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日本倫理概説
第十四章 神道と宗教

文学士 伊藤千真三


 神道は宗教であるか否かという議論は、学者の間に、また宗教家の間に、また政治当局者の間に相当議論せられた問題である。あるいは政策的立場より、例えば、もし神道を宗教であると言い切ってしまえば憲法の信教自由の問題にも触れてくるなどという議論さえも起こってくる。しかも神道の本元たる伊勢大神宮神部署からは大麻(おおぬさ)を配布する。その他の社からも神籤(みくじ)を出す。護符を出す祈祷をなす、そこである人は「神道は宗教ではないが宗教である」とさえ言っている。
 自分は主として、神道をもって、国民の道徳精神を明らかにするに必要なるものとして、あるいは我が大和民族の伝承的精神を開明にするのに欠くべからざるものであるとして、なお外に言えば国民固有の道を識るために、その思想を系統的に研究せんと努めたのである。
 しかし、神道は建国の理想を尊ぶものであり、それは天下を治む所の道として、本居宣長等も、「道を行うは君とあるべき人の務めで、もの学ぶ者の業ではない」と説けるが如く、神道を為政家の道、治者の道と解釈するものがある。これは言うまでもなく祭政一致の思想に起源するものであり、崇祖の精神を中心とせるものである。
 かく見る時は、神道には特に道徳的(民族的精神)方面の外に政治的方面の存することが知られる。而してさらに他の一方面は神道の宗教的方面である。曰く、神道は宗教である。偉大な宗教であり、あらゆる宗教を統一包容する所の大宗教である等と言い放つものすらあるのである。
 井上哲次郎博士によると、神道は三つに分けられる。第一は国体神道であって、皇室を中心として国体と最も密接なる関係あるそれであって、国家的儀式などもこれによるものであると言う。第二は神社を機関として成立している所の神道であって、これを神社神道と言う。これに国家の官吏としての所謂神主が職員として奉仕する訳である。第三は十三派神道あるいは宗派神道である。かく分類する時は、第三のの宗派神道は元より一般に宗教として認められ、内務省の宗教局に所属するもので問題はない。また第一は純神道的信念として継承せられたる国民的国家的儀礼で、宗教に属すべきものでないことは当然である。
 そこで、問題となるのは神社神道である。元来神社神道の神は国家に勲功ある人格者であり、これを礼拝するは国民としての立場、国民としての考えから起こる崇敬の念である。しかるに信仰の自由の下にあるべき宗教は、勢い国家生活と緊密なる関係のありよう筈がないのである。外に言えば、国家生活と密接不離なる関係にある神道は国民の生活と無関係没交渉に置くことの能わざることは当然である。従って信仰を自由なるものとせる我が国家においては、神道をも同一に取り扱うことは不可能である。すなわち神社は国民としては当然崇敬すべきであって、任意に任すべきものではない。
 宗派神道は神社崇敬から出でて、これに宗教的色彩を加えたものである。それは普通宗教として扱われている。あるいは宗教としては幼稚なるものであるとか、真の宗教とは言われないとか言う批評はないではない。今多くの人々の説く所を見んか(加藤玄智編、神社対宗教参照)。
 文学博士前田慧雲は神社崇拝は宗教にあらずして、次の如く論じている。
自分は神社に対する礼拝を宗教であるとは考えない。神社は皇祖皇祖の霊を祀り、また国家に功労あり、社会に功績のあった人を祭って、これ等の方々に対して国民たるもの、恩徳を感謝して礼拝をするのである。神社に参詣して自分が天国へ生まれるとか、高天原へ行くとかいう気分で礼拝すべきではないのである。
宗教はこれと異なり、自身は何者ぞ、自身はどこに落ち着くべきかという問題に対して、光を与えていくものである。神社へ参詣するのは、我々が自身の本性を悟るがためでもなければ、落ち着くところを知らんがためでもなく、人間として生存する上につき、恩沢ある人に向かいて感謝の意を表するのが神社崇敬の主旨であるから、宗教とは自ら異なったものである。すなわち神社とは国民の道徳上に立ったもので、宗教は道徳以上の所に立脚したものである。
世間には道徳と宗教とを明らかに区別しない人があるかもしれないが、自分は道徳と宗教とは、立脚地の違うものであると信ずる。自分の考える所によれば、国民全般、いずれの宗教を信じるとも、神社はこれを崇敬し、時ありては礼拝すべきものである。その意志が前申す如く道徳上から来たもので、今日我々が生活する上に多大の恩徳を受けているから礼拝するのである。宗派神道は宗教としては至って未発達のもので、かくの如きは未だ真の宗教とは言えないと思う。あるいは道徳としては多少取るに足らぬものであろうが、宗教としては救いというものがない。こちらに要求しては行くけれど、神の上に救いがないのである。云々と。
(余の見たる神社崇拝の性質、前後省略)
 八束清貫氏も神社崇敬をもって宗教にあらずとなし、かつ十三派神道にもその鋭鋒を向けている。その結論の帰着するところは前田博士と同一であるが、論旨は一でない。まず神社崇敬の意義を説きて「神社は皇室の御祖先、各氏族の祖先、建国の大業に功あり、または皇室・国家・地方に対して功労著しかりし方々の威霊を奉祀したものであるから、吾人はその神々の子孫として、その祖先という点から、尊敬せねばならぬと同時に、またその功績に対し国家の一員としてこれに社会的崇敬の念を払わねばならないのは当然である。すなわち吾人は吾人の今日ある所以を感謝し、感恩反始の誠を致して、これらの神々を崇敬せねばならぬのである。我が国民道徳の基礎は崇祖にある。神社設立の根本精神またこの義に外ならない。国民道徳が宗教でなきが如く、神社崇拝は宗教ではない。だから神社は宗教から超越したものである。国家国民が神社に対して感恩反始の礼を尽くす所以のものは、すなわち国民道徳の命ずるところであり、道徳が崇祖感恩を要求するが如く、神社はそれを要求するのである。ゆえに靖国神社の祭典には小学校は授業を休んで生徒を参拝せしめ、崇敬の誠意を致さしめるのである。神社崇敬はその信奉するところの宗教の何たるを問わず、何人といえどもなさねばならぬ信条である。また古来より我が国民道徳の命ずる所である」と。
 さらに十三派神道、すなわち狭義の神道に及んで「神社は祖先または功臣を祀り宗教にあらずと信ずるも、同一神を祀り宗教的行為を余計に行うを以って十三派の神道を神社と区別する。一方は道徳的見地に立ち神社は宗教にあらずとし、他方は祭祀の形式等はほとんど同様なるに、これを宗教なりとすることが、将来にわたって果たして正当であるか否か、思うにこの十三派神道中、宗教的色彩の薄いものは、これを同一神の神社に付属せしめ、神道の信徒にすべてこの神社の崇敬者とすることも一つの案ではあるまいか、また一方を宗教にあらずとせば他方もまた宗教にあらずとせねばならぬのではあるまいか」と論じている。
 安原清輔氏は神道の宗教にあらずとなす説をあげて、次の十一を数えている。
 ()神道を無視する説 神道は足利時代に出来たものである等と言い、頼山陽の書籍等に影響されている説である。水戸学説派や吉田松陰らの説で、この系統の人は神は存在しないと考えているらしい。松陰は私を棄てて公につくす人は永生することが出来る、楠公らは今なお生きていると言うのである。
 ()日本は神国にして実在的神明、すなわち祖先が立てた国である。その遺訓は国家的教典であって、救世主、聖人の一家言ではない。我々の奉ずる所は祖先の遺訓であって、釈迦やキリストのこしらえたものとは趣を異にしていると言う説、この説は感情的であって学問的価値には乏しいが、実際は愛国心と結合してなかなか有力な説である。
 ()神道には救世主もなく、教典もなく、かつ神道の神は我々の祖先であるから他の宗教の神とは違う。
 ()神道は宗教としては未発達原始的なものである。これを成立宗教となすことができない。かつ神道は祖先の遺した教えで、国民全体がこれを尊奉し神社を崇敬すべきであって、これを信仰の自由に任すことは不可である。
 ()神道を宗教として、信仰の自由に任す時は不敬なことが出来ないとも限らない、これ宗教とせぬ理由である。
 ()神社は宗教ではない。ゆえに国家はこれを保護する。しかし、宗教としてこれを信ずることは差し支えない。国としては宗教としては保護しない。神社は宗門とは別で、誰でも参詣できる。もしこれを宗教とすれば宮中の腎所も宗教とせねばならなくなる。キリスト教との対抗の上にも、神社は宗教にあらずとして保護する方がよろしいという考えである。
 ()神社に祭られた神は我々の祖先であり、皆人である。この説を押しつめると、神社は祖先を祭った所で、神道は祖先の間に行われた道徳を意味するものである。
 ()神道は国家的宗教で、一般的宗教とは異なり、外国人は神道の信者にはなれない。
 ()神道は宗旨とは違うから宗教ではない。
 ()神道は現世教で未来世界を説かぬから宗教でないとの説。ある人は生きている間は神様の御世話になり、未来では仏様の御世話になると言っておった。しかし、現世教であるから宗教でないとは言われない。
 (十一)仏教徒やキリスト教徒も神社に参詣するから、神社は宗教ではないとなすものがある。
 かくて彼は進みて、曰く、「宗教とは人間以上の霊力を信ずることにて、その霊力は人間の如く作用し、しかも人間以上のものであるという特徴を持っている。この点から言えば神道も充分宗教の特徴を備えている。また全国の神社に祭れる神々はことごとく祖先であると言うことも出来ない。もちろん仏教やキリスト教の神仏と神社の神は同様なものではない。すなわち後者には民族的特色が付加せられている。けれども、参詣している人々の心持ちから言うと、神社へ参詣するのと、観音様へ参るのと心持ちは同様である。祈念とか報賽の経験から言うも、参詣人のねぎ事を見ても神社を宗教と解さずにはいられない」と、神社の宗教であることを説いている。
 なお彼は実際的方面から、参詣人の態度、祭礼の儀式、氏子の信念、祈祷などは宗教と言わずにはいられないとなして「多くの人は一生の吉凶を神に祈るのであるが、これは果たして止めしめることができるであろうか、もし止めしむることが出来るとしても、それはただ自然消滅を待って始めて出来ることで、神社は宗教でないから祈ることはならぬとか、祈るのは愚だとか言って見た所が容易に行われない。殊に国家が行うところの祭祀には、ことごとく祈念祈祷の意味が含まれておって、これを除いてしまったら祭祀は意味をなさぬと言ってもよい。すなわち三大祭の一つたる祈年祭は一年の豊饒を祈る祭りである。祈り祭るのが神道の固有の式である。これらは宗教儀式である」と説き、むしろ神社を宗教として独立せしむるの可を力説している。
 これに対して、高賀詵三郎氏は「神道はすこぶる広汎で、宗教的方面、道徳的方面、政治的方面等を含むものであり、神社もこれと同様であるから、宗教であるか否かを定めることは困難である。神は元、皇室と関係したものであるが、人々の知識の程度によって、あるいは文化の変化によって、ある時には宗教的となり、他の時には政治的となり、道徳的となる神社に祈願を捧げることを以ってただちに宗教であると言う人もあるが、その祈願の内には報酬という道徳的方面も含まれている。昔は神社には宗教的部分が多かったが、後世に至っていろいろに分かれてきた。現今においては特に宗教的部分を高調する必要はない。私は神社を国民道徳の霊的部分と考えるのをもって最も適当と信ずる」と述べている。
 星野輝興氏は神社の祭祀を公的祭祀と私的祭祀に分ち、公的祭祀は国家的倫理的理知的であるが、私的祭祀は個人的宗教的感情的であるとなして、その例として、「靖国神社の例祭の如き、その主意は祭神の生前の国家的功績に対して国家の感謝の意を表するもので、その方法は倫理的理智的で、とても一般の宗教を以って律することが出来ない。しかし、一部分を観るとこれとは全然反対のものがある。すなわち一祭儀の付帯行事たる祓除(ばつじょ)の如きは、形式内容共に何等疑う余地もない宗教的信仰であり、作法である。如何なる弁を以ってしても、これを報本反始祖先崇拝とは言われぬ。中略、多くの人によって行われる昔風のお宮参りのかたちと、こころである、その目的は自己一個の祈願で、賽銭を上げる形式は恐怖の念に駆られつつ供物を霊神に奉った、極めて古い時代の散供であり、その心持は純然たる帰依的感情の発露である。宗教にあらずなどとは断じられない」と説明している。
 而して、彼は「神社は宗教でないが宗教である」となし、また「神社は宗教でないが、宗教的である」と言い換え、さらにまた「神社すなわち宗教ではない、表面的に宗教局で取り扱う宗教ではない、けれども裏面において一部分において宗教局で取り扱う宗教より、もっと広い意味に使われておる宗教学上の宗教、人類の本能的宗教心の対象と言うことはできる」となして、「究むれば究むるほどその関するところが多くなり、神社というものがいかに間口の広い奥行きの深いものであるかということに一驚した。とても国体論者や国学者だけの問題ではない。また法律家や政治家だけにまかしておくべきものでもない。また論理学者や哲学者だけで解決されるものでもない。また歴史家や博識連だけが采配を振るべきものでもない。いわんや筆舌の神道家や宗教家などの託宣を謹聴して、それでよいと済ませる筋のものでもない」と感想を述べられている。(神社は宗教なりや否や)
 しからば宗教局で取り扱う宗教とは如何なる内容を有するものであるか、その標準は如何、元来神社は宗教にあらずとして、十三派神道は宗教なりと断じたのであるが、本来この両者を本質的に区分することは出来るものではない。しかし、かく分てるには一定の標準の存しておったことは事実である。その主なる条件として、(一)教会を有すること、(二)教書・教義・教規等を有すること、(三)牧師を有すること、(四)教祖を有することを数えられているようである。なるほどこの標準に照らして、見ると神道はそのいずれをも完全に有しているとは言うことはできない。
 教会に似たる神社を持っておって、信徒すなわち氏子は、その祭礼の都度、その外特別の際参拝して祈願を込めるけれども、これは一定の教義を宣伝するためでもなく、また一定の教義の下に集まる一定の限定せられたる信仰を有する所謂信徒でもない。やはり純然たる教会とその性質を一にするものではない。
 次に神道は聖書をも教義をも有してはおらない。人或いは神話を中心とせる古典を以って神道の聖書であるとなす。しかし神話は歴史の物語である。一定の教義を載せたものではない。また教祖を有してはおらない。神話の作者とせらるべき稗田阿礼とても教祖と言うに当たらざるはもちろん、天照大神は神道の最も尊敬する所であるが、これとても、大神が一定の教義もしくは信仰箇条を後世に残したものにもあらざれば、ある教義の開祖とは全く名づけ得ぬものである。
 また神官ありて神祇を祀るといえども、これも人民の教化を目的とし、教義を宣伝する牧師とは性質を一にすべくものない。かく論じ来たる時は、神道は成立宗教としては不完全なものとなってくる。或いは現世的自然的なる国民はついに宗教的性質を有せなかったのであるとまでも極論するものあるに至ったのである。これ神社をして成立宗教として取り扱わぬ理由の一つであり、同時に十三派神道はこれらの形式を具備することによって成立宗教として所謂宗教局に属することとなったのである。
 しかし、これらが果たして宗教としての本質的要素かというと、そうではない。井上哲次郎博士は神社における宗教的要素として、齋忌(ものいみ)・禊祓(みそぎはらえ)・祈祷・儀式の四つをあげておられるが、これは宗教の本質的要素であるとは言われない。加之(しかのみならず)、神道にもこれを欠くべからざる要件のようにも考えられない。むしろ宗教の本質としては心霊を認むることであり、これに対する帰依の感情を有することであり、その冥助の加護を願うことを本心とするに至ったのである。かくては一般宗教と何等異なるなきものと言うべく、さらに祖先崇拝は宗教であると論ずるものすらあるに至っては、神道は宗教と断ぜざるを得ない。蓋(けだ)し神道が宗教であるか否かの問題は、宗教の定義如何と、神に対する各人の態度如何にあると言わねばならない。要するに、神道は宗教的な要素をも含むものであるが、成立的宗教としては不十分なる点があり、単に政策の上から宗教として認めぬのではなくて、そこに学理的根拠のあることを認めなければならない。また、それと同時に、吾人はこの神道観念が国民と道徳生活の中心思想たりしことを見逃してはならない。
 人或いは神道を以って国民道徳であるとなす所以のもの、また一理ありと言うべきである。すなわちこの信念は、国民の道徳生活の根底を形成し、国民の道徳意識はこれによりて確乎不動のものとなり、国民的国家的道徳精神は常に清新なる力を授けられ、民族的大発展をなし得たのである。日本の倫理思想を明らかにせんとするに当たりて、神道の精神を明らかにせんとする理由も他にあらざるものである。換言すれば、我々はこの神道の精神を正しく確かに理解することによりて、国民本来の精神を知悉し得べく国民の道徳精神の研究も、倫理思想の研究も、まずここに出発せねばならぬものであると信ずるのである。しかし、神道倫理の学説なり神道の教義の発展を、その純粋なる姿において見ることは困難である。

昭和4年(1929年) 伊藤千真三『日本倫理概説』 p.78-91

【註】 原文は旧字仮名遣いである。一部の漢字を平仮名あるいは別の漢字に置き換えている。『日本倫理概説』は我が祖父が小樽高等商業学校(現小樽商科大学)の一年生だったときの教科書である。「憲法」は当然、大日本帝国憲法を指している。赤字部分は、祖父により赤線で強調してあった。青字部分は靖国神社。

- sennju(TriNary
公開:2005/06/14

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