孤独なランナー




佐藤 由香里







 僕はゴールの見えない曲がりくねった道細いを、ただひたすら走っていた。
 用意ドンという掛け声と同時にものすごい数のライバルが突っ走って行き、僕は次々と抜かれていった。僕の隣を、いかにもインテリな感じの眼鏡の男が、息一つ乱さず軽やかに通り過ぎた。
「お先に失礼するよ。」
 なんだか感じ悪い。僕は悔しくて男について行こうとしたけれど、まるでフェラーリと軽自動車ほどのスピードの違いにあっけなく敗北した。

 僕なんて、大して足が速い訳でもないのに、こんなに過酷なレースに挑んで本当に勝てるのだろうか。そもそもこのレースは一体何なのだろうか。走る理由も解からないのに、どうして僕はこんなに一生懸命走っているのだろうか。けれどいくら考えてもその理由は自分でも解らなかった。ただ、『誰よりも早くゴールに辿り着かなければならない』という意識だけが僕を走らせていた。


* * *


 先頭集団は既に僕からは見えない遥か遠くに行ってしまっていた。焦って、より速く走ろうとしても、僕のスピードには限界がある。ちっとも追いつけない。でもここで諦めてしまってはいけない。僕はそう自分に言い聞かせながら、弱気になっている自分を奮い立たせていた。
 スタートダッシュで体力を消耗したやつらは早くも失速していき、ライバルはどんどん減っていった。残ったやつらがみんな、しめたとばかりにペースを上げたので、僕もつられて追いかける。けれど、まだ先頭集団は見えてこない。このままでは一位を獲られてしまう。もっと、急がないと。

 僕のいる第二集団は接戦だった。誰もペースを落とさない。少しでもスピードを緩めたら一瞬で引き離されることを、きっとみんな知ってるんだ。大勢のライバルたちはぶつかり合いながら、それでも第二集団のトップに躍り出るため我が身を顧みず争う。細い道なので、後ろの方にいたのでは目の前を走るライバルが壁になり、抜かすチャンスを失ってしまうからだ。体か擦れ合って怪我をするやつが続出した。でも怯んだら蹴落とされる。今こそ、体力と精神力が試される時なんだ。

 負傷でバタバタとライバルたちが倒れていく中、僕は第二集団から抜け出した。壁の後ろにひっそりと身を隠してぶつかり合いを避け、体力を温存し、一瞬の隙を窺って一気に追い抜かすことに成功した僕の勝ちだ。けれど、駆け引きはここまで。これから先は、ただ速い者が勝つという純粋な勝負だ。体力はまだまだ残っている。この勝負は僕がもらう。


* * *


 周りのライバルたちは完全に撒いたと、あとは先頭集団に追い付くだけだと思っていたら、後ろからやたら血の気の多そうな男がついてきていた。僕が追い抜かれまいとスピードアップすると、そいつもムキになって必死の形相で追いかけてくる。額に血管を浮き上がらせ、息遣いも荒い。そして少しでも差をつけると、男は「うおおおお」と叫びながら距離を縮めてくる。はっきり言って怖い。

 目の前を走る、先頭集団からあぶれたライバルたちを、僕とその男で何人も抜かした。僕を抜こうとする男と、抜かれまいとする僕。しばらくは競り合いが続いたが、業を煮やしたのか、男は息も絶え絶えで話しかけてきた。
「おい! さっきからなんで張り合ってるんだよ!」
 どういう訳か、男の中では僕が悪者になっているようだ。僕は冷静に答える。
「張り合ってくるのはあなたの方だと思いますが」
「いいからお前、大人しく俺に抜かれろ」
「あのですね、ここは勝負の世界なんですよ? 抜きたければ実力で抜いてください」
「なんだよテメエ、生意気なんだよ!」
 いくら凄んで見せても、もはや体力残っていなさそうな男に言われたのでは、迫力も何もない。虚勢を張って大声を出すくらいなら、走りに集中した方が幾分マシなのに、と、僕は内心憐れな気持ちになった。
「悪いけど、余計な体力を消耗したくないんで。お先に」
「おいおいおいおい、待てよ。待てっつーの!」
 一気にスピードを上げた僕に男はついてこようとしたけれど、やはり随分と強がっていたのだろう、徐々に失速し、ずるずると後退していった。
 いけない。冷静を装ったが、僕もムキになって相当の体力を消耗してしまった。でもかなりの数のライバルを抜かすことが出来たので、自分の中で良しとした。


* * *


 なんの駆け引きも要らないレースが展開されていた。抜いて、抜かれて、抜き返して。けれど脱落者も続出した。のんびりとゴールを目指す者、コースを外れていることに気付かず突っ走る者、諦めて座りこむ者。ここは、速い者だけが残る戦場だ。

 どのくらい走ったのだろう。僕はとうとう一人ぼっちになった。僕の先を行くライバルたちはもうゴールをしたのだろうか。孤独な戦いが続く。本当はちょっと休憩でもしたい気分だったが、まだ先頭集団に追いついていないのだ。ここで気を緩める訳には行かなかった。


* * *


 細い道を抜けると、広いホールのような場所に出た。ホールの奥にはさらに細い道が続いている。この奥がもしかしたらゴールなんじゃないだろうか。と、ちょうどそんなことを考えていた時、ホールの隅に人影のようなものが見えたような気がした。先頭集団か。でもよく見ると違った。傍に駆け寄ってみると、それは無残に転がるライバルたちの亡骸だった。これは……先頭集団のやつらじゃないのか? まだずっと前を走っているのかと思っていたのに、これは一体どういうことなんだ。みんなピクリともしない。精も根も尽き果てて倒れたのだろうか。

 倒れているライバルたちの中に一人だけまだ意識のあるやつがいることに気付いた。見覚えのある顔。よく見ると、それはスタートの時に俺をものすごい勢いで抜かしていった、いかにもプライドの高そうな眼鏡の男だった。
「あの、これは一体?」
 恐る恐る話しかけると、眼鏡の男はゆっくりと顔を上げて僕の顔を確認し、「ああ」と言って仰向けに寝返った。
「私のことなど構ってないで、先に進んだ方がいいんじゃないのか?」
「そうかもしれないですけど、でも……」
「ん、なんだ。」
「僕、解らないんです。一体このレースはなんなんですか?」
「その答えは誰にも解らない。ただ私は薄々気付いているんだ。私たちはこのレースで一位をとる以外に生き残る道はない。」
「どういうことですか?」
「そのままの意味だよ。さもなくば、このままここで朽ち果てるしかない。」
 僕は辺りを見回した。たくさんのライバルたちの亡骸が至る所に転がっている。泡をふいて気絶している者、白目をむいている者、体中傷だらけの者。いかに先頭集団が激戦だったかが窺える。
「それじゃあ僕たちは、もし一位にならなければ!」
「すぐでなくとも、いずれは」
 男はそう言って、辺りに転がる亡骸に目をやった。僕もこんなふうになってしまうのか? 命を賭けて走りぬいた結果がこれなのか。
「あなたはどうするんですか?」
「私だってこんな所で終わりたくはない。口惜しいよ。私が一番にゴールするはずだったんだ。だが、もう体力的に無理のようだ。一歩も動けそうにない。」
「じゃあ、あなたはここでこのまま……」
「そうだな。私はここで君を応援しているよ」
 僕はなぜだか涙が溢れてきた。レース中は単なる敵だったこの人も、結局は同じ目標を持つ仲間なんだ。このままここで息絶えるのを見過ごすなんてしたくない。でも、抱えてゴールすることも出来ない。どうにもならない状況に、ただ涙を流すしかなかった。
「さあ行け。私のこの身はまもなく骸になるだろう。君は戦ってこい。最後の最後まで。」
 僕は涙を拭いながら、眼鏡の男に軽く会釈をしてその場を立ち去った。背負うものの重みを感じながら、一歩一歩踏みしめてゴールを目指す。
 あなたのその強い意志を、僕は決して無駄にしない。


* * *


 ホールを抜けると、再び細い道が続いていた。道の奥には丸いオブジェのような置物がそびえ立っている。随分と大きい。きっと、あれがゴールだ。
 ところが、ゴールに向かって走り出そうとした途端、視界に飛び込んできた光景が僕の足を止めた。色白で華奢な女の子が、弱々しい体を引きずりながらゴールに向かって歩いている。気付かないほどのスピードで、よろよろしつつも何とかバランスを保ちながら、ゆっくりと。僕は立ち止まって彼女を見つめていると、向こうもこちらに気付いたようで、僕を見て精一杯の笑顔を見せた。そして次の瞬間、彼女は力無く崩れ落ちた。
「君! 大丈夫?」
 僕は急いで駆け寄ると、彼女は今にも意識が飛びそうな焦点の合っていない虚ろな目で僕を見つめた。
「私、もう、歩けない、から、先に、行って」
 辺りには僕たち以外の気配はない。
「でも僕がゴールしたら、君は……」
「いいの、私、解ってるから。もし、このレースで、生き残っても、私は、いずれ…」
「なんでだよ! どうして自分の人生を決め付けちゃうんだよ!」
「私ね、ここまで来るのに、すごく、頑張ったの。自分に、よく出来たねって、言ってあげたい。だから、後悔は、してないの」
「じゃあ、もうちょっとだけ頑張ろうよ。一緒にゴールしよう!」
「優しいね。あなたとは、もっと別の形で、出会いたかったな」
 彼女の瞳からは大粒の涙がぽろぽろこぼれてきて、こっちまで胸が苦しくなる。その時、ホールを抜けた細道の入り口に誰かの気配がした。傷だらけになっているライバルが数人立っている。やつらは俺と女の子の存在を確認すると、必死の表情で向かってきた。まずい。
「ほら、追いつかれる前に、はや、く」
 彼女の目が閉じられていき、僕の腕を握っていた彼女の手がほどけた。同時に閉じられた瞳から最後の涙がひとしずくこぼれ落ちた。ライバルは、僕を勝たせまいと最後の力を振り絞ってこっち目掛けて走っている。くそっ。感傷に浸る暇もない。僕は彼女から体を離し、道の奥にあるゴール目指して走った。

 俺を煽ってきたあの柄の悪い男も、最後まで冷静だった眼鏡の男も、命の限り走り続けた女の子も。もしかしたら、僕は彼等と関わらなかったら、ここまで来ることはできなかったかもしれない。見えない力に後押しされて、僕はラストスパートをかけた。

 とにかく走った。目の前に見えるゴールに向かって、残された力を全て出して走った。背後からは追いかけてくるライバルの息遣いが聞こえてくる。すぐ近く。振り向けば、その間に一気に抜かされてしまうほどすぐ後ろに。ゴール目前、ライバルの一人が僕の隣に並んだ。そいつは僕の方をちらっと見てふふんと笑ったかと思うと、大きな一蹴りで僕の斜め前に飛び出した。
 だめか。……いや、まだだ。勝負はまだ、判らない!
 僕は手を伸ばした。態勢的に不利な位置から、なんとか勝利を勝ち得るために。球体に手を伸ばすと、指先が触れた瞬間に僕は中に吸い込まれ、ものすごいスピードで薄い膜に覆われた。これはなんだ。ゴールテープのようなものか? もしかして、僕は勝ったのか?
 タッチの差で一位を逃したライバルは、膜に跳ね返され、助走のついた体は地面に叩き付けられた。仰向けになって悔しそうに僕を見つめている。後続のライバルたちは足を止めて呆然としていた。僕は僕で、何がなんだか判らず、膜の内側からぼんやりと外を見ていた。すると、僕の体に徐々に変化が表れた。
 「そうか。そうだったのか」
 僕は気付いた。全てが繋がった。自分は何者なのか、ここは何処なのか、そして、このレースは何だったのか。

 みんな。
 僕は一足先にあっちの世界に行くよ。だからみんなも生まれ変わって、もう一回この戦いに挑みなよ。そして、一位をとってこっちの世界においでよ。待ってるから。





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「ねえ、あなた。私ね、赤ちゃんができたみたい」
「え! 本当か?」
「うん。今日病院に行ってみたの。今3週目だって」
「そうか……俺達の子供か」
「男の子かな。それとも女の子かしら」
「健康に育ってくれれば贅沢言わないさ」
「人のことを思いやることが出来る優しい子供に育てましょ」
「そうだな。ああ、なんだか実感が湧かないよ」
「私もよ」
「ついに俺も父親になるのか。こりゃあ今よりももっと仕事頑張らなきゃな」
「そうよ。これからもしっかりお願いね、パパ」




* * *




 僕は勝った。
 険しい道のりだった。
 でも僕は勝ったんだ。
 この戦いで学んだこと。それは、戦況をしっかりと見据える冷静さ、追いつめられて底意地を発揮する根性、人の意志を背負うという責任感と、弱い者に手を差し伸べる優しさだ。レースを通じて出会ったみんなに、僕は感謝をしなければいけない。
 きっと、今のこの記憶も、胎内で成長するにつれて白紙に戻るだろう。けれど僕は忘れない。潜在意識の奥の奥に押しやられてしまうかもしれないけれど、忘れることなんて出来ない。このレースを。共に走ったライバルを。そして、最後の最後まで諦めない自らの不屈の精神を。

 人生は戦いの連続だ。きっとこれからは、辛いことや苦しいことを山ほど経験するだろう。でも、人はそのために闘争本能を試されて生まれてきたんだ。どんな困難が待ち受けていたとしても、自信を持って立ち向かって行けばいい。だって僕らは、過酷なレースで生き残った勝者なのだから。