら、相手の女が風俗に勤めていると知ったら逃げ出してしまうだろうから。
 そもそも、良子とは時間をかけて交際をしてきたわけではないから、突然に現れた一也の存在に最初はとまどって受け入れてしまったものの、だんだん嫌気がさしてきたのではないだろうか。一也は一瞬そんなふうに考えた。 
「ふつうの女は好きな男がいたら、他の男には目もくれないはずなんだよ。良子は俺のことを本当は好きじゃないんだろう?」
「それは違うの」
「俺を好きでいながら、裸で他の男と抱き合う仕事も好きだなんて、あり得ないだろう? ふつう」
「違うのよ……」
「おまえの言ってることはめちゃくちゃなんだよ!」
 一也は気付かずに良子の手首をつよく握っていた。床におきざりにされた大きなヘッドホンからは、リピートにセットされた "Shades Of Blue" が静かに流れ続けていた。
「一也さん、人が生きていてね、その短い一生の中で、いったい自分にどんな価値あることができるかって、考えたことはない?」
「おまえは風俗が価値のある仕事だっていうのか?」
「ねえ、一也さんの人生の中で、価値のあるものってなに?」
 良子は、その質問には答えずに一也に詰め寄るように言いはなった。

 雨の中をひとしきり歩いたあと、一也はバスターミナルの待合いスペースの中に戻り、東京行きのバスの時刻表を確認した。まだ最終便にはじゅうぶん間に合う時刻だった。一也はこれから東京に行って良子のいる場所を探そうと考えていた。きっと良子は東京にいるに違いない。一也はそう確信していた。できるなら早い方がいい。会社は一日休むことになるが、たかが一日や二日ぐらい、多勢に影響はないはずだった。
 良子が東京のどこにいるのか、探し出すあてはなんとかあるはずだった。しかし携帯は使えなかった。良子は携帯を持っていたようだったが、一也は職場でも携帯をほとんど使うことがなく、これまで持とうと考えたことがなかった。けれども、一也は良子の勤める風俗店の名刺を三枚ほど見ていた。良子にかくれて彼女のバッグの中から探し出したものだったが、そこには店の名前と電話番号が書かれたカードが一枚と、おそらくは従業員であろう風俗嬢の名刺が二枚入っていた。
  店の名前は「ソウル・アイズ」といい、手書きの名刺には女性らしき文字で、それぞれ「レイナ」と「カオリ」とあった。おそらく、そのふたりは良子の友人なのだろう。一也はそれらのメモをとって持っていたのだった。それにしても、良子自身はこの店で何という名前で仕事をしているのだろうか。一也は良子のそんな姿を想像するだけで、暗い気持ちがさらに重くなるのだった。
 これから東京に出かけるとなると、まずは都内のどこかに泊まらなければならない。東京駅の近くに安く泊れるビジネス・ホテルなどあっただろうか。持ち金は心細いほどだったから、一也は、明日の朝にキャッシュ・ディスペンサーが使えるようになるまで、なんとか少ない手持ちでしのがなければならなかった。
 一也は温かい晩飯を抜く気にはなれなかったが、ターミナルのコンビニでソーセージをはさんだパンと缶 コーヒーを買って我慢することにした。昼間はターミナルの中にいた案内嬢の姿もすでにもうなかった。薄い霧が音もなく降りかかるような雨模様になって、バスの発着所の灯りが冷たい路面 ににじんでいた。
 10時をすぎて発車した東京行きのバスの中で、一也は冷たいままの缶コーヒーをあけ、しわだらけのソーセージにかじりついた。バスは霧の中をうなるように音をたてて進み、大きく旋回してから大通 りに入っていく。一也は良子の住んでいたマンションの窓を首を左側に伸ばすようにして見た。やはり良子の部屋の窓は暗いままだった。
 いったい何が気に入らなくて良子は姿を消したのだろうか。あのとき、一也が良子の言い分をだまって聞いてやらなかったのが悪かったのだろうか。あんなに大人しくて優しい声をした良子が、あんなに激しい口調でいどんでくるとは、一也には思いもよらないことだった。

 バスの中で、一也は暖房の熱気と眠気の中で朦朧としながら、良子の優しい仕草を思い出そうとした。何度かそれを試みたが、なぜか一也は良子の笑顔を思い浮かべることができなかった。それだけではなく、時おり考えたくもない、おぞましい映像が頭の中に浮かび上がってきた。それを消そうとすればするほど、それは何度でも頭によみがえってくるのだった。
 一也の目の前に、縛られて身動きのできない良子の姿があった。どこかのマンションの一室だろうか、良子は腰に縄をまかれてうずくまっていた。良子のまわりには数人の男女がいて、彼女を見張っているように見える。
 一也は良子の前にいながら、なぜか身動きをとることができなかった。しゃべろうとしてもどうしても口が言うことをきかなかった。そして、良子は一也の姿を決して見ようとはしないのだった。 

 良子の勤めている風俗店は、都内でも有名な若者の街にあった。一也はいかがわしい店が並んでいるうす汚れた路地を連想していたが、一也が本屋で調べたかぎりでは、この風俗店の所在地は繁華街からずいぶんと離れた人どおりの少ない住宅街の中にあるようだった。一也は街の中心を通 る道路から分かれ、住宅街に向かう坂道を登りはじめた。
 今夜も昨夜と同じように霧が出ていた。一也は立ち止まり後ろをふりかえってみた。顔をあげると高架になっている高速道路が視線をさえぎっている。その上を車のライトがおぼろげにふくらんで通 りすぎていく。街の姿もぼうっとして見えた。背の高いビルの上に掲げられた赤いネオンサインも、もはや、なんと書いてあるのか一也には読むことができなかった。
 こんな霧の深い夜の街で、どうやって良子を探せと言うのだろうか。一也はしんとしみわたる耳鳴りとともに、かすかに体が震えるのがわかった。それは決して寒さのせいだけではなかった。

「お電話ありがとうございます」
 一也は電話に出た男の硬い声から、痩せて目の鋭い男の顔を思い浮かべた。
「実は、初めて電話をしているんです。いま、高速の下にある銀行近くの指定された公衆電話から話しています」
 一也は言葉を間違えないように緊張して話した。
「では、高速を背にして坂の方をお向きになって下さい。坂の上を見上げる感じになりますね。そうすると左手に大きめのビルが建っているのがわかるでしょう」
 うってかわって、電話の男は愛想のいい優しい声で話しかけてくる。確かに坂道の中ほどに、ビルのものらしき空き地から光が広がっているのが見えた。
「そのビルを通り過ぎてから一つ目の角を左に曲って下さい。その路地の右側に白いタイル張りのマンションがあります。そこの305号室です。三階の5号室になります。扉に小さくソウル・アイズと書いてありますから」
「はい、これからすぐに行きます」
 一也は小声でつぶやくように言って受話器をおろした。

 一也はソウル・アイズと目立たないように書かれたドアの前に立った。良子の勤めている風俗店が、こんなに静かな住宅街のマンションの中にあることが信じられなかった。マンションの廊下は煌々と明かりがついており、廊下の壁はまだ新しいのかとても白く、一也はどこか場違いな病院にきているようだと思った。
 この部屋の中に良子はいるのだろうか。ドアを開けて中に入ると、良子が部屋の奥から顔を出して自分をだまって見つめているのではないか。一也はそんなことを考えて思わず体が固くなるのだった。

「お客さまは、はじめてですね?」
 電話の声から想像していた男の姿とは違ったが、やはり、電話で感じたどこか疲れがたまっているような雰囲気が、受付の男の声を聞いて一也の頭の中によみがえってくるのだった。いまさっき高速の下から電話をかけた者だと一也が答えると、男はうつむいたまま話しはじめた。
「はじめに、この店のシステムを説明します」
 一也は玄関の脇にある受付用の椅子に腰をかけて、だまってうなずいたまま男の話を聞いた。良子はこの店で一体どんなことをしているのだろうか。一也は思わずため息をついてから、男がデスクの上に広げた喫茶店のメニューのような紙を見つめるのだった。
「まず、お客さまもすでにご承知かとは思いますが、この店は普通の風俗店ではありません。この店の女の子はお客さまの前で裸にはなりません。よろしいですか。女の子がお見せするのは脚だけです」
 それまで一也の顔を直視しなかった受付の男は、このとき念を押すように一也の顔を見つめた。
「お客さまは、女の子の脚をながめてさわることができます。この店では脚にキスすることまでは構いません。ただし女の子の太ももから上は絶対にさわらないで下さい。これが約束です。そのかわり、この範囲内であれば何をされてもけっこうです。よろしいですか」
 男の声は一也を問いつめるような雰囲気があった。おそらく約束を守らない客が少なくないからだろうか。しかし、一也は最初に考えていた風俗のイメージとかけはなれた内容に拍子抜けしたような気持ちになり、思わず口を開いた。
「プレイはそれだけなんですか?」 
「基本的にはそうです。あとはお客さまの楽しみかた次第です。この店の女の子はすべて、ほかに風俗経験のない素人の女の子たちばかりですから。それがこの店の売りなんです」
 一也は、男が自分を値踏みしているのだろうかと考えた。この店にはふさわしくない客だと思われているかもしれない。受付の男は、一也の興味を確かめるかのようにさらに言葉を付け加えた。
「 常連のお客さまの中には、お気に入りの女の子を指名して、裸になって女の子に踏みつけてもらうのが好きな人もいますからね。ここだけの話ですが」
 男はむずかしそうな顔をして一也に言った。 
「そんなことをして何が楽しいんですか?」
 どこか自慢げに語る男に、一也は思わず真顔で答えてしまった。 
「ここは脚だけの風俗だと思って下さい。興味がなければ、どうぞ、ここでお帰りになってもらってけっこうです」 
 男は鋭い目を一也から離さずに言った。しかし、一也はここで帰るわけにはいかなかった。良子を探しにわざわざここまでやってきたのだ。
「わかりました。料金はいくらですか?」
「四十分で八千円。六十分で一万円になります」
「じゃあ、六十分にして下さい」
 一也は良子を選ぶつもりだったが、良子は今夜この店にいないかも知れない。その時は良子が持っていた名刺の名前の女の子を選ぶつもりだった。その子に良子の居場所を聞くことができるはずだと思った。いずれにしても、時間はなるべく長い方がいいのだ。
「女の子をお選びになりますか?」
「はい、お願いします……」
「これが本日出勤の女の子です」 
 男が持ってきた写真の中に良子の姿はなかった。しかし、その写真の中に良子が持っていた名刺と同じ名前の女の子がふたりともいた。一也はためらうことなく男の目を見て言った。
「女の子をふたりお願いすることはできますか?」
 机の上の写真を指さして女の子の説明をしていた受付の男は、思わず顔をあげて一也の顔をまじまじと見た。

 一也は、男から指定された別棟のマンションの部屋に入った。念のため鍵をかけて靴を脱ごうとしたとき、見覚えのある赤い靴が目に入った。その靴は靴箱の棚に踵を引っ掛けてそろえてあった。一也はそれがすぐに良子の履いていた靴と気付いた。良子が履いていた踵の高い赤い靴と同じだった。もしかして、良子はいまこの部屋にいるのだろうか。
 ワンルームの小さな部屋だった。部屋の明かりをつけるとごく普通のマンションの一室である。こんな風俗店の部屋だから、一也はなにか仕掛けのある部屋を想像していたのだが、妙にすっきりした部屋で不思議に思った。しかし、どこか生活感のない部屋で、やはりここに女性が住んでいるとは思えなかった。
 もう一度一也は良子の靴を掛けてあった棚を見たが、そこには他にも何足か靴やサンダルが掛けられていた。店の風俗嬢たちが自分達の靴をここに置いてあるのだろうか。もしかしたらここは女の子たちが待機する部屋なのかもしれない。
 一也は部屋の中にあるソファに腰かけて腕の時計を見た。もう八時に近い時刻になっていた。部屋の蛍光灯が白い光を放って部屋の壁を照らしていた。

「こんばんは、お待たせしました」
 外からドアの鍵を回す音のあと、間をおいて同じ言葉を繰り返しながら、ふたりの若い女性がコートを脱ぎながら部屋の中に入ってきた。ひとりはモデルのように背が高く美人で、すらりと長い脚を惜し気もなく見せていた。もうひとりは、中肉中背でどこにでもいる女の子のように見えた。どちらかと言うと、こちらの娘は可愛らしいタイプだった。一見して対照的な雰囲気のふたりだったが、ふたりに共通 しているのは、コートの下は脚が良く見える短いスカートをはいているということだった。
「私がレイナです」と背の高い方の美人が、ソファの向いに置いてあるストールに腰かけながら言った。
「私がカオリです」可愛らしい方の女の子が、同じように椅子にかけながら小さな声で言った。
「はじめてのお客さまで、いきなりふたりも女の子を指名するとは驚いてます。とにかくどうぞよろしくね」
 レイナが人なつっこい笑顔を見せながら一也に挨拶をした。そのあいだ、カオリはだまって微笑んでいた。
「はじめてなので、なにもわからないんだけど、少し話していいですか?」
 一也はふたりの風俗嬢を目の当たりにして、とにかく緊張しないわけにはいかなかった。なにしろ、ふたりの下半身は極端に丈の短いスカートを除いてまさに裸なのだ。ほとんどスカートの存在はないに等しかった。
「その前に、あの、すいません。みなさんパンツがまる見えなんですけど……」
「よかったわねえ。好きでしょう? 女のこんな姿」 
 一也は、それに加えて、なぜかふたりとも靴を履いたまま部屋に上がっているということに気がついた。
「あの、どうして部屋の中で靴を履いているんでしょう?」
「ふふ、これはね、部屋の中で履くための靴なの」
「これが好きなお客さんもいるのよ、脱がせたり履かせたり。知らなかった?」
 レイナとカオリは面白そうに一也の顔を見てから、「知らなかった?」とまた繰り返して笑った。
 なるほど、靴箱に掛けてあるのはこの部屋で使うために置いてあるのか。しかし、一也は驚いている場合ではないと思い返し、さっそくふたりに大事な質問をぶつけてみた。
「ねぇ、良子って女のひと知らないかな?」
 かなり場違いなことを言ってるだろうな。一也はそう思いながらもふたりの風俗嬢の顔を見つめた。でも、このふたりは良子のことを知っているはずなのだ。
「あら、良子なんて名前の娘は、うちの店にはいないわよ」
 背の高いレイナが長い脚を組みかえながら答えた。 
「この人、何の話をしてるのかしら? 私たちのこと気に入らないってこと? もしかして違う女の子に変えてほしいってことかしら?」
 中肉中背のカオリは、煙草の煙を斜め下に吹き出すように吐いてから、少し気色ばんだ声を出した。顔に似合わない仕草だった。一也はあわてて付け加えた。
「いや、この店で使っている名前は知らない。ここで働いている子で、本名が良子っていうんだ。実は、彼女が部屋からいなくなって探してるんです」 
「あなた、そうは見えないけど探偵とかやってるひと?」 
「あはは、そうは見えないね。ただの探偵ごっこなんじゃないの?」
 ふたりの風俗嬢は、たがいに顔を見合わせながら興味がないふうに軽く笑ってみせた。一也はかまわず続けた。
「俺は良子の部屋でいっしょに暮らしているんです。まだ暮らし始めたばかりですけど。ちょっと前、彼女がこの店に勤めているって知って、それで少し口論になったんだけど、そのあとに彼女が急に部屋からいなくなってしまって……」
 一也は良子がふたりの名刺を持っていたことは告げなかった。
「へえ、そうなんだ。でも、どうして私が良子さんを知ってるって思ったの?」
 髪の長いレイナが顔をかしげながら答えた。
「たんなる賭けみたいなもんです。今夜は良子の出勤日じゃなかったから、女の子をふたり頼めば、良子のことを知ってる確率は少しは高いかなと思って。ただそれだけなんですけど」
「でも、私が彼女のことを知っていたとしても、ぜんぜん知らないって嘘つくかもしれないじゃない、ねえ?」
 レイナはカオリの方を向いて笑いかけた。
「良子がここで働いていることは間違いないんだ。玄関に靴を掛けてある棚があるだろう? そこに掛けてある赤い靴は良子の靴なんだよ」
 一也は玄関のドアの方を指し示してレイナに言った。
「ところでお客さん、良子さんのことが心配なのはわかるけど、私たちの仕事のことはどうしてくれるの? 早くしないと時間がなくなっちゃうでしょう」
 レイナはそう言ってストールから立上がると、一也の横に腰をおろした。カオリはソファの向いの椅子から立上がると、部屋の照明を落として壁際のポータブル・ステレオのスイッチを入れた。不思議な旋律のトランス・ミュージックが暗い部屋の中に広がっていく。 
「ねえ、私が良子のことを教えてあげるから、ここをさわってよ」
 レイナは長い脚を一也のひざの上にかけるようにして、一也の手をとってあらわな太もものうえにのせた。カオリもすぐに一也の脇に腰をおろした。カーテンを透して夜の街の明かりが忍び込んでくる。ふたりの女の体から甘くあやしい香りが漂ってきた。 
「実は知ってるのよ、良子のこと。彼女はときどき私の部屋にくるのよ」
 レイナは一也の手をひざの上で動かしながら、こともなげに言うのだった。
「良子はねえ、あなたがいる限り部屋には戻らないんじゃないかしら。あなた、良子に風俗なんてひどい仕事だなんて言ったんでしょう」
「ことわっておくけど、俺は良子が好きだし良子だって俺のことを好きなんだ。好きな男がいながら、こんな仕事をするなんて考えられないじゃないか。風俗でほかの男に体をさわられるなんて俺は許さないよ。そんなことしなくたって俺がちゃんと彼女のめんどう見てやるんだ」
「あら、それじゃあ私たちには恋人を持つことは許されないのかしら? ひどい話だと思わない?」
 レイナはカオリの顔を見ながら言った。カオリは何本目かの煙草を手にとりながら、ふたりの方を見て言った。 
「この人には、まだ人を愛するってことが良く分らないんじゃないかしら。自分は良子のことをいちばん愛してるみたいに言ってるけど」
「私がこれから良子のお話を聞かせてあげるわね」 
 レイナは、一也の右手を柔らかな太ももの間にはさみこみながらそう言った。

「むかしむかし、私たちも知らないころ。あるところで良子はふたりの弟と暮らしていたのね。彼女の両親は若いころに亡くなっていたし、弟たちのめんどうを見ていくことは、良子にとってとても大変なことでした。それでも可愛い弟のためだと思えば、それは辛いことばかりではなかったけれどね」
 レイナは静かに語りつづけ、カオリは煙を吹くように吐いていた。 
「あるとき、良子は困ったことに、しばらく家をはなれて遠いところへ行かなければならなくなったの。良子はふたりの可愛い弟たちに、家の戸締まりをしっかりして暮らすように厳しく言っておかなければならなかった。そしてこの時のために用意しておいた生活費をわたして言った。このお金がなくなったら、この人たちを訪ねなさいと」
 一也はだまってレイナの話を聞いていたが、いったい何のことなのかまったく分らなかった。暗さにも目がなれてきたせいか、ほの暗い部屋の中が外の光でかすかに青く灯っているように感じた。
「はじめに年上の弟がお金をわたされ、年下の弟にはその半分のお金がわたされました。良子は弟たちに、それぞれの年齢に合わせてお金をわたしたの。そして彼女は弟たちひとりづつに、お金に困った時に訪ねていくようにと、それぞれ別 々の男の人を紹介したの」
 部屋に流れている不思議な音楽はまだ終わらない。女たちの甘い香水の匂いに一也はだんだん酔ったような気分になってきた。カオリの体は一也の左腕にもたれかかっている。 
「でね、実は良子は、そのふたりの男たちと同時に関係を持っていたの。いわゆる男と女の関係ってやつね。そんな男たちに、それぞれ弟のめんどうを見てほしいと頼んだわけ。どうしてそんなことをしたのか、私には分らないけれどね」
「そこが良子のすごいところなのよ。彼女は男の選び方を知っているの」
 いままでだまっていたカオリが突然口を開いた。一也には依然、良子がふたりの男と関係があったことなど、なんのことなのか分らない。 
「生活費と言ってもたかが知れていたのね。年上の弟はすぐにわたされたお金を使い果 たしてしまったの。でも年下の弟は違った。大好きなお姉さんからもらったお金を、その子はとても大事に件約して使っていたのね。実はその子は、まわりの子供達からお金や食べ物も恵んでもらうこともあった。だからなおさらお金も減らなかったのよ」 
「可哀想な子どもだったのよ」カオリが相づちを入れた。
「でもね、年上の弟は周りの貧しい子どもたちに食べ物を買い与えたり、お金をわけてあげたりしていたの。そうやってお金を使い果 たして男の人のところに助けを求めに行くと、どうしてなのかその男の人は、よくやったとた年上の弟を褒めてくれたのね。そうしてたくさんお金をくれるのよ」
 レイナはさらに話を続けようとしている。壁の時計を見るともう九時に近い時刻だった。約束の時間が刻一刻と近づいている。一也は自分がいったい何をしにきたのかわけが分らなくなっていた。 
「そして良子が家に帰ってきた夜、彼女は弟たちを寝かし付けてから、ふたりの男を家に呼んで、留守の間に弟たちはどうしていたかを詳しく聞いたのね。年上の弟の話を聞いたとき、彼女はとても喜んでいたんだけど、もうひとりの男が、お金を使わずにうまく残した年下の弟を褒めたのを聞いて、突然怒り出してしまったの」
 レイナは一也の顔を指でくすぐりながら言った。
「ねえ、どうして良子はその男のことを怒ったんだと思う?」
「……俺にはさっぱりわからないよ」
 一也は重苦しい疲れを感じて投げやりに答えた。レイナは一也を鼻で笑うようにしてから言った。
「私も知らないけどね。それで、良子は年下の弟を褒めた男を捨てて、年上の弟のめんどうを見てくれた男と結婚することにしたのよ。私の部屋にきて良子はそう言っていたわ」
「だからもう、良子はあなたとは縁を切るつもりだし、早く部屋から出ていって欲しいと言っているわ」
 レイナはさもつまらなさそうに続けて言うと、ソファから立上がった。ステレオもだんだん音が小さくなって、暗く不思議な音楽もやっと終わるところだった。
「あなた、本当につまらない遊び方をしたわね。もう二度とここにはこない方がいいわよ」
「でも、少しは身のためになったんじゃないかしら?」
 レイナとカオリは続けてひとごとのように言った。
「良子が結婚するというのは本当の話なのか?」
 一也は、そのひとことを言うのがやっとだという気がして言った。
「本当よ。だからもう良子にかかわるのは止めにしてほしいわ」
「おしまいの時間よ。坊やは気をつけて帰るのよ。もう良子の部屋に戻ったりしないでね」
 ふたりは一也を見ながら愛想のない顔で言った。

 一也はもうろうとした気分でマンションをあとにした。深夜の住宅街には相変わらず深い霧が立ちこめていた。レイナのいい加減な話に時間も金もすっかり無駄 にしてしまったと思った。ついに良子の居場所を確かめることもできなかった。一也はあてもなく見知らぬ 街を歩きはじめた。もはや帰るべき方角がどちらなのかも分らなくなってきた。
 住宅街を抜け出した一也は、濡れた舗道を歩きながら車道の向こう側に赤や青い色の光っているネオンサインを見つけた。近づいてみるとかすかに静かなジャズが聴こえてくる。一也はふと、良子が好きだと言っていたもの悲しいジャズの曲を思い出した。良子は部屋を出ていくとき、そのCDを持っていったのだった。一也はひさしぶりにその曲を聴きたいと思った。
「あの曲でもリクエストしてみようか……」 
 思いつめた気持ちで一也は店の中に入っていった。
「ウィスキーのロックをダブルで下さい」
「かしこまりました」
 若いウェイターは小さな疲れたような声で答えた。
「それと、ジャズを一曲リクエストしたいんですが……」 
「よろしいですよ。いまはお客さましかおりませんから、ご希望の曲がございましたらすぐにおかけいたします」
 そうして、一也は演奏者と曲名とをウェイターに告げたあと、ろくに飲めもしないウィスキーを口に含み、深い酔いともの悲しい音楽がやってくるのを待った。やがて良子の部屋で聴いた懐かしい音楽が静かに流れはじめて、一也は思わず涙を流した。苦いウィスキーは一也の体の中でじわじわと熱く燃え、青い炎が広がり一也の心をなぐさめはじめた。
 その店を出たとき、一也はまっすぐに歩くことができなかった。はじめは赤く染まっていた顔もいまは青白い陰のように冷たく見えた。なれない強い酒で胸はいやというほどむかついていた。早く部屋に戻りたいと思ったとき、一也は一瞬だけ両足の感覚がなくなるのを感じた。

 ふと気がつくと、一也の目の前に良子の赤い靴があった。霧に濡れた芝が青い陰をつくりだして、その赤い靴は濡れて青く照らされているように見えた。一也が視線を上げると、確かにそこには良子が立っていた。 
「一也さん、わたしのことを探してくれてたのね。心配かけてごめんなさい」
「そんなことはいいんだ。それより、おまえは大丈夫か?」
「ありがとう、わたしは大丈夫」良子は静かに微笑んだ。
「良子、あんな仕事はやめて俺のところにきてくれ。おれはどんなに心配したか分らない。たのむから俺のところにもどってきてくれ」
「一也さん、ごめんね。一也さんをこんな目にあわせてしまって、ほんとうにごめんなさい」良子は、いったん言葉を切ってから話を続けた。
「でもね、あのお店には、わたしのことを必要としている男の人たちがきてくれるのよ。みんな、ふざけてくるような人たちじゃないの。女性に憧れても相手にされなかったり、相手から冷たく捨てられて苦しんでいる人たちばかりなの」
「俺じゃだめなのか? どうして良子は俺を避けるんだ? そんな男たちのほうが良子は好きなのか? 俺だっておまえを必要としているんだ」
「ちがうのよ、一也さん。今度は一也さんがほかの女性を幸せにしてあげなければいけないの。今度はひとりで立上がらなければいけないのよ」
 夜の青い光の中で、良子は一也に手をさしのべようと体をかがめた。良子の美しい顔が一也の顔を見つめた。
「好きになって間もないけど、俺は本当に好きだったんだ……」
 一也は、芝の上でひじをついて起き上がろうとした。そして良子の肩を抱こうと足を踏み出そうとしたとき、一也はふたたび意識を失った。自分が倒れれて良子の体にぶつかることを意識した瞬間、一也は自分が良子の体の中をとおり過ぎていくのを感じた。

 つぎに一也が自分に気がついたのは、夜が明けようとする少し前だった。一也は横に倒れたまま目の前の光景を見つめていた。霧がはれてきたとはいえ、まだこの街の夜は暗く、一也は、黒い空き地の向こうに背の高い大きなフェンスが張りめぐらされているのを見た。そのフェンスはまだ明るい太陽の日を受けずに立ち、一也にはそのフェンスが青色の薄い膜のように感じられた。
 一也は、その青い膜のような大きなフェンスが自分の周りに張りめぐらされているように思った。暗い空の上から見たら、それはきっと大きな藍色の匣のようではないか。考えてみれば、一也は、自分はいつもこの薄い青い色の陰とともにいたような気がするのだった。

 いつか、この藍色の匣の中から抜け出すことはできるのだろうか。一也は、濡れて冷えきった体を起こし、湿った芝の上を踏みしめながら思った。出口などどこにあるのかもわからない。しかし、自分の力で必ずここから抜け出さなければならないのだ。暗く青いフェンスの陰に囲まれながら、一也はそのことを自分に言い聞かせていた。